第31話 離れの増築と、スタンピードの真相
毎日7:00・12:00の1日2話で予約投稿更新中
本作は完結まで執筆済みです。
最終話まで更新が止まることはありませんので、ご安心してお楽しみください。
義母とリアが初めて離れを見学した翌朝、ラヴェリナは朝食のパンをちぎりながら、ひとつのことを考えていた。
「ねえメアリー。せっかくだから、お父様とお義母様とリアの部屋も、離れに作ったらいいんじゃないかな」
紅茶を注いでいたメアリーの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……離れに、でございますか」
「うん」
昨夜のリアは、帰る時間になっても妖精の部屋から出てこず、最後はクッションベッドでうとうとし始めて義母に揺り起こされていた。
その義母も、帰り際にクッションベッドへ試しに腰を下ろして、ほうっと息をついて、こう言ったのだ。
『これは……楽ですわね』
父に至っては、二晩続けてクッションベッドに沈み、二晩続けてコミックを読まされている。
「だったら、みんなの部屋があったほうがいいよね。空いてる部屋もあるし」
「簡単におっしゃいますね」
メアリーは慣れた調子でため息をついた。お嬢様の「いいこと思いついた」には、とうに耐性がついている。
「旦那様のお許しが必要でございますよ」
「じゃあ、今夜聞いてみる!」
◇ ◇ ◇
「離れに、みんなの部屋を作りませんか?」
その日の夕食で、ラヴェリナはスープが運ばれてくるより早く切り出した。
「ほしい!」
返事は、父ではなく隣から来た。早い。
「妖精さんたちの部屋の近くがいい! コミックもすぐ読める?」
「読めるよ。本棚、リア用にひとつ空けるね」
「やったぁ!」
父の手の中で、ナプキンがゆっくりと握りつぶされた。
義母は、少し迷うように視線をさまよわせている。
「わたくしは……さすがに」
「お義母様、畳のお部屋、気に入ってましたよね?」
「…………」
「クッションベッドも」
義母の視線が、すっと窓のほうへ逃げた。
「冷たい果実水も」
義母は、とうとう観念したように小さく息を吐いた。
「……お部屋のひとつくらいなら、あってもよいかもしれませんわね」
「やった!お母様も!」
「ただし」
義母は、きりりと表情を引き締めた。
「本邸での暮らしを疎かにしてはいけませんよ。礼儀作法のお稽古も、お勉強も、今まで通り」
「もちろん!」
ラヴェリナとリアの声が、きれいに揃った。
そして、三人分の視線が、上座へ集まる。
父は、嫌な予感しかしないという顔で、スプーンをゆっくり置いた。
「お父様は?」
「私は――」
「昨日も一昨日も、クッションベッド気に入ってましたよね」
「気に入ってはいない」
「でも、寝転がってました」
「座っていただけだ」
「コミックも読んでました」
「渡されたからだ」
「冷たい果実水も、二杯飲んでました」
「出されたからだ!」
「じゃあ、部屋を作りましょう!」
「話を聞け!」
父はしばらく、腕を組んで黙り込んでいた。
リアが期待に満ちた目で見上げ、義母は黙って紅茶を飲んでいる。黙っているのが一番効くことを、この人はよく知っている。
「……あっても、構わん」
「やったー!」
◇ ◇ ◇
ところが、その場で新しい問題が持ち上がった。
「ただ、家族そろって離れに入り浸るのは、さすがにまずい」
食後の紅茶を前に、父が眉間に皺を寄せた。
「対外的にな。本邸があるのに、公爵家の人間が揃って離れで暮らしている、などと噂が立てば面倒だ。本邸と離れを行き来するたびに、庭を横切る姿を人目にさらすことにもなる」
「ああ……」
貴族社会の噂は、放っておくと尾ひれどころか足まで生えて歩き出す。
ラヴェリナは少し考えて、ぽんと手を打った。
「じゃあ、本邸と離れをつなげちゃえばいいんですよ」
「……何?」
「渡り廊下です! 屋根と壁をつけて、本邸からそのまま離れへ来られるようにするの。そうすれば外から見えないし、雨の日も濡れないし」
「…………」
父が、顎に手を当てて考え込む。
「……使用人の行き来も楽になるな」
「でしょう! 夕食に通うのも、冬はけっこう寒いんですよ」
「冬の話は、今初めて聞いたが」
「言ったら、お父様が心配すると思って」
父は何か言いかけて、やめた。
翌朝、さっそく職人が呼ばれた。
「早っ!」
「お前が言い出したのだろう!」
「そうですけど!」
◇ ◇ ◇
職人たちが縄と杭を手に、離れのまわりを測って歩いている。
縁側に腰かけて、その様子をぼんやり眺めているうちに、ラヴェリナの頭の中で、ずっと昔に諦めた夢がむくりと起き上がった。
――今なら、いけるのでは?
「お父様」
様子を見に来ていた父の袖を、そっと引く。
「お願いがあります」
「嫌な予感しかしない」
「まだ何も言ってません!」
「言ってみろ」
「露天風呂」
「却下」
「早い!」
ラヴェリナは縁側から跳び下りて、父の前に回り込んだ。
「聞いてください! 外にあるお風呂なんです!」
「それは名前で分かる」
「夜は星が見えて、冬は雪が降ってきて、湯気がふわーって上がって!」
「必要性は?」
ラヴェリナは口を開けたまま、止まった。
必要性。必要性とは。
「……快適?」
「却下」
「待ってくださいってば!」
そこへ、職人たちの作業を面白そうに眺めていたリアが、ひょいと顔を出した。
「外で、お風呂に入るの?」
「そう! 空の下で!」
「楽しそう……!」
「でしょう!」
「私も入りたい!」
「ほら、お父様!」
さらに、日傘を差して散歩に出てきた義母までもが、足を止めた。
「露天……風呂、でしたかしら」
「はい!」
「そこまで楽しそうにお話しされると、少し興味が湧きますわね」
「お義母様!」
「……娘の味方が、また増えた」
父の肩が、目に見えて一段落ちた。
ラヴェリナは、ここぞとばかりに最後の札を切った。
「それに、今回の防水加工液で、公爵家にもちょっとは功績ができましたよね?」
「…………」
「ご褒美です!」
「自分で言うのか」
「お願いします!」
「お願いします、お父様!」
「わたくしからも、お願いいたしますわ」
三対一だった。
父は、長い長い沈黙のあと、空を仰いだ。
「……分かった」
「やったー!」
「ただし! 予算の範囲内だ。クロードの許可を取れ」
「えっ」
いつの間にか父の背後に控えていた老執事が、白い手袋の指先で襟を正した。
「承知いたしました。離れの予算、厳正に査定させていただきます」
「ク、クロード、露天風呂にはクロードも入っていいからね?」
「……業務上の視察として、検討いたしましょう」
こうして、渡り廊下と露天風呂、ふたつの工事が同時に始まることになった。
◇ ◇ ◇
それから数日が過ぎた。
アカデミーが休みのその日、午後の離れには、珍しくリアの姿があった。まだ家具も入っていない自分の部屋を見に来たついでに、そのまま妖精の部屋に居ついてしまったのだ。
窓の外では木槌の音が続いている。妖精たちは工事に興味津々で、職人に見つからないように隠れて見物していた。
異変は、その穏やかな午後に、窓から飛び込んできた。
「ラヴェリナ!」
ルルの声だった。
けれど、いつもの憎まれ口とは響きがまるで違った。
振り向くと、妖精専用の出入口から、ルルが転がり込むようにして入ってくるところだった。両腕に、自分と同じくらいの大きさのものを抱えている。
「ルル、どうし――」
言葉が、途中で止まった。
ルルが抱えていたのは、もう一人の妖精だった。
羽は何か所も裂けていた。細い腕に、深い傷が一筋走っている。服は泥と、乾きかけた血で汚れていた。まぶたはかたく閉じられ、胸がかすかに上下しているのが、かろうじて分かる程度だった。
「庭の端に落ちてたんだ。ここまで飛んできて、力尽きたみたいで……っ」
「メアリー!」
ラヴェリナの声に、隣の部屋からメアリーが飛んできた。
「はい!」
「ぬるま湯と、清潔な布! 一番やわらかいのを!」
「すぐに!」
妖精用の小さな寝台に、傷ついた妖精をそっと横たえる。メアリーが運んできた湯に布を浸し、傷口のまわりの泥を、少しずつ拭っていく。指先が震えそうになるのを、ラヴェリナはどうにか押さえ込んだ。
「大丈夫? 聞こえる?」
返事はない。まぶたも動かない。
周りでは、離れの妖精たちが息をひそめて寝台を取り囲んでいた。いつもは騒がしいポロでさえ、黙って両手を胸の前で握りしめている。
「……どうしよう」
人間用の薬が妖精に効くのかも分からない。魔力玉を口元に近づけても、飲み込む力すら残っていなかった。
「かわいそう……」
すぐ隣で、リアが小さくつぶやいた。
いつの間にか寝台の横に膝をついて、傷ついた妖精をじっと見つめている。
「すごく、痛そう……」
「うん」
「早く、治って……」
リアの手が、そっと寝台へ伸びた。触れるか触れないかのところで、指先が止まる。
「お願い。早く治って」
その瞬間だった。
「……え?」
リアの手のひらから、淡い光がこぼれた。
春先の陽だまりのような、やわらかな金色。
ランプの灯りとも、魔石の光とも違う、どこか体温を感じさせる光だった。それが静かに広がって、小さな体を包み込んでいく。
「……傷が」
メアリーが息を呑んだ。
腕に走っていた深い傷が、端のほうから少しずつ閉じていく。裂けていた羽の縁が、糸を紡ぐようにつながっていく。泥の下の青白い肌に、ゆっくりと血の気が戻ってくる。
光が消えたとき、寝台の上の妖精は、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。
誰も、しばらく口をきけなかった。
いちばん驚いていたのは、リア本人だった。
自分の手のひらを見つめたまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
「……今の、なに?」
「リア!」
ラヴェリナは、その両手をがしっとつかんだ。
「すごい! すごいよ! 今の、癒やし魔法だよ!」
「いやし……まほう?」
「そう! すっごく珍しい魔法! 本にも、使える人はほとんどいないって書いてあったやつ!」
頭の中で、前世の自分が総立ちで拍手していた。
「来た……! ラノベ展開……!」
「らのべ……?」
「なんでもない!」
ぶんぶんと首を振ってから、ラヴェリナはふと思い当たった。
「……ねえ、リア。前に、小鳥のお世話をしたことがあったよね。生け垣の下で見つけた、飛べなくなってた子」
リアが、はっと顔を上げた。
リアがこの家に来た最初の夏、本邸の生け垣の根元でうずくまっていた灰色の雛。片方の翼が変な角度に垂れていて、覗き込んだ庭師は言いかけた言葉を呑み込んだ。
リアは柔らかい布を敷いた籠でその子を世話し、毎晩眠る前に、両手でそっと包んでいた。
――こうしてると、この子、ふるえなくなるの。
七日目の夕方、小鳥は楡の木の下でリアの手から空へ帰っていった。
骨まではいってなかったのかもしれない、と庭師は首をひねり、それで話は終わった。ラヴェリナも、リアの手はいつもほかほかと温かいな、と思っただけだった。
「あのとき……毎晩……」
リアは、もう一度自分の両手を見下ろした。あの夜ごと、小鳥を包んでいた手だ。
「……もしかして、あれも……?」
その指先が、かすかに震えていた。
そのとき、寝台の上から、かすれた声が聞こえた。
「……たすけて」
傷の癒えた妖精が、うっすらと目を開けていた。
「なかま……」
今にも消え入りそうな声で、それでも必死に、言葉を押し出す。
「仲間を……助けて……」
◇ ◇ ◇
水を少しずつ飲ませ、砕いた魔力玉を口に含ませ、ようやく体を起こせるようになるまで待ってから、ラヴェリナはそっと尋ねた。
「あなた、名前は?」
「……ピピ」
「ピピ。どこから来たの?」
「遠い、森。……人間が、辺境伯って呼んでるところ」
ラヴェリナの表情が変わった。
辺境伯領。
少し前、スタンピードの報せを受けて、アイリスが急ぎ帰郷していった場所。
防水加工液を持たせたのも、ついこの間のことだ。届いた手紙には、避難所の天幕が雨を弾いて助かった、とぶっきらぼうな字で書いてあった。
「そんなに遠くから、どうして一人で?」
「助けて、ほしくて……」
ピピの小さな肩が震えた。
「仲間が……変わっちゃったの」
「変わった?」
「闇に、飲まれた」
ラヴェリナは、息を止めた。
闇に飲まれる。
力が暴走して、正気を失う。
前世で読んだ物語なら、いわゆる闇落ちだ。
「お姉様……?」
「ごめん、リア。……ピピ、続けて」
「力が、止まらないの。ずっと怒ってるみたいに、泣いてるみたいに……そのせいで、森の魔力がぐちゃぐちゃになって」
ピピは、ぎゅっと自分の膝を抱えた。
「魔物たちも、おかしくなって。みんな、森から逃げ出して……」
ゆっくりと、ラヴェリナは顔を上げた。
森の魔力の乱れ。正気を失った魔物の群れ。森から溢れ出す。
「それって……今、辺境伯領で起きてるスタンピード……?」
「人間がそう呼んでるのは、たぶん、それ」
部屋の空気が、音もなく変わった。
防水加工液は、確かに役に立った。
天幕も、外套も、物資も守った。
けれどそれは、降ってくる雨に傘を差していたにすぎない。どうして雨が降っているのか、誰にも分からなかったのだ。
その答えが、今、目の前の小さな寝台の上にいる。
ラヴェリナは立ち上がった。
「クロード!」
「はい、お嬢様」
戸口に控えていた老執事の顔からは、いつもの澄ました余裕まで消えていた。
「お父様を呼び戻して」
「旦那様は、ただいま王宮においでです」
「分かってる」
「……緊急、と申し上げてよろしいですか」
「うん」
ラヴェリナは、はっきりとうなずいた。
「緊急。すぐに戻ってきてほしいって、伝えて」
「承知いたしました」
◇ ◇ ◇
その頃、王宮の一室で、ギルベルトは王太子と向かい合っていた。
防水加工液の軍への配備について、運用の詰めを行う場だった。
扉が叩かれたのは、話がちょうど一区切りついたときだった。
「ローデンベルク公爵閣下。お屋敷より、ラヴェリナお嬢様からの伝言でございます。至急お戻りいただきたい、と。緊急とのことです」
ギルベルトの顔から、表情が消えた。
娘は、何があってもだいたい「大丈夫です!」と言う。お茶会で飲み物をかけられても、アカデミーで衣装を破られても、離れに二十を超える妖精が住み着いていても、それで片づけてきた娘だ。
ただ事であるはずがない。
そして、おそらく――自分一人の手には負えない。
「殿下。娘が緊急で呼び戻すなど、これまで一度もなかったことです。何が起きたのかは分かりませんが、私一人では対処できぬ事態かもしれません。……ご同行をお願いできますか」
王太子はわずかに目を見開き、ほとんど間を置かずにうなずいた。
「分かりました。同行しましょう」
◇ ◇ ◇
馬車が動き出してから、公爵は一度も口を開かなかった。
膝の上で組んだ指が、ときおり白くなるほど握り込まれる。窓の外を流れる王都の景色も王太子のことも、おそらく目に入っていない。
王太子には、聞きたいことがいくつもあった。ラヴェリナ嬢が八歳で自ら移り住んだという離れのこと。防水加工液も布用接着剤も、たぶんそこで生まれた。
数日前、公爵がひと晩で別人のようにやつれて登城してきた理由も、あそこにあるはずだ。
口を開きかけて、閉じた。二度目も閉じた。今の公爵に投げていい問いではない。
着けば分かるだろう。そう考えて、窓の外へ目を移した。このときの自分の想像力がずいぶん控えめだったことを、王太子は半刻もしないうちに思い知る。
◇ ◇ ◇
離れは、外から見る限り、こぢんまりとした普通の館だった。周りで職人たちが縄を張っているが、改修工事くらいどこの屋敷でもやっている。
応接室を抜けた奥の扉の前で、公爵が当然のように靴を脱いだ。
「……公爵?」
「ここから先は土足禁止です。殿下も、こちらを」
差し出されたのは、踵のない布張りの履物だった。
屋敷の中で、土足禁止。
公爵家当主の所作があまりに自然で、王太子は一瞬、自分のほうが作法を知らないのではないかと思いかけた。問いを飲み込んで、履き替える。
「……軽いですね」
「そうでしょう」
「慣れていらっしゃる」
「……最近、慣れました」
扉を開けたとたん、頭より高いところから甲高い声が降ってきた。
「パパさん!」
「パパさん、こっちー!」
「ラヴェリナ、こっちだよ! 早く早く!」
手のひらほどの人の形をしたものが、光を透かす薄い羽を震わせて飛んでいた。一人ではない。廊下の奥から、二人、三人と湧いて出てくる。
王太子の足が止まった。
書物によれば、一生に一度見られれば幸運という存在だ。それが群れをなして、この国でも指折りの権力者を「パパさん」と呼んで急かしている。
「分かった。案内してくれ」
公爵はごく普通に返事をして、もう歩き出していた。
慌てて後を追う王太子の顔の前に、一人がくるりと引き返してきて、ぴたりと止まった。大きな瞳が、まじまじとこちらを見る。
「だれ?」
「知らない人!」
「パパさんのお友達?」
生まれて十四年、面と向かって「知らない人」と言われたのは初めてだった。名乗らずとも道が開くのが、これまでの当たり前だったのだ。
「王太子殿下だ」
公爵が、振り返りもせずに言った。
「おうたいし?」
「えらい人?」
「たぶん!」
たぶん。王太子の身分は、妖精たちの間で「たぶんえらい人」に落ち着いたらしい。
奥まった一室に飛び込むと、小さな寝台を囲んで妖精たちが輪を作っていた。そのそばに、ラヴェリナと義妹のリア嬢、侍女、老執事の姿がある。
「ラヴェリナ!」
「お父様!」
振り返ったラヴェリナ嬢は、青ざめてもいなければ泣いてもいなかった。それどころか、瞳が異様なほど輝いている。
「リアが、癒やし魔法を発動させたの!」
「……何?」
「癒やし魔法! 手からぱあって光が出て、傷がね、みるみるうちに――」
「待て。まず、落ち着け」
「落ち着いてます!」
「その顔で言うな!」
王太子の頭は、まだ妖精のところで止まっていた。
癒やし魔法の発現となれば、それだけで王家が把握すべき案件だ。ただ、当の姉のはしゃぎ方が、事の重さとまるで噛み合っていない。
公爵に促されて、ラヴェリナ嬢が経緯を話し始めた。
「まず、ここに住んでる妖精のルルが――」
住んでいる、とさらりと言った。
公爵は、驚いているようには見えない。
その事実を受け入れているようだ。
「傷だらけの妖精を連れて帰ってきて、みんなで手当てしてたの。リアが『早く治って』って祈ったら淡い光が妖精を包み込んで傷が治っていったの」
リア嬢は、自分の手を胸の前で握りしめたまま、戸惑ったようにうなずいた。何が起きたのか、いちばん分かっていないのは本人のようだった。
公爵が額を押さえた。王太子も押さえたかったが、王太子なので我慢した。
「それでね、ここからが本題なんです」
「……まだ本題ではなかったのか」
ラヴェリナ嬢の声から、ふっと浮ついた響きが消えた。
「傷が治った子――ピピっていうんですけど――が、仲間を助けてほしいって。辺境伯領の森から来たそうです。向こうの森で、妖精の一人が闇に飲まれて、力が暴走してる。そのせいで森の魔力が乱れて、魔物たちがおかしくなってる。……今、辺境伯領で起きているスタンピードは、たぶん、それが原因です」
部屋から、音が消えた。
あれほど騒がしかった妖精たちまで、息をひそめている。
辺境伯領。
その地名で、王太子の頭の中に散らばっていた断片が、一斉に並び替わった。発生の経緯がどうにも不自然だったスタンピード。
原因の見えない魔力の乱れ。
一笑に付せる話ではない。
「……確認するぞ」
公爵の声が、低くなった。
「国境を脅かしているスタンピードは、妖精の力の暴走が原因かもしれない。その妖精は辺境伯領の森の奥にいる。そして、そこの子が場所を知っている」
「はい」
公爵は、今度こそ両手で頭を抱えた。
「お父様? 大丈夫ですか?」
「……大丈夫では、ない」
そのとき、ラヴェリナ嬢が小さく首を傾げた。
「……あれ?」
彼女の視線が、公爵の肩越しに、王太子の顔の上で止まった。
目が合った。
ラヴェリナ嬢の顔が、ぴたりと固まる。
王太子も何も言わなかった。
沈黙が、たっぷり三呼吸分続いた。
「……殿下?」
「うん」
「……いつから、いらっしゃいました?」
「最初から」
ラヴェリナ嬢は、ゆっくりと父親を振り返った。
「お父様! 殿下がいるじゃないですか!」
「いるな」
「言ってくださいよ!」
「忘れていた!」
「忘れる!?」
「お前が緊急と言うからだ!」
道理で、馬車の中でも廊下でも、何ひとつ説明がなかったわけだ。
ラヴェリナ嬢は、もう一度こちらへ向き直った。
「……今の話、全部、聞いてました?」
「聞いてたよ」
ラヴェリナ嬢は目を閉じた。
眉間の皺が忙しく動く。
ごまかしようがないことを、高速で確かめているらしい。――そして、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ話が早いです!」
早い?
「そういうことなんです! なんとかなりませんか?」
王太子は、言葉を失った。
土足禁止の離れも、
二十を超える妖精が住んでいることも、
義妹の癒やし魔法も、
闇に飲まれた妖精も、
国境のスタンピードも、
彼女は全部まとめて「そういうこと」で片づけて、そのうえで「なんとかなりませんか」と言ったのだ。
思わず公爵を見ると、公爵もこちらを見ていた。
その目が、はっきりと言っていた。
――だから、お連れしたのです。
なるほど、と腑に落ちた。
この「緊急」は、確かに公爵家ひとつの手に負える話ではない。
「……分かった」
王太子は、頭の中で順番を組み立てた。
「公爵、辺境伯へ急ぎの使いを。詳細は追って送る、と」
「クロード」
「承知いたしました」
老執事が一礼して、音もなく部屋を出ていく。
「それから、その子から直接話を聞きたい。闇に飲まれた妖精がどこにいて、今どんな状態なのか。魔物に影響が出始めたのはいつ頃か。報告書の日付と突き合わせたい」
「はい! お願いします!」
ラヴェリナ嬢は、ほっとしたように笑った。
「よかったぁ……。あ、でも殿下、大丈夫ですか? ちょっと固まってましたけど」
「……情報が多かっただけだよ」
「ああ!」
ラヴェリナ嬢は、ぽんと手を打った。
「お父様も、この前そうなってました!」
「一緒にするな」
公爵が、遠い目のまま即座に言った。
「同じ顔してますよ?」
「していない」
たぶん、している。
自分は今、数日前の公爵と同じ場所に立っているのだ、と王太子は気づいた。
ひと晩であそこまでやつれていた理由が、ようやく分かった。確かに、これは疲れる。
そのくせ、不思議と嫌な気分ではなかった。この離れには、まだ知らないものがいくつも眠っている。それをひとつずつ確かめてみたい気持ちが、疲労と同じくらいの重さで胸の底に溜まっていた。
「ラヴェリナ嬢。スタンピードの件が片付いたら――」
「はい?」
この離れを、もう少し見せてほしい。
言いかけて、やめた。
今それを口にするのは、王太子として順番が違う。
「……いや、何でもない」
寝台の前へ歩み寄ると、足元で室内履きが、ぱふ、と間の抜けた音を立てた。寝台の上では、傷の癒えたばかりの小さな妖精が、大きな瞳でこちらを見上げていた。




