第28話 公爵、秘密の離れを見学する
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本作は完結まで執筆済みです。
最終話まで更新が止まることはありませんので、ご安心してお楽しみください。
応接室の奥の扉を抜けると、そこは小さな板張りの間になっていた。
床の一段高くなったところから先に、毛足の長い絨毯が敷かれている。段の手前には、布で作られた履き物がずらりと並んでいた。つま先が丸く、踵のない、見慣れない形だ。
「ここから先は土足禁止!」
娘が、段の手前でくるりと振り返った。
「……そうか」
ギルベルトは足元を見下ろした。屋敷内を靴を脱いで歩く日が来るとは考えたこともなかった。
「これを履くのか」
「うん! お父様のはこれ。お客様用の、いちばん大きいやつ」
差し出された一足は、厚手の紺の布を何枚も重ねて縫い合わせたもので、底には薄い革が当ててあった。
外履きを脱ぎ、足を入れる。
「……軽いな」
「でしょ?」
娘が、心の底から満足そうに笑った。
「慣れると、すっごく楽なんだよ。一日じゅう靴を履いてると足がむくむでしょ? あれがなくなるの。クロードなんて、自分用にもっといいのを作らせたんだから」
「お嬢様」
背後から、老執事が静かに口を挟んだ。
「あれは業務上、必要なものでございます」
「絶対、気に入ってるだけでしょ」
「業務上、必要なものでございます」
ギルベルトは振り返って、クロードの足元を見た。
三十年以上この家に仕えてきた男が履いているのは、黒く艶のある上等な革の一足だった。つま先には、控えめな銀の縫い取りまで入っている。ほかのものより、明らかに格が違う。
「……そうか」
「旦那様」
「何も言っていない」
「恐れ入ります」
まだ一部屋も見ていないのに、すでに何かがおかしかった。
◇ ◇ ◇
「ここが、妖精たちのお部屋!」
廊下の突き当たりで、娘が両手を広げた。
ギルベルトは戸口に立ち、中を覗き込んで――
まず、戸口そのものに違和感を覚えた。扉がない。蝶番の跡だけが、柱に残っている。
「……扉は」
「外した!」
「なぜ」
「妖精たちじゃ、重くて開けられないから!」
理屈は分かる。分かるのだが、公爵家の建物で、妖精が開けられないという理由で扉そのものを取り払う。その発想の順番が、すぐには腹に落ちてこない。
「それとね、こっち!」
娘が窓を指さした。
大きな窓の下の隅、手のひらほどの一角だけが四角く切り取られていた。上には小さな庇がつき、その庇の下に薄い布が垂らしてある。
「ここから、みんな自由に外に出られるの!」
言い終わるより早く、一人の妖精がその布をひょいとくぐって、ひゅんと外へ飛び出していった。数を数える間もなく、別の妖精が外から戻ってくる。
「ただいまー」
「おかえりー」
本当に使っている。
「雨風は入らないのか」
「その布、防水加工してあるから大丈夫! 冬は二重にしてるよ」
妙なところだけ、よく考えられている。
部屋の中には、小さな暮らしがぎっしりと詰まっていた。
棚の上に並んだ手のひらほどの寝台には、端切れで作った布団がかけてある。
胡桃の殻を器にした食卓。
糸巻きを脚にした椅子。
人形の家から持ってきたらしい家具もあれば、明らかに妖精の体に合わせて新しく作られたものもある。
「ここ、寝るとこ!」
「こっちは遊ぶとこ!」
「俺の家、これな」
「わたしのベッド見てー! 花びら入ってるの!」
妖精たちが次々と、自分の持ち場を紹介し始める。
ギルベルトは求められるままに寝台を覗き込み、花びらの詰まった布団を褒め、糸巻きの椅子の座り心地について意見を求められて、答えに窮した。
住んでいる。
伝説の中にしかいないはずの妖精が、自分の屋敷の敷地で、ごく当たり前に暮らしている。
◇ ◇ ◇
「次、アトリエ!」
「まだあるのか」
「あるよ?」
「……聞くのではなかった」
「何か言った?」
「何でもない」
隣の部屋に案内されて、ギルベルトはまた戸口で止まった。
小さな机が、いくつも並んでいた。
その上には紙の束、筆、絵の具の皿、墨壺。
そして机の前で、何人もの妖精たちが夢中になって筆を動かしている。
「そこ、もっと右ー!」
「台詞、ここに入るー?」
「背景まだ終わってない!」
「悪役もっと怖い顔にしろって」
「いま描いてるってば!」
騒がしい。
そして、恐ろしく本格的だった。
一枚の紙が何人もの手を渡り、線が引かれ、影がつけられ、枠の中に文字が書き込まれていく。王宮の書記局でも、これほど分業の行き届いた仕事ぶりはそうそう見ない。
「お父様、これがコミックを作ってるところ!」
「……そうか」
娘の声に、妖精たちが一斉に顔を上げた。
「ラヴェリナだー!」
「新しいお話できた?」
「ねえこれ見て、この顔どう?」
「いい感じ!」
「ほんと?」
そこでようやく、妖精たちの視線が娘の隣へ移った。
「……だれ?」
「でっかい」
「人間」
「人間なのは見れば分かるよー」
娘がぱんぱんと手を叩いた。
「みんな、紹介するね。この人は、私のお父様!」
「「「おとうさま!」」」
二十人を超える妖精の目が、一斉にギルベルトに注がれた。
「ラヴェリナのお父さん?」
「似てる?」
「似てない!」
「ちょっと似てる!」
「どこ?」
「眉間!」
「眉間はラヴェリナがむずかしい本読んでるときとおんなじ!」
ギルベルトは、生まれてこのかた、これほど遠慮なく観察されたことがなかった。国王の御前でさえ、人は彼の顔をまっすぐには見ない。
「ラヴェリナのお父様だから、パパさんだね!」
「パパさん!」
「よろしくね、パパさん!」
「……公爵と呼びなさい」
「パパさん、こっち来てー」
聞いていない。
机の端から、ルルが腕を組んだまま飛んできた。
「俺、ルル」
「先ほど聞いた」
「……そうだった」
ルルは気まずそうに頭をかき、それから机の上の一枚を持ちあげた。
「それ、昨日描き上がったやつ。辺境の話」
描かれていたのは、雨の中で布に霧吹きをかける少女の姿だった。
凛とした目元の娘が、兵士たちの前で胸を張っている。その向こうでは、水の粒が布の上を転がり落ちていた。
「アイリスの手紙に書いてあったこと、みんなで絵にしたの。できたてほやほや!」
グランツの娘か。ギルベルトは、今朝王宮で聞かされたばかりの内容を思い出した。
自分が書類でしか知らないことを、この小さな絵描きたちは、とうに一枚の絵にしていたわけだ。
「お父様、次いこ!」
「もういいのか」
「うん。あとで読めば分かるから」
「読むのか、私は」
「もちろん!」
その言葉に、妖精たちが色めき立った。
「読むの!?」
「どれ読む?」
「俺の描いたやつにしろよ」
「こっちのが面白いよー」
「悪役が出るやつ!」
「パパさん、あとでねー!」
どうやら、読むことはすでに決定事項らしい。
◇ ◇ ◇
次の部屋は、床が違っていた。
一面に、植物を細かく編んだ敷物が隙間なく敷き詰められている。
淡い黄緑色で、表面にはまっすぐな筋目が走っていた。戸口に立っただけで、刈ったばかりの草のような、乾いた青い匂いがふわりと鼻を撫でる。
「これが、先ほど言っていた……」
「畳!」
「たたみ?」
「本物とは、ちょっと違うんだけどね」
「本物?」
「あ」
娘の動きが止まった。
「……本物、とは」
「……理想形!」
「理想形?」
「そう! 私の頭の中の理想形と比べると、まだちょっと違うっていう意味!」
「そうか」
ギルベルトは娘の顔をじっと見た。娘は、すさまじい速さで目を逸らした。
「ここではね、室内履きも脱いで座るの!」
「もう履き替えたが」
「それも脱ぐの!」
「さらに脱ぐのか」
娘がさっさと室内履きを脱いで、ぺたんと床に座り込む。ギルベルトもしかたなくそれに倣った。足の裏に、ひんやりとした感触と、細かな編み目の凹凸が伝わってくる。
後ろからぞろぞろとついてきた妖精たちが、ここぞとばかりに飛び出した。
「こう座るの!」
「寝転がってもいいんだよ!」
「ごろごろできるの!」
「きもちいいよー」
一人がぺたんと座り、一人がごろんと仰向けになる。もう一人はうつ伏せで頬を畳に押しつけ、何人かはそのまま床の上をころころと転がり始めた。端まで転がると壁に当たって止まり、また逆向きに転がってくる。
「パパさん、こうだよー」
「頭から行くと目が回るから、横向きがいいよー」
妖精による、畳の使い方講座だった。
ギルベルトは正座のまま、それを無言で受講した。
「お父様も、寝転がってみる?」
「……座るだけでいい」
「気持ちいいのに」
「今はいい」
「クロードは寝転がったことあるよ」
「お嬢様」
「あるのか」
「業務上必要な確認でございます」
「またそれか」
この離れでは、「業務上必要」という言葉の意味がずいぶんと広いらしい。
◇ ◇ ◇
「次は、読書部屋! ここがいちばん大事!」
「……そうなのか」
ギルベルトの反応は、もはやかなり弱くなっていた。
その部屋は、壁の三面が天井まで届く書棚で埋まっていた。
革装の本もあるが、それより目を引くのは、背に手書きの題名が入った薄い冊子の群れだ。
何百冊あるのか見当もつかない。入口の脇には小さな台が置かれ、その上に帳面が一冊開いてある。
「それは貸出帳! 借りる人はそこに名前と題名を書くの」
何気なく目を落とすと、見覚えのある名前がいくつも並んでいた。
メアリー。
ベティ。
離れ付きのメイドたちの名だ。
そしてその合間に、ひときわ端正な筆跡で、クロード。
しかも、一度や二度ではない。
ギルベルトが無言で振り返ると、老執事は窓の外の空を眺めていた。
そして部屋の中央には、巨大で、柔らかそうな、何か。
「……ラヴェリナ」
「なあに?」
「これは何だ」
「クッションベッド!」
「ベッドか」
「クッション!」
「どちらだ」
「両方!」
説明になっていない。
「お父様用に、予備を持ってくるね! メアリー、手伝って!」
娘は奥の物置へ駆けていき、若いメイドと二人がかりで、大人の背丈ほどもある帆布の塊を引きずってきた。
中に何が詰まっているのか、引きずられるたびに布の擦れ合う、くぐもった音がする。
「はい、座って!」
「……これにか」
「そう!」
ギルベルトは、疑わしげにその塊の端に腰を下ろした。腰を下ろしたとたん、体がどこまでも沈んでいった。
思った以上に柔らかい。腰が落ち、背中が包まれ、膝から下が自然と持ち上がる。
どこにも力を入れていないのに、体のどこも無理をしていない。
「どう?」
「…………」
「気持ちいいでしょ?」
「……悪くない」
「でしょー!」
娘が弾けるように笑い、書棚から一冊の冊子を抜き出して差し出した。
「じゃあ、これ読んで!」
「待て。私は今――」
「コミック! これ、面白いよ!」
押しつけられるまま受け取る。表紙には、髪を結い上げた少女の絵と、題名が書かれていた。
開くと、四角い枠の中に絵が描かれ、人物の口元から伸びた囲みの中に台詞が入っている。
枠から枠へ目を移すだけで、場面が勝手に動いていく。文字だけの本とも、挿絵入りの本とも違う。子供でも読めるし、大人でも止まらない。
「この形式は……」
「読みやすいでしょ?」
「……確かに」
娘は満足げに頷くと、隣のクッションベッドにどさりと寝転がった。
「私はこっち読むー」
まるで自分の寝台のようにくつろいでいる。いや、実際いつもこうして過ごしているのだろう。ギルベルトは仕方なく、ページをめくった。
数ページ進んだところで、眉間に皺が寄った。
「ラヴェリナ」
「なあに?」
「この話、どこかで聞いたような気がする」
「気のせいじゃない?」
「そうか」
さらにめくる。
王宮の茶会。
並んだ令嬢たち。
わざとらしく躓く一人の令嬢。
その手から飛ぶ、ぶどう色の液体。
眉間の皺が、一段深くなった。
「ラヴェリナ」
「なあに?」
「これは」
「創作です!」
早い。答えが早すぎる。
「この、防水加工で飲み物が弾かれる場面だが」
「面白いでしょ?」
「面白いかどうかではない」
「でも、実際よりちょっと脚色してるよ! 本当はあんなに派手に飛び散らなかったし」
「実際?」
娘が、止まった。
ギルベルトは、ゆっくりと顔を向けた。
「……創作です」
「今、実際と言ったよな」
「気のせい!」
「ラヴェリナ」
「お父様、喉渇いてない?」
話題の転換が、強行された。
◇ ◇ ◇
娘が駆け寄った先には、部屋の隅に据えられた白い陶器の箱があった。大人の腰ほどの高さで、上に木の蓋が載っている。
「これが冷蔵箱! 最初に作ったのは小さくて足りなくなっちゃったから、あとで作り直した大きいやつなの。中に氷の魔石が入っててね、木の仕切りで分けてあるの。こっちの段に飲み物を入れておくと、ずっと冷たいままなんだよ」
蓋が持ち上がると、ひやりとした空気が足元へ流れ出した。娘はそこから小ぶりの瓶を取り出し、硝子の器に果実水を注いで差し出す。
受け取った器は、指先がしびれるほど冷たかった。
「それから、これ!」
娘は器に、細く透明な管を一本差し込んだ。
「ストロー!」
「……硝子か」
「そう! こうやって使うの」
娘は自分の器に同じ管を差し、口をつけずに管の端から果実水を吸ってみせた。
「ね?」
「何のために」
「雰囲気!」
理由が急に弱くなった。
「とにかく、飲んでみて!」
言われるまま、ギルベルトは管をくわえて吸った。冷たい果実水が、器を傾けることもなく、まっすぐ口の中へ流れ込んでくる。
「どう?」
「……まあ、楽ではある」
背中は柔らかな塊に支えられ、手には冷えた果実水、膝の上には読みやすい絵物語。
足元には毛足の長い絨毯。窓の外の庭は夕暮れの色に染まり、部屋の中は静かで、ときおり妖精たちの羽音が耳元をかすめていく。
快適だった。
驚くほど快適だった。
本邸の自室より、よほどくつろげるかもしれない。
だが、手元にあるのは、娘の実体験に基づいた疑いの濃厚な防水加工の絵物語であり、目の前を飛んでいるのは、本来人前には滅多に姿を現さないはずの妖精で、しかも一人や二人ではない。
快適さを味わう以前に、頭の中はとうに満杯だった。
「お父様?」
「…………」
「大丈夫?」
「……ラヴェリナ」
「なあに?」
「私は、少し」
「うん」
「頭を整理する時間が欲しい」
娘は少し考えてから、こくりと頷いた。
「じゃあ、私はコミック読んで待ってるね」
「そうしてくれ」
「お菓子も持ってこようか?」
「……頼む」
「はーい!」
ぱたぱたと部屋を出ていく娘の後ろを、何人かの妖精がついていった。
「お菓子ー!」
「クッキー!」
「魔力入りのやつー!」
「いっぱいー!」
遠ざかっていく賑やかな声を、ギルベルトは黙って見送った。
手元の絵物語に、もう一度目を落とす。ぶどう色の液体を弾いて、絵の中の少女が得意げに笑っていた。
娘のことを、自分はほとんど何も知らなかった。夕食の席で毎日顔を合わせ、話を聞いているつもりでいた。だが娘が話していたのは、この扉の手前の話だけだったのだ。
そして、さらに困ったことに。
この離れは、とんでもなく居心地がいい。
ギルベルトは、クッションベッドにもう少し深く沈み込んだ。頭の整理がつくまで、どうやらしばらく、ここから動けそうになかった。
◇ ◇ ◇
その夜の夕食の席で、ラヴェリナは何度も父の様子をうかがった。
父はいつも通り背筋を伸ばして座り、いつも通り黙ってナイフを動かしている。ただ、スープの皿が空になっているのに気づかず、二度ほど匙を口元へ運んでいた。
「旦那様、今日はずいぶんお疲れのご様子ですわね」
義母のセシリアが、心配そうに声をかけた。
「……王宮に呼ばれていた」
「まあ。何か難しいお話でしたの?」
「辺境で使われている、防水の品についてな。少し話を聞かれただけだ」
辺境、という言葉に、義母の手がほんのわずかに止まった。グランツ辺境伯領。義母の前の旦那様が、帰らなかった土地だ。
「……あちらは、持ちこたえているのでしょうか」
「持ちこたえている。死者は、まだ一人も出ていないそうだ」
「そうですの」
義母は小さく息をつき、それから穏やかに微笑んだ。
「よかった」
その横顔を見ながら、ラヴェリナはスプーンを握り直した。防水加工液を作ったのは自分だと、今ここで言うべきかどうか、少しだけ迷った。
けれど父が何も言わないので、ラヴェリナも黙っていた。父の横顔には「今日はこれ以上、何も増やすな」と書いてある気がした。
「お姉様」
隣の席から、リアが身を乗り出した。
「次のおはなしの夜、竜の続きからね? 嵐の中を飛ぶところ」
「うん、覚えてるよ」
「やった!」
十一歳になった妹は、嬉しいときだけ、まだ少し子供っぽい声を出す。
父がちらりとこちらを見た。その目が「おはなし」という単語のところで一瞬だけ細くなった気がしたけれど、何も言わずに、また皿へ戻っていった。
夕食のあと、廊下で呼び止められた。
「ラヴェリナ」
「はい」
振り向くと、父は少し離れたところで立ち止まり、窓の外の暗がりに目をやっていた。その方角には、離れの灯りがぽつりと見える。
「明日も王宮だ。今日のことは、しばらく私の胸にしまっておく」
「……はい」
「それと」
「はい」
父は、何か言いにくそうに咳払いをした。
「あのクッションの中身は、何だ」
ラヴェリナは瞬きをした。
「……細かく刻んだ端切れと、綿です。袋は帆布を二重にしてあって、口の紐をほどけば中身の量も調整できます」
「そうか」
それだけ言うと、父は踵を返して執務室の方へ歩いていった。その背中が、心なしか昼間より少しだけ丸い。
ラヴェリナはしばらくその場に立ち尽くしてから、口元がゆるむのを両手で押さえた。
あれは、落ちた顔だ。前世で、ラノベ布教に成功し、嵌った時の友達の顔と同じ顔をしていた。




