第24話 辺境伯領――防水加工の思わぬ活躍
毎日7:00・12:00の1日2話で予約投稿更新中
本作は完結まで執筆済みです。
最終話まで更新が止まることはありませんので、ご安心してお楽しみください。
グランツ辺境伯領に戻ったアイリスを待っていたのは、覚悟していた以上の慌ただしさだった。
魔物の目撃数は、日を追うごとに増えている。
まだ本格的なスタンピードには至っていない。
けれど森の奥からは、普段なら人里に近づきもしない種類の魔物が、ぽつりぽつりと姿を見せ始めていた。
領主館は、朝から晩まで人の出入りが途切れなかった。騎士団の配置換え、村ごとの避難経路の確認、食料と薬と武器と馬の手配。
兄は帰ってきたアイリスの頭を一度がしがしと撫でただけで、その日のうちに北の砦へ発っていった。
アイリスも、帰った翌日から執務室の机の一角を与えられた。
「北部の村から、避難者二十七名、到着しました!」
「食料庫の残りは?」
「干し肉が三日分、小麦は――」
「南側の倉庫から回して。それと、子供の数を先に数えておいて。毛布が足りなくなる」
「はい!」
書類と伝令と物資の目録が、次から次へと机の上に積み上がっていく。アイリスは帳面の数字を指で追いながら、小さく息を吐いた。
「……アカデミーの試験より大変ね」
呟きは、誰の耳にも届かなかった。
帰領して二日目の晩、王都からの最初の手紙が届いた。封を切ると、便箋が一枚だけ入っていた。
『アイリスへ。
霧吹きの使い心地を教えてください。押しにくかったら直します。』
アイリスは、疲れ切った顔のまま小さく笑った。心配の言葉を並べられるより、よほどラヴェリナらしい。
まだ一度も使っていない、とは返事に書きにくかった。
◇ ◇ ◇
帰領して三日目の午後、空模様が急に崩れた。
「雨が来ます!」
物見台の兵士が叫んだときには、西の空はもう鉛色の雲に塗り込められていた。風が湿った土の匂いを運んでくる。辺境の雨は、降ると決めたら容赦がない。
「まずいな」
執務室の窓から中庭を見下ろして、父の辺境伯が眉間に深い皺を刻んだ。
中庭には、明朝に前線へ送り出すはずの物資が山と積まれていた。食料の袋、包帯、薬草、予備の布、火種の箱。木箱に収まっているものもあるが、ほとんどは麻袋のままだ。
「急いで中へ運べ!」
「はい!」
使用人と兵士が一斉に中庭へ駆け出していく。けれど、量が多すぎた。雨脚が強まる前に全部を屋根の下へ入れられるとは、誰の目にも思えなかった。
アイリスは窓辺で、その光景を見下ろしていた。
濡れて困るものを、濡らさない方法。
「……あ」
鞄の一番内側のポケット。
王都から持って帰ってきたもの。
「待って!」
アイリスは執務室を飛び出し、階段を二段飛ばしで駆け上がった。自室の鞄から布の包みをひったくるように取り出し、また駆け下りる。
中庭に出たときには、最初の大粒が石畳にまだらの染みを作り始めていた。
「アイリス?」
後を追ってきた父が、怪訝そうに娘の手元を見た。
「試したいものがあります」
アイリスは、物資の上に被せるために用意されていた大きな帆布を広げさせ、その表面に霧吹きを向けた。
しゅっ、しゅっ。
「何だ、それは」
「防水加工です」
「……ぼうすい?」
「水を弾く加工です」
「そんなものがあるのか」
「友人が作りました」
父は、娘が何を言っているのか理解できないという顔をした。けれど、説明している暇はない。
「乾けば使えます」
「間に合うのか?」
「薄く吹けば、すぐ乾きます。手伝って」
近くにいた兵士が二人がかりで帆布の端を持ち、アイリスは端から端まで、できるだけむらなく霧を吹いていった。
指が痛くなるほど突起を押し続け、帆布を物資の山の上にばさりと被せたのと、空が抜けたように雨が落ちてきたのは、ほぼ同時だった。
ざあああっ、
と音がして、中庭が白く煙った。
帆布の上に、容赦なく雨が叩きつけられる。
「……おい」
帆布の端を押さえていた兵士が、目を見開いた。
水が染み込まない。帆布の上で雨粒が次々と丸い玉になり、ころころと表面を転がって、端から滝のように流れ落ちていく。
「弾いてる……」
父が大股で近づき、帆布の縁をめくって、その下に手を差し入れた。
麻袋は、乾いていた。
「アイリス」
「はい」
「これは、まだあるか」
「……この小瓶にあるだけです」
父の顔つきが、一瞬で変わった。騎士団の地図を睨むときと同じ顔だった。
「誰が作った」
「ラヴェリナです」
「ローデンベルク公爵令嬢か?」
「はい」
父は、雨に打たれながらしばらく黙った。
「……例の、婚約者候補の?」
「そうです」
「なぜ公爵家の令嬢が、そんなものを作っているんだ」
「いろいろありまして」
「いろいろとは」
「長くなるので、今は省きます」
◇ ◇ ◇
小瓶一本の防水液は、その日から、領主館で最も大切に扱われる品になった。
どこに使うかは、父と騎士団長とアイリスの三人で決めた。
まずは薬と包帯。濡れれば腐り、使いものにならなくなる。次に、火種を入れておく袋。辺境の夜に火を失うことは、それだけで命に関わる。
「薬だけは絶対に濡らすな!」
「こっちの袋を使え、加工済みだ!」
兵士たちの声が飛び交う中、二日後には前線から新たな悲鳴が届いた。
「雨で地図が駄目になります! 伝令書の文字も滲んで読めません!」
執務室に駆け込んできた伝令は、懐から紙束を取り出した。インクが流れて、どの村への指示なのかさえ判読できなくなっている。
アイリスは机の上の地図と、自分の手の中の小瓶を見比べた。
「紙に直接吹くのは試してないから、やめておく。その代わり、包む布に使って」
「布で包んでも、普通の布では濡れてしまいますが」
「だから、防水した布で包むのよ」
「……なるほど」
地図を包む布、伝令書を入れる小さな袋。小瓶の中身は目に見えて減っていったが、効果はすぐに表れた。
雨の中を騎士が馬で駆け抜ける。泥水が跳ね、外套はずぶ濡れになる。それでも、その懐に収めた地図と伝令書は、一滴の水も吸わずに砦まで届いた。
「読める!」
「文字が消えていない!」
砦から戻った伝令が、濡れ鼠のまま嬉しそうに報告した。指示が正しく届くかどうか。前線では、それだけで守れる村の数が変わる。
◇ ◇ ◇
小瓶が空になったのは、避難所でのことだった。
領主館の裏手の広場には、村から逃れてきた人々のための天幕がいくつも張られている。数日降り続いた雨で、どの天幕も布がじっとりと水を含み、天井の継ぎ目から雫が落ち始めていた。
「子供たちを奥へ!」
「毛布が濡れるぞ!」
アイリスは一番大きな天幕の上に予備の布を張らせ、残っていた最後の中身をすべて吹きつけた。突起を何度押しても霧が出なくなるまで。
雨が布を打つ音が、少しだけ軽くなった。雫が滑り落ち、天幕の縁から外へこぼれていく。中へは、ほとんど染みてこなかった。
「……すごい」
天幕の奥で、赤子を抱いた女性が天井を見上げた。その膝にもたれていた小さな男の子が、布の天井へ向かって手を伸ばす。
「雨、落ちてこないね」
「ええ。落ちてこないわね」
その下には、乾いた毛布と、乾いたパンと、ようやく眠りについた人々がいた。
アイリスはしばらく天幕の入口に立ったまま、その光景を見ていた。役に立つか分からないけど、とラヴェリナは言っていた。
「……役に立ちすぎ」
空っぽになった小瓶を、アイリスは握りしめた。
◇ ◇ ◇
小瓶が空になってからも、防水加工の評判は勝手に広がっていった。
最初の頃、試しに加工してみた数枚の外套を着た騎士たちが、口々に言い出したのだ。雨の中の巡回が、まるで違う、と。
「重くならないんです。普通の外套なら、一刻も歩けば水を吸って、鎧をもう一枚着ているみたいになる。それがない」
「剣を抜くときに裾がまとわりつかない。これなら雨の中でも戦える」
砦から戻った兄までが、自分の外套の裾を持ち上げて言った。
「アイリス。お前の友達は何者だ」
「公爵令嬢よ」
「そうじゃなくて」
「……私にも、よく分からない」
荷車の覆い、矢筒、保存食の袋、馬具の一部。使いたい場所は、探せばいくらでも見つかった。
しかし、小瓶の中身はもう一滴も残っていなかった。
その晩、執務室で報告書を読み終えた父が、とうとう口にした。
「……足りないな」
「はい」
「まったく足りない」
「はい」
「これを、もっと作れないのか」
「作り方は、ラヴェリナが知っています」
「手紙を書け」
「今、書いています」
父は、机の端でペンを走らせている娘の手元に目をやった。便箋はすでに半分以上埋まっている。
「早いな」
「友人ですから」
◇ ◇ ◇
『ラヴェリナへ。
霧吹きの使い心地。押しやすい。ただ、中身が少なすぎる。
あなたがくれた防水加工液が、信じられないくらい役に立っています。
物資を覆う布、薬と包帯、火種の袋、地図と伝令書、避難所の天幕、騎士の外套。どれに使っても、濡れて困るものが濡れなくなりました。
雨の中を走った伝令が、文字が消えていないと喜んでいました。避難所の男の子は、雨が落ちてこないと言っていました。
父が「もっとないのか」と言っています。私も同じことを聞きたいです。
もっと作れない?
それと、雨の中で長く使うなら、今より少し濃いほうが持ちがいいかもしれません。三日目あたりから弾きが弱くなりました。記録はつけてあります。
帰ったら一緒に改良しましょう。
アイリス
追伸。前に話していた「実地試験」、規模が大きすぎます。』
書き終えて封をしてから、アイリスは自分の口元がゆるんでいることに気づいた。こちらに戻ってきてから、笑ったのは初めてかもしれない。
ラヴェリナのことだ。どうせ帰ったら、これも小説にするのだろう。題名は『防水加工、辺境で大活躍!』あたりか。目を輝かせてそう言う顔が、いやになるほどはっきり浮かんだ。
◇ ◇ ◇
アイリスの手紙は急ぎの伝令に託され、四日後、ローデンベルク公爵家の離れに届いた。
「……もっと作れない?」
手紙を読み終えたラヴェリナは、便箋を持ったまましばらく黙り込んだ。
物資に、薬に、地図に、天幕に、外套。あの小さな霧吹き一本が、そこまで使われるとは思っていなかった。
三日目あたりから弾きが弱くなった、という一文の横には、日付ごとの細かい記録まで書き添えてある。
アイリスらしい、と思うと同時に、胸の奥がきゅっと縮んだ。記録をつけられるくらいには、無事だということだ。
「すごいねー!」
声を上げたのは、ラヴェリナの肩越しに手紙を覗き込んでいたポロだった。
「テテク、いっぱい要る?」
「うん。できるだけたくさん作って、送りたい」
「じゃあ取ってくるー!」
「え?」
「テテクー!」
「ちょ、ちょっと待って!」
ポロはもう窓辺に向かって飛んでいた。妖精専用の出入口の前でくるりと振り返り、部屋じゅうに向かって声を張り上げる。
「みんなー! テテク取りに行くよー!」
「行くー!」
「どこー?」
「森ー!」
「小瓶いる?」
「いっぱい持ってこー!」
「待って、ってば!」
止める間もなかった。アトリエから、妖精の部屋から、棚の上から、次々と小さな影が飛び出し、窓の外へ吸い込まれていく。
ほんの数呼吸のうちに、離れはしんと静かになった。
ラヴェリナは、開け放たれた窓を見つめた。
「……自主的すぎない?」
「お嬢様に似たのでございましょう」
いつの間にか背後に立っていたクロードが、淡々と言った。
「どういう意味!?」
◇ ◇ ◇
とはいえ、妖精たちだけに任せておくわけにもいかなかった。
「クロード。屋敷の人たちにも、テテクの樹液を集めるのを手伝ってもらえる?」
「承知いたしました。離れの者と、口の堅い庭師を何人か。森に通じた者ばかりでございます」
「無理はさせないでね。危ないところには行かないように」
「心得ております」
その日の午後には、容器を背負った離れの使用人たちが、クロードの指示で公爵家の森へ入っていった。
クロードが本邸から連れてきたのは、年配の庭師が三人だけだった。何に使う樹液なのか、三人とも一度も尋ねなかった。クロードが選んだのは、そういう者たちだった。
その頭上では、人の目には映らないように姿を隠した妖精たちが、勝手に飛び回っていた。
「こっちにいっぱいあるよー!」
「この木! この木いいよ!」
「もっと奥にもあるー!」
「人間たち、そっちじゃないよー!」
もちろん、使用人の誰にもその声は聞こえていない。妖精のことを知っているのは、離れの者だけだ。
ラヴェリナは少し離れた木陰に立ち、隣のクロードに小声で囁いた。
「ポロが、西側の林のほうが多いって」
「では、そちらへ人を回しましょう」
クロードは顔色ひとつ変えずに振り返り、よく通る声で使用人たちに呼びかけた。
「西側の林も確認してください。あちらのほうが株が若いはずです」
「かしこまりました!」
妖精が見つけ、ラヴェリナが伝え、クロードが人を動かす。打ち合わせをしたわけでもないのに、奇妙な連携がいつの間にか出来上がっていた。
◇ ◇ ◇
夕方になると、妖精たちが続々と離れへ戻ってきた。
「ただいまー!」
「いっぱい取れた!」
「重かったー!」
「僕これー!」
「私、もっとあるよ!」
小瓶を二人がかりで抱えてくる者、大きな葉を器用に折って即席の袋にし、樹液をなみなみと入れてくる者。中には、なぜか枝ごと抱えて帰ってきた者までいた。
「待って待って! それ、どうしたの!?」
「折れてた!」
「ほんとに?」
「たぶん!」
「たぶんで持って帰ってこないで!」
少し遅れて、使用人たちも森から引き上げてきた。
「本日の分でございます」
「思ったよりたくさん採れました!」
「明日も行けます!」
人間が集めた分と、妖精が集めた分。それを誰にも怪しまれないよう、クロードとメアリーが作業場の奥でひっそりと一つにまとめていく。
すっかり日が暮れる頃には、作業場の一角に、テテクの樹液の入った容器がうずたかく積み上がっていた。
「……多くない?」
「多いですね」
メアリーが、どこか遠い目で頷いた。
「私、こんなにお願いしたっけ」
「屋敷の者たちも張り切っておりますし」
「それと妖精たち」
「ええ」
「妖精たち、やりすぎじゃない?」
「だって、アイリスが困ってるんでしょー?」
容器の山のてっぺんに座ったポロが、足をぶらぶらさせながら言った。
「だったら、いっぱいあったほうがいいじゃん」
ラヴェリナは、何か言い返そうとして、やめた。
「……そうだね」
◇ ◇ ◇
その日から、離れはまるごと防水加工液の製造所になった。
「もう少し薄く!」
「これはー?」
「濃すぎ!」
「じゃあこっち!」
「水ー!」
「ただいまお持ちします!」
樹液を薄め、布に塗り、乾かし、水をかけ、手触りを確かめる。アイリスの記録を参考に、これまでより少しだけ濃く。けれど布が硬くならない、ぎりぎりの濃さを探していく。
妖精たちは試験布の周りを飛び回り、水滴の転がり方を真剣な顔で見張っていた。
「これは?」
「弾いてる!」
「こっちは?」
「布かたーい!」
「じゃあ失敗!」
「次ー!」
ラヴェリナは試した濃さと結果を一つずつ記録帳に書き込みながら、作業場を見回した。
畳もどきの上には試験布が並べられ、低いテーブルの上には樹液の瓶が林立し、妖精たちが霧吹きの試作品を抱えて飛び交っている。
「……完全に研究所みたいになってる」
「今さらでございます」
クロードが、試験布を一枚持ち上げながら答えた。
三日後。
「できた!」
作業場の床に、完成した防水加工液の容器がずらりと並んだ。小瓶、大瓶、そして樽がいくつか。広い布に塗るための刷毛と、妖精たちの手で改良された霧吹きが数十本。
ラヴェリナは、その列の端から端までを見渡した。
「……これ、全部?」
「全部でございます」
「多くない?」
「妖精の皆様が、たいへん張り切られましたので」
「やっぱり原因そこだよね!」
とはいえ、辺境では必要としている。多すぎて困ることはない。
「送ろう!」
「どれほど?」
「全部!」
「……馬車が要りますな」
「え?」
◇ ◇ ◇
結局、防水加工液は、荷馬車一台分になった。
出発の朝、ラヴェリナは離れの前に停まった荷馬車の荷台を見上げた。樽と木箱が縄で固定され、上から防水加工済みの帆布が被せてある。
「嫌がらせ対策だったはずなんだけどなぁ……」
「ずいぶん遠くまで来ましたね」
メアリーが笑った。
「ほんとだよ」
荷を点検し終えたクロードが、手帳を閉じながらラヴェリナの横に立った。
「旦那様には、ご友人のご実家へのお見舞いの品をお送りした、とご報告しておきます」
「……嘘じゃないね」
「嘘ではございません。すべてを申し上げていないだけでございます」
ラヴェリナは、思わずクロードの顔を見上げた。老執事は涼しい顔で、荷馬車の車輪の具合を確かめていた。
荷台の木箱には、ラヴェリナの手紙が添えてあった。
『アイリスへ。
手紙を読みました。防水加工液がそんなに役立っているなんて、驚きました。
屋敷のみんなにも手伝ってもらって、テテクの樹液をたくさん集めました。少し集めすぎたかもしれません。
雨の中でも長く使えるように、アイリスの記録を参考にして前より少し濃く調整しています。霧吹きは押しやすさはそのままで、中身を増やしました。広い布用の刷毛も入れてあります。
馬車一台分あります。必要なところで使ってください。
無理はしないでね。帰ってきたら、実地試験の結果を聞かせてください。
ラヴェリナ』
妖精たちも総出で集めました、とは書かなかった。アイリスには、妖精のことはまだ話していない。
「ポロたちのこと、書かなくていいのー?」
荷台の縁に腰かけたポロが、首をかしげた。
「ごめんね。妖精がいることは、秘密にしてるの」
「ふーん」
ポロは、たいして気にしていないようだった。
「じゃあ、ラヴェリナが取ったことにしていいよー」
「いや、それも違うから!」
「じゃあ、人間たち」
「屋敷のみんな、でいいかな」
「うん!」
ポロは満足そうに羽を震わせ、荷台から飛び立った。妖精にとっては、それで十分らしかった。
◇ ◇ ◇
数日後。グランツ辺境伯領の領主館の前に、一台の荷馬車が止まった。
「ローデンベルク公爵家より、ラヴェリナ様からのお荷物でございます!」
御者の声に、アイリスは執務室から中庭へ降りていった。
「荷物?」
そして、荷馬車を見上げて、足を止めた。
荷台いっぱいの樽と木箱。
「……これ、全部?」
「はい」
「防水加工液?」
「そのように伺っております」
アイリスはしばらく口を開けたまま動かなかった。
それから添えられていた手紙を受け取り、封を切った。
『屋敷のみんなにも手伝ってもらって』
荷馬車を見る。
手紙を見る。
もう一度、荷馬車を見る。
「……屋敷のみんな、頑張りすぎじゃない?」
騒ぎを聞きつけて、父も中庭に出てきた。荷台の樽の一つの栓を抜き、中身の匂いを確かめてから、深々と息を吐く。
「これが全部、あの防水加工液なのか」
「はい」
「非常に助かるが……ローデンベルク公爵家は、いったい何をしているんだ」
「たぶん」
アイリスは少し考えた。
「ラヴェリナに巻き込まれたんだと思います」
「巻き込まれた」
「私もよく巻き込まれますから」
「……そうか」
なぜか、父はそれだけで納得したようだった。
その日のうちに、荷馬車一台分の防水加工液は領内各地へ分けられた。
砦へ、避難所へ、村の集会所へ、補給路の中継地へ。雨除けの帆布に、外套に、薬箱の覆いに、伝令の鞄に。
防水加工で魔物が倒せるわけではない。
スタンピードが止まるわけでもない。
けれど、濡れなかった薬で手当てを受けられる兵士がいて、読める地図のおかげで迷わずに済む伝令がいて、乾いた毛布にくるまって眠れる子供がいる。
辺境では、そういう小さな違いの積み重ねが、人の命を左右する。
その晩、アイリスは自分の外套に新しい霧吹きで加工液を吹きつけ、雨の上がった中庭に出た。濡れた石畳が、篝火の光を映して揺れている。
帳面を開き、今日の日付の下に書き込んだ。
『新しい加工液、一日目。』
少し考えてから、もう一行。
『量、多すぎ。』
帳面を閉じて、アイリスは王都の方角の空を見上げた。雲の切れ間に、星がひとつだけ覗いていた。




