第38話 王太子視点――ようこそ、離れへ
スタンピードの終息から、五日が経った。
僕は再び、ローデンベルク公爵家の離れの前に立っている。
目的は、妖精たちの様子の確認だ。
とりわけ、闇から戻ったノアの魔力が再び不安定になっていないか、心は落ち着いているか。
今回の件を機密として預かる王家としては、自分の目で確かめておく必要がある。
うん。理由としては十分だ。
今回は、れっきとした理由がある。
報告書の提出先まで決まっている。
「殿下?」
「何でもないよ」
出迎えに出てきたラヴェリナ嬢が、不思議そうに首を傾げた。王宮で見るときより髪がゆるく結われていて、袖口に絵の具らしき青い染みがついている。
「どうぞ、お入りください」
応接室を抜けた先の扉の前で、ラヴェリナ嬢が振り返った。
「殿下、ここから先は靴を――」
「脱ぐんだよね。覚えてる」
「あ」
ラヴェリナ嬢が、少し目を丸くした。
「覚えていてくださったんですね」
「一度経験したら、忘れられないよ」
「そうですか?」
そうです。
公爵家を訪ねて、途中で靴を脱がされる経験など、王族の人生にそうそうあるものではない。
扉の脇には、老執事のクロードが控えていた。彼は一礼すると、恭しく一足の室内履きを差し出した。
深い紺色の布張りで、つま先に小さく金糸の刺繍が入っている。
「殿下のお履き物でございます。前回お越しの際に寸法を控えておりましたので、メアリーに誂えさせました」
「……僕専用?」
「来客用の予備では、殿下に失礼でございますから」
クロードの顔は、どこまでも真面目だった。
公爵から聞いた話では、この老執事は自分専用の室内履きを「業務上必要でございます」と言い張って誂えさせたらしい。
この離れでは、執事までもが確信犯なのだ。
足を入れると、やはり軽かった。
硬い革靴から解放されたつま先が、勝手にほっと息をつく。
「殿下ー!」
「来たー!」
「水晶の人!」
廊下の奥から、妖精たちが一斉に飛んできた。
「……水晶の人になってる」
「殿下です、殿下!」
ラヴェリナ嬢が慌てて訂正する。
「おうたいし!」
「水晶のおうたいし!」
悪化した気がする。
「まあ、いいよ」
「いいんですか?」
「たぶん、訂正しても無駄だから」
「さすが殿下、話が早いです」
「それは褒めてるの?」
◇ ◇ ◇
ノアは、妖精たちの部屋にいた。
扉を外した入口の向こうで、仲間たちと車座になって、干した木の実をかじっている。胸元には、紐で吊るした水晶が揺れていた。
辺境の森へ帰るのは、羽根がもう少し丈夫になってから。それまでは、ピピと一緒にこの離れで養生することになったと聞いている。
「元気そうだね」
「うん」
ノアは、ぺこりと頭を下げた。
「水晶、ありがとう」
「役に立ってる?」
「うん。寂しくなったときに、見る」
ノアは水晶を両手で包んだ。
「いっぱい泣くけど。そのあと、みんなといる」
「……そう」
「ミナの声、聞くとね。怒られてる気がするの。また泣いてる、って」
ノアはそう言って、少しだけ笑った。
僕は、その笑い方を知っている気がした。洞窟の中で、光の粒になったミナが、最後に浮かべていた顔によく似ていた。
「それなら、よかった」
「もう魔力も暴れないよ!」
横からピピが胸を張る。
「ちゃんと食べてる!」
「昨日、お庭一周飛んだ!」
「まだ遠くは行っちゃだめだけどね!」
大勢の家族が、病み上がりの一人を総出で見守っている。そんな光景だった。魔力の流れにも、あの日の黒い靄の名残はどこにもない。
「問題なさそうですね」
「うん。これなら、父上にもそう報告できる」
「お願いします!」
これで、今日の公的な用件は終わりだ。
終わりの、はずだった。
「じゃあ殿下、こちらへどうぞ」
「……まだ何かあるの?」
ラヴェリナ嬢は答えず、さらに奥へと歩き出した。
「殿下、お疲れでしょう?」
「……そう見える?」
「見えます」
即答だった。
「最近ずっとお忙しかったですものね」
スタンピード、辺境への強行軍、帰還後の対策会議。その後も報告書、機密の指定、関係者の整理。
言われてみれば、まともに休んだ記憶がない。
「休息も必要ですわ。王太子殿下が倒れたら、国が困ります」
「それはそうだけど」
「なので、今日は少し休んでいってください」
「……ここで?」
「もちろん!」
◇ ◇ ◇
通された部屋には、壁一面の本棚と、床に敷かれた厚い絨毯と、そして。
あった。
先日、父上との会話で想像したもの。
巨大な、クッション。
「これは……」
「クッションベッドです!」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「いや、何でもない」
父上。本当に、ありました。
「どうぞ、ここに」
ラヴェリナ嬢が、大きなクッションをぽんぽんと叩いた。
「沈むので、思い切って座ったほうがいいですよ」
「思い切る必要のある家具なの?」
「最初だけです!」
言われるまま、腰を下ろす。
体が、思っていたよりずっと深く沈んだ。
想像以上だった。
けれど沈み切るわけではなく、背中にも腰にも脚にも、体の形に合わせた柔らかな支えが返ってくる。姿勢を保とうと力を入れる必要が、どこにもない。
「……どうです?」
「……すごく楽」
「でしょう!」
ラヴェリナ嬢は、とても満足そうに笑った。
「お父様も、最初はそういう顔をしていました」
「公爵も?」
「はい。今では、本邸の執務室にも一つ欲しいと言い出しています」
疲れ切った顔をしていながら、公爵がこの離れに妙に馴染んでいた理由を、僕は身をもって理解した。
「はい、これ」
「何?」
「コミックです!」
手渡されたのは、薄い綴じ本だった。これが、妖精たちの作っているという絵物語か。
「読んでみてください」
「いいの?」
「もちろん!」
そう言うなり、ラヴェリナ嬢は隣のもう一つのクッションベッドに、ぽすんと倒れ込んだ。
躊躇がない。
慣れた動きで体勢を整え、本棚に手を伸ばして別の一冊を抜き取る。
「じゃあ私も読むので、殿下もごゆっくり」
そして宣言どおり、読み始めた。
僕は少し途方に暮れた。
王太子が公爵令嬢を訪ね、二人して巨大なクッションに沈み、黙って絵物語を読む。
こんな時間は、生まれてこのかた経験がない。普通なら会話をする。互いを知るために質問を投げ、相手もこちらに話題を振る。そういうものだ。
ラヴェリナ嬢は、読んでいる。脇目もふらずに。
仕方なく、僕も手元のコミックを開いた。
◇ ◇ ◇
なるほど、読みやすい。
文字だけの本と違って、人物の表情が一目で分かる。台詞と絵がひとつの枠に収まっているから、場面の流れが目に飛び込んでくる。
話も、なかなか面白かった。
ある貴族令嬢が、お茶会に招かれる。
彼女はなぜか事前に、衣装へ水を弾く加工を施している。そこへ別の令嬢が飲み物を手に近づいてきて、わざとらしく躓く。
紫色の飲み物が、衣装へばしゃりとかかる。そして水滴が、ころころと転がり落ちていく。
僕はページを戻して、もう一度読んだ。
知っている。
この場面を、僕はよく知っている。
三年前のお茶会で、この目で見た。
「ラヴェリナ嬢」
「はい」
目は、本から離れない。
「この話、実話?」
「創作です」
早い。
公爵から聞いた話が、頭をよぎった。
同じ場面を見つけて尋ねたとき、公爵もまったく同じ即答を食らったらしい。あのとき公爵がどんな顔をしたのか、今なら手に取るように分かる。
「この場面、知ってる気がするけど」
「偶然です」
怪しい。かなり怪しい。
ページをめくると、お茶会の主催者として、一人の少年が描かれていた。ずっとにこにこしているだけで、台詞は「いらっしゃい」と「大丈夫かな」のふたつだけ。
「この王子」
「適当です」
「まだ何も聞いてない」
ラヴェリナ嬢が、ようやく本から顔を上げた。
目が合う。
「……創作ですわ」
「そう」
「はい」
「分かった」
「ありがとうございます」
「信じたとは言ってないけど」
ラヴェリナ嬢は、すっと本の陰に顔を戻した。
僕はもう一度、手元の王子を眺めた。
驚くほど出番がない。
背景の一部のように、端のほうで笑っているだけだ。
「……僕って、こんなに出番なかった?」
「殿下!」
「やっぱり僕なんだ」
ラヴェリナ嬢が、本を持ったまま固まった。
分かりやすい。
「続き、読もうかな」
「そうしてください!」
面白いので、読む。
◇ ◇ ◇
しばらくして、ラヴェリナ嬢が本を伏せた。
「喉、乾きましたね」
起き上がって部屋の隅へ行き、陶器の箱の蓋を開ける。ひやりとした空気が、ここまで流れてきた。
「それが冷蔵箱?」
「ご存じなんですか?」
「公爵から聞いた」
「ああ、お父様から」
ラヴェリナ嬢は中から瓶を二本取り出し、一本を僕に手渡した。
冷たい果実水だった。
そこへ、細い透明な管を差し込む。
「これがストローです」
「それも聞いた」
「では、使い方も?」
「そこまでは聞いてない」
「こうです!」
ラヴェリナ嬢が、自分の瓶にも同じ管を差して口に含み、吸ってみせる。僕も真似をした。
冷たい果実水が、管を通って口の中に流れ込んできた。当たり前のことなのに、なぜか少し感動する。
「便利でしょう?」
「……便利だね」
「寝転がったままでも飲みやすいんです」
「そこが重要なの?」
「とても!」
重要らしい。
ラヴェリナ嬢は瓶を片手に、再びクッションベッドに沈んだ。そして、またコミック。
もてなされているのか、放っておかれているのか、よく分からない。
でも、不快ではなかった。
むしろ、気が楽だ。
何を話そうか、どう見られているか、考えなくていい。
僕も見よう見まねで、体をクッションに預けてみた。
なるほど。これは危険だ。
力が、抜けていく。
手には冷たい果実水、膝の上にはコミック、部屋は静かで、窓から入る風がカーテンを揺らしている。
時々、妖精がふわふわと飛んできて、僕の肩越しにページを覗き込んでいく。
「おうたいし、それ面白い?」
「うん。既視感がすごいけど」
「気のせいですわ」
本の陰から、すかさず声が飛んできた。
◇ ◇ ◇
いつの間にか、僕はずいぶん深く沈んでいた。
認めよう。
これ以上ないほど快適だ。
王宮にもひとつ欲しい。
――と、そこまで考えて、止まった。
先日の、父上との会話がよみがえる。
王宮の一角を土足禁止にすると言い出すと思いますか。言うだろうな。
僕は今、専用の室内履きを履いて、巨大なクッションに沈み、ガラスのストローで冷たい果実水を飲みながら、コミックを読んでいる。
すでに、かなり取り込まれている気がする。
「殿下」
「何?」
「気に入りました?」
ラヴェリナ嬢が、クッションから顔だけ出して、にこにことこちらを見ていた。
「……まあ」
「まあ?」
「かなり」
「でしょう!」
満面の笑みだった。
「お父様も、そうでした!」
また公爵と同じ道を歩いている。
「今度、畳のお部屋も使ってみます? 草の匂いがして、ごろごろすると最高なんです」
「……今度?」
「はい!」
あまりにも自然に、次が決まった。
「そうだね」
僕も、あまりにも自然に答えていた。
「じゃあ次は畳ですね!」
「うん」
ラヴェリナ嬢は満足そうに頷いて、また本に視線を戻した。
僕はコミックを膝に伏せて、しばらく彼女を眺めていた。
王宮でのラヴェリナ嬢には、隙がない。礼儀正しく、きちんとしていて、必要以上に自分を見せない。三年間、僕はその完璧な令嬢の顔の向こうを、ずっと測りかねていた。
ここでは違う。
クッションに寝転がって、冷たい飲み物を片手に、好きな本に夢中になっている。
妖精が飛んでくれば普通に話し、笑い、ときどき叱る。袖口の青い染みは、たぶん妖精たちと一緒にコミックの色塗りをしたときのものだろう。
これが、ラヴェリナ嬢の本当の日常なのだ。
そして、少し分かった気がした。彼女がなぜ、王太子妃の座を積極的に望まないのか。
この場所を、失いたくないのだ。
自分で作って、自分で守ってきた、この小さな世界を。妖精たちと笑い合い、家族と夕食を囲み、好きなものを好きなだけ形にできる、この離れを。
困ったことに、その気持ちが、僕にも少し分かってしまった。
この離れは、どうしようもなく居心地がいい。
妖精の存在に驚かされ、国家機密級の話を次々と聞かされ、ようやく少し慣れてきたと思ったら、今度は快適さに驚かされている。
ぼやきながらも、公爵がこの離れを気に入った理由が、今なら分かる。
「殿下?」
気づくと、ラヴェリナ嬢がこちらを覗き込んでいた。
「また固まってますよ。情報量、多かったですか?」
「今回は、情報量じゃないよ」
「では?」
僕はクッションにさらに深く沈み込みながら、観念して打ち明けた。
「……快適すぎて困ってる」
ラヴェリナ嬢が、ぱっと笑った。
王宮では一度も見たことのない、飾り気のない顔だった。
そして、ひと言――
「ようこそ、離れへ!」
―完―
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
ラヴェリナが夢見た、妖精たちとの自由で快適な異世界生活。自分だけの秘密の離れだったはずが、いつの間にか家族や妖精たち、さらには王太子殿下まで巻き込むことになりました(笑)。そんなラヴェリナたちの物語も、ここで完結となります。
数ある作品の中から本作を見つけ、最後までお付き合いくださった皆様に、心より感謝申し上げます。
少しでも楽しい時間をお届けできていたなら、作者として何より嬉しく思います。
作品を楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると励みになります。
最後までラヴェリナたちを見守ってくださり、本当にありがとうございました!
深谷 汎




