第5話 妖精ルル、公爵家へ行く
※本日より毎日7:00・12:00の1日2話更新になります。
次話は本日12:00投稿予定です。
「ラヴェリナー!」
二つ目の魔力玉をルルが食べ終えた頃、木々の向こうから声が聞こえてきた。
「ラヴェリナお嬢様ー!」
「お嬢様、どちらですかー!」
いくつもの声が、森のあちこちで重なり合い聞こえてくる。その中に兄の声もあり、ラヴェリナは顔を上げた。
「あ、お兄様だ」
そして一自分は今、絶賛迷子中なのだと思い出した。
本人は、迷子になるつもりは全くなく、ちょうちょを追いかけただけだった。
しかし、周囲からしてみば、昼食の準備が整ったころにラヴェリナの姿が消えていれば、立派な行方不明である。しかも呼び声の調子からして、かなり緊迫した状態だ。
「まずい……!」
ラヴェリナは濡れた足をスカートの裾でぬぐい、急いで、靴下と靴を履いた。
「行かなきゃ!」
「お、おい!」
駆け出そうとしたところで、ルルが慌てて、目の前に飛び込んできた。
「なに?」
「待てって!……お前、今度いつ来るんだよ」
「え?」
「だから! 次はいつ、ここに来るのかって聞いてんだ!」
「ああ」
ラヴェリナは目をぱちくりさせた。
「また一緒に遊びたいの?」
「ち、違う! マナだ! マナ!」
「ああ、そっち」
「その言い方やめろ!」
真っ赤になって羽根をばたつかせるルルを見ながら、ラヴェリナは少し考えた。
「いつでも来たいんだけど……私ひとりじゃ、ここまで来られないんだよね」
七歳の公爵令嬢が、ひとりで森の奥まで遊びに来られるはずがない。今日だって、父と兄が森に連れきてくれた。
そして、迷子になり森の奥まで辿りついたのだ。森の向こうから聞こえてくる父と兄の声には焦りがにじんでいる。
今日の件で、今後の森へのお出かけには、ほぼ間違いなく厳しい制限がかかる。
「……しばらく、無理かも」
「なっ……!」
ルルの顔から、さっと血の気が引いた。
空っぽになった自分の両手を見る。
ラヴェリナの顔を見る。
森の出口の方を見る。
もう一度ラヴェリナを見て、それからルルは、腕を組んだまま宙でぐるぐると回り始めた。なにやら悩んでいるらしい。
「ルル?」
「……よし!」
回転が、ぴたりと止まった。
「決めた。お前について行ってやる」
「……え?」
「だから!」
ルルは偉そうに胸を張った。
「お前の家について行ってやるって言ってんだ! ただし、条件がある!」
びしっ、と小さな指がラヴェリナに突きつけられる。
「毎日、あの魔力玉をよこせ。一日一個……いや、二個!」
少し考えて。
「できれば三個!」
増えた。
「それなら一緒に行ってやる!」
ラヴェリナの口が、ゆっくりと開いた。
「……一緒に、来てくれるの?」
「お、おう」
「うちに? ずっと?」
「だからそう言って――」
「やったぁぁぁ!」
「うわっ、声でけえ!」
ラヴェリナはその場で飛び跳ねた。
「妖精と一緒に暮らせる!」
「待て、暮らすとは言って――」
「毎日会える! 毎日お話しできる!」
「マナのためだからな! 勘違いすんなよ!」
「嬉しい!」
「聞けよ!」
勢いのまま手を伸ばしかけて、ラヴェリナははっと止まった。
「あ。触っちゃダメなんだった」
「分かってるじゃねーか」
ルルは少し得意げに鼻を鳴らしてから、ふいっと森の一方を指さした。
「出口ならこっちだ。お前、帰り道も分かってねえだろ」
「……なんで分かったの?」
「さっきから、声のする方と逆に走り出そうとしてる」
反論できなかった。
◇ ◇ ◇
ルルの案内に従って木立を抜けると、兄のレオンハルトとばったり出くわした。
「ラヴェリナ!」
「お兄様!」
ラヴェリナは笑顔で手を振った。
無事に戻れた安心感と、妖精の友達ができた嬉しさで、足取りは羽根が生えたように軽い。
けれど、兄は笑っていなかった。
大股で近づいてきた兄は、膝をついてラヴェリナの両肩をつかんだ。上着の袖には枝に引っかけたらしい裂け目があり、額には汗が光っている。肩をつかむ手に、痛いくらいの力がこもっていた。
「……どこへ行っていた」
怒鳴り声ではなかった。低く、平らな声だった。
それが、どんな大声よりも怖かった。
「えっと……少し、森を見ていただけで……」
「少し?」
「……はい」
「俺たちがどれだけ探したか、分かっているのか」
兄の肩ごしに、護衛の騎士や使用人たちの姿が見えた。みんな泥だらけで、息を切らしている。侍女のアンナは、両手でエプロンを握りしめたまま真っ青な顔をしていた。
「森は危険だと思わなかったのか。奥には獣も出るし、足を滑らせて泉に落ちたら、お前の背丈じゃ助からない。誰にも気づかれないまま、日が暮れていたかもしれないんだぞ」
「……ごめんなさい」
「来月には、俺はもうこの国にいない」
肩をつかむ手が、かすかに震えていた。
「そのとき、誰がお前を探すんだ」
ラヴェリナは、何も言えなくなった。
留学のことは知っていた。知っていたけれど、兄がそれをこんなふうに考えていたなんて、思ってもみなかった。
「もう二度と、ひとりで勝手に離れないこと。約束しろ」
「……はい。約束します」
うつむいたラヴェリナの耳元を、ふわりと小さな風がかすめた。
「……めっちゃ怒られてるな」
兄からは見えない位置、ラヴェリナの髪のすぐ後ろで、ルルがひそひそと囁いた。
「……誰のせいだと思ってるの」
ラヴェリナも唇をほとんど動かさずに返す。
「俺じゃねーよ! 勝手に迷い込んだのはお前だろ!」
「蝶々が悪いんだもん……」
「ラヴェリナ?」
「はいっ!」
ビクッと背筋を伸ばすと、兄が怪訝そうに眉を寄せていた。
「今、何か話したか?」
「い、いいえ! 反省の言葉を、自分に言い聞かせていました!」
「……そうか」
兄はまだ何か言いたそうだったけれど、それ以上は追及してこなかった。
代わりに、草を踏む重い足音が近づいてきた。
父だった。
騎士たちが道をあけ、父はラヴェリナの前で足を止めた。いつもきれいに磨かれている長靴が、膝のあたりまで泥に汚れていた。
叱られる、とラヴェリナは身を固くした。兄の比ではない雷が落ちるに違いない。
けれど父は、何も言わなかった。
ただ長いあいだラヴェリナを見下ろしてから、大きな手を、そっと彼女の頭に置いた。
撫でるでもなく、ぽんと叩くでもなく。そこにいることを確かめるように、しばらくのあいだ、手はそこに置かれたままだった。
ほんの少し前、母の好きだった森を眺めながら撫でてくれたときと同じはずなのに、今はその手がずっと重く感じた。
「……帰るぞ」
それだけ言って、父は手を離し、馬車の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、ラヴェリナは唇を噛んだ。泣くのは違う気がしたので、泣かなかった。
◇ ◇ ◇
帰りの馬車の中でも、お説教は続いた。
兄は、森がいかに危険な場所かを延々と説き、今後ひとりで森に入らないことをラヴェリナに三回復唱させ、最後に「手紙を書く。お前も書け。森にひとりで入っていないか、確認するからな」と念を押した。
向かいに座った父は、腕を組んで窓の外を眺めたまま、一言もしゃべらなかった。ただ兄が「森」という言葉を口にするたび、父の眉が、ほんのわずかに動いた。
「分かったか」
「はい……」
ラヴェリナはしおらしく頷いた。反省しているのは本当だ。兄の手の震えも、父の泥だらけの長靴も、しばらく忘れられそうにない。
けれど。
ときどき、ラヴェリナの視線が、ちらりと窓の上の方へ向いた。
馬車の屋根の縁に、小さな指が二本、しがみついている。そこから時おり、くしゃくしゃの栗色の頭がのぞいては、「揺れる!」「おい、この箱、揺れすぎだろ!」と、小さな声で文句を言っていた。
「……ラヴェリナ。聞いているのか」
「聞いています!」
膝の上で両手をそろえ、神妙な顔を作る。
その頬が、どうしても少しだけゆるんでしまうのは、止められなかった。




