第9話 離れ改造計画
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本作は完結まで執筆済みです。
最終話まで更新が止まることはありませんので、ご安心してお楽しみください。
離れで暮らし始めて数日が経った。
朝、着替えを急かしに来る者はいない。原稿を広げたまま寝落ちしても咎められない。
棚の上では妖精たちが好き勝手に飛び回り、小説とコミックが背表紙を揃えて並んでいる。
「……最高」
椅子の上で膝を抱えて呟いてから、ラヴェリナは足元に目を落とした。
室内なのに、硬い革の靴を履いている。
この世界の貴族なら、朝起きて靴を履き、夜眠るまで脱がないのが当たり前だ。
けれど前世の記憶が戻ってからというもの、どうにも落ち着かない。
玄関で靴を脱いで、ぺたぺたと家の中を歩く。あの解放感を、覚えている。
「ねえルル。家の中で靴を履いたままって、変だと思わない? 泥とか、馬の落とし物とか踏んだかもしれない靴だよ?」
「人間の家なんてそんなもんだろ。そもそも俺、靴履いてねーし」
棚の上で寝転がったまま、ルルが片目だけ開けた。
妖精たちは全員裸足で、しかもほとんど飛んでいるため、ラヴェリナの気持ちがわからない。
「決めた。この離れを、前世の家みたいにする!」
「また始まった……」
ルルは寝返りを打って、背中を向けた。
◇ ◇ ◇
翌朝、ラヴェリナは玄関ホールに使用人たちを集めた。老執事のクロードと、本邸から移ってきたばかりの住み込みのメイドが三人。
「今日から、離れの中では靴を脱いで過ごすことにします!」
「……はい?」
クロードが聞き返した。
この老執事が主人の言葉を聞き返すのは、ラヴェリナの記憶にある限り初めてだった。
「裸足じゃないよ。室内用の履物を作るの」
広げた紙には、踵のない、足を差し入れるだけの履物が描いてある。
「スリッパっていうの。軽くて、脱ぎ履きが楽で、蒸れないの。それと廊下と部屋には絨毯を敷きたい。離れ全部に」
「全部、でございますか」
「そこはお父様にお願いする!」
妙なところで迷いのない主人に、クロードの眉がわずかに動いた。
「ただし、ここだけは今まで通り」
ラヴェリナは玄関から入ってすぐ右手の、暖炉のある客間を指さした。
「ここを応接室にして、入口からこの部屋までは土足でいいことにする。その先の廊下に扉をつけて、そこで室内履きに履き替えるの。扉の向こうが、私たちの生活区域」
父の使いが来ることもある。
いつか義母や義妹が顔を出すかもしれない。
そのたびに靴を脱げと言うのは、この世界の常識から外れすぎている。外向きの顔と内向きの顔を、扉一枚で分けてしまえばいい。
「来客への配慮までお考えでしたら、不可能ではございませんな。ただ、慣れるまで使用人たちは戸惑うかと」
「大丈夫! すぐ慣れるから!」
「……なぜ言い切れるのでございますか」
「快適だから!」
根拠はそれだけだった。クロードは何も言わなかったが、その沈黙にはたっぷりと皮肉が詰まっていた。
◇ ◇ ◇
その日の夕食は、四人だった。
上座に父、その右手に義母のセシリア、左手にラヴェリナ、セシリアの隣にリア。新しい家族が増えてまだ十日足らず。誰もこの食卓に慣れていない。
銀の匙が皿に触れる音がやけに響く。
セシリアが「このスープ、優しいお味ですわね」と言い、父が「ああ」と答え、そこで会話が途切れる。リアは子供用の小さなスプーンを握りしめて、豆を一粒ずつすくっていた。
――気まずい。
父と二人の頃は、ラヴェリナがしゃべっていれば食卓は回った。けれど離れでやっていることは、全部話せないことばかりだ。
「ラヴェリナさん、離れの暮らしはいかが? 不便はございません?」
「はい! 快適です。それに今度、靴を――」
言いかけて、口をつぐむ。
「靴?」
「く、靴を……新しくしようかなって。歩きやすいのに」
「まあ、そう」
セシリアは穏やかに微笑んだ。父の視線が、ちらりとこちらを向いた。
「それとお父様、お願いがあるんです。離れの廊下に絨毯を敷きたくて。床が冷たいんです」
父はナイフを置き、しばらく娘の顔を見ていた。
「明日、執務室に来い。クロードも連れてだ」
それきり、食卓はまた静かになった。ふと視線を感じて顔を向けると、リアがこちらを見ていた。目が合った途端、慌ててお皿に顔を伏せ、豆をもう一粒すくった。
◇ ◇ ◇
翌日、ラヴェリナはクロードと共に父の執務室を訪れた。そこで、床の冷たさと応接室の件だけを説明した。
靴を脱ぐ話は黙っておく。
絨毯が寒さ対策になるのは本当なのだから、隠しごとのうちには入らない、はずだ。
「分かった。必要なだけ用意させよう。……だが、今後も何かと必要になるだろう」
父は一枚の書類にペンを走らせた。
「離れを整えるための予算をつける。この範囲で使え」
「お父様、大好き!」
「ただし、管理はクロード、お前に任せる。ラヴェリナが何か欲しいと言ったとき、使うかどうかはお前が判断しろ」
「承知いたしました」
「えー……」
唇を尖らせたラヴェリナに、クロードは恭しく一礼した。
「お嬢様はまだお子様でございます。必要なものと、欲しいだけのものを見分けるのは、大人である私の役目でございましょう」
反論しにくい正論だった。
「……でも絨毯は必要なものだからね!」
「承知しております」
部屋を出るとき振り返ると、父は書類から目を上げずに片手を上げた。その口の端が少し緩んで見えたのは、気のせいだったかもしれない。
◇ ◇ ◇
十日ほどで、離れは見違えた。
廊下には深い緑の絨毯が敷き詰められ、各部屋にもふかふかの絨毯が入った。
応接室の先には新しい扉と靴を並べる棚。そこへ、仕立て屋に頼んだ室内履きが届いた。柔らかい革の底に厚手の布を縫い合わせたものだ。
布の塊を不思議な生き物のように眺めていたメイドたちは、履いて一歩踏み出したところで黙った。
足音が消え、絨毯がふかりと足を受け止める。
「……軽いですね」
「靴擦れに当たりません」
と、声が少しずつ正直になっていった。
最初の数日は、誰もが癖で靴のまま扉をくぐった。
いちばん多かったのはクロードで、三日目には
「クロード、今日三回目だよ」
「……面目次第もございません」
というやりとりが朝の恒例になった。
初日など、自分の室内履きを手に廊下の真ん中で立ち尽くし、
「執事がこのような履物で……主家の品位が……」とぶつぶつ言っていたのだ。
それが一週間もすると、扉の前の履き替えは誰も何も言わずにこなす動作になり、休憩室からは
「本邸へお使いに行くと、靴が重たくて」
という声まで聞こえてくるようになった。
そしてある朝、ラヴェリナはクロードの足元に目を留めた。
黒い室内履き。
メイドたちの生成りの布とは違う、艶のある上等な革で、つま先には控えめな銀の縫い取りまで入っている。
「クロード、それ。自分専用の、作ったでしょ」
「業務上必要でございます。執事たるもの、足元にも品位が求められますので」
「予算の管理、クロードがしてるんだよね」
「私費でございます」
「自腹なんだ……」
眉ひとつ動かさない老執事に、ラヴェリナはにんまりと笑った。
「ね? すぐ慣れたでしょ?」
「……お嬢様の仰る通りでございました」




