第8話 ラヴェリナ、離れを手に入れる
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最終話まで更新が止まることはありませんので、ご安心してお楽しみください。
庭の木蓮がほころびはじめたころ。
ラヴェリナは深刻な問題に直面していた。
ベッドの下には、ノートが九冊。小さなコミックが七冊。描き損じの原稿の束に、妖精用の画材を詰めた箱、クッキーの保存瓶。
アンナに見つからないよう、引き出しの奥や本棚の裏、ベッドの下へと少しずつ押し込んできたものたちが、とうとう隠しきれなくなっていた。
「……もう入らない」
ラヴェリナは腕を組み、低く唸った。
去年の秋は、ノートを一冊隠すだけで済んでいたのだ。その後も、机の引き出しや衣装棚の奥、ベッドの下に入れておけば、それで十分だった。
ところが、小説を書いたノートは十冊を超え、妖精たちの作るコミックも、もうすぐ十冊に届く。描き損じの原稿、画材、魔力入りクッキーを詰めた保存瓶、増える一方のドールハウスの備品。
気づけば、隠さなければならないものが、隠し場所の容積をあっさり追い越していた。
衣装棚の奥にねじ込んだ原稿の束が、ドレスの裾をじわじわと押し出している。
そのうちアンナに見つかって、
「お嬢様、ドレスが紙を食べております」
と言われる日が来るだろう。
「まだ隠してんのか」
ドールハウスの屋根の上で、ルルが脚をぶらぶらさせながら見ていた。
「隠してるんじゃなくて、しまってるの」
「はみ出してんじゃねーか」
言い返せなかった。ルルは勝ち誇った顔で、クッキーのかけらをかじった。
ラヴェリナだって、本当なら堂々と棚に並べたい。
小説とコミックを分けて、題名の順に揃えて、妖精たちの原稿も湿気の来ない箱にきちんと保存したい。
前世の自室の本棚がそうだったように。
けれど、公爵令嬢の部屋は公爵令嬢だけのものではない。
毎朝アンナが着替えを手伝いに来るし、昼には掃除のメイドが入る。
完全な秘密基地など、この屋敷のどこにもないのだ。
「どこかに、誰も来ない部屋があればいいのになぁ……」
願いが、ため息と一緒にこぼれた。
◇ ◇ ◇
その夜の夕食は、いつもと少し違った。
父のギルベルト・ローデンベルク公爵は、もともと食卓で話をする人ではない。ラヴェリナがその日の出来事を話し、黙って最後まで聞きながら、ときどき短く相槌を打つくらいだ。
だが、この日の父は、明らかに様子がおかしかった。ラヴェリナの話にも相槌すら打たず、スープを三度すくっては三度とも皿に戻し、肉を切り分けたまま口に運ばない。
「お父様、お肉が冷めてしまいますよ」
「……ああ」
返事をしても、何か考え込んでいる。
食事を終えたあと、父は給仕の者たちを下がらせ、広い食堂に、二人きりになる。
「ラヴェリナ。話がある」
ラヴェリナは背筋を伸ばした。
父がこういう前置きをするのは珍しい。
怒られる心当たりは――ある。
いくつもある。
衣装棚の件か、厨房でこっそりクッキーを焼かせてもらっている件か、あるいは夜中に妖精たちと騒いでいた件か。
しかし父の口から出たのは、そのどれでもなかった。
「アルバート・ローウェルという名を、覚えているか」
「ローウェル卿……ですか?」
聞き覚えがあった。
三年前、父が何日も屋敷を空けたことがある。
帰ってきた父は黒い服を着ていて、その夜、書斎の灯りは明け方まで消えなかった。
あのとき使用人たちが声を潜めて口にしていた名前だ。
「私が騎士団にいた頃からの友人だ。……親友だった、と言うべきか」
父は窓の外の暗がりに目をやった。
「三年前、グランツ辺境伯領で魔物の群れが出た。アルバートは討伐に出て、部下をかばって死んだ。あいつらしい死に方だと誰もが言う。私もそう思う」
低い声は淡々としていた。けれど、テーブルの上で組まれた父の指には、白くなるほど力がこもっていた。
「あいつには妻と娘がいる。夫人はセシリアという。娘はリリアーヌ、今年で六つになる」
「……お父様は、ずっとそのお二人を」
「気にかけてきた。アルバートに頼まれたわけではない。だが、あいつなら同じことをしただろう」
父はそこで言葉を切り、しばらく黙った。
ラヴェリナは待った。
父が言葉を探しているときは、急かさずに待つ。
それはこの家で八年暮らしてきたラヴェリナが、いちばん最初に覚えた作法だった。
「セシリアたちを、この家に迎えたいと思っている」
やっぱり、とラヴェリナは思った。
前世で読んだ物語なら、ここは「再婚フラグ」と呼ばれる場面だ。
後妻と連れ子がやって来て、主人公をいびり倒す。そういう展開を、ラヴェリナは何十冊と読んできた。
けれど、目の前の父の顔を見ていると、そんなテンプレートはどこかへ吹き飛んでしまった。
父は娘の反応をうかがっていた。多くの貴族に顔色伺われるこの人が、八歳の娘の顔色を、じっと。
「お前の母の代わりを連れてくるつもりはない。エレノアの代わりなど、どこにもいない。それだけは分かっておいてほしい」
「はい」
「嫌なら、嫌だと言え」
ラヴェリナは目を伏せて、思い出していた。
眠れなくて部屋を抜け出した夜、母の肖像画の前に父が立っているのを見たことがある。
灯りも持たずに、ただ黙って。何を話しかけるでもなく、絵の中の微笑みをずっと見上げていた。
一度ではない。何度も。
昼間の父は忙しい。
朝早くに執務室へこもり、夜遅くまで出てこない。
仕事が好きなのだと使用人たちは言うけれど、ラヴェリナは知っている。父は、手を止めるのが怖いのだ。
手を止めたら、母を思ってしまうから。
ラヴェリナは、父が声を上げて笑ったところを一度も見たことがない。母がいた頃は、よく笑っていたと古い使用人が言っていた。
「嫌じゃないです」
顔を上げて、ラヴェリナは言った。
「お父様が笑えるようになれるなら、私は、それで構いません」
父の目が、わずかに見開かれた。
それから父は何か言いかけて、やめて、代わりに大きな手を伸ばし、ピクニックの森でそうしたように、ラヴェリナの頭を撫でた。
「……すまない」
「謝るところじゃないですよ、お父様。こういうときは、ありがとうって言うんです」
「そうか」
父は小さく息を吐いた。
「……ありがとう、ラヴェリナ」
その声が少しだけかすれていたことには、気づかないふりをしてあげることにした。
◇ ◇ ◇
ひと月後、ローデンベルク公爵家に新しい家族がやって来た。
馬車から降りてきた女性は、淡い栗色の髪を上品にまとめ、落ち着いた藤色のドレスを着ていた。
ほっそりとした人なのに、背筋がすっと通っている。立っているだけで不思議と周りの空気が静まるようだ。さすが、騎士の妻だった人だと納得した。
「はじめまして、ラヴェリナさん。セシリアと申します」
ラヴェリナに、セシリアは目線を合わせるように少し身をかがめた。
「突然押しかけてきて、驚かせてしまったでしょう。至らないところばかりですけれど、どうぞよろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。……お義母様」
思っていたよりも自然に出た。セシリアは一瞬目を丸くして、それから、ほっとしたように微笑んだ。
その微笑みの陰で、小さな影がもぞりと動いた。
セシリアのドレスの後ろに、女の子が半分だけ隠れている。母親と同じ栗色の髪を二つに結び、大きな灰色の目でこちらを見上げていた。
両手で胸に抱えているのは、手のひらほどの木彫りの馬だ。角が丸くすり減って、ところどころ黒ずんでいる。ずいぶん長いこと、同じように抱えられてきたのだろう。
「リア、ご挨拶は?」
母親にそっと背中を押されて、女の子は一歩だけ前に出た。
「……リリアーヌ、です。よろしく、おねがいします」
吹けば飛んでしまいそうな声だった。言い終わるなり、また母親の後ろへ戻ってしまう。
「こちらこそ、よろしくね。お姉ちゃんと呼んでね」
ラヴェリナはできるだけ柔らかく笑いながら言った。
リリアーヌは木の馬をぎゅっと抱きしめ直し、小さく頷いた。
そんなリリアーヌを見て。
知らない屋敷。知らない使用人。今日から「家族」になる、知らない人たち。
六歳の子供には、この玄関ホールの天井の高さすら怖いかもしれない。
しかも、この屋敷には最初からラヴェリナがいる。生まれたときからここで育ち、どの使用人とも顔なじみの、公爵家の長女が。
使用人たちに悪気はなくても、接し方には差が出ることもあるだろう。慣れたラヴェリナには気安く、新しく来たリリアーヌには丁寧すぎるほど丁寧に。
その丁寧さが、子供には壁に見える。
何かにつけて「ラヴェリナ様は」と比べられれば、リリアーヌはますます母親の後ろから出てこられなくなる。
――私が本邸にいない方が、あの子はこの家に馴染みやすいんじゃないかな。
そう思った瞬間、ラヴェリナの頭に、ある建物が浮かんだ。
本邸の東、庭園の奥。来客用に整えられてはいるものの、ここ何年もほとんど使われていない別館。
離れ。
静かで、人が来なくて、部屋がたくさんある。棚はいくらでも置けるし、妖精たちも好きなだけ飛び回れる。
ラヴェリナの目が、みるみる輝きを増していった。
◇ ◇ ◇
「私の部屋を、リアに譲ってもよろしいでしょうか」
翌日の午後、執務室を訪ねたラヴェリナがそう切り出すと、父は書類から顔を上げて眉を寄せた。
「どういうことだ」
「私の部屋は日当たりがよくて、お庭もよく見えます。新しいお家に慣れるなら、あそこがいちばんいいと思うんです」
「それはそうだが」
「お兄様は留学中ですし、本邸でずっと過ごす子供は私とリアだけです。使用人のみんなは、私のことを生まれたときから知っています。みんなに悪気がなくても、私とリアへの接し方には、きっと差が出ます」
父は黙って聞いていた。途中で遮らないのは、昔から変わらない。
「私がいれば、リアはそれを感じてしまうと思うんです。だから、みんなが新しい家族に慣れるまで、私が少し離れていた方がいいのかなって」
ラヴェリナはそこで、一拍置いた。
「その代わり、離れを好きに使わせてください!」
執務室に沈黙が落ちた。
父がじっとラヴェリナを見る。ラヴェリナもじっと父を見返す。
父は長い息を吐いて、椅子の背にもたれた。
「言っていることには、一理ある」
「でしたら!」
「ただし、条件がある」
ラヴェリナは姿勢を正した。
「夕食は必ず本邸でとること。家族全員でだ」
「はい!」
「それから、離れで好き勝手していいという意味ではないぞ」
「……はい」
「今、間があったな」
「気のせいです」
父は、呆れたように額に指を当てた。
「離れには執事と使用人を置く。八歳の娘を一人で住まわせるわけにはいかん」
「えっ」
「当たり前だろ。これは譲れん。執事はクロードをつける。あとはメイドを何人か住み込ませる」
クロード。
祖父の代からこの家に仕えている老執事だ。
いつも背筋がまっすぐで、言葉遣いは丁寧なのに、ときどき妙に棘がある。
子供の頃、廊下を走ってぶつかったとき
「お嬢様、廊下は競技場ではございません」
と言われたのを、ラヴェリナは今でも覚えている。
「……何人か、というのは」
「最低限だ」
それなら、本邸よりずっと少ない。部屋数は多いから、妖精たちの秘密を守るにはむしろ十分すぎるくらいだ。
「分かりました!」
ラヴェリナが勢いよく頷くと、父は机の上の書類を広げ始めた。
「それと、あの部屋のことは、アンナがよく知ってるので、アンナはリアにつけてあげてください!」
「分かった。夕食の件は、絶対だ。忘れるな!」
「はい。忘れません」
「一日に一度でいい。家族が同じ卓について、顔を見て食事をする。……そういう家にしたいと、エレノアがよく言っていた」
ラヴェリナは、はっとして父を見た。
父は、書類の確認をしており、その横顔からは何も読み取れなかった。
どれだけ仕事に追われても夕食の席にだけは必ず現れた父を、ラヴェリナはこれまでとは少し違う気持ちで思い出していた。
「では、移ってもいいのですね?」
「ああ」
「やった!」
思わず両手を突き上げてから、ラヴェリナは慌てて下ろした。
「……随分と嬉しそうだな」
「リアが安心して暮らせると思うと、嬉しくて!」
「そうか」
「はい!」
嘘ではない。嘘ではないのだ。
ただ、それ以上に、離れが手に入ったことが嬉しくてたまらないだけで。
父が、書類にペンを走らせ始めたので、執務室を後にした。
◇ ◇ ◇
離れにはたくさんの部屋がある。そこでラヴェリナは、自分の好きなものを置くための部屋をひとつねだった。
掃除や片づけは自分でする。その代わり、許可なく誰も立ち入らないこと。
父からその約束を取りつけることにも成功した。
引っ越しが決まった翌日から、ラヴェリナの荷物は少しずつ離れへ運ばれていった。
家具も衣類も日用品も、使用人たちが手際よく運んでくれた。
けれど、その中で、ドールハウスと、書き溜めた小説と、妖精たちのコミックと原稿の束は、誰の手も借りずにラヴェリナ自身が運んだ。
「お嬢様、そちらもお持ちしましょうか」
「大丈夫! これは自分で持ちたいの! 思い出の品だから!」
重たい木箱を抱えて庭園を横切るたび、ラヴェリナは同じ言い訳を繰り返した。
箱の隙間から
「揺らすなって!」
「酔う……」
という小さな声が漏れるたびに、わざと大きな咳払いをしてごまかしながら。
最後の箱を運び込み、扉を閉める。
新しい部屋は、本邸の自室より少し古かった。壁紙の模様は一昔前の流行りで、床板はところどころ軋む。けれど広い。天井が高く、窓が大きい。そして何より、壁一面に作り付けの棚がある。
「やったぁぁぁ!」
ラヴェリナは両手を上げて、その場でくるりと回った。
「これで堂々と作品を並べられる!」
箱から小説を取り出し、一冊ずつ棚に差していく。背表紙に自分で書いた題名が、横一列に揃っていく。その隣にコミックを並べる。
妖精たちが描いた表紙絵が、窓からの光を受けて色鮮やかに浮かび上がった。
「すごい……本物の本棚みたい」
指先で背表紙をなぞる。前世の自室で、新刊を棚に差し込むたびに感じた、あのささやかな満足感がよみがえってきた。
「ラヴェリナー、もう出ていいか?」
箱の中から、ルルのくぐもった声がした。
「いいよー!」
蓋を開けた途端、妖精たちが一斉に飛び出した。
「ここが新しい家?」
「広い!」
「窓がいっぱいある!」
「庭が見えるー!」
あっという間に、天井近くまで色とりどりの羽が舞い上がる。
棚の上を駆け回る者、
カーテンにぶら下がる者、
窓ガラスに鼻を押しつける者。
ポロだけは早々に日だまりを見つけて、窓辺でころんと丸くなっていた。
「ぼくたちの部屋もあるー?」
「もちろん!」
ラヴェリナが胸を張ると、歓声がさらに大きくなった。
「みんなの希望を聞いて、すっごくいい部屋を作ってあげる!」
「大きいベッド!」
「俺、窓の近くがいい!」
「本棚ほしい!」
「お菓子置く棚!」
「ちょ、ちょっと待って! 一人ずつ言って!」
「秘密基地!」
「ブランコ!」
「お風呂!」
「お風呂!?」
思わず聞き返すと、妖精たちはきょとんとして首を傾げた。何がおかしいのか分からない、という顔だった。
ラヴェリナは吹き出した。
◇ ◇ ◇
引っ越しから数日後、隣国から一通の手紙が届いた。
封蝋にはローデンベルク家の紋章。少し右上がりの、見慣れた兄の字だった。
『ラヴェリナへ
父上から再婚の報せを受けた。俺は賛成だ。ローウェル卿には、俺も子供の頃に剣の手ほどきを受けたことがある。あの方のご家族なら、心配はいらないだろう。
それより、お前が離れに移ったと聞いて驚いている。新しい妹のためだと父上は書いていたが、どうせそれだけではないのだろう。
あまり父上を困らせるなよ。それから、新しい妹を泣かせるな。お前が妙なことを始めて、あの子が巻き込まれて泣く光景が目に浮かぶ。
こちらはなかなか帰れそうにないが、手紙は書く。元気でいろ。
レオンハルト』
「……どうせそれだけではないのだろう、って」
手紙を読み終えたラヴェリナは、ぼそりと呟いた。
「お兄様、隣の国からでもお見通しなんだけど」
「兄貴、こえーな」
肩の上で手紙を覗き込んでいたルルが、ぶるりと羽を震わせた。
ラヴェリナは手紙を丁寧に畳み、机の引き出しにしまった。
それから、まだ何も入っていない棚の一段を眺めて、ふと思った。
ここにはいずれ、兄に見せられないものがたくさん並ぶのだろう。父にも、新しい義母にも、あの木の馬を抱えた小さな女の子にも。
少しだけ胸がちくりとした。
けれど窓の外では、夕方の光が庭園の木々を金色に染めはじめていて、その向こうに本邸の食堂の窓が見えた。もうすぐ、あそこに灯りがともる。
ラヴェリナは立ち上がり、靴の紐を結び直した。
約束の夕食の時間だった。




