第23話 しばしの別れと、防水の贈り物
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「それでね、控え室に戻ったら、衣装がこう!」
ラヴェリナは両手で見えない布をつかみ、左右に思いきり引き裂くふりをした。
「びりーっと!」
「まあ……!」
ミネットが口元を押さえる。ダンスの授業から数日後、離れの応接室での二回目の秘密のお茶会だった。
「どれくらい破れてたの?」
アイリスが紅茶を置いて尋ねた。
「このくらい」
ラヴェリナが手で示した長さを見て、アイリスは眉ひとつ動かさずに言った。
「それ、もう事故じゃないでしょ」
「だよね!」
テーブルの上には、紅茶と焼き菓子と、布用接着剤の小瓶が並んでいる。そして長椅子の横には、ミネットのためにわざわざ離れのトルソーに着せて運んできた、例の水色のダンス衣装が立っていた。
候補を辞退したミネットは、当然あの日の広間にはいない。ミネットは立ち上がって衣装に近づき、裾のレースにそっと指先を触れた。
「これが……破れていたところなんですか?」
「そう。その下に裂け目がある」
「まったく分かりません。最初からこういうお衣装にしか見えないです」
「でしょー!」
アイリスが小瓶を持ち上げ、光に透かした。
「これで貼ったのね。布同士がちゃんとくっつくの?」
「くっつくよ。ダンス一曲ぶん、びくともしなかった」
「それは実地試験として信用できるわね」
「でしょ? しかもメアリーと二人でやってたら、どんどん飾りが増えちゃって」
「結果、元より豪華になったと」
「うん。可愛い」
アイリスは小瓶をテーブルに戻し、少しのあいだ黙り込んだ。
「なに?」
「これ」
「うん」
「小説になるわね」
「やっぱり!?」
「なると思います」
ミネットまで、力強く頷いた。
「じゃあ決定!」
ラヴェリナはぱんと手を叩いた。
「今回も悪役令嬢は出るの?」
「出す!」
「王子は?」
「適当!」
「また?」
「だって主役じゃないもん!」
アイリスが吹き出した。
「王太子殿下、毎回扱いが雑ね」
「本人に読ませるわけじゃないから大丈夫!」
「絶対に秘密ですよ、ラヴェリナ様」
「もちろん!」
扉の向こうでは、妖精たちが今ごろ聞き耳を立てているはずだった。二人が帰ったとたんに――
「破れた衣装描きたい!」
「直したあとのほうは僕!」
「悪役の悔しそうな顔は俺だからな」
と大騒ぎになるのは目に見えている。
「……また新刊が増えるね」
「楽しみにしてる」
「私もです」
「ちょっと! 書くの私なんだけど!」
窓から差し込む午後の光が、テーブルの上の小瓶を琥珀色に光らせていた。三人の笑い声が、応接室の高い天井に何度も跳ね返った。
◇ ◇ ◇
知らせが届いたのは、それから十日ほど経った日の昼前だった。
魔法理論の講義の最中、教室の扉が控えめに叩かれた。顔を覗かせた事務員が講師に何事か耳打ちし、講師がアイリスの名を呼んだ。
廊下には、グランツ家の王都屋敷の紋章をつけた従者が立っていた。
アイリスが戻ってきたのは、講義が終わる直前だった。顔色はいつもと変わらない。ただ、手に持った封筒の端が、かすかに皺になっていた。
「父から」
休み時間、中庭の隅で、アイリスは短く言った。
「領地の森で、魔物の動きがおかしいって。目撃される数が、ここひと月で急に増えてる。普段なら森の奥から出てこない種類まで、村の近くで見つかってるらしいの」
「それって……」
「スタンピードの兆候かもしれない、って」
ミネットが息をのんだ。
スタンピード。大量の魔物が一斉に人里へ押し寄せる、災害と呼ぶしかない現象だ。
書庫で読んだ魔物の本にも、何ページにもわたって記録が載っていた。被害を受けた村の数、失われた命の数。当時七歳のラヴェリナは、そのページを最後まで読めずに閉じた覚えがある。
「今日は屋敷に戻って、詳しい話を聞いてくる」
アイリスはそう言って、昼からの講義を待たずに帰っていった。背中はまっすぐで、歩く速さもいつもと同じだった。それが、かえってラヴェリナの胸をざわつかせた。
◇ ◇ ◇
その晩の本邸の食堂は、いつもより静かだった。
ラヴェリナはスープの皿を前にして、匙を持ったまま動けずにいた。温かい湯気が顔に当たるのに、少しも食べる気になれない。
「……ラヴェリナ。食べないのか」
父の低い声に、はっと顔を上げる。
「すみません。ちょっと、考え事を」
「友人のことか」
ラヴェリナは目を瞬いた。
「今日、王宮にも報せが入った。グランツ辺境伯領で魔物の動きが活発になっていると」
「……アイリスのご実家です」
「知っている。お前の文通相手だろう」
父がそこまで把握していたことに驚く暇もなかった。
向かいの席で、かちり、と小さな音がした。
義母のセシリアが、銀の匙を皿の縁に置いた音だった。置いた、というより、指から滑り落ちたのに近かった。
「グランツ……」
セシリアの唇が、その地名をなぞった。声になったかどうかも怪しいほど、かすかに。
燭台の灯りの下で、義母の顔から血の気が引いていくのが分かった。いつも穏やかに微笑んでいる人の顔から、表情というものがすっと抜け落ちている。
ラヴェリナのすぐ隣で、リアが食べかけのパンを皿に戻した。テーブル越しに母親の顔を一度見上げ、それからうつむいて、膝の上で両手を握りしめた。
十一歳の義妹は、いつもなら今日あった出来事を一つ残らず話したがるのに、ひと言も口を開かなかった。
ラヴェリナは、ようやく気がついた。
義母の前の夫、アルバート・ローウェル卿。父の騎士団時代からの親友で、リアの父親。その人は、魔物の討伐で命を落とした。そしてその討伐が行われたのは――。
知っていた。再婚の話を聞いた八歳のときに教えられていたし、最初のお茶会でアイリスの家名を聞いたときにも、ちゃんと引っかかった。
けれど、それが義母にとってどういう響きを持つ名前なのかまでは、今の今まで考えたことがなかった。アイリスの手紙に出てくる深い森や熊の話を、自分はただ面白がって読んでいた。
グランツ辺境伯領。
義母にとっては、夫が帰ってこなかった場所の名前だ。
テーブルの上で、父の手が動いた。
言葉は何もなかった。ただ、大きな手が、皿の横に置かれたセシリアの手の上に、そっと重ねられた。セシリアの肩が小さく震え、それから、ゆっくりと力が抜けていくのが見えた。
長い沈黙のあと、セシリアは顔を上げた。まだ青ざめてはいたけれど、その口元には、いつもの柔らかな笑みが戻りかけていた。
「……ごめんなさいね。取り乱してしまって」
「いえ……」
「アイリス様は、あなたの大切なお友達でしたわね」
セシリアはラヴェリナをまっすぐに見た。
「あの人が最後によこした手紙に、書いてありましたの。辺境の森は深くて、恐ろしいほど美しい、と。領民も騎士も、みな気持ちのいい人たちだと」
指先が、テーブルクロスの上で一度だけ握られ、開かれた。
「どうか、お友達のご家族が皆さんご無事でありますように。わたくしも、お祈りしておりますわ」
「……はい」
ラヴェリナは、それしか言えなかった。
父はセシリアの手から自分の手を離さないまま、もう片方の手でグラスを取り、何事もなかったように水を飲んだ。
その横顔を見ながら、ラヴェリナは初めて思った。父が毎晩欠かさずこの席に座り続けてきたのは、もしかすると自分のためだけではなかったのかもしれない、と。
その夜の夕食は、それ以上誰も話さないまま終わった。
食堂を出て廊下を歩いていると、後ろから小さな足音が追いかけてきた。振り返ると、リアがラヴェリナの袖の端をつまんでいた。
「お姉様」
「うん」
「お姉様のお友達は……ちゃんと、帰ってこられますよね」
見上げてくる瞳が、燭台の灯りを映して揺れている。ラヴェリナはしゃがみこんで、リアと目の高さを合わせた。
「帰ってくるよ。アイリスは強いもん。熊を見ても『大きかった』で済ませる子だよ」
「……くま?」
「うん。手紙にそう書いてあったの」
リアの口元が、ほんの少しだけゆるんだ。ラヴェリナはその頭をひと撫でして、義妹の小さな手を握ったまま、部屋の前まで送っていった。
◇ ◇ ◇
それからの数日で、事態は動いた。
グランツ辺境伯は、娘を領地に呼び戻すことを決めた。まだ学生のアイリスに前線へ立てというわけではない。
けれど、物資の管理、避難してくる領民の受け入れ、負傷者の手当て、家族の補佐と、辺境伯家の人間としてできることはいくらでもある。そして、いつ終わるのか誰にも分からない。
アイリスは、王立アカデミーを休学することになった。
さらに辺境伯から王家へ、正式な申し入れがなされた。娘をいつ王都へ戻せるか見通しが立たない以上、婚約者候補としての教育にも交流にも加われない。よって、候補を辞退させていただきたい、と。
王家はそれを認めた。
候補がまた一人減った。四分の一、という数字が頭の隅をかすめかけて、ラヴェリナはそれを自分で踏みつぶした。
今はそんなこと、心の底からどうでもよかった。
◇ ◇ ◇
アイリスが王都を発つ前日、ラヴェリナとミネットは、アカデミーの回廊で彼女を両側から挟んでいた。
「手紙、絶対書いてね」
「分かってる」
「忙しかったら一言でいいから」
「分かってるって」
「返事できなくてもいいから、とにかく何か送って!」
「ラヴェリナ」
「なに」
「言ってることがめちゃくちゃ」
「だって!」
アイリスは、いつもどおりだった。少しぶっきらぼうで、淡々としていて、表情があまり動かない。明日から、いつ戻れるか分からない場所へ向かう人の顔には見えなかった。
「危ない場所へは、行かないのですよね?」
ミネットが不安そうに尋ねた。
「私は後方よ。父にも兄にも、前に出たら部屋に閉じ込めるって言われてる」
「それなら、少し安心です」
「少しなの?」
「少しです」
そのとき、回廊の向こうから足音が近づいてきた。
「アイリス嬢」
三人が振り返ると、王太子殿下が立っていた。アイリスがすぐに姿勢を正し、ラヴェリナとミネットもそれに倣う。
「明日、領地へ戻ると聞いたよ」
「はい、殿下」
「これまで婚約者候補として、よく務めてくれた。ありがとう」
「こちらこそ、貴重な経験をさせていただきました」
アイリスが静かに頭を下げる。
「候補を外れることは、気にしなくていい。今は家族と領地のことを一番に考えてほしい。辺境伯にも伝えてくれるかな。王家としても、必要な支援は惜しまないと」
「かしこまりました」
「君も、無理はしないように。無事に戻ってくることを願っているよ」
アイリスが、ほんの少しだけ目を細めた。
「ありがとうございます、殿下」
短いやりとりだった。殿下は三人に軽く微笑むと「執務があるから」と言い残し、回廊の向こうへ歩き去っていった。
その背中を見送りながら、ラヴェリナはぽつりと漏らした。
「……ちゃんと王太子なんだね」
「何だと思ってたの?」
「腹黒策士」
「ラヴェリナ様!」
ミネットが慌ててあたりを見回す。
「小声だから大丈夫!」
「そういう問題ではありません!」
「でも」
アイリスが、少しだけ口の端を上げた。
「悪い人ではないと思うわ」
「うん。それは私も思ってる」
「腹黒策士なのに?」
「腹黒と悪人は別なの」
「よく分からないわ」
「私もです……」
◇ ◇ ◇
「そうだ、アイリス! これ持っていって!」
ラヴェリナは鞄を開け、布にくるんだものを取り出した。
手のひらに収まる大きさの、硝子の小瓶。
口の部分に細い管のついた金具が取りつけてあり、上の突起を押すと中身が霧になって噴き出す仕組みだ。
防水加工の試験でいつも使っている香水瓶の霧吹きを、持ち歩けるように小さく、押しやすく作り替えたものだ。離れの工具と妖精たちの器用な指を借りて、昨夜遅くまでかかった。
「何これ」
「防水加工用!」
「……まさか」
「そう! テテクの樹液を、ちょうどいい濃さに薄めて入れてあるの。こうやって使うの」
ラヴェリナは自分のハンカチを広げ、しゅっ、と一吹きした。細かな霧が布の上に広がり、すぐに見えなくなる。
「乾いたら、水を弾くようになるよ」
「……持ち歩ける防水加工?」
「そう! 外套でも鞄でも、使えそうなものに使って。役に立つかは分からないけど」
「役に立つ」
アイリスは即答した。霧吹きを受け取り、手の中でじっと見つめる。
「雨の中で物資を運ぶこともあるし、荷物を濡らしたくないときにも使える。天幕にも使えるかもしれない」
「あ、確かに!」
「……やっぱり、ラヴェリナに話すと変なものが出てくるわね」
「褒めてる?」
「褒めてる」
アイリスは霧吹きを布でくるみ直し、鞄の一番内側のポケットにしまった。
「ありがとう」
「うん。帰ってきたら、もっと改良しよう」
「まだ改良するの?」
「広い布に一気に使えるようにしたいの! それに、どれくらい効果が持つかも調べなきゃ」
「じゃあ、向こうで試しておく。どれくらい持つかも記録する」
「さすがアイリス!」
いつもの会話だった。いつもの、試作品の相談。
けれど、ラヴェリナは途中から、うまくアイリスの顔を見られなくなっていた。笑っているのに、目の奥がじんと熱い。
「……アイリス」
「なに」
「絶対、帰ってきてね」
アイリスは、少しだけ間を置いてから答えた。
「帰ってくるわよ」
「約束」
「約束」
ミネットが、そっとアイリスの手を握った。
「私も、待っています」
「うん」
三人はしばらく、回廊の柱の影から動かなかった。中庭を渡る風が、アイリスの髪を揺らしていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、アイリスはグランツ辺境伯領へ向けて王都を発った。
その夜、離れの自室で、ラヴェリナは便箋を前に長いこと座っていた。
書きたいことはいくらでもあった。気をつけてね。無理しないでね。ちゃんと食べてね。書いては線を引き、線を引いてはまた書いた。
けれど、どれもアイリスが読んだら「分かってる」の一言で片づけられそうな気がした。
窓辺でうとうとしていたポロが、片目を開けた。
「ラヴェリナ、まだ書いてるのー?」
「うん。何を書けばいいか分かんなくて」
「アイリスが返事したくなること書けばいいんだよー」
ラヴェリナはペンを止め、ポロを見た。それから、線だらけの便箋を脇へ押しやり、新しい一枚を引き寄せた。
『アイリスへ。
霧吹きの使い心地を教えてください。押しにくかったら直します。』
それだけ書いて、封をした。




