第21話 アカデミー入学と、秘密のお茶会
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ぶどう果汁がドレスの上を転がり落ちたあの日から、三年が経った。
その間も、王太子殿下と婚約者候補たちのお茶会は月に一度開かれ、ラヴェリナも出席し続けた。
イザベラの嫌味は一時期ほど露骨ではなくなったものの、なくなったわけでもない。
ラヴェリナは防水加工を施したドレスを着て、布用接着剤の小瓶を懐に忍ばせつつ。表面上は、にこやかに控え目に、何ら変わりのないお茶会を続けてきた。
この三年の間に、変わったのは手紙だ。
ミネットからの手紙は、いつも便箋三枚を下らない。候補を辞退してからの彼女は、紙の上では驚くほどよく喋った。
庭に咲いた花の話、家庭教師の口癖の話、読んだ恋愛小説の感想。封筒の底には、ときどき押し花が一枚滑り込んでいる。
アイリスからの手紙は、その逆だった。
『布、雨の日に試した。問題なし』
『外套にした。狩りで一日着た。濡れなかった。父が欲しがっている』
『熊を見た。大きかった』
最後の一通を読んだとき、ラヴェリナは離れの床を転げ回って笑った。報告書かと思うほど短いのに、なぜか書いた本人の顔がくっきり浮かぶのだ。
それでも一年、二年と経つうちに、アイリスの手紙も少しずつ長くなった。
領地の森で見つけた珍しい茸のこと、兄に弓の勝負で勝ったこと、ラヴェリナが送った焼き菓子を父親に半分取られたこと。
防水加工の話で始まった文通は、いつの間にか防水加工の出てこないほうが多くなっていった。
文箱が二つ目になった頃、ラヴェリナは十三歳の春を迎えた。
◇ ◇ ◇
「ついに学園生活だよ!」
王立アカデミーの入学式の朝。離れの玄関で、ラヴェリナは真新しい制服の裾をつまんでくるりと回った。
紺の上着に、白い襟。胸元には王立アカデミーの紋章が小さく刺繍されている。
公爵家の仕立て屋が作るドレスに比べればずっと簡素なのに、袖を通した瞬間から顔がゆるみっぱなしだった。
「お嬢様。もう少し落ち着かれてはいかがでしょう」
クロードが、いつもの慇懃な調子で言う。
「だってアカデミーだよ?」
「存じております」
「学園だよ?」
「同じ意味でございますな」
「授業! 図書館! 友達と一緒に勉強! 前世じゃ定番の学園編!」
「……ぜんせ、でございますか」
ラヴェリナは回転の途中でぴたりと止まった。
「ぜ、全然! 全然定番じゃない、新鮮な学園編って意味!」
「さようでございますか」
クロードは片眉をほんのわずかに上げただけで、それ以上は何も聞かなかった。
前世の記憶のことは、妖精たちにしか話していない。クロードにもメアリーにも、父にもだ。ラヴェリナは咳払いをひとつして、何事もなかったように襟を直した。
浮かれている理由は、学園そのものだけではない。アカデミーには、もう知っている顔がいくつもあるのだ。
アイリスとミネットは同じ年で、今年一緒に入学する。イザベラ・ドルトンとカミラ・ベックも同学年だが、そちらはまあ、いい。
そして王太子殿下とヴィオラ・ランベールは、ラヴェリナたちより一つ年上。すでに去年から通っている。
「よし!殿下は一学年上……つまり、同じ組になる可能性はゼロ」
「何がよろしいので?」
「なんでもないよ!」
口元がにやけるのを止められないまま、ラヴェリナは馬車に乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
講堂の天井は、公爵家の書庫よりもさらに高かった。
ずらりと並んだ新入生の中で、ラヴェリナは背筋を伸ばして前を向き、学院長の長い挨拶に行儀よく耳を傾けた。少なくとも、外からはそう見えていたはずだ。
内側では、ずっとお祭りだった。
魔法の実技がある。この国の歴史を、専門の先生から学べる。図書館には公爵家の書庫にもない本が眠っているかもしれない。
前世でも学校には通っていたけれど、異世界の学校となれば話が別だ。
式が終わると、中庭に組分けの名簿が貼り出された。人の波をかき分けて、ラヴェリナは上から名前を追っていく。
「ラヴェリナ・ローデンベルク……あった。アイリス・グランツ……あった! ミネット・ハートウェルは……」
指が止まる。
「あったぁ!」
「ラヴェリナ様?」
振り返ると、ミネットが立っていた。お茶会で俯いてばかりいた頃とは別人のように、頬を上気させている。
「ミネット! 同じ組だよ!」
「はい、今見ました! 夢みたいです」
「アイリスも一緒!」
「知ってる。さっき見たから」
背後から、平坦な声が降ってきた。アイリスが腕を組んで立っている。
「アイリス! もうちょっと喜んでよ!」
「喜んでるわよ」
「全然そう見えない!」
「私はこういう顔なの」
「知ってるけど!」
ミネットがくすくすと笑い出した。
ちなみにイザベラとカミラの名前は、隣の組の名簿にあった。ラヴェリナは心の中で、掲示板にそっと手を合わせた。
◇ ◇ ◇
「ただいまー!」
夕方、離れの扉を開けるなり、ラヴェリナは室内履きに足を突っ込みながら報告した。
「アイリスとミネット、二人とも同じ組だったの!」
「それはようございました」
「明日から毎日一緒に授業を受けられるんだよ!」
奥から顔を出したメアリーが、エプロンで手を拭きながら微笑む。
「お嬢様のお顔を見れば、入学式がどうだったかはお聞きしなくても分かりますね」
その様子を眺めていたクロードが、ふと思いついたように口を開いた。
「お嬢様。アカデミーにご入学なさったことですし、そろそろご友人をこちらへお招きになってはいかがでございましょう」
「招く?」
「はい。お嬢様も、ご自分の客人をもてなしてよいお年頃でございます。表の応接室でしたら、どなたをお通ししても差し支えございません」
離れの入口すぐにある応接室は、土足のままでいい普通の部屋だ。外から来た人が見ても、ごく一般的な貴族の客間にしか見えない。
その奥の扉から先が、室内履きの生活区域と、妖精たちの部屋と、コミック制作用のアトリエになっている。
ラヴェリナの目が、みるみる輝いた。
「やる! お茶会しよう!」
「即決でございますな」
「お菓子は何にしよう!」
「そこからでございますか」
「大事でしょ!」
「もちろん大事でございます」
着替えることも忘れ、お茶会の話に夢中になっていると、夕食の時間になってしまった。その日は、制服姿のまま夕食をとることにした。
その晩の夕食は、アカデミーの話でもちきりになった。
「お姉様、制服、すてき……!」
十一歳になったリアは、ラヴェリナが食堂に入った瞬間から目を離さなかった。
義母のセシリアが「リア、スープが冷めますわよ」とたしなめても、視線は紺の上着に張りついたままだ。
「リアも二年したら着られるよ」
「二年……長いです」
「あっという間だよ」
父は黙ってナイフを動かしていたが、ラヴェリナが組分けの話から講堂の天井の高さまで一通り喋り終えるのを待ってから、ぽつりと言った。
「……よく似合っている」
それだけで、ラヴェリナはその日の二度目のお祭りを迎えた。
夕食のあと、離れに戻ったラヴェリナは二通の招待状を書いた。お菓子の案は、便箋より長くなった。
◇ ◇ ◇
「ようこそ!」
数日後の午後。
応接室の扉を開けると、アイリスとミネットが並んで立っていた。
「お招きありがとうございます、ラヴェリナ様」
「来たわよ」
ミネットは小さな花束を、アイリスは領地から送られてきたという干し果物の包みを差し出した。
二人を長椅子に案内しながら、ラヴェリナは背後の扉を意識しないように努めた。
あの向こうには今、妖精たちが勢揃いしているはずだ。絶対に出てこないこと、声も出さないこと。朝から十回は言い聞かせてある。
「素敵なお部屋ですね」
ミネットが室内を見回した。
「ありがとう」
「離れで暮らしているって聞いていたけれど、思っていたより普通ね」
アイリスの感想に、ラヴェリナは眉を寄せる。
「……何を想像してたの?」
「もっと変わった部屋」
「失礼ね!」
そのとき、背後の扉の向こうで「押すなって」とかすかな声がした。ラヴェリナは大きく咳払いをした。
「ラヴェリナ様、お風邪ですか?」
「ううん、ちょっと喉が! メアリー、お茶をお願い!」
アイリスの予想は、扉一枚隔てた向こうでは、だいたい正しい。
メアリーが運んできたのは、紅茶と、小さな陶器の器に入った黄色いお菓子だった。卵と牛乳と砂糖を蒸して固め、焦がした砂糖を上からかけたもの。
前世ではコンビニでいつでも買えたのに、この世界ではどこを探してもなかったので、作った。
「これ、ラヴェリナが考えたお菓子?」
アイリスが匙を手に取る。
「そう! なんで分かったの?」
「見たことないから」
「……ああ、そう」
ミネットが一口食べて、目を丸くした。
「ぷるぷるしてます……! 甘くて、少しほろ苦くて、美味しいです」
「でしょ?」
「ラヴェリナ様は、どうしていろいろなものを思いつかれるのでしょう」
「えへへ」
理由は言えないので、笑ってごまかす。
三人の話は、組の担任の癖のある話し方から、魔法史の先生の眠くなる声、寮に入った同級生の噂まで、とりとめもなく広がった。
やがてそれが読書に行き着いたのは、この三人なら自然な流れだった。
「アイリスって、普段どんな本読むの?」
「冒険記とか、魔物の生態の本」
「やっぱり」
「どういう意味よ」
「アイリスっぽいってこと。ミネットは?」
「恋愛のお話が好きです。それから、旅行記も。行ったことのない土地の話を読むと、自分も旅をしている気持ちになれるので」
そこでミネットが、首をかしげてラヴェリナを見た。
「ラヴェリナ様は? いつもたくさん読んでいらっしゃいますよね」
「私は……」
ラヴェリナは、言葉を切った。
いつか、この二人には見せたいと思っていたのだ。自分が書いた小説と、妖精たちと一緒に作ってきたコミックを。
もちろん、妖精のことまで話すつもりはない。コミックの絵は、離れのメイドたちに手伝ってもらって描いている。外向けには、そういうことにしてある。
「……二人とも、絶対に秘密にしてくれる?」
急に声を落としたラヴェリナに、二人が姿勢を正した。
「内容による」
「アイリス!」
「冗談よ」
「もちろんです。誰にもお話ししません」
ミネットが真剣な顔で頷く。アイリスも、組んでいた腕をほどいた。
ラヴェリナは一度扉のほうを確かめてから、小さな声で打ち明けた。
「実はね。私、小説を書いてるの」
ミネットの匙が、器の上で止まった。
「ラヴェリナ様が? 読むだけではなくて?」
「書くのも好きなの」
「どんな話?」
アイリスが身を乗り出した。
「いろいろ! ちょっと待ってて!」
ラヴェリナは奥の扉の隙間に体を滑り込ませ、すぐに閉めた。
扉の内側では、十数人の妖精たちが一斉に口を開きかけていたが、ラヴェリナが人差し指を唇に当てると、全員がぴたりと両手で口を押さえた。
棚から選び抜いた数冊を抱えて応接室に戻り、テーブルの上に並べる。
手書きの文字でぎっしり埋まった小説の冊子。そして、それよりも少し大判の、絵が描かれた冊子。
「こっちは何?」
アイリスが大判のほうを手に取った。
「物語を絵で読めるようにしたもの。コミックっていうの」
「絵本?」
「ちょっと違うの。場面ごとに絵を枠で区切って、登場人物がしゃべってる言葉はこの丸い囲みの中に書いて……」
アイリスはぱらぱらとページをめくり、しばらく黙ってから言った。
「……面白そう」
「でしょ! 話は私が作って、絵はメアリーたちにも手伝ってもらってるの」
「メイドが?」
「みんな絵が上手なの!」
お茶のおかわりを運んできたメアリーが、ポットを置く手を一瞬止め、それから窓の外へ視線を逃がした。
実際に筆を握っているのは、ほぼ妖精である。
「でも恥ずかしいから、見せるのは二人だけだからね!」
「分かった」
「誰にも言いません」
そして二人は、読み始めた。
◇ ◇ ◇
応接室が、静かになった。
紙をめくる音だけが、規則正しく続いている。ラヴェリナは紅茶のカップを両手で包んだまま、飲むのも忘れて二人の顔を盗み見ていた。
妖精たちも、クロードも、メアリーも、離れのみんなは面白いと言ってくれる。でも、それは身内の贔屓目かもしれない。外の人が読んだら、どう思うのだろう。
カップの紅茶が冷めきった頃、ミネットが顔を上げた。
「ラヴェリナ様」
「な、なに?」
「続きは?」
「……え?」
「この続きです。あるのでしょうか。ないと困ります」
「ある! あるよ!」
「貸していただけますか?」
「もちろん!」
その隣で、アイリスはまだコミックを読んでいた。
読んでいたのだが、様子がおかしい。肩が小刻みに揺れている。
「……ふっ」
「アイリス?」
「……ふ、ふふ」
ページが一枚めくられた、その瞬間。
「っ……あははははは!」
「えっ!?」
アイリスが吹き出した。三年の付き合いで、アイリスがこんなふうに声を上げて笑うのは初めてだった。
「ちょっと、これ……これ、この前の!」
「しーっ!」
「だって!」
アイリスが指差したページには、お茶会の席で令嬢が紫色の果汁を浴びせられ、その果汁がドレスの上をころころと転がり落ちていく場面が描かれていた。三年前の出来事を元に作った一冊だ。
「ほとんどそのままじゃない!」
「ちゃんと変えてるよ!」
「どこを!?」
「名前!」
「そこだけ!?」
アイリスはテーブルに突っ伏して笑った。
「しかも、この果汁をかける令嬢の顔……!」
「それはモデルとかじゃないからね!?」
「誰が描いたの?」
「メ、メアリーたち!」
「……あとで褒めておくわ」
部屋の隅で、メアリーがなんとも言えない顔をした。
「それにしても、この王子。全然似てない」
「そこは適当でいいの!」
「どうして?」
「主役じゃないから」
「王太子殿下なのに?」
「この話ではただのお茶会要員!」
「ひどい」
アイリスはついにお腹を押さえ始めた。何事かとミネットが横から覗き込み、ページを追ううちに口元を手で覆う。
「ミネットまで!」
「申し訳ありません。でも……」
ミネットは目尻を指で拭いながら、少しだけ声を落とした。
「これを読んでいると、あの頃のお茶会も、少しだけ楽しい思い出に思えてくるんです」
ラヴェリナは、冷めた紅茶を一口飲んだ。
ミネットにとって、あのお茶会は俯いて耐えるだけの場所だったはずだ。そのミネットが、今は笑いながら同じ席を振り返っている。
「……でしょ?」
前世から、ラヴェリナが物語を好きだった理由の一つが、たぶんこれだった。嫌だったことも、腹の立ったことも、紙の上に移してしまえば、ときどき笑える形に変わる。
◇ ◇ ◇
気づけばテーブルの上の焼き菓子はほとんど手つかずのまま、三人は冊子の山を囲んでいた。
「これも借りていい?」
「いいよ!」
「私はこちらの続きを……あの、こちらも……」
「全部持ってって!」
アイリスが冊子を胸に抱えて首をかしげた。
「返すのは、次に会ったとき?」
「あ、ちょっと待って。貸出帳に書いてもらわないと」
ラヴェリナは棚から、使い込んだ帳面を取ってきた。離れで本を貸し借りするときのために作ったもので、表紙の角はすっかり丸くなっている。
開いたページを覗き込んだアイリスが、眉をひそめた。
「……名前がずらっと並んでるんだけど」
「え」
「メアリー、ベティ、メアリー、クロード、ベティ……。この『クロード』って、あの執事さん?」
「それは、その、みんな絵を手伝ってくれてるから、確認のために!」
「二人だけの秘密ではなかったのですか?」
ミネットの素朴な問いに、応接室が一瞬静まり返った。
「と、とりあえず!」
ラヴェリナは帳面を勢いよくめくり、まっさらなページを開いた。
「離れの外では二人だけ! ここからは新しいページ!」
「分かったわ」
「秘密にいたします」
二人の名前が、まっさらなページの一行目と二行目に書き込まれた。
夕暮れが窓を橙色に染める頃、アイリスとミネットはそれぞれ両腕いっぱいに冊子を抱えて、応接室を出ていった。
「次のお茶会までに、新作はある?」
玄関先で、アイリスが振り返って言った。
「えっ」
「私も楽しみにしています」
「ちょっと待って! 締め切りみたいに言わないで!」
笑い声を残して、馬車が門を出ていく。
ラヴェリナは手を振りながら、胸の奥がくすぐったいような気持ちで息を吐いた。
友達に読んでもらうのは、こんな感じなのか。
扉が閉まった、その直後だった。
「どうだった!?」
「笑ってた? 笑ってたよね!?」
「どこで笑ってた!?」
「待って、一人ずつ!」
奥の扉が内側から弾けるように開き、妖精たちが雪崩を打って飛び出してきた。ラヴェリナの頭の周りを、羽音がぐるぐると取り囲む。
その輪の中から、ルルがずいと前に出た。
「おい。王子が全然似てないって言われてただろ」
「聞こえてたの?」
「全部聞こえてたっつーの。言っとくけどな、あれは似せなかったんだよ。わざとだ」
「知ってる」
「なんで似せなかったか分かるか」
「……なんで?」
「似せたらムカつくからだ」
「どういう理由!?」
「アイリスって子、よく笑うねー」
ポロが、ラヴェリナの肩の上でのんびりと言った。
「ちゃんと面白いって分かる子なのー。僕、あの子好きー」
「ふふ。私も」
ラヴェリナは貸出帳を胸に抱え直した。一番新しいページには、見慣れない二つの筆跡が並んでいる。
「よし、みんな! 新作会議するよ!」
「締め切りはー?」
「次のお茶会まで!」
「言われてんじゃねーか」
ルルの冷静な指摘に、アトリエのほうから一斉に笑い声が上がった。




