第29話 王太子視点――一晩で疲れ切った公爵
翌日の午後、ローデンベルク公爵は再び王宮に姿を見せた。
昨日の場で確かめられたのは、防水加工液の大まかな性質と、その製法がローデンベルク公爵家で管理されているということまでだ。
今日はその先、もっと現実的な話をする。
軍用にするのか、災害への備えにするのか。
どれだけの量を、どれだけの費用で作れるのか。
権利は誰が持ち、利益はどう分けるのか。
華やかさの欠片もない議題だが、国を動かすのはだいたいこういう話だ。僕も父上に言われて、昨日と同じ席に着いていた。
「失礼いたします」
扉が開き、公爵が入ってくる。
僕は思わず、その顔を見た。
「本日はお時間を頂戴し、ありがとうございます、陛下」
「いや、こちらこそ二日続けて呼び立ててすまない」
「とんでもございません」
受け答えに淀みはない。姿勢も、服装も、一分の隙もない。いつも通りのローデンベルク公爵だ。
ただ、疲れていた。
それも、目に見えて。
昨日の公爵は、疲れてなどいなかった。娘が自分に黙って防水加工液だの布用接着剤だのを作っていたと知って、険しい顔はしていた。
特にラヴェリナ嬢が
「バレないようにきちんとしてましたから!」と、あの致命的な慰め方をした直後には、はっきりと表情が切り替わっていた。
帰ったら徹底的に聞く、という顔に。
だから、昨夜のうちに事情聴取が行われたのは間違いないだろう。
問題は、なぜ聴取した側がこんなにも疲れているのか、だ。普通は逆ではないだろうか。叱られたラヴェリナ嬢がぐったりしているなら分かる。
けれど今、僕の目の前にいるのは父親の方で、昨日と比べて明らかに目元に疲れが滲んでいる。王国屈指の権力者の肩が、ほんの少しだけ落ちている。
「ローデンベルク公爵」
父上が、書類を手にしたまま声をかけた。
「少し疲れているようだが、大丈夫か」
やはり父上も気づいたらしい。
「問題ございません」
即答だった。ただ、その声には、微妙に芯がない。
「そうか。昨日は、帰ってから娘と話をすると言っていたな」
「……はい」
「話したのか」
「……はい」
何だ、今の。
やけに含みのある「はい」だった。二回目の方が、一回目より明らかに長い。
「何か問題でもあったか」
「問題……と申しますより」
公爵はそこで黙った。
珍しい、と僕は思った。
この人は、政治の場では余計なことを口にしない。必要なことだけを、必要な分だけ、簡潔に答える。何度か会議で同席したことがあるが、言葉を探して黙り込む姿など見たことがない。
そのローデンベルク公爵が、言葉を選んでいる。
「娘について、私の知らないことが」
「うん」
「想像していた以上に、多かっただけでございます」
父上は、少しだけ目を細めた。
「それで、その顔か」
公爵は否定しなかった。
僕は、昨日のラヴェリナ嬢を思い出していた。防水加工液、布用接着剤。公爵の口ぶりでは、それ以外にもまだ何かあるようだった。
何を作っているんだ、あの娘は。
気にならないと言えば嘘になる。
けれど、ここで僕が「何があったんですか」と身を乗り出すのは違う。婚約者候補の家庭の事情に、興味本位で首を突っ込むわけにはいかない。
いや、興味本位ではない。婚約者候補の状況を把握しておくのは、王太子として必要な――。
そこで、僕は考えるのをやめた。
最近の僕は、何でもかんでも「王太子として必要」ということにすれば、だいたい理由がついてしまう。便利すぎる言葉は、たいてい危ない。
僕は黙って、紅茶に口をつけた。
◇ ◇ ◇
「では、昨日の続きといこう」
父上がそう言うと、宰相が書類を広げた。
「辺境伯領からの評価を改めて整理いたしますと、前線の物資の保護、騎士用外套、避難用の天幕、地図・書類・薬品の保護。この四点において、効果が確認されております」
「王家としては、軍と災害対策の備蓄に、この加工を取り入れられないか検討したい」
父上の言葉に、公爵が頷く。ここからは、いつもの公爵の顔だった。
「承知いたしました」
「ただ、大量に作れるかどうかだな。原料は、テテクの樹液だったか」
「そのように聞いております」
僕は昨日の詳細が記された書類を思い出す。希釈の割合、生地ごとの違い、失敗の記録。あれだけの試験を、離れでやっていると。
そういえばラヴェリナ嬢は、本邸ではなく離れで暮らしている。前にどこかで聞いたことがあった。公爵が再婚したとき、新しく来た義母と義妹が屋敷に馴染みやすいように、自分から離れへ移ったのだと。
公爵の再婚相手が、騎士団時代の親友の未亡人だということも、宮廷では知られた話だ。
アルバート・ローウェル卿。八年前、グランツ辺境伯領の魔物討伐で、部下をかばって亡くなった騎士
だ。
父上が一度、惜しい男を亡くした、と漏らしていたのを覚えている。
そのグランツ領で、今、ラヴェリナ嬢の防水加工液が雨を弾いている。巡り合わせ、という言葉が頭に浮かんで、僕はそれを口には出さずにしまっておいた。
ともかく、その離れだ。
八歳の女の子が、家族のために自分から移り住んだという、ささやかな美談の舞台。そう思っていた場所で、防水加工液が生まれ、布用接着剤が生まれ、さらに父親が一晩でこれほど疲れるほどの「何か」がある。
何をしているんだ、あそこで。
「製造量についてですが」
宰相が、実務の話を続ける。
「辺境へ送られた量から考えますと、ある程度の確保は可能と見てよろしいでしょうか」
「はい」
公爵は落ち着いて答えた。
「娘に確認したところ、原料のテテクは王都周辺の森にも自生しております。ただ、大規模に用いるのであれば、採りすぎによる枯渇を考えねばなりません。採取する地域の管理、栽培が可能かどうか、樹液を採った後の木への影響。そこから確かめる必要がございましょう」
「なるほど。そこまで見ておられるなら話が早い」
宰相が感心したように頷くのを横目に、僕は公爵の顔を見ていた。
昨日の時点で、この人は「詳細を把握しておりません」と言っていた。それが一晩で、原料の自生地から木への負担まで語れるようになっている。
つまり昨夜、相当な量を聞いたわけだ。
ラヴェリナ嬢、どれだけ何を喋ったんだ。
◇ ◇ ◇
その後も話し合いは、順調に進んだ。
防水加工液の製法は、引き続きローデンベルク公爵家が管理する。王家が一方的に取り上げるようなことはしない。軍や公共の用途に供する分については、改めて契約を結ぶ。
原料の安定した確保、製造の設備、品質の管理については、双方から人を出して共同で検討する。
「では、詳細は改めて」
「承知いたしました」
公爵が一礼した、その瞬間だった。
ふう、と。
本当に小さく、公爵が息を吐いた。
仕事の疲れではない。おそらく、昨夜の家庭内事情聴取の後遺症だ。
父上も、同じことを思ったらしい。
「公爵。今日は早めに帰った方がいいのではないか。顔に出ているぞ」
「申し訳ございません」
「謝ることではない」
父上は、少し笑った。
「ラヴェリナ嬢との話し合いは、それほど大変だったか」
公爵は、また黙った。
それから、慎重に口を開いた。
「陛下」
「何だ」
「娘は、私が思っていた以上に」
「うん」
「……自由に、育っておりました」
僕は危うく吹き出しかけて、奥歯を噛んでこらえた。
自由。
確かに、これ以上ないくらいラヴェリナ嬢に似合う言葉だった。
「悪いことをしていたわけではないのだろう」
「それが」
「違うのか」
「いえ」
公爵は、ゆっくりと首を振った。
「悪いことは、何ひとつしておりません」
「なら、いいではないか」
「むしろ」
少しの間があった。
「どれも、妙に合理的で。そして、役に立つのです」
父上が、声を立てずに笑った。
「それなら結構なことではないか」
「陛下」
「何だ」
「それが、いちばん困るのです」
「なぜだ」
「止める理由がありません」
今度こそ、父上は声を上げて笑った。
執務室の窓硝子がかすかに震えるような、豪快な笑い方だった。
「なるほど、なるほど。それは大変だ」
「ご理解いただけて何よりでございます」
公爵の返事は、心の底から絞り出したような響きだった。
僕はその会話を聞きながら、手元の書類の端をそっと指で押さえていた。そうでもしていないと、身を乗り出してしまいそうだったからだ。
止める理由がない。
役に立つ。
合理的。
自由。
何を見たんだ、この人は。昨夜、あの離れで。
◇ ◇ ◇
公爵が退出したあとも、僕はしばらく閉じた扉を眺めていた。
「どうした」
父上が、書類から目を上げずに訊いた。
「いえ」
「気になるのか」
「何がですか」
「ラヴェリナ嬢のことだ」
返事が、ほんの少しだけ遅れた。
「婚約者候補ですから」
「そうか」
「はい」
父上は書類をめくった。その口元が、妙に楽しそうに緩んでいる。
「何ですか」
「いや」
「何か言いたそうな顔をしています」
「何も言っていないぞ」
「顔が言っています」
「そうか?」
父上は、とうとう書類を置いた。椅子の背にもたれ、公爵が出ていった扉の方を見やる。
「ギルベルトがああいう顔をするのを見たのは、久しぶりだ」
「疲れた顔、ですか」
「困った顔だ」
父上は、少しだけ遠い目をした。
「あいつは奥方を亡くしてから、困った顔をしなくなった。何が起きても眉ひとつ動かさずに片づける。有能な男だが、見ている方は時々、息が詰まった」
僕は黙って聞いていた。僕が物心ついたころには、公爵はもう「寡黙で怖い公爵」だった。
「娘に振り回されて困っている顔なら、いくらでも見たいものだな」
父上はそう言って、また書類を手に取った。
僕も、自分の書類に視線を戻した。
防水加工。辺境での活躍。ローデンベルク公爵家。ラヴェリナ嬢。そして、一晩で疲れ切った父親。
どう考えても、何かある。それも、かなりのものが。
「……離れ、か」
思わず、口からこぼれた。
「何だ?」
「いえ、何でもありません」
慌てて文字を追う。けれど頭の中には、行ったこともない公爵家の離れが、勝手に形を作り始めていた。
防水加工液の瓶が並んだ棚。失敗作の布の山。そこまでは想像がつく。
問題は、その先だ。
あの公爵に「止める理由がない」と言わしめた何かが、あそこにはある。
一度、見てみたい。
ふと、そんなことを思ってしまった。
いや、違う。王家はこれから、ローデンベルク公爵家と防水加工について協議を重ねていく。その技術がどこで、どのように生まれているのかを知っておくのは、王太子として有益だ。
うん。理由はある。十分にある。
「ユリウス」
父上が、書類から顔を上げないまま言った。
「はい」
「見に行きたいなら、口実は自分で考えろ。私は手伝わんぞ」
僕は、ペンを持ったまま固まった。
声に出した覚えはない。
「離れ、か」の一言以外は、何ひとつ。
「……何の話ですか」
「さあな」
父上は涼しい顔で頁をめくった。
どうやら僕の顔は、さっき父上について言ったのと同じくらい、雄弁だったらしい。王太子としては、由々しき問題だ。
僕は咳払いをひとつして、今度こそ真剣に書類へ向き直った。
口実を考えるのは、この書類を片づけてからにしよう。




