第10話 本邸の夕食と、小さな妹
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本作は完結まで執筆済みです。
最終話まで更新が止まることはありませんので、ご安心してお楽しみください。
ローデンベルク公爵家の夕食は、毎晩、日が沈んで一刻ほど経った頃に始まる。
離れから本邸までは、庭園を横切る石畳の小道を歩いて三分ほど。
夏の初めの夕暮れは長く、薔薇の生け垣の向こうで空がゆっくりと藍色に変わっていく。
ラヴェリナは毎晩その小道を歩きながら、今夜は何を話そうかと考えるのが習慣になっていた。
考えなければならないのには、理由がある。
離れでの出来事は、ほとんどが話せないことだからだ。
今日は妖精たちとコミックの三話目を仕上げました、とは言えない。
ルルがクッキーを七枚つまみ食いしてポロと取っ組み合いになりました、とも言えない。
残るのは、庭の花が咲いたとか、書庫で面白い本を見つけたとか、当たり障りのない話ばかりになる。
それでも最初の数週間、食卓をかろうじて回していたのは、ラヴェリナのその当たり障りのない話だった。
「今日、厨房の裏で料理長の猫が昼寝をしていたんです。お腹を出して、前足をこう、上に伸ばして寝ていたんです」
「まあ」
セシリアが微笑む。
「……ああ」
父が頷く。
リアは、スプーンを持ったままラヴェリナの手の動きを目で追っている。
そして沈黙。
――手強い。
ラヴェリナはスープを飲みながら、前世で読んだ家族ものの小説を片っ端から思い出してみた。ぎこちない食卓がほぐれるきっかけは、たいてい誰かの失敗か、思い出話か、あるいは料理の取り合いだった。
公爵家の食卓で料理の取り合いは起きない。失敗を仕込むのは難しい。となると、残るは。
答えは、思いがけない方向から転がってきた。
「ギルベルト様は、昔から魚料理がお好きでしたわね」
セシリアが何気なく口にしたのだ。
「騎士団の遠征で川辺に野営したとき、アルバートと二人で夜中に魚を獲りに行って、ギルベルト様が川に落ちてしまわれたとか」
父の手が止まった。
「……セシリア。その話は」
「あら。アルバートは、あれが騎士団時代でいちばん笑った夜だと申しておりましたのよ。全身ずぶ濡れで、それでも魚だけは両手に一匹ずつ握って離さなかったって」
ラヴェリナは思わず父の顔を見た。
国内有数の権力者、ローデンベルク公爵。国王陛下にも堂々と進言することがあると噂される人の耳が、見る見るうちに赤くなっていく。
「……獲ったものを、無駄にするわけにはいかなかった」
低い声でぼそりと弁明した父に、ラヴェリナはこらえきれずに吹き出した。
その向かいで、小さな笑い声が重なった。
リアだった。
両手で口を押さえて、肩を震わせている。
母親の袖に顔を隠しながら、それでも笑いが止まらないらしい。
父は咳払いをして、魚にナイフを入れた。いつもより少しだけ、切り方が乱暴だった。
その夜を境に、食卓の空気はほんの少しだけ柔らかくなった。
◇ ◇ ◇
夕食のあと、セシリアが庭園の小道の途中まで送ってくれるようになったのは、その週のことだった。
「毎晩、暗い道をお一人で帰らせるのは心配ですもの」
そう言って灯りを持ってくれるのだが、離れの手前、応接室の窓が見えるあたりまで来ると、いつも足を止める。
それ以上は踏み込まない。
ラヴェリナの領分を尊重してくれているのだと分かって、少しだけ申し訳なく、少しだけありがたかった。
ある晩、その立ち止まる場所で、セシリアが口を開いた。
「ラヴェリナさん。一つ、伺ってもよろしいかしら」
「はい」
「あなたが離れへ移ったのは……わたくしたちのため、でしょう」
灯りの中で、セシリアの横顔は静かだった。
けれど、灯りの持ち手を握る指先に、力がこもっているのが見えた。
「ギルベルト様から伺いましたの。リアが馴染みやすいように、あなたがお部屋を譲って、自分から離れへ移ると言い出したって。……わたくしたちが来なければ、あなたは生まれ育ったお部屋を出ることはなかった。そう思うと、どうしても」
言葉の最後が、夜の風に溶けた。
ラヴェリナは足元の石畳に目を落とした。
それから、正直に答えることにした。
「だいたい半分は、そうです」
セシリアの肩がわずかに揺れた。
「でも、もう半分は私のわがままなんです」
「わがまま?」
「私、ずっと自分だけの場所が欲しかったんです。好きなものを好きなだけ並べて、好きなことを好きなだけできる場所。離れはそれにぴったりで……実は、お父様にお願いしたとき、そっちの方がちょっと多めでした」
セシリアが目を瞬かせた。
「ですから、お義母様が気にされることはないんです。むしろ、お義母様とリアが来てくれたから、私は離れを手に入れられたんですよ」
ラヴェリナは少し考えて、付け足した。
「それに、毎晩本邸に戻ってきますし、家を出ていったわけではありませんから」
しばらく、虫の声だけが聞こえた。
やがて、セシリアの口から小さな息がこぼれた。笑ったのだと気づくまで、少しかかった。
「……ギルベルト様のおっしゃった通りですわ」
「お父様が、何て?」
「あれは、言い出したら聞かない娘だ。だが、人の気持ちが分かる娘だ、と」
今度はラヴェリナが目を瞬かせる番だった。
あの父が、そんなことを。
「あの方ね」
セシリアは本邸の方を振り返った。二階の執務室の窓に、まだ灯りがついている。
「アルバートが亡くなってから三年間、毎月欠かさず、わたくしたちの家に来てくださったの。何をおっしゃるでもなく、お茶を一杯飲んで、リアに絵本やお菓子を置いて、それで帰っていかれる。ずっと、笑い方を忘れてしまったようなお顔で」
ラヴェリナは、夜の廊下で肖像画を見上げていた父の背中を思い出した。
「わたくし、あの方に笑っていただきたいと思っていますの。……おかしいかしら」
「おかしくないです」
ラヴェリナは即答した。
「私も、同じことを思ってました」
セシリアがこちらを見た。灯りに照らされた灰色がかった瞳が、柔らかく細められる。
「では、わたくしたち、同じ目標を持つ仲間ですわね」
「はい。この前の魚の話、最高でした」
「あら、あれはまだ序の口ですわよ。アルバートから聞いたお話、たくさんありますの」
セシリアはいたずらっぽく片目をつむってみせた。上品で穏やかな人だと思っていたけれど、案外そうでもないのかもしれない。
離れの扉の前で振り返ると、セシリアはまだ小道に立って、灯りを掲げたままこちらを見送っていた。
ラヴェリナが手を振ると、少しためらってから、小さく手を振り返してくれた。
◇ ◇ ◇
リアと二人きりで話したのは、それから数日後の昼下がりだった。
書庫へ向かう途中、本邸の裏庭の楡の木の根元に、見覚えのある栗色の頭が見えた。
リアが一人で膝を抱えて座っている。
少し離れたところで、アンナが困ったように立っていた。
ラヴェリナはアンナに目配せをしてから、そっと近づいた。
「リア。何してるの?」
リアはびくりと肩を震わせ、胸に抱えていたものを隠すように握りしめた。あの木彫りの馬だ。
「……なにも」
「隣、座ってもいい?」
少し間があって、小さな頷きが返ってきた。
ラヴェリナはドレスの裾を気にせず、リアの隣に腰を下ろした。楡の葉が風に揺れて、木漏れ日が二人の膝の上でちらちらと動く。
「その馬、いつも持ってるね」
「……お父様が、つくってくれたの」
リアは握っていた手を少しだけ開いた。
角の丸くなった馬が、手のひらの上にちょこんと乗っている。たてがみの部分に、ナイフで刻んだ細い線がいくつも並んでいた。
「お父様、剣のおけいこのあとに、ナイフで木をけずってたの。わたしがおひざに座ってると、けずりくずが髪にくっついて、お母様におこられてた」
リアの声は小さかったけれど、途切れなかった。
「わたし、お父様のお顔、あんまりおぼえてないの。お母様がお話ししてくれるから、知ってるつもりだけど……ほんとうにおぼえてるのは、手だけ。大きくて、ごつごつしてて、あったかかった」
馬を握る小さな指に、きゅっと力がこもった。
「お顔、忘れちゃうの、いけないことなのかな」
ラヴェリナは、すぐには答えられなかった。
リアが父親を亡くしたのも、ラヴェリナが母親を亡くしたのも、三歳の頃だ。
「私もね」
楡の枝を見上げながら、ラヴェリナは言った。
「お母様のお顔、ほとんど覚えてないんだ。三つのときに亡くなったから」
リアが顔を上げた。
「でもね、お昼寝のときに髪を撫でてもらったことだけ、なんとなく残ってるの。顔とか声とかは思い出せないのに、手があったかくて、ちょっとくすぐったかったことだけ」
ラヴェリナは手を伸ばして、リアの栗色の髪をそっと撫でた。ゆっくりと、頭のてっぺんから耳の後ろへ。
「だから、全部忘れちゃったわけじゃないと思う。顔を思い出せなくても、大事なことはちゃんと残ってるんだよ」
リアは身じろぎもせずに、ラヴェリナに撫でられていた。
「……あったかい」
ぽつりと、リアが呟いた。
それから木の馬を、ラヴェリナの方へ少しだけ差し出した。
「この子、ソルっていうの」
「ソル?」
「お父様がつけてくれたの。お父様の、若いころの馬の名前」
「そっか。よろしくね、ソル」
ラヴェリナが指先で馬の鼻先をつつくと、リアは初めて、ラヴェリナの前で自分から笑った。
◇ ◇ ◇
「――それで、月の光でしか開かない花を探して、小さな妖精は一晩じゅう森を飛び回ったの」
燭台の灯りが揺れる寝室で、ラヴェリナは声を落として語っていた。
かつてラヴェリナが使っていた部屋だ。
今は淡い桃色の天蓋がかかり、窓辺には木の馬のソルが飾られている。ベッドの中では、リアが上掛けを顎まで引き上げて、瞬きも忘れたような目でラヴェリナを見上げていた。
「花、見つかった?」
「まだ。泉のほとりにも、大きな樫の木の根元にもなかった。妖精はだんだん疲れてきて、羽も重たくなってきて――」
「……それで?」
「今日はここまで」
「えーっ!」
リアががばりと身を起こした。普段の消え入りそうな声からは想像もつかない大声だった。
「続き、続きは?」
「来週ね」
「らいしゅう……ながい……」
ベッドに倒れ込んで恨めしそうに見上げてくる顔に、ラヴェリナは笑いをこらえた。
前世で連載の引きに悶えていた自分を、見ているようだった。
始まりは、楡の木の下の続きだった。
ソルの話をしてくれたお礼に、ラヴェリナが短いお話を一つ語った。
それを聞いたリアが、その夜の夕食で珍しく自分から口を開いたのだ。
「お姉さまのお話、もっと聞きたい」と。セシリアは驚き、それから嬉しそうに頷いた。
父は少し考えて、
「夕食のあと、週に一度だけだ。夜更かしはさせるな」
と言った。
こうして始まったのが、週に一度の「おはなしの夜」だった。
語るのは、ラヴェリナが離れで書き溜めた小説だ。
妖精たちから聞いた森の話、
夜にだけ咲く花の話、
旅をする風の精霊の話。
それを六歳の子供に分かる言葉に直して、少しずつ語っていく。
「ねえ、お姉さま」
リアが上掛けの端から目だけを出した。
「このお話、なんていうご本? わたしも読みたい」
ラヴェリナは一瞬、言葉に詰まった。
なんていうご本も何も、離れの棚に並んでいる自作の小説だ。作者は目の前にいる。挿絵を描いたのは妖精たちである。
――言えない。いろんな意味で言えない。
自分が書いたと言えば、どこでこんな話を思いついたのかと聞かれるだろう。妖精に聞きました、とは答えられない。
それに、自作の小説を「私が書いたの」と差し出すのは、前世の記憶を持つ身としても、ちょっと、いや、かなり恥ずかしい。
「ええと……ご本じゃなくて、いろんなところで聞いたお話を、つなげたの」
「いろんなところ?」
「うん。いろんなところ」
でたらめを言ったつもりはない。森とか、泉とか、ドールハウスの屋根の上とかだ。
「ふうん……」
リアはそれ以上は聞かず、満足そうに枕に頭を沈めた。
「お姉さま、おはなし、じょうず」
「ありがとう。おやすみ、リア」
燭台の灯りを小さくして部屋を出ると、廊下の角でセシリアが待っていた。
何も言わずに、ラヴェリナに向かって深く頭を下げる。ラヴェリナは慌てて、それより深く頭を下げ返した。
離れに戻ると、案の定、ルルが扉の前で腕を組んで待ち構えていた。
「おい。今日のあれ、俺が話した月見花の話だろ」
「そうだよ」
「ちゃんと、俺をかっこよく話したんだろうな」
「主人公の妖精は、優しくて頑張り屋で、口が悪くない子ってことにしてある」
「それ俺じゃねーじゃん!」
廊下に響いたルルの抗議に、隣の部屋から妖精たちの笑い声が返ってきた。
◇ ◇ ◇
その小鳥を見つけたのは、リアだった。
夏の盛りの、よく晴れた朝のこと。本邸の生け垣の根元で、灰色の羽毛の塊がうずくまっていた。巣立ったばかりの雛らしい。片方の翼が、変な角度に垂れ下がっている。
「お姉さま! この子、とべないの」
庭へ呼ばれて駆けつけたラヴェリナの前で、リアは両手で小鳥を包み込むようにして持っていた。小鳥は目を半分閉じて、かすかに震えている。
様子を見に来た庭師のおじいさんは、腰を屈めて小鳥を覗き込み、それから難しい顔で首を振った。
「翼をやられてますな。巣立ちでしくじったんでしょう。気の毒ですが、この小ささだと、まず……」
言い淀んだ言葉の先を、ラヴェリナもリアも理解した。
リアは小鳥を胸に引き寄せた。
「わたしがお世話する」
「リリアーヌお嬢様、ですが」
「お世話する」
いつも母親の後ろに隠れている子の声とは思えないほど、きっぱりとした響きだった。
結局、セシリアの許しを得て、小鳥はリアの部屋で世話されることになった。柔らかい布を敷いた籠に寝かされ、庭師が教えてくれた通り、すりつぶした穀物を水で溶いて匙で与える。
リアは付きっきりで世話をした。朝も昼も籠の横に座り込み、夜は眠る前に必ず小鳥を両手で包んで、目を閉じてじっとしていた。
「何してるの?」
おはなしの夜に尋ねると、リアは小鳥を手のひらに乗せたまま、少し恥ずかしそうに答えた。
「はやくよくなりますように、って。こうしてると、この子、ふるえなくなるの」
小鳥はリアの手の中で、ふくふくと羽毛を膨らませて目を閉じていた。
三日目の朝、小鳥は籠の縁に飛び乗った。
五日目には、部屋の中をぱたぱたと飛び回って、カーテンレールの上から降りてこなくなった。
「……こんなに早く治るのは、見たことがありませんな」
様子を見に来た庭師は、カーテンレールを見上げて首をひねった。
「骨まではいってなかったのかもしれません。よほど運のいい鳥だ」
それで話は終わった。
誰も、それ以上は気にしなかった。
ラヴェリナも、リアの手は小さいのにいつもほかほかと温かいな、と思ったくらいだった。
◇ ◇ ◇
小鳥を空へ返したのは、七日目の夕方だった。
夕食の少し前、ラヴェリナとリアは二人で裏庭の楡の木の下に立った。リアが両手をそっと開く。小鳥は手のひらの上で一度首をかしげ、ぴい、と短く鳴いた。
それから、飛んだ。
灰色の小さな影が、夕焼けの空に向かってまっすぐ舞い上がる。一度だけ楡の木の上で輪を描いて、やがて生け垣の向こうの森の方角へ消えていった。
リアは空を見上げたまま、動かなかった。
そして、くるりと振り返って、ラヴェリナの袖を両手でつかんだ。
「お姉様、見た!? とんだ! ちゃんと、とんだよ!」
頬を真っ赤にして、目をきらきらさせて、リアは袖をぶんぶんと揺らした。
「うん、ちゃんと飛んだね!これで仲間の元へ戻れるね!」
「うん。お姉さま、おなか、すいた」
「それはお姉様に言われても困るなあ」
本邸の方から、夕食を告げる鐘の音が聞こえてきた。
◇ ◇ ◇
その夜、食堂に入ってきたリアは、いつもの母親の隣ではなく、ラヴェリナの隣の椅子によじのぼった。
給仕が慌てて食器を並べ替え、セシリアは何も言わずに微笑んだ。この晩から、リアの席はラヴェリナの隣になった。
そして食卓は、リアの独壇場だった。
「それでね、お母様、小鳥さんが木の上をくるってまわって、それからね、森の方にとんでいったの。お姉様といっしょに見たの。お姉様もね、ちゃんとさいごまで見てたの」
お姉様、お姉様、と一文ごとに挟まる呼び名に、セシリアは口元をナプキンで押さえていた。
笑っているのか、それとも別の何かをこらえているのか、ラヴェリナの席からはよく分からなかった。
「リア、お食事が冷めますわよ」
「あとちょっとだけ。それでね、お父様」
リアが、父の方を向いた。
父の手が止まった。
リアから「お父様」と呼ばれたのは、これが初めてだったのかもしれない。これまでリアは、父に話しかけること自体がほとんどなかったのだ。
「庭師のおじいさんはね、あの子は運がよかったんだって。でも、わたしは、あの子ががんばったからだと思うの。お父様は、どっちだと思う?」
父はナイフとフォークを置いた。
それから、しばらく真剣な顔で考えていた。六歳の子供の問いに、国の重大事を検討するときと同じ顔で。
「……両方だろう」
「りょうほう?」
「運のいいやつは、たいてい頑張ったやつだ。それから、お前が世話をしたからだ」
リアはぱちぱちと瞬きをして、それから満面の笑みを浮かべた。
「お父様も、おはなし、じょうず」
その瞬間、父の口元がほどけた。
ほんのわずか。声も立てない、息を漏らすような短い笑いだった。
けれどそれは、ラヴェリナが何年も見ていなかった種類の顔だった。
セシリアがこちらを見た。
ラヴェリナも、セシリアを見た。
テーブル越しに、二人はそっと頷き合った。
同じ目標を持つ仲間として、ささやかな戦果を確認するように。
皿の上の魚は、今夜もよく焼けていた。父はそれを、いつもよりゆっくりと、残さず平らげた。




