第20話 防水加工、ついに本番を迎える
毎日7:00・12:00の1日2話で予約投稿更新中
本作は完結まで執筆済みです。
最終話まで更新が止まることはありませんので、ご安心してお楽しみください。
ミネットから最初の手紙が届いたのは、あのお茶会から五日後のことだった。
『先日は、本当にありがとうございました。あの日の帰りの馬車で、私は生まれて初めて、鼻歌というものを歌いましたわ』
淡い水色の便箋に、小さくて丸い字が行儀よく並んでいた。
ラヴェリナはすぐに返事を書いた。お礼の手紙から始まったやりとりは、あっという間にお茶会とは関係のない話へ広がっていった。
最近読んだ本のこと。好きなお菓子のこと。ハートウェル家の庭の薔薇が今年はやけに元気なこと。刺繍の先生の口癖が「まあ、なんということでしょう」であること。
そして時々、候補ではなくなったからこそ書ける、王宮のお茶会の話。
『実は、イザベラ様のあの話し方、最後まで少しだけ羨ましかったのです。あんなふうに、言いたいことを全部言えたら、どんなに楽でしょうと。もちろん、内容は真似したくありませんけれどね』
「……ミネット様、普通にお話しすると可愛い人なんだよねぇ」
離れの居間で、ラヴェリナは畳もどきに寝転がって便箋を掲げた。
お茶会では、いつも俯いて小さくなっていた人だけれど、手紙の中のミネットは、ときどき冗談を言い、思っていたよりずっとおしゃべりだった。
三通目あたりからは、便箋が二枚になり、五通目では三枚になった。
「ラヴェリナ、にやにやしてるー」
「してない」
「してるよー」
ポロに頬をつつかれながら、ラヴェリナは便箋を大事に畳んだ。
婚約者候補がひとり減った。その代わりに、友達がひとり増えた。算数としては、たぶん釣り合っている。
◇ ◇ ◇
離れのアトリエでは、危機回避計画第一号が大詰めを迎えていた。
「テテクの樹液、第十四回試験はじめます」
ラヴェリナは手帳を開き、作業台の上に並んだ布切れを見下ろした。
ポロが森から運んできてくれた樹液は、琥珀色でとろりとしていて、たしかに水を弾いた。弾きはした。ただ、そのまま布に塗ると、とんでもないことになった。
第一回の布は、乾いたら板のようにカチカチになっていた。持ち上げて振ると、ぱたぱたと風が発生する。
第三回の布は、薄い水色が見事な茶色に染まった。
第五回の布は、部屋に干していたため、熟れた果物と松脂を混ぜて煮詰めたような匂いが……充満した。クロードが無言で窓を全部開け、妖精たちは三日間アトリエに寄りつかなかった。
「何を書いていらっしゃるのですか?」
メアリーが、作業台の隅の手帳を覗き込む。失敗の記録のページは、防水加工だけでもう十ページを超えていた。
「失敗も大事なデータだからね」
そこからは地道な作業だった。
樹液を水で薄める。薄めすぎると、水を弾かなくなる。濃くすると、また板のようになる。割合を樹液一に対して水が五のときは布が固くなり、十だと弾く力が弱い。七と八の間を繰り返しながら、ようやく丁度良い割合を見つけた。
『樹液一に水七、ほんの少しの酢』
酢を入れると、なぜか匂いが消えて、色も変わらなくなった。
「なんで酢を入れたら上手くいったの?」
「分かんない」
「分かんないのに入れたの!?」
「前世――じゃなくて、なんとなく、匂い消しといえば酢かなって」
ルルがじろりと見てきたが、メアリーは気づいていなかった。危ない。危ない。
塗り方にも工夫がいった。刷毛で塗るとむらになる。浸すと使いすぎる。
最終的に落ち着いたのは、薄めた液を霧のように吹きつけて、ゆっくり乾かすやり方だった。
霧吹きの容器は、クロードが街の香水屋から空き瓶を仕入れてくれた。
「予算の項目は『お嬢様の身だしなみ用品』にしておきました」
「間違ってはいないね」
「正確な分類でございます」
そして今日。
第十四回の布は、見た目も手触りも、加工前とほとんど変わらなかった。薄い水色のまま、やわらかく指に沿う。鼻を近づけても、かすかに森の匂いがするだけだ。
「じゃあ、いくよ」
「はい」
メアリーが水差しを傾けた。
ぽたり、と水滴が一つ、布の上に落ちる。
染み込まない。
水滴は丸い粒のまま布の上に乗っていて、ラヴェリナがそっと布を傾けると、ころん、と転がって作業台に落ちた。
「……っ、やったぁ!」
ラヴェリナは両手を突き上げた。
「防水加工、完成!」
「確かに弾いておりますね」
いつの間にか後ろにいたクロードが、布を持ち上げて裏まで確かめる。
「これなら、多少飲み物をこぼされても」
「大丈夫! 防御魔法は張りっぱなしにできないから、不意打ちにはこっちの方が強いんだよ」
「……とはいえ、そのような場面があるとは思えませんが」
「備えあれば憂いなしだよ!」
「お嬢様の場合、備えの方向がいささか独特だと思います」
「いいの!」
「やったねー、ラヴェリナー」
「ポロのおかげだよ!」
「えへへー」
この日から、王宮のお茶会など婚約者候補として出かけるときの衣装には、すべて防水加工が施されることになった。
◇ ◇ ◇
ミネットが候補を降りてからのお茶会は、しばらくは静かだった。
イザベラがずいぶん大人しくなった。王太子殿下の目の前でもミネットに嫌味を言い続けることが、どう見えていたのか、さすがに気づいたのだろう。取り巻きのカミラも、それに合わせて口数が減った。
平和だなぁ、とラヴェリナは思っていた。
しかし、平和はひと月ともたなかった。
「ラヴェリナ様は、ずいぶんと控えめな装いがお好きなのですね」
その日、イザベラはラヴェリナのドレスに目を留めた。
「そうですか?」
「ええ。公爵家のご令嬢ですもの、もう少し華やかでもよろしいのではなくて?」
「動きやすい方が好きなんです。このドレス、軽くて楽なんですよ」
「……まあ、そうですの」
にこり。そこで会話が終わった。
イザベラの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。ラヴェリナの目にもそれは映ったけれど、何も感じなかった。
嫌味だというのは分かる。分かるけれど、だから何なのだろう。このドレスは実際、軽くて楽なのは事実だ。しかも防水加工済みである。
イザベラの矛先は、今度はアイリスに向かった。
「アイリス様も、ずいぶん飾り気のないものがお好きですのね。せっかく王宮へいらしているのですから、もう少し装いに気を遣われても」
「動きにくいので」
「…………」
終了。
アイリスはそれだけ言って、焼き菓子をもう一つ取った。
ラヴェリナは、感動していた。自分以上に効いていない人がいる。
嫌味を言っても、傷ついた風でもない。怒りもしない。言い返しもしない。反応そのものが薄い。イザベラにとって、それは言い返されるよりずっと腹立たしいことらしかった。
お茶会のたびに、彼女の笑顔の端が、少しずつ引きつっていくのが分かった。
◇ ◇ ◇
そして、ある日のお茶会。
その日は、ぶどうを搾った濃い紫色の果汁が、細いグラスに注がれて出された。
ラヴェリナは焼き菓子をかじりながら、王太子殿下とアイリスの会話をぼんやり聞いていた。
殿下が何か尋ね、アイリスが「はい」「そうですね」と答え、会話がまた途切れる。殿下も大変だなぁ、と他人事のように思っていると。
視界の端で、イザベラとカミラが目を見交わした。
――ん?
次の瞬間、カミラがぶどう果汁のグラスを持ったまま、すっと席を立った。
ラヴェリナの頭の中で、警報が鳴った。
給仕なら部屋の隅にいる。グラスを持って自分で歩き回る理由はない。そしてカミラの進む先にあるのは、ラヴェリナの席だ。
いや、待って。まさか。そんな、お手本みたいな。
「きゃっ!」
カミラが、躓いた。
――ように見えた。
グラスが傾き、濃い紫の液体が、きれいな弧を描いてラヴェリナのドレスに向かってくる。
防御魔法を張る時間は、ぎりぎりあった。
けれどラヴェリナは、張らなかった。
だって、せっかく対策しているのだから試したい!
――来た!
本当に来た!
ぶどうジュース!
ばしゃり、とドレスの胸元から膝にかけて、果汁が降りかかった。
周りの令嬢も、侍女も、給仕も、全員が同じことを思ったのが分かった。
汚れる、と。
あんな濃い色だ。淡い水色のドレスなら、二度と落ちない大きな染みになる。
ところが、ぽろん、と一滴。
つるん、ともう一滴。
ぽろぽろぽろ、と紫色の粒が、ドレスの表面を転がり落ちていく。染み込む気配すらない。
丸い玉になった果汁が、スカートのひだを滑って、床の絨毯の上にころころと落ちていった。
「……え?」
誰かが漏らした声を最後に、サロンがしんと静まり返った。
ラヴェリナは、必死に口元を引き締めていた。
駄目。
笑っちゃ駄目。
今ここで笑ったら、絶対にまずい。
被害者が満面の笑みを浮かべていたら、いろいろなものが台無しになる。
でも、効いたのだ。
第十四回試験の布が、実戦で、完璧に。
「ラヴェリナ様!」
最初に我に返ったアイリスが、椅子から立ち上がり、ラヴェリナのそばにかけ寄る。
「大丈夫?」
「うん!」
「でも、服が……」
言いかけて、アイリスは眉を寄せた。
「えっ……濡れてない?」
「……ふふ、そうなの!……ふふふ」
ラヴェリナは嬉しさを隠しきれずに、満面の笑顔で袖を持ち上げてみせた。
「防水加工がしてあるの」
「ぼうすい?」
アイリスが、初めてはっきりと興味を示した。
「何、それ」
「液体を弾く加工。このドレスに、特別な樹液を薄めたものを吹きつけてあってね」
ラヴェリナは袖に残っていた最後の一滴を、指先でぴんと弾いた。
ころん、と紫の粒が落ちる。
「ほら」
アイリスの目が、わずかに見開かれた。
「雨も?」
「たぶん弾くよ」
「泥水は?」
「それも試してみたい!」
「狩りのときに使える?」
「え?」
「森に入ると、朝露と雨で服がすぐ濡れるの。濡れると重くなるし、冷える。うちの領地は森が深いから」
「あー!」
ラヴェリナの顔が、ぱっと明るくなった。
「それいい! 外套にも使えるよ、たぶん」
「靴は?」
「革にはまだ試してない!」
「試してほしい!」
「いいよ、やろう!」
いつの間にか、二人だけ猛烈に盛り上がっていた。
周りは完全に置いてけぼりだった。
とりわけ、ぶどう果汁をかける側にとっては、何から何まで想定外だったに違いない。
ラヴェリナの笑い声が聞こえると、イザベラの口元が、ぴくりと引きつった。
カミラは空のグラスを持ったまま、青い顔で、その場に立ち尽くしていた。
「カミラ嬢」
王太子殿下の、穏やかな声がした。
「……は、はい、殿下」
「怪我はない?」
「はい……」
「それはよかった」
殿下は、いつもの人当たりのいい笑顔を浮かべていた。
「ただ、飲み物の入ったグラスを持ったまま、席の間を歩くのは危ないね。今回はラヴェリナ嬢の衣装が汚れなかったからよかったけれど。次からは、給仕に頼んだ方がいい」
カミラの顔から、さっと血の気が引いた。
「……申し訳、ございません」
「うん」
殿下はそれ以上、何も言わなかった。責めもしないし、問い詰めもしない。ただ、にこやかにカミラを見ていた。
イザベラは黙って紅茶に手を伸ばした。その手が少しだけ震えていたことに、ラヴェリナは気づかなかった。
なにしろ、それどころではなかったのだ。
「外套に使うなら、少し濃いめにした方がいいかな」
「森だと枝に擦れる」
「じゃあ耐久性もいるね! 何回くらい擦れたら落ちるか試さないと」
「雨が強くても落ちない方がいい。一日じゅう降る日もあるから」
「なるほど! メモしていい?」
「どうぞ」
ラヴェリナは手帳を取り出した。
お茶会の席で手帳を広げる公爵令嬢は、たぶん王国史上初である。
◇ ◇ ◇
お茶会が終わる頃には、ラヴェリナとアイリスはすっかり意気投合していた。
「今度、試した布を持ってくるね」
「楽しみにしてる」
「外套の試作品もできたら送る! 森で試して、感想聞かせて!」
「任せて」
アイリスが、ほんの少しだけ口の端を上げると、ラヴェリナは、思わずまじまじとその顔を見た。
「……何?」
「アイリス様って、笑うんだなって」
「失礼ね」
「ご、ごめん!」
アイリスは呆れたように肩をすくめて、それから今度は、はっきりと笑った。つられてラヴェリナも笑った。
「アイリスでいいわ。様はいらない」
「じゃあ、私もラヴェリナで!」
「今さらでしょ。さっきからずっと、敬語が抜けてるよ」
「えっ」
ラヴェリナは慌てて口を押さえたが、もちろん手遅れだった。
◇ ◇ ◇
馬車寄せへ向かう令嬢たちを見送ってから、王太子は私室へ戻る廊下をゆっくりと歩いた。
今日のお茶会で、イザベラとカミラが視線を交わしたのは一度や二度ではなかった。
果汁が注がれたとき、
ラヴェリナが焼き菓子に手を伸ばしたとき、
アイリスが相槌で会話を終わらせたとき。
何か仕掛けるつもりだということは、最初から見て取れていた。
それでも止めなかったのは、何をするつもりなのか見極めたかったからだ。危険なことなら、もちろん止める。けれど、そこまでではないなら少し様子を見てもいい。
そう踏んでいたが……
果汁が飛んだ瞬間に「汚れる」と腰を浮かせかけたところで、あれを見せられた。
その後のカミラへの言葉もしっかり選んだ。
まず怪我はないかと尋ねて、あれは事故だったという逃げ道を用意する。そのうえで、グラスを持って歩くのは危ないと付け加える。
わざとだろうと問い詰めれば、イザベラとの関わりまで洗い出すことになり、侯爵家と伯爵家を巻き込んで、お茶会の席で裁きを始めることになる。
そこまでする必要はない。
見ていたと分からせれば、それで十分だ。
血の気の引いたあの顔を見るかぎり、同じような真似はもうしないだろう。
惜しいのは、念写の水晶を持ってきていなかったことだった。
わざとらしい躓き方も、絨毯へ転がり落ちる紫の粒も、頬の内側を噛んで笑いを堪えていたラヴェリナの顔も、写しておけばいろいろな意味で役に立っただろう。
いろいろな意味で、というところは、深く考えないことにした。
それから、アイリス。
何度話しかけても――
「はい」
「そうですね」
「存じております」
しか返ってこなかった令嬢が、防水加工のひと言であれほど喋った。
何にも興味がないわけではない。興味のない話に、本当に興味がないだけなのだ。狩り、森、それから実際に役に立つもの。
話題さえ選べば、会話は成り立つ。覚えておこう、と王太子は思った。
ただ、それを教えてくれたのが、自分ではなくラヴェリナだったことには、少し複雑なものを感じた。
ラヴェリナは、ミネットと候補を外れたあとも手紙のやりとりを続けていると聞いている。
そして今日は、アイリスとあっという間に距離を縮めた。アイリスがあんなふうに笑う顔を、王太子は一度も向けられたことがない。
婚約者候補を集めたお茶会のはずなのに、自分との距離より、候補同士の距離の方が縮まっていく。
その真ん中にいるのがラヴェリナで、しかも本人には、そのつもりがまるでない。婚約者の座を争っているという意識がないからこそ、できるのかもしれなかった。
もうひとつ、引っかかっていることがある。
果汁がかかったあの瞬間、ラヴェリナは明らかに嬉しそうだった。ようやく試す機会が来た、という顔だ。たまたま防水加工のドレスを着ていたわけではない。
つまり、こういう嫌がらせを受けることを、前もって想定していた。
十歳の令嬢が?
王太子は廊下の途中で足を止めた。
窓の向こうでは、公爵家の紋の入った馬車が、門の外へ小さくなっていくところだった。
その夜、王太子は侍従をひとり呼んだ。
「今日のラヴェリナ嬢の衣装について、少し調べてもらえるかな。表面に、何か加工がしてあった」
「衣装、でございますか」
「うん。大事にはしなくていい。どこで作られたものか、知りたいだけだから」
「かしこまりました」
侍従が下がると、部屋はしんと静かになった。
婚約者候補を知るのは、王太子の務めだ。
だから衣装の出どころを調べさせるのも、あの笑いを堪えた顔を寝る前にもう一度思い出してしまうのも、すべて職務の一環だ。
――決して、興味という私情ではない。
少し苦しい気もしたが、そういうことにしておこう。
◇ ◇ ◇
「ただいまー!」
離れの扉を、ラヴェリナはいつもより勢いよく開けた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「随分とご機嫌でございますね」
クロードとメアリーが迎えに出る。
ラヴェリナは室内履きに履き替えるのももどかしく、片足で跳ねながら叫んだ。
「聞いて、聞いて! 防水加工、役に立ったよ!」
クロードの動きが、ぴたりと止まった。
「……まさか」
「ぶどうジュース、かけられた!」
「本当に!?」
メアリーが、普段の彼女からは想像もつかない大きな声を出した。
「ほんと!」
「わざと、でございますか?」
「たぶんね」
クロードとメアリーが、無言で顔を見合わせる。
危機回避計画を聞かされたあの日、「飲み物をかけられるかもしれない」というお嬢様の言葉を、二人とも本気にはしていなかった。
貴族のご令嬢が、王宮で、王太子殿下の目の前で、そんなことをするはずがない、と。
「……いらっしゃるのですね。そういう方が」
メアリーが、呆然と呟いた。
「言ったでしょ!」
「お嬢様」
クロードが、改まった顔になった。
「今後は、お嬢様のお話をもう少し真面目に伺うことにいたします」
「今まで真面目に聞いてなかったの!?」
「伺ってはおりました」
「今、もう少しって言ったよね?」
「……半信半疑では、ございました」
「もう!」
「ねえねえ、ぶどうジュース、ほんとに弾いたー?」
ポロが、居間の方から飛んできた。その後ろから、妖精たちがわらわらと集まってくる。
「弾いたよ! ころころって!」
「すごーい! テテクすごーい!」
「どうやってかけられたんだよ」
「転んだふり?」
「それでそれで?」
ラヴェリナは居間の畳もどきに座り込み、最初から全部話した。
イザベラとカミラの目配せ、カミラが立ち上がった瞬間の嫌な予感――
わざとらしい「きゃっ」
紫の粒がころころ転がっていったときの、
サロンの静けさ。
笑いを堪えるのがどれだけ大変だったか。
そしてアイリスのこと。
途中から、メアリーの顔つきが妙に楽しそうになっていった。
「お嬢様」
「なあに?」
「これ、小説にしたら面白いのではございませんか?」
居間が、一瞬静かになった。
ラヴェリナが止まった。妖精たちも止まった。
「……それだ!」
「描く!」
「俺、ジュースかけるとこ描きてー!」
「わたし、ころころのとこ!」
「悪役の顔はー?」
「すっごく悔しそうにしよう!」
「待って待って、モデルそのままは駄目だからね! 名前も変えるし、髪の色も変えるし、ぶどうジュースは……ワインにしよう! 大人の夜会の話にする!」
「王子はー?」
「王子は……適当に!」
「適当なのかよ!」
あっという間に、居間は制作会議の場になった。
その夜、ラヴェリナは早速、新しい物語を書き始めた。
夜会で赤ワインを浴びせられた令嬢が、なぜか一滴も濡れずに微笑み、居並ぶ貴族たちの度肝を抜く話だ。妖精たちはその横で、どの場面を見開きにするかで早くも揉めていた。
数日後、小説が完成した。
さらにその十日後には、妖精たちの手でコミック版まで出来上がった。
二冊は離れの貸出棚に並べられ、ラヴェリナは居間の真ん中で高らかに宣言した。
「新刊、入りました!」
翌朝、ラヴェリナが貸出帳を開くと、新刊の欄の一番上には、すでに几帳面な字で名前が書き込まれていた。
クロード。
日付は、昨夜の遅い時刻になっていた。




