第25話 王太子視点――辺境から届いた報告書
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最終話まで更新が止まることはありませんので、ご安心してお楽しみください。
辺境伯領からの早馬は、このひと月の間、ほとんど毎日のように王宮の門をくぐっている。
魔物の目撃数、移動の方角、討伐数、避難した領民の数、負傷者、不足している物資。
封蝋を割るたびに並ぶ数字は少しずつ重くなり、そのどれもが「スタンピードの兆候あり」という一行に結びついていた。
十四歳の僕に、国の行く末を左右する判断を下す権限はまだない。最後に決めるのは父上だ。
それでも、いずれはあの椅子に座る日が来る。だから今のうちに見ておけ――
そう言われて、僕は父上の執務室の隅に小さな机をひとつ与えられていた。
「殿下、本日分でございます」
宰相が、紐で綴じた書類の束を差し出してくる。几帳面な文字で「グランツ辺境伯より」と記された表紙は、途中で雨にでも降られたのか、角がわずかに波打っていた。
「ありがとう」
受け取って、最初の頁を開く。
『魔物の活動範囲は依然として拡大傾向にあり』
一文目から、楽観の余地はなかった。
ただ、大規模な一斉侵攻にはまだ至っていない。辺境伯は北部の村々から住民を避難させ、騎士団を複数の防衛地点に分けて配置している。王都から送った物資も、順に届き始めているらしい。
「負傷者は」
父上が、卓上の地図から顔を上げずに訊いた。
「前回より増えておりますが、重傷者は少数とのこと。死者は現時点で確認されておりません」
「そうか」
父上の肩から、ほんのわずかに力が抜けた。豪胆で知られる人だけれど、こういうときの息の吐き方までは隠しきれない。
とはいえ、終わったわけではない。
今はむしろ、いつ堤が切れてもおかしくない川の水位を、岸から眺めているようなものだ。僕は続きに目を落とした。
『降雨が続いたことにより、一時、補給物資の保全および前線への輸送に支障が生じた』
「雨か……」
思わず声が出た。
魔物を相手にしているだけでも人手は足りない。
そこへ長雨が重なれば、兵站が乱れる。
どれほど腕の立つ騎士を揃えても、食料が傷み、薬が湿気を帯び、地図の線が滲んでしまえば前線は保たない。軍学の講義で、耳にたこができるほど聞かされたことだ。
だが、次の一文で僕の目は止まった。
『しかしながら、当家息女アイリスが王都より持ち帰った防水加工液を使用したことにより、物資、薬品、地図、伝令書等の被害を大幅に抑えることができた』
防水加工。
その四文字には覚えがある。
いや、ありすぎる。
頭の中で、三年前の光景が勝手に再生された。王宮の庭園、白いクロスのかかった茶会のテーブル。
わざとらしくよろめいた伯爵令嬢の手から、濃い紫のぶどう果汁が弧を描いて飛ぶ。
それが淡い色のドレスに降りかかり――
染み込まずに丸い粒になって、ころころと裾を転がり落ちていった。
かけられた当の本人は、なぜか必死で笑いをこらえていた。
「……まさか」
「どうした、ユリウス」
父上がこちらを見た。
「いえ」
僕はもう一度、同じ行を読み直す。読み違いではない。アイリス嬢が王都から持ち帰った、防水加工液。
アイリス嬢がそれを誰から受け取ったのかは、考えるまでもなかった。
◇ ◇ ◇
報告書の続きは、読み進めるほど具体的になっていった。
『当初は少量であったため、薬品、包帯、火種、地図等、特に水濡れを避けるべき物資へ優先して使用した』
『防水加工を施した外套は、降雨時にも水を吸いにくく重量の増加が抑えられるため、前線の騎士より高い評価を得ている』
外套が重くならない。
僕は無意識に姿勢を正していた。あれは、ドレスを汚さないための小細工ではなかったのか。
水を吸わない布は、雨の中を何刻も巡回する騎士の足を軽くする。天幕に張れば、避難所の毛布が濡れずに済む。言われてみれば当たり前のことが、言われるまで一度も頭に浮かばなかった。
『その後、ローデンベルク公爵令嬢ラヴェリナ・ローデンベルク殿へ追加の供給を依頼したところ、荷馬車一台分の防水加工液が送付された』
「……一台分?」
今度は声が出るのを止められなかった。
宰相が眼鏡の位置を直し、父上の眉がわずかに上がる。僕は咳払いでごまかして、先を読んだ。
『現在、避難所用天幕、物資輸送用の覆い布、騎士用外套、地図および文書の保管袋等へ順次使用している。本加工液により、降雨時の補給および避難所運営の負担が明確に軽減されたため、軍用および災害対応用物資としての利用を、王家においても検討されたい』
報告は、そこで結ばれていた。
僕が頁を閉じると、父上が片手を差し出した。
「見せてみろ。お前がそんな顔をするのは珍しい」
「どんな顔ですか」
「菓子の皿に、蛙が乗っていたときのような顔だ」
そんな顔をした覚えはないけれど、反論している場合でもない。僕は該当の箇所を指で示して、報告書を渡した。
父上は黙って読み、それから小さく唸った。
「ローデンベルク公爵の娘……ラヴェリナ嬢か」
「はい」
「お前の婚約者候補だな」
「そうです」
「十三の娘が作ったものが、辺境の兵站を支えているというのか」
父上は報告書の同じ頁を、もう一度指でなぞった。
「こういうものを作る娘なのか?」
「……僕も、詳しくは知りません」
本当に、詳しいことは何ひとつ知らないのだ。
知っているのは、ぶどう果汁を浴びたドレスが見事に液体を弾いたことと、それを本人が得意げに説明していたことだけだ。
「ただ、以前のお茶会で、実物を見たことがあります」
「ほう。どういう場でだ」
「飲み物が……ラヴェリナ嬢の衣装にかかりまして」
「事故か」
「……形式上は」
父上の目が、すっと細くなった。
「形式上、か」
「そこは今回の件とは関係ありません」
「そうか。関係ないか」
父上はそれ以上追及しなかった。ただ、口の端がほんの少し持ち上がっている。
あれは「その話はあとでゆっくり聞かせてもらう」という顔だ。十四年も息子をやっていれば、それくらいは分かる。
「そのとき、衣装はまったく濡れませんでした。本人は、防水加工だと」
「そして三年後、その加工が辺境で雨を弾いていると」
「そういうことになります」
◇ ◇ ◇
宰相も、父上から回ってきた報告書に目を通していた。
「興味深いですな。雨天時の補給は、軍にとって古来の難題でございます」
「長距離の行軍だと、特にそうだね」
「さようで。食料、薬品、地図、火種。濡らせないものほど、濡れた時の損失が大きい」
宰相は実務の人だ。珍しいものを面白がるより先に、それがどこで何の役に立つかを数え始める。
「天幕に使えるなら、野営地でも役に立つ」
僕が言うと、宰相は即座に頷いた。
「おっしゃる通りです。水害や嵐の折の避難所にも使えましょう。問題は、どれほどの量を、どれほどの費用で作れるか」
「それと、どれくらい保つか、だね」
「はい。一度の雨で効果が落ちるようでは、軍には卸せません」
父上が、報告書を机に置いた。とん、と軽い音がして、話がひとつ決まる。
「辺境伯がここまではっきり有用だと言ってきた以上、試す価値はある。ローデンベルク公爵に連絡を」
「承知いたしました」
と即座に宰相は応えた。
「作ったのは娘の方なのだろう。ラヴェリナ嬢本人からも話を聞いた方がいい」
「本人から、ですか」
「作った者に聞くのが一番早い。当然だろう」
当然、ではある。
「お前も同席しろ」
「僕もですか」
「婚約者候補だ。それに、その防水加工とやらを実際に見ているのは、ここではお前だけだ」
理屈は通っていた。通りすぎていて、断る隙がない。
「分かりました」
僕が頷くと、父上は満足そうに地図へ視線を戻した。その横顔が、どことなく楽しそうに見えたのは気のせいだと思いたい。
◇ ◇ ◇
執務室を辞して自室に戻っても、机に積まれた書類に手をつける気になれなかった。
窓の外はよく晴れている。辺境の空とは大違いだ。僕は椅子に深く腰かけて、宰相に頼んで写させてもらった報告書の一枚を、もう一度広げた。
ラヴェリナ・ローデンベルク。
三年前、最初のお茶会で会ったときのことを思い出す。
候補の令嬢たちが僕に話しかけてくるなか、彼女だけは紅茶を飲みながら、ほかの候補者たちをじっと観察していた。そして、その目は僕のことなど、ほとんど見ていなかった。
ミネット嬢が遠回しな嫌味を浴びせられていたときには、よりによって僕に向かって正面から文句を言いかけた。僕が途中で遮らなければ、最後まで言い切っていただろう。
ぶどう果汁をかけられれば、嬉しそうに防水加工を披露した。
アカデミーに入ってからは、衣装を破られたはずなのに、元よりも可愛らしく飾り立てて現れた。
そして今度は、そのぶどう果汁対策が、辺境の兵站を支えている。
「……意味が分からない」
声に出してみても、分からないものは分からなかった。
ふつう、嫌がらせを受けた令嬢は泣くか、怒るか、犯人を探してと訴える。ところが彼女は、そのどれもしない。
飲み物をかけられるかもしれないから、水を弾く布を作る。衣装を破られるかもしれないから、すぐに直せる道具を作る。
問題が起きないように手を打つのではなく、起きたときに、困らないようにしておく。
「妙に実用的なんだよな、あの娘は」
しかもその「困らないための工夫」は、本人が想定していたよりずっと遠くまで届いてしまった。
三年前の僕は、あのドレスを珍しい手品くらいにしか見ていなかった。だが、辺境伯はその技術の価値を見抜き、兵站に使い、避難所に使い、前線に持ち込んだ。
見る目の差、と言われれば返す言葉もない。
僕は報告書の最後の一文に、指を置いた。
負担が明確に軽減された。人の命が懸かった場所で書かれる「明確に」という言葉の重さは、僕にも分かる。
公爵令嬢。婚約者候補。アカデミーの一年生。彼女の肩書きなら、どれもよく知っている。けれどそのどれを並べても、ラヴェリナ嬢という人の輪郭には届いていない気がした。
――そこまで考えて、ふと気づく。
僕はまた、ラヴェリナ嬢のことを考えている。
いや、今回は仕方がない。辺境伯からの正式な報告に、名前まで記されているのだ。王国にとって有用かもしれない技術なのだから、王太子として把握しておく必要がある。
今回ばかりは、完璧に理由がある。
……今回ばかりは、と思ったのは、これで何度目だろう。
なぜ僕は毎回、彼女のことを考えるたびに理由を探しているのか。その問いの答えが喉元まで来かけたところで、僕は視線を報告書の余白に逃がした。
そこには、本文とは別の、少し崩れた筆跡で追記があった。辺境伯本人の手によるものだろう。
『なお、考案の経緯について娘に問うたところ、「いろいろあった」とのみ申し、詳細は語らず』
僕は、思わず吹き出した。
いろいろ。
確かに、いろいろあった。
そのうちのいくつかなら、僕はこの目で見ている。
ただ、その「いろいろ」が僕の知っている分だけだとは、どうしても思えなかった。
王宮に呼ばれた彼女は、父上の前でどんな顔をするのだろう。
あの果汁を浴びたときと同じように、口元を引き結び、目だけを輝かせながら語るのだろうか。そして、その経緯を聞かれて、「いろいろありました」と答えるのだろうか。
僕はもう一度、今度は誰にも聞こえないように笑った。




