第2話 森の泉で出会ったもの
※毎朝7:00に予約投稿更新中
本作は完結まで執筆済みです。
途中で更新が止まることはありませんので、ご安心してお楽しみください。
書庫に通い始めて、ひと月が経った。
この国の歴史。貴族社会のしくみ。魔法の体系。魔物の分類。手当たり次第に読み進めるうちに、はっきりと分かったことがある。
どうやらこの世界は、前世の私が知っているどの物語の舞台でもないらしい。
最初はかなり警戒していた。実はここは有名な乙女ゲームの世界で、私は悪役令嬢。数年後の卒業パーティーで断罪されるんじゃないか。あるいは王道ラノベの世界で、権力を使って民を苦しめたあげく処刑されるんじゃないか、と。
けれど、国の名前にも、王家の家系図にも、魔法の分類にも、記憶に引っかかるものは何ひとつなかった。
「完全オリジナル異世界かぁ……」
分厚い歴史書を閉じて、私は椅子の背にもたれた。
少し残念なような、ほっとしたような。未来の展開を知らない代わりに、決められた破滅もない。自分が悪役令嬢なのか、ただの背景なのか、それすら分からない。
まあ、いいか。
知らない世界なら、知っていけばいい。むしろその方がずっと冒険っぽい。
そう思えるようになったのは、書庫の奥で一冊の本を見つけたからかもしれない。
棚のいちばん下、埃をかぶった革表紙の『古き魔法とその衰微について』。ほとんど誰にも読まれていないらしく、ページを開くたびに紙が乾いた音を立てた。
そこには、今ではもう使い手のいなくなった魔法がいくつも記されていた。その中に、こんな一節があった。
『強き想いは、その場に痕を残す。思念具現化の術は、その痕を拾い上げ、在りし日の姿と声を映し出すものなり』
私は思わず、その一行を三回読み返した。
その場に残った想いを、姿と声ごと映し出す魔法。残留思念とか、そういうやつだ。
「……ロマンすぎる」
ただし説明の続きを読むと、術者の負担が大きすぎて廃れた、とある。七歳児がどうこうできる代物ではなさそうだった。
私は本の題名と、その魔法の名前を、こっそり手帳に書き留めた。
いつか使ってみたいな。いつか、きっと。
◇ ◇ ◇
調べているうちにもうひとつ分かったことがある。
この世界には、本当に妖精が存在している。
森や泉のほとりに棲み、透きとおった羽で飛び、花の蜜や清らかな魔力を好む小さな人々。精霊ほど大きな力は持たないけれど、いたずら好きで、気まぐれで、ときどき人の暮らしのすぐそばに棲みつくこともある――と、少なくとも三冊の本にそう書いてあった。
ときどき、人の暮らしのすぐそばにも。
その一文を読んだ瞬間、私は本を閉じて立ち上がった。
「この屋敷にもいるかもしれない」
公爵家の庭は広い。花壇がいくつもあり、温室があり、噴水がある。誰も手入れをしていない裏の雑木林まである。妖精の一人や二人、住みついていてもおかしくない。
その日から、私の妖精探しが始まった。
朝露の残るうちに花壇をまわり、花びらの裏を一枚ずつ覗いてみたり。薔薇園の隅に生えた茸の傘の下や、噴水の縁の苔の中、温室の鉢の陰も調べた。屋根裏部屋の古い衣装箱の蓋を開け、裏の雑木林の木の窪みを覗けば、妖精ではなく木の実を抱えたリスしかいなかった。
本に「妖精は甘いものを好む」とあったので、寝る前に窓辺へ蜂蜜入りのミルクを置いてみたこともある。しかし、皿に集まったのは黒い行列をつくった蟻だった。
「妖精さーん……いませんかー……」
そして、生け垣に顔を突っこんで呼びかけていたところを、庭師のおじいさんに見つかった。
「お嬢様、そこには毛虫しかおりませんよ」
「……そうですよね」
知りたくなかったけれど、知っている。三日前にも確認した。
侍女のアンナは、日々、泥だらけになって帰ってくる私を見て、最初は笑い、次に首を傾げ、最後には心配そうな顔になった。
「お嬢様。何か、なくしものでもなさったのですか」
「……ううん。探しものです」
なくしたわけではない。最初から、私の手の中にはなかったものだ。
二週間が過ぎても、屋敷のどこにも、小さな羽音ひとつ聞こえなかった。
ある晩、私はベッドの上で膝を抱えて、書庫から借りてきた本をもう一度開いた。
『妖精は人前に姿を現すことがほとんどない。一生のうちに一度でもその姿を見ることができれば、それは大いなる幸運である』
最初に読んだときは、読み飛ばした一文だった。
「……一生に、一度」
声に出してみると、思っていたよりずっと遠い言葉だった。
妖精が棲むという深い森や山へ、七歳の公爵令嬢がひとりで行けるはずもない。屋敷の庭にいないのなら、私にできることはもう何もない。
前世の私は、画面や挿絵の中の妖精を眺めては「本当にいたらいいのに」と何度もため息をついた。今はそれが本当にいると分かっている。分かっているのに会えないのは、いないのと同じくらい――いや、それ以上に、寂しかった。
私は本を閉じて、窓の外を見た。
「……一生に一度なら、まだあと何十年もあるもん」
そう自分に言い聞かせ、明かりを消した。
翌朝から、私は花壇を覗くのをやめた。
◇ ◇ ◇
妖精のことをほとんど考えなくなった、初夏のある晩のことだった。
「ラヴェリナ、森へピクニックに出かけないか」
夕食の席で、兄のレオンハルトがそう言い出した。
私より八つ年上の十五歳。背がぐんと伸びて、最近は父に似てきたと使用人たちが噂している。来月からは隣国の学院へ留学することが決まっていて、この夏は屋敷で過ごす最後の季節だった。
「しばらくラヴェリナとも遊んでやれなくなるから、その前に弁当を持って、一日のんびりしに行こうよ」
「行きます! 行きたいです!」
私は椅子から身を乗り出した。来月には大好きな兄と離れ離れになる。その前に兄と一日遊べるのが嬉しかった。
兄が領地の東にある森の名前を挙げると、スープを口に運んでいた父の手が止まった。
また仕事の考え事かな、と思ったとき。
「……その森なら、私も行こう」
私と兄は、揃って父の顔を見た。
父が家族の外出についてくるなんて、少なくとも私の記憶にある限り初めてのことだった。
◇ ◇ ◇
ピクニック当日は、雲ひとつない快晴だった。
森の入口近くの草地に敷物が広げられ、護衛の騎士や使用人たちの手で、料理やお菓子が次々と並べられていく。
その間、父はひとりで少し離れたところに立ち、森を見ていた。
風が枝を揺らすたび、木漏れ日が父の肩の上でちらちらと形を変える。いつもは執務室の机に向かっている背中が、今日はなんだか小さく見えた。
「お父様?」
そばに寄って袖を引くと、父はしばらく森を見つめたまま、低い声で言った。
「ここは、お前の母が好きだった森だ」
私は、父の横顔を見上げた。
「エレノアはよく、ここで一日じゅう木を眺めていた。何が面白いのかと聞いたら、木の数だけ物語がある、などと言ってな」
屋敷の廊下に飾られた、肖像画の中の優しい微笑みを思い出す。
私の母が、ここに座っていた。母と同じ景色を見て、同じ風の匂い嗅ぎ、同じ頬をなでる柔らかな風を感じる。
「……私も、好きになれそうです」
そう言うと、父は少しだけ目を細め、大きな手で私の頭を一度だけ撫でた。
それきり何も言わなかったけれど、その手は温かかった。
◇ ◇ ◇
お昼を食べ終えると、父は騎士団長と何やら話しこみ、兄は護衛の若い騎士に剣の型を見てもらい始めた。
「ラヴェリナ、あまり遠くへ行くなよ」
「はーい」
元気よく返事をして、私は草地の端で花を摘むことにした。母が好きだった森の花で、父の執務室に飾る花束を作ろうと思ったのだ。
白い小さな花を一輪。その先に、薄紫の花がもう一輪。少し奥に、見たことのない星形の黄色い花。
夢中になっていると、目の前を青い蝶がひらりと横切った。
羽の縁が、陽に透けて銀色に光っている。前世でも見たことのない色だった。
「待って……!」
気づけば、花を握ったまま蝶を追いかけていた。木の根をまたぎ、低い枝をくぐり、斜面を下る。蝶はからかうように、私の手が届くか届かないかのところをひらひらと飛んでいく。
そして、ふっと木漏れ日の中に溶けるように見えなくなった。
「……あれ? ここどこ?」
立ち止まって、振り返る。
木。木。木。
どちらから来たのか、まるで分からなかった。
「お兄様ー、お父様ー」
呼んでみても、返ってくるのは遠い鳥の声だけだ。さっきまで聞こえていた大人たちの笑い声も、食器の触れ合う音も、いつの間にか消えていた。
背中がすうっと冷たくなる。
大丈夫。落ち着け、私。前世では、迷子になったらその場を動かないのが鉄則だった。……でも、ここは道も看板もない森の中で、日が暮れたらどうなるのか、七歳の頭ではうまく想像ができない。じわじわと恐怖が湧いてきて、花束を握りしめた手に力が入る。
そのときだった。
木々の隙間の向こうで、何かがきらりと光った。
すがるような気持ちで枝をかき分けると、ふいに視界が開けた。
「わぁ……」
小さな泉があった。
そこだけ木々がぽっかりと途切れて、丸く切り取られたそこから、陽の光が降りそそいでいる。水面はその光を受けて、きらきらときらめいていた。鳥の声も遠く、まるでここだけ森から切り離された秘密の部屋のようだった。
明るい場所に出ただけで、恐怖が少し和らいだ。
ここなら視界がひらけている。誰かが近くまで来れば、気づけるかもしれない。
歩き疲れた足がじんじんと痛んだ。私は泉のほとりに座りこみ、靴と靴下を脱いで、そうっと足先を水に浸した。
「つめたっ!」
思わず声が出た。でも、火照った足には気持ちいい。
足をぶらぶら揺らすと、水面に小さな波紋が広がった。心細さをごまかしたくて、前世の鼻歌を歌いながら、だんだん大きく足を動かしてみる。ぱしゃ、ぱしゃ。ばしゃばしゃばしゃ。
「足をバタつかせるんじゃねー!」
「……ん?」
私はぴたりと動きを止めた。
今、何か聞こえたような。
きょろきょろと周囲を見回す。誰もいない。
「気のせい……?」
もう一度、足を動かしてみる。
ばしゃばしゃ。
「泉でバタバタすると水が濁るじゃねーか!」
今度は、はっきり聞こえた。
子供のような、けれど子供よりずっと甲高くて、ちょっとだけ口の悪い声。
「誰?」
返事はない。木の陰にも、茂みの中にも、泉の向こう岸にも、人影はない。
心細さはいつの間にか、どこかへ消えていた。
両足を、思いきり蹴り上げる。
ばしゃばしゃばしゃばしゃ!
「だからやめろって言ってんだろーっ!」
「いたっ!」
目の前に、何かが勢いよく飛び出してきた。
最初は大きな虫かと思った。でも、違う。
私の手のひらより少し大きいくらいの、小さな小さな人の形。小さな手と、小さな足と、くしゃくしゃの髪。背中では、光を透かす薄い羽根が忙しなく動いている。
その小さな存在は腕を組み、ものすごく不機嫌そうな顔で私を睨みつけていた。
花壇にも、茸の下にも、噴水にも、屋根裏にもいなかった。一生に一度と言われて、あきらめて、窓辺の皿を片づけた。
そのあきらめたはずのものが、今、目の前で怒っている。
「……妖精」
ぽつりと呟いた瞬間。
私の中の喜びのメーターが、盛大に振り切れた。




