第27話 父に全部バレました――前世以外
離れの応接室は、この建物の中で唯一、靴のまま入れる部屋だ。
扉一枚向こうの生活区域には絨毯と畳もどきと妖精たちの笑い声があるけれど、ここだけはきちんとした公爵家の一室の顔をしている。
磨かれた木の床、背もたれのまっすぐな椅子、壁には季節の花を描いた小さな絵。お客様を迎えるための、よそゆきの部屋。
その部屋の真ん中で、ラヴェリナは父と向かい合っていた。
王宮から戻って、まだ着替えてもいない。クロードは壁際に控え、置物のように動かない。
窓の外では午後の陽がゆっくりと傾き始めていた。
父は腕を組み、黙っている。
怒鳴らない。
眉を吊り上げもしない。
ただ、静かにそこに座っている。
それが、いちばん怖い。
「ラヴェリナ」
「はい」
「さて」
「……はい」
「話してもらおうか」
来た。
「まず、防水加工を作ることになった経緯」
「はい……」
「それから、布用接着剤」
「はい……」
「ほかにもあるのだろう?」
ある。山ほどある。
ラヴェリナは膝の上で指を組み、頭の中で在庫一覧をめくった。
防御魔法、浮遊魔法、思念具現化魔法。冷蔵箱、クッションベッド、ガラスのストロー、畳もどき、室内履き。
そして何より、いちばん大きな、いちばん言いにくいもの。
妖精。
どこまで話す?
どこで線を引く?
魔法と発明品だけなら、たぶん「子供の工作」の範囲でぎりぎり押し切れる。
問題は、この扉の向こうで今も元気に暮らしている、二十人を超える同居人たちで――。
ラヴェリナが真剣に作戦を練り始めたとき、ノックの音がした。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
扉が開きメアリーが、ワゴンを押して入ってきた。
――そのとき。
いくつもの小さな光が、メアリーの横をすり抜けた。
「ラヴェリナー!」
「おかえりー!」
「王宮どうだったー?」
「お菓子あるー?」
ぱたぱたぱたぱた、と無数の小さな羽音。色とりどりの光の粒みたいな影が、歓声を上げながら応接室へなだれ込んでくる。
ラヴェリナの思考が止まった。
父の動きも止まった。
妖精たちはいつもの調子でラヴェリナの周りをくるくる飛び回り、肩に乗ろうとし、髪を引っぱろうとし
――そこでようやく、
見慣れない大きな人影に気づいた。
一人、また一人と、空中で羽ばたきが止まる。
二十を超える小さな顔が、ゆっくりと父を見た。
「「「あっ」」」
父の目が見開かれる。
妖精たちと、父と。
ほぼ同時に、その場の全員の視線がラヴェリナに集まった。
――バレた。
髪の毛一本ぶんの言い訳の余地もなく、バレた。
「ラヴェリナ」
「はい」
「これは」
「はい」
「……何だ」
「妖精です」
父の眉が、ぴくりと動いた。
「妖精?」
「はい」
「この……」
父は、宙に浮いたまま固まっている小さな存在を指さした。その指先が、ごくわずかに震えている。
「これが?」
「はい」
「本物の?」
「はい!」
沈黙が落ちた。
妖精たちはなぜか空中で背筋を伸ばし、横一列に並んでいる。叱られる前の子供の整列だった。誰に習ったのだろう。――自分ではないと思いたい。
「ルル」
ラヴェリナは、列のいちばん端にいる少年の姿の妖精を小声で呼んだ。
「な、なんだよ」
「もう隠せないよね、これ」
「無理だろ。どう見ても」
「だよね」
ラヴェリナは目を閉じた。
ここから「実はこれは精巧な人形で」と言い張るのは無理がある。
「お父様は夢を見ているんです」も無理がある。
中途半端に隠して、あとから一つずつバレていく方が、よほど面倒なことになる。
前世で読んだ物語でも、小出しの嘘はだいたい最悪のタイミングで露見していた。
だったら。
――前世のことだけは、言わない。
それ以外は、全部話す。
そして、お父様を味方にする。
「……うん。それがいちばんいい」
「何がいちばんいいのだ」
「お父様」
ラヴェリナは目を開けて、まっすぐ父を見た。
「全部、お話しします!」
「……全部?」
「はい!」
父の顔に、ほんのわずかな警戒の色が浮かんだ。娘の「全部」が、自分の想像する「全部」と同じ大きさだとは限らない。嫌な予感がする……。
◇ ◇ ◇
「まず、この子がルルです」
ラヴェリナが手のひらを差し出すと、ルルは渋々その上に降り立ち、腕を組んだまま父を見上げた。
「……俺、ルル」
妖精が、自己紹介をした。
父がさらに固まった。
「喋るのか」
「喋ります」
「妖精とは、喋るものなのか」
「たぶん?」
「たぶん…」
「ほかの子も喋るので」
「ほかにもいるのか」
父の視線が、横一列に並んだ妖精たちへ移る。それから、開け放たれた扉の向こうへ。
「……何匹いる」
「何人、です」
「……何人いる」
「えーっと……」
ラヴェリナが指を折り始めるより早く、妖精たちが口々に答えた。
「数えてない!」
「昨日また増えた!」
「森の子もときどき来るよー」
父は、ゆっくりと目を閉じた。
「……続けろ」
そこからラヴェリナは、本当に最初から話し始めた。
七歳の初夏、家族で出かけたピクニック。蝶を追いかけて森の奥で迷子になり、小さな泉にたどり着いたこと。足をばしゃばしゃさせていたら、怒った妖精が飛び出してきたこと。
そこまで聞いたところで、父の表情がかすかに変わった。
「あの森で、か」
「……はい。お母様が好きだった森です」
父は何も言わなかった。組んでいた腕がほどけ、膝の上に置かれる。視線が一瞬だけ窓の外へ逃げて、それからまた戻ってきた。
「……そうか。あの日、お前がしばらく姿を見せなかったのは」
「泉で、ルルと喧嘩してました」
「喧嘩じゃねーし。こいつが勝手に騒いでただけだし」
ルルがそっぽを向く。父の口元が、ほんの一瞬だけ緩んだように見えた。
「それで、魔力を固めて玉にしたのをあげたら、すごく気に入ってくれて」
「待て」
「はい?」
「妖精を、餌付けしたのか」
「餌付けではありません!」
「魔力を与えたのだろう」
「仲良くなるきっかけです!」
「同じではないのか」
「違います!」
「うまかった」
ルルが横から、実にしみじみと言った。
「ルル!」
「……続けろ」
屋敷までついてきたルルに、部屋にあった人形の家を住まいとして明け渡したこと。
するとルルが友達を連れてきて、その友達がさらに別の友達を連れてきて、気づけば人形の家は満員になっていたこと。
父は途中から、驚かなくなってきていた。いや、驚きが処理しきれる量を超えて、顔の筋肉が反応を諦めただけかもしれない。
「それで、私が物語を書くようになって」
「物語?」
「小説です!」
「……お前が?」
「はい!」
「いつから」
「七歳のころからです」
「聞いていない」
「秘密だったので」
父は紅茶のカップに手を伸ばし、口元まで運んだところで、飲むのを忘れたように止まった。カップはそのまま、受け皿へ戻っていった。
「それを、妖精のみんなが絵にしてくれるようになって。絵を並べて、台詞を書き込んで、コミックっていう形にしてます!」
「妖精が、絵を」
「描いてるよー」
「私、背景得意!」
「俺は悪役担当」
「ぼくは動物描くのー」
妖精たちが次々と自己申告する。いちばん最後に、のんびりした声で手を挙げたのはポロだった。
「……そうか」
父の声が、遠い。
◇ ◇ ◇
「それから、この離れを使わせてもらうようになってから、ちょっとずつ住みやすくしました!」
「ちょっと、か」
「はい!」
「具体的には?」
「まず、奥を土足禁止にして」
「!!」
「室内履きを作って」
「!!!」
「廊下に絨毯を敷いて」
「!……それは許可した」
ラヴェリナは一度息を吸い込み、ここから先を一気にいくことにした。こういうのは勢いが大事である。
「それから、畳みたいなのを作って!」
「……たたみ?」
「あとで見せます! それから、大きいクッションベッド!」
「何だそれは」
「あとで! 冷蔵箱!」
「れいぞう……」
「氷の魔石を使って、食べ物や飲み物を冷やしておける箱です! ガラスのストロー! 妖精たちのお部屋! 妖精専用の出入口!」
父は、ついに椅子の背に深くもたれ、目を閉じた。
しばらくその姿勢のまま動かなかった父が、やがて片目だけを開けて、壁際の老執事を見た。
「クロード」
「はい、旦那様」
「お前は、どこまで知っていた」
「ほぼ、すべてでございます」
「なぜ報告しなかった」
「離れの生活改善の範囲内と判断しておりました」
「妖精が住んでいてもか」
クロードは、ほんのわずかに視線を落とした。
「……途中からは、私も感覚が麻痺しておりました」
「クロード!」
「申し訳ございません」
その横で、ラヴェリナは深く頷いた。
「分かります」
「お嬢様は黙っていてください」
「はい」
◇ ◇ ◇
最後に、ラヴェリナは本題に戻った。
防水加工液と、布用接着剤。なぜそんなものを作ったのか。
「婚約者候補同士で、嫌がらせがあるかもしれないと思ったんです」
「なぜ、そう思った」
「……勘です!」
父の目が細くなる。
「とにかく、備えておこうと思って。飲み物をかけられた時のために、防水加工」
「実際にかけられた」
「はい。衣装を破られた時のために、接着剤」
「実際に破られた」
「はい」
父の手が、また膝の上で握られた。大きな拳が、白くなるほど強く。
「……誰がやった」
「もう済んだことですから。殿下もご存じですし」
「そういう問題ではない」
「でも、どっちも全然困らなかったんです。ドレスは無事だったし、破られた方は、むしろ前より可愛くなりましたし」
父は長いこと娘を見ていた。何かを言いかけて、呑み込む。
「……その件は、あとで別に聞く」
それから、長い、長いため息をついた。
「ラヴェリナ」
「はい」
「お前はなぜ、そういうことだけ妙に当たる」
「私にも分かりません!」
前世で読んだライトノベルの知識です。悪役令嬢もののお茶会では、ドレスに飲み物がかかるのは様式美なんです。
――とは、口が裂けても言えない。
「それから、魔法も習いました!」
「家庭教師の件なら、書類に署名した覚えがある」
父は疲れた声で言った。
「何を習うのかまでは書いていなかったが。護身の魔法か何かだろう」
「はい! 防御魔法と浮遊魔法と、それから思念具現化も習いました!」
「防御と浮遊は、まあ分かる」
父はそこで言葉を切り、眉を寄せた。
「……最後のは何だ」
「えっと、思念具現化というのは――」
言いかけたところで、父が片手を上げた。
「いい。今は聞いても頭に入らん。……それも、あとで聞く」
今日一日で流し込まれたものが、器の縁までせり上がっている。そういう人の手の上げ方だった。
くすくすと、あちこちから小さな笑い声が上がった。整列していたはずの妖精たちが、いつの間にか列を崩して、テーブルの上や椅子の背に好き勝手に腰かけている。
「ラヴェリナ怒られてるー」
「めずらしいー」
「ルル、笑わないの!」
「俺は何も言ってねーだろ!」
◇ ◇ ◇
一通り話が終わったころには、窓から差し込む光がすっかり橙色になっていた。
ギルベルト・ローデンベルクは、椅子に深く沈み込んでいた。
妖精。存在することは知っている。子供の頃に聞かされたお伽話にも、書庫の古い博物誌にも出てくる。
森の奥、泉のほとり、人の近づかない山の中に棲み、滅多なことでは姿を見せない。一生に一度見られれば幸運。人と共に暮らすなど、聞いたこともない。
その妖精が、目の前にいる。
幻覚かと一度は疑った。だが、一人はテーブルの上で、自分の分として出されたはずのクッキーを両手で抱えてかじっている。
一人は娘の肩に腰かけて足をぶらぶらさせている。もう一人は、ギルベルトのティーカップの縁に取りついて、紅茶の水面を熱心に覗き込んでいる。
湯気が、その小さな鼻先をくすぐった。くしゅん、と、嘘のように小さなくしゃみが聞こえた。
「……夢ではないな」
「夢じゃないですよ!」
娘が、なぜか誇らしげに答える。
しかも話によれば、この扉の奥には妖精たちの部屋があり、その隣では妖精たちが、娘の書いた物語を「コミック」なるものに作り変えているのだという。
意味が分からない。一つ一つの言葉は分かるのに、並べると分からなくなる。
「ラヴェリナ」
「はい」
「その、コミックというものは」
「はい!」
「本当に、あるのか」
「あります!」
即答だった。
「妖精が作ったものが」
「あります! 棚にいっぱい!」
ギルベルトは天井を見上げた。
公爵家の当主として、これまで数えきれないほどの報告を受け、判断を下してきた。聞くべきことは聞き、見るべきものは見る。それが彼のやり方だった。耳で聞いただけの話を、分かったつもりで済ませたことはない。
ならば、答えは一つしかない。
「見せろ」
「え?」
「全部だ」
「全部?」
「この離れの中を、だ」
ギルベルトは、ゆっくりと立ち上がった。
「私が知らなかったものを、全部見せてもらう」
娘は一瞬、きょとんとしていた。
叱られると思っていたのだろう。父が立ち上がったのを見て、身構えてさえいた。それが次の瞬間、ぱっと顔じゅうに光が差したように明るくなった。
「分かりました!」
怒られるのではなく、見てもらえる。そう理解したときの顔だった。
幼い頃、描いた絵を持って執務室の扉を叩いてきた娘の顔を、ギルベルトは不意に思い出した。あのとき自分は、仕事の手を止めずに「あとで見る」と言わなかったか。
「じゃあ、こっち!」
小さな手が、ギルベルトの手をつかんだ。記憶の中の手よりずっと大きく、それでも自分の手の中にすっぽりと収まる。
「まず、室内履きに履き替えてね!」
「……私もか」
「もちろん! ここから先は土足禁止だから!」
「待て、私はまだ――」
「大丈夫! お父様の分もちゃんとあるよ!」
「なぜ私の分がある」
「お客様用!」
ずんずんと引っぱられながら、ギルベルトは思った。どうやら自分は、娘のことを半分も分かっていなかったらしい。
「まずね、妖精たちのお部屋から見せる! その次がアトリエ!」
「……アトリエまであるのか」
「あるよ!」
娘の声は弾んでいる。父親の頭痛など、まるで知らないという顔で。
その後ろから、ルルが肩をすくめてついてきた。
「おっさん、覚悟しとけよ。長いぞ」
妖精に心配されたのは、生まれて初めてだった。




