第35話 闇から戻った妖精と、スタンピードの終息
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腕の中の水晶は、ひんやりと冷たかった。
ノアはそれを胸に押しつけたまま、萎れた草の上にうずくまっていた。体の周りにはまだ黒い靄がまとわりついている。重たくて、息苦しくて、けれどさっきまでのように暴れ回る力はもう残っていなかった。
ミナの声が、耳の奥で何度も繰り返されていた。
大好き。ずっと、大好きだから。
知っていた。そんなことは、ずっと前から知っていた。知っていたのに、ミナがいなくなった途端、世界からそれ以外のものが全部消えてしまったのだ。
森も、空も、風も、ただの灰色の塊になった。何を見ても、そこにミナがいないことしか分からなかった。
「……ノア!」
甲高い声がして、顔を上げるより先に、何かが胸にぶつかってきた。
小さな腕が、首にしがみつく。
「ピピ……?」
「よかった……よかったぁ……!」
ピピだった。羽根の付け根にうっすらと傷痕を残した、見慣れた顔がぐしゃぐしゃに崩れている。
「戻ってきて、ノア。お願い、戻ってきて」
「ピピ、その羽根……」
「平気。治してもらったの。人間の女の子に」
ピピはノアの肩に顔を押しつけた。
「ずっと怖かった。ノアが、もう戻ってこないんじゃないかって。だから、助けてくれる人を探しに行ったの。遠くまで。すごく遠くまで」
ノアは何も言えなかった。ピピの羽根を裂いたのが誰の魔力だったのか、考えるまでもなかった。
そのとき、周りの木々がざわりと鳴った。
枝の陰から、洞の中から、茂みの根元から、小さな影がひとつ、またひとつと顔を出す。
妖精たちだった。
「ノア?」
「ノア、戻った?」
「戻ったよね?」
「ねえ、大丈夫!?」
最初はおずおずと、それから堰を切ったように、みんなが飛んできた。肩に、背中に、腕に、頭の上に。
あっという間に、ノアは小さな体の山に埋もれた。
「よかった!」
「ずっと待ってたんだから!」
「もういなくならないで!」
「心配したんだよ、ばか!」
ノアは呆然と、群がる仲間たちを見回した。
隣の木に住んでいたトゥイ。
一緒に木の実を集めた双子。
ミナとよく歌っていた、声の大きなリム。
みんな、泥だらけだった。羽根の先が焦げている子もいた。
「……なんで」
「なんでって、何が?」
「僕、みんなに、ひどいことしたのに。森をめちゃくちゃにして、ピピにも、怪我させて」
「してない!」
「魔力が暴れただけでしょ!」
「怖かったけど!」
「すっごく怖かったけど!」
「でも、ノアのほうがずっと苦しかったんでしょ!」
「戻ってきたから、もういいの!」
ノアの目から、また涙がこぼれた。さっきまでとは、少し違う温度の涙だった。
「……僕」
「うん」
「番しか、いないと思ってた」
言葉にしてみると、それはひどく子供じみて聞こえた。
「ミナがいなくなったら、僕にはもう、何も残ってないんだって。僕なんか、どうなってもいいんだって」
「そんなわけないでしょ」
ピピが、ノアの頬を両手で挟んだ。
「私たちがいるよ」
「ずっと一緒だったじゃん」
「これからも一緒だよ」
「ミナだって、そう言ってたでしょ!」
みんなと、一緒にいて。
水晶の中のミナは、確かにそう言った。
最後の力を振り絞って、泣き虫の番のために。
ノアはゆっくりと顔を上げ、もう一度、自分を取り囲む仲間たちを見た。
泣いている顔、怒っている顔、笑おうとして失敗している顔。こんなにたくさんの顔が、自分のためにここにある。
自分が暴れているあいだも、ずっと森のどこかで、戻ってくるのを待っていてくれた。
ミナだけじゃなかった。
ミナのほかにも、自分はちゃんと、大事にされていた。
それに気づいた途端、胸の真ん中で固く凍っていた何かが、音もなく崩れた。
悲しいのは変わらない。
これからも、きっとずっと悲しい。
朝、目が覚めて隣が空っぽなのを見るたびに泣くだろうし、ミナの好きだった花が咲くたびに会いたくなるだろう。
それでも。
いなくなっちゃ、だめなんだ。
「……ごめん」
小さな声で、ノアは言った。
「みんな、ごめん」
「もういい!」
「戻ってきたから、いいの!」
「今度また暴走したら、本気で怒るからね!」
「……それは、怖い」
誰かが吹き出した。つられて、別の誰かが笑った。泣き声の中に、ぽつぽつと笑い声が混じり始める。
その瞬間、ノアの体から、最後の黒い靄がふっと抜けた。
糸がほどけるように空へ昇って、風に紛れ、どこにも見えなくなった。
◇ ◇ ◇
ラヴェリナは地面に座り込んだまま、その光景を見ていた。
空気が変わったのが分かった。ずっと耳鳴りのように響いていた魔力のうねりが、嘘のように凪いでいく。森が、ようやく深く息を吸ったようだった。
どこかで、鳥が一羽鳴いた。
「……戻った」
ラヴェリナの肩の上で、ルルがぽつりと言った。
「もう大丈夫だ。あいつの魔力、ちゃんと元の色に戻ってる」
「ルルには分かるの?」
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってんだ」
ぶっきらぼうな声が、少しだけ湿っていた。ラヴェリナは聞こえなかったふりをしてあげた。
王太子が、静かに息を吐いた。
王太それから草地を横切り、妖精たちの輪の前に片膝をついた。ノアが、びくりと肩をすくめる。
王太子はそれ以上近づかず、ノアの腕の中の水晶を指さした。
「それは、君が持っていて」
「……僕に?」
「うん。ここに、ミナの最後の想いが入っている。魔力を少し流せば、何度でも見られるし、何度でも聞ける」
ノアの目が大きく見開かれた。
「何度でも……?」
「何度でも」
「いいの? ほんとに?」
「君のために残したものだから」
ノアは、水晶を両手で抱き直した。壊れやすい卵を扱うみたいに、そっと、胸の真ん中に。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
立ち上がった王太子の横顔を、ラヴェリナはしばらく眺めていた。
水晶を投げたときの、あの迷いのない腕。
記録をしているあいだ、一度も揺れなかった手。
そして今、小さな妖精に向き合うため、片膝をついた姿。
「殿下」
「何?」
「優しいんですね」
王太子は、わずかに目を細めた。
「今さら?」
「いえ、その、なんというか」
言葉を探すうちに、疲れ切った頭が、余計な本音まで一緒に押し出してしまった。
「腹黒なだけじゃなかったんだなって」
「ラヴェリナ嬢」
「はい」
「聞こえてるよ」
ラヴェリナはすっと視線を逸らした。肩の上で、ルルが腹を抱えて笑い転げていた。
◇ ◇ ◇
「……まだ、傷がある」
リアが呟いたのは、そのすぐあとだった。
騎士の背後から出てきたリアは、ノアの前にしゃがみ込んでいた。
暴れる自分の魔力に内側から焼かれた痕が、ノアの腕にも足にも、まだ生々しく残っている。裂けた羽根は、半分近くが欠けていた。
「あの」
リアは、ノアの目を見て尋ねた。
「治してもいい?」
ノアは驚いたようにリアを見返した。
さっき、自分に向かって叫んでいた人間の女の子。自分の魔力が、あと少しで吹き飛ばすところだった女の子。
しばらく迷ってから、ノアは小さく頷いた。
「……お願い」
リアは両手を、ノアの傷の上にかざした。
自分でも、まだ仕組みは分からない。
分かるのは、あの日、離れでピピを前にしたときと同じ気持ちになればいい、ということだけだった。
「痛くなくなりますように」
手のひらから、淡い光がこぼれた。
春の陽だまりのような、あたたかな色だった。
光はノアの腕を包み、足を包み、ぼろぼろの羽根の縁をなぞっていく。焦げた皮膚がなめらかになり、裂け目がゆっくりと塞がっていく。欠けた羽根の先には、透きとおった膜が少しずつ伸びていった。
背後の獣道で、蹄の音が止まった。
森を覆っていた気配が消えたのを見て、外周から馬を飛ばしてきたのだろう。草地の縁で手綱を引いたグランツ辺境伯が、少女の手のひらからこぼれる光を、息を詰めて見つめていた。
「わぁ……」
「きれい」
「治ってる、治ってるよ!」
妖精たちが息を呑む。当のリアも、自分の手のひらを不思議そうに見つめていた。
「……できた」
「できたね!」
ラヴェリナは疲れも忘れて立ち上がり、後ろからリアを抱きしめた。
「やっぱり癒やし魔法だよ、リア! すごい、すごいよ!」
「お姉様、苦しい……」
「あ、ごめん」
腕をゆるめると、リアは少し困ったように眉を下げた。
「でも、まだ自分でも、どうやってるのか分からないの」
「大丈夫!」
「え?」
「これから検証すればいいの! 何回使えるか、どのくらいの傷まで治せるか、疲れ具合はどうか。ちゃんと記録を取って――」
この場に父がいたら、きっと黙って空を仰いでいただろう。王太子が小さく咳払いをしたので、ラヴェリナは続きを飲み込んだ。
リアは少しだけ笑って、それから振り返った。さっき自分をかばってくれた騎士が、盾を下ろして立っている。鎧の肩が大きくへこんでいた。
「あの、ありがとうございました。守ってくださって」
「いえ。……勇敢でいらっしゃいました、お嬢様」
騎士は兜の庇を上げ、真面目な顔でそう言った。リアは耳まで赤くなって、ラヴェリナの後ろに半分隠れた。
◇ ◇ ◇
遠くで、角笛が鳴った。
低く長い音が一度、続いて短く二度。
森の外周を固めている辺境伯の兵の合図だ。
「魔物が退いている、という合図です」
騎士の一人が、耳を澄ませて言った。
「北でも鳴っている。西も……」
角笛は、森のあちこちから次々と響いてきた。
ラヴェリナたちが駆け抜けてきた獣道の向こうで、何かが動く気配がした。
さっき防御の膜にぶつかって跳ね返された、あの牛ほどもある魔物だった。赤く燃えていた目は、もうただの獣の茶色に戻っている。
魔物はしばらく鼻をひくつかせてこちらを眺めていたが、やがてのそのそと向きを変え、森の奥へ消えていった。
群れをなして人里へ押し寄せようとしていた流れが、止まったのだ。
「……終わった?」
ラヴェリナが呟くと、王太子が頷いた。
「終わったね」
討伐ではなく、救うことで。
口には出さなかったが、王太子の横顔はそう言っているように見えた。
「よかったぁ……」
ラヴェリナは、今度こそ全身の力を抜いた。そのまま草の上に仰向けに倒れ込む。空が高い。森の上を覆っていた重苦しい気配は、もうどこにもなかった。
「お姉様、服が」
「いいの。今日はもう、泥だらけでいいの」
「終わったー!」
「よかったー!」
「みんな無事ー!」
妖精たちが歓声を上げて、草地の上をくるくると飛び回る。ルルまでがその輪に加わって、ピピと手を繋いで宙返りをしていた。
その輪から少し離れたところで、ノアは水晶を胸に抱いていた。
水晶の奥には、苔の寝床に横たわる番の姿が、今も小さく眠っている。ノアはしばらくそれを見つめていたが、やがて顔を寄せて、誰にも聞こえないくらいの声で囁いた。
「……生きるよ。ちゃんと」
それから、治ったばかりの羽根を、そっと震わせた。
最初はおぼつかなかった。体が傾き、足が草をかすめる。それでも二度、三度と羽ばたくうちに、小さな体はふわりと浮き上がった。
ピピが気づいて、手を差し伸べる。ノアはその手を取った。
二人ぶんの小さな影が、仲間たちの輪の中へ、ゆっくりと昇っていった。




