第37話 王太子視点――婚約者について、父と話す
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扉が閉まると、会議室は嘘のように静かになった。
ほんの少し前まで、ここでは
「お菓子ー!」
「帰ろー!」
「クッキー!」
という甲高い声が飛び交っていたのだ。
窓のない部屋の机の上には、妖精の羽根からこぼれた細かな光の粉が、まだうっすらと残っている。
宰相の椅子の背もたれには、ポロが座っていたあたりに小さな皺が寄っていた。
僕は椅子に深く沈み込んだ。
疲れた。
体より先に、頭が疲れている。
防水加工の報告書から始まって、妖精、癒やし魔法、残留思念、闇落ち、スタンピード、辺境への強行軍、そして国家機密。
この半月ほどで起きたことを並べると、一年分の厄介事をまとめて押しつけられた気分になる。しかもそのすべてが、一本の糸で繋がっているのだ。
「お前も、疲れた顔をするようになったな」
向かいの席で、父上が妙に楽しそうに言った。
「誰のせいだと思っているんですか」
「私ではないぞ」
「それは分かっています」
「では、誰だ」
僕は答えなかった。
答えなかったのに、父上は満足げに頷いた。
「ラヴェリナ嬢か」
「……別に、彼女が悪いわけではありません」
「知っておる」
「今回も、結果だけを見れば」
「辺境を救った。妖精も救った。義妹の力を見つけた。防水加工を作り、残留思念まで具現化した」
父上は指を折りながら、僕の言いたかったことを先に全部言ってしまった。
「大した娘だな」
「……それは、認めます」
認めるしかない。
「ただ、本人には、何か大きなことをしたという自覚がほとんどないんです」
「それも知っておる」
「そこがいちばん怖いんです」
「分かる」
即答だった。
父上の理解が、この数日で恐ろしく早くなっている。
「ローデンベルク公爵の苦労が、少し分かりました」
「私もだ」
「白状すると、離れを見るまでは少し大袈裟なのではと思っていました」
「そうだな」
親子で、しばらく黙り込んだ。
今ごろ公爵は、帰りの馬車の中で、妖精たちに「お菓子まだ?」と両袖を引かれているのだろう。
やがて父上が、ふっと口元を緩めた。こういう顔をするときの父上は、たいてい碌なことを言わない。
「なあ、ユリウス」
「何でしょう」
「もう、お前の婚約者はラヴェリナ嬢でいいのではないか?」
僕は、動きを止めた。
「……急ですね」
「そうか?」
「急です」
「では」
父上は顎を撫でて、少し考えるふりをした。
「義妹のほうでもいいぞ」
「もっと急です!」
思わず、声が大きくなった。
「何ですか、その選び方は! リリアーヌ嬢はまだ十一歳ですよ!」
「年はいずれ追いつく」
「そういう問題ではありません!」
脳裏に、森の草地を走っていく小さな背中が浮かんだ。父親を奪った森で、黒い嵐に向かって「傷つけに来たんじゃない」と叫んだ、あの震える声。
あれは、王家の損得を並べる帳簿の上に載せていい勇気ではない。少なくとも僕は、載せたくなかった。
「いや、まじめな話だ」
父上は、大真面目な顔をしていた。それが余計に質が悪い。
「この数日を考えてみろ。ラヴェリナ嬢は、防水加工に残留思念、妖精との交友。義妹君は、稀有な癒やし魔法。そしてローデンベルク公爵家。王家として考えれば――」
「父上。その言い方をすると、いかにも政略結婚らしく聞こえます」
「政略結婚だからな」
否定できなかった。
王太子の婚姻に政治の判断が入らないなど、ありえない。僕だって、それくらいは十一歳の頃から分かっている。
「もちろん、力だけで決めるつもりはない」
父上の声が、いくらか柔らかくなった。
「だが候補として見れば、ローデンベルク公爵家の二人は、かなり面白い」
「面白いで選ばないでください」
「お前が言うか?」
僕は黙った。
三年前の最初のお茶会から、僕はラヴェリナ嬢のことを「よく分からない」という、それだけの理由で気にかけ続けている。
面白いから目が離せない、と言い換えられても、反論の余地はほとんどなかった。
「それにな」
父上は背もたれに体を預けた。
「ラヴェリナ嬢は、お前に媚びない」
「はい」
「立場にも、あまり振り回されない」
「はい」
「必要とあらば、王族相手にも物を言う」
「……言いますね。面と向かって、腹黒とか」
父上が、ぶっと吹き出した。
「言われたのか」
「森で。褒め言葉のついでだったそうです」
「そうか、そうか」
笑いを噛み殺しながら、父上は続けた。
「友人を大事にする。家族を守る。そして問題が起きれば」
「……妙な解決法を作ります」
「そこだな」
父上は、とても満足そうだった。
「王妃として、面白いと思わんか?」
「また面白いと言いましたね」
「だが、悪くはなかろう」
僕は一応、真面目に考えてみた。
ラヴェリナ嬢が、王妃。
……うまく想像できない。
というより、まったく別のものばかりが浮かんでくる。
王宮の回廊の途中に引かれた一本の線と、
その先に並べられた室内履き。
謁見の間の窓に開けられた、
小さな妖精専用の出入口。
執務室の片隅で、
やたらと存在感を放つ巨大なクッション。
やめよう。
とても危険な未来が見えた。
「どうした」
「いえ」
「何か想像したな」
「何も」
「顔に出ておるぞ」
「……父上」
僕は、姿勢を正した。
「この数日のことを考えると、僕も、ラヴェリナ嬢が婚約者になったほうが、いろいろな意味で都合がいいのかもしれないとは思います」
「ほう」
父上の眉が上がった。
「珍しく素直だな」
「最後まで聞いてください」
「聞こう」
「しかし、そうなった場合」
僕は、少し間を置いた。
「僕は……もつのでしょうか」
父上が止まった。
「何がだ」
「精神的に」
一拍おいて、父上は声を上げて笑い出した。
「笑い事ではありません!」
「いや、すまん、すまん」
「僕は真面目に言っているんです!」
「それが、余計におかしい」
「父上!」
父上はしばらく肩を震わせていた。
やがて目尻を指で拭い、ようやく息を整える。
「なるほどな」
「何がですか」
「お前がそんな心配をする日が来るとは、思わなかった」
「僕だって、心配くらいします」
「これまでの候補者相手に、したことがあったか?」
僕は口を閉じた。
なかった。
ヴィオラ嬢を前にしても、他の令嬢たちを前にしても、自分の精神がもつかどうかなど考えたこともない。
相手の意図を読み、立場を測り、最適な受け答えを選ぶ。それで済んでいた。
「ユリウス」
父上の声が、ふいに低くなった。
「お前は小さい頃から、手のかからない子供だった。泣かない、わがままを言わない、誰の前でも行儀よく笑っている。教師たちはみな褒めたし、私も助かった」
父上は、机の上に残った光の粉を指先でなぞった。
「だが時々、あれは本当に笑っているのかと思うこともあった」
僕は、何も言えなかった。
「そのお前が、ひとりの令嬢のことで本気で頭を悩ませて、精神がもつかなどと言い出す。……父親としては、悪くない眺めだ」
「……からかわないでください」
「からかってはおらん。半分はな」
残りの半分は、やはりからかっているらしかった。
父上が、意味ありげにこちらを見ている。
「……何ですか、その顔は」
「いや」
「何か言いたい顔です」
「そうか?」
「そうです」
「では、ひとつ」
父上は、机の上に少し身を乗り出した。
「お前。ラヴェリナ嬢が婚約者になること自体は、嫌ではないのだな」
今度は、僕が止まる番だった。
「……それと、これとは」
「別か?」
言い切れなかった。
困ったことに、言い切れなかった。
絶対に嫌だと思うなら、今すぐ否定すればいい。
僕はこれまで、そういう場面で言葉に詰まったことはない。けれど今は、否定の言葉を探そうとする気持ちが、どこにも見当たらなかった。
「……まだ」
僕は、慎重に言葉を選んだ。
「僕は、彼女のことをよく知りません」
「そうか? 妖精の住む離れまで見たのに?」
「それでもです」
知っているのは、ほんの一部だ。お茶会での完璧な令嬢の顔。離れでの、砕けきった顔。妖精相手に本気で言い合う声。
それから、森で見た顔。
防御魔法で一行を包んだとき、手綱を握る指が震えていたこと。抉れた地面の前で、迷わず僕の手首を掴んだ手の熱さ。
洞窟の中で、ミナの声を聞きながら涙をこぼし、それでも拭わずに魔力を保ち続けた横顔。
あれを見たあとで、よく知っている、などとは言えない。
「だから、判断するなら、もう少し知ってからにしたいです」
父上は、今度は笑わなかった。
「分かった」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「もう少し知った結果、さらに分からなくなる可能性もあるぞ」
僕は想像してみた。
十分にありえる。
むしろ、その可能性のほうが高い。
「……否定できません」
「だろうな」
父上は、椅子の背に深くもたれた。
「急いで決める必要はない。ただ、候補者として、今まで以上にしっかり見ておけ」
「分かっています」
「王太子として、か?」
また、その質問だ。
「もちろん」
「そうか」
「……何ですか」
「いや、何も」
「絶対に何かありますよね」
「何もない」
父上の顔は、どう見ても楽しんでいた。
僕は小さく息をついた。
王太子として必要だから。候補者を見極めるのは、王太子の務めだから。この三年、何度そう自分に言い聞かせてきただろう。そういうことにしておこう、と。
その言い訳が、少しずつ窮屈になってきていることには、とうに気づいていた。
婚約者も、王妃も、まだ分からない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。
僕は、あの娘のことを、もっと知りたい。
そう認めるのが、以前ほど難しくはなくなっていた。
「……父上」
「何だ」
「もし、本当にラヴェリナ嬢が婚約者になったら」
「うむ」
「王宮の一角を土足禁止にすると言い出すと思いますか」
父上は、まじめな顔で天井を見上げた。
「言うだろうな」
「……ですよね」
「露天風呂も作るかもしれん」
「露天風呂」
「公爵が言っておった。離れの増築計画に入っているそうだ」
僕は、こめかみに指を当てた。
「やっぱり、僕がもつかどうかが問題です」
「頑張れ」
「まだ決まってません!」
父上がまた笑い出した。
つられて、僕も少しだけ笑ってしまった。
妖精の光の粉がまだきらきらしている机を挟んで、親子で笑い合うなんて、いったいいつ以来だろう。
少なくとも、この部屋が国家機密を扱うための会議室だということは、二人ともしばらく忘れていた。




