第3話 妖精、押し切られる
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その日、泉のほとりに棲む妖精は、生まれて初めて「人間の子供は怖い」と知ることになる。
この泉は、妖精のお気に入りの場所だった。
他の仲間たちは、もっと森の奥、花の多い谷の方に集まって暮らしている。
ここを気に入り、ひとりで居つき、何度目かの夏を過ごしていた。水は澄んでいるし、木漏れ日は昼寝にちょうどいい、たまに流れてくる木の実の匂いも悪くない。静かで平穏な生活だ。
いつもと変わらない昼下がり。泉に張り出した枝の、陽の当たる葉の上を寝床にして、うたた寝していたら、ばしゃばしゃと耳障りな水音が聞こえてきた。
見下ろすと、人間の女の子が泉に足を突っ込んでいた。
森に人間が迷い込んでくることは珍しくない。狩人も来るし、道に迷った旅人も来る。しかし、たいていは妖精がいることに気づかないし、気づいても、目をこすって「疲れているのかな」と首をひねるか、恐る恐る声をかけてくるくらいのものだ。
けれど、泉に足を突っ込み、掻き回し、静寂をぶち壊して平気な顔をしている人間は初めてだ。
だから一言、文句を言ってやった。水が濁るからやめろ、と。
それが間違いだった。
この女の子は、怯えるどころか、にやりと笑って、さらに派手に水を蹴り上げ始めたのである。腹が立って飛び出したら、今度は目が合った。その目が、大きく見開かれ輝きを増した。
「……本物」
女の子が呟いた瞬間、妖精の背中を、ぞわっと嫌な予感が這い上がる。羽根が勝手に震え始め、体が半歩ぶん後ろへ下がった。
しかし、遅かった。
「本物の、妖精だぁぁぁぁ!」
「うわっ!?」
女の子は、勢いよく泉から足を引き抜いて、立ち上がった。その勢いで、冷たい水しぶきが妖精の頭にかかる。
「すごい! 本当にいた! 羽根がある! 飛んでる! 透けてる! 思ってたよりちゃんと人の形してる! ねえねえ、その羽根ってどうやって動いてるの? 魔力? それとも普通に羽ばたいてるの? 妖精って何を食べるの? どこに住んでるの? ほかにもいるの?」
「ちょ、ちょっと待て!」
「しゃべった! 言葉が通じる!」
「聞けよ!」
女の子は、両手を胸の前で握りしめ、頬を真っ赤にして、妖精の頭のてっぺんから爪先までを穴があくほど見つめてくる。
なんだこいつ、と妖精は思った。
妖精には、人間を追い払うためのちょっとした術がある。風もないのに木の葉をざわめかせて、大きな獣が潜んでいるように見せかけるのだ。大人の狩人でも、たいていはそれで青い顔をして引き返していく。
妖精は両手を振り上げ、頭上の枝をざわざわと鳴らしてみせた。
「わあっ! 今の魔法!? 妖精の魔法!? もう一回やって!」
拍手された。
逆効果だった。
そして女の子は、裸足のまま一歩、前に出た。
「ねえ、その羽根、触ってもいい?」
「寄るな!」
一歩。
「痛いとか、ちゃんと感じる?」
「寄るなって!」
さらに一歩。
「妖精って夜は寝るの? 寿命は何年くらい?」
「近づいてくんなって言ってんだろ!」
一歩下がると、一歩詰める。もう一歩下がると、また詰める。気づけば泉のまわりで、追いかけっこが始まっていた。
「待って! 逃げないで!」
「逃げるにきまってる!」
「私、妖精に会うのがずっと夢だったの!」
「知らねーよ!」
「前世から!」
「前世ってなんだよ!」
「説明すると長いから、今度話すね!」
「今度がある前提で話すな!」
怖い。
人間の大人の狩人に弓を向けられたことはある。けれど、こんなに全力で迫られたことはなかった。しかもまだほんの小さな子供に。悪意がひとかけらもないのが、かえって始末に負えない。
妖精は泉の上へ逃げた。水の上なら追ってこられまいと思ったのだ。
すると、女の子は泉のふちで立ち止まり、少し考えた後、スカートの裾を両手でつまみ上げ、ためらいなく泉に踏みこんだ。
「冷たっ! でも浅い! いける!」
「いけない! 戻れ! 濁る!」
ざぶざぶと水の中を迫ってくる女の子に、妖精は悲鳴を上げて岸へ引き返した。泉の水は、泥が舞い上がり白く濁っていた。明日の水浴びは諦めるしかなさそうだった。
「羽根がすっごく綺麗!」
「褒めてもダメだ!」
「髪もくしゃくしゃで可愛い!」
「それ褒めてんのか!?」
「目も綺麗!」
「怖い怖い怖い!」
背中が、ごつんと何かにぶつかった。
後ろを振り返ると木の幹まで追い詰められている。
冷静に考えれば、上へ飛んで逃げれば、子供の手など届くはずもない。しかし、頭の中が真っ白になった妖精は、そんな当たり前のことすら考えられなくなっていた。
「た、頼む!」
妖精は両手を前に突き出した。
「頼むから、それ以上近づくな!」
「えー……」
「えー、じゃない!」
女の子は不満そうに、ぷうっと頬をふくらませ、それから、ふと何かを思いついた顔をした。
妖精はこの短い間に学んだ。嫌な予感しかしない。
「じゃあね」
「……なんだよ」
「私とお友達になってくれるなら、これ以上は近づかないよ」
妖精は固まった。
「……友達?」
「うん!」
女の子は、陽差しを受けた水面よりもまぶしい顔で頷いた。
「私とお友達になって!」
「嫌だ!」
考えるより先に口が動いていた。
「じゃあ近づくね」
「待て!」
一歩。
「待て待て待て!」
もう一歩。女の子の顔が、どんどん迫ってくる。
「近い近い近い!」
「お友達」
「分かった!」
妖精は叫んだ。
「なる! なるから! 友達でもなんでも、なってやるから!」
「ほんと!?」
「本当だ! 本当だから、そこで止まってくれ!」
女の子はぴたりと足を止め、そのまま両手を空に突き上げた。
「やったぁ! 今日から友達ね!」
「はあはあ、やっと止まった……」
妖精は木の幹を背に、ずるずると滑り落ちるように高度を落としていった。こんなに必死に飛んだのは、いつ以来だろう。
目の前では、女の子が約束どおりその場から一歩も動かずに、くるくると回って嬉しそうに喜んでいる。ひらひら波打つスカートの裾からは、濡れた白い足がのぞいていた。
出会ってから、せいぜい数分。
その数分で、泉の妖精は人間の子供の「友達」になっていた。
荒い息がようやく落ち着いてきたころ、妖精はぼんやりと自分の言葉を思い返した。
なる、と言った。
確かに言った。なんでもなってやる、とまで言った気がする。
妖精の友達というのは、森ではちょっとした約束でもある。ひとりで泉に居ついてからこのかた、誰とも交わしたことのないそれを、名前も知らない人間の子供と。……脅されるようにして交わしてしまった。
取り消したい!と思った。
けれど、くるくる回る女の子の嬉しそうな顔を見ていると、その言葉は喉の手前で止まってしまった。
「……なんで俺、友達になるなんて言っちまったんだろう……」
呟きは、はしゃぐ女の子の歓声にかき消され、木漏れ日の中、泉の水面だけが、何ごともなかったようにきらきらと揺れていた。




