第19話 六分の一から、五分の一へ
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最初のお茶会から、何か月かが過ぎた。
王太子と婚約者候補たちの交流は、月に何度か、王宮の庭園やサロンで続けられている。
その中でラヴェリナは、最初に決めた方針をきっちり守っていた。
目立たない。
出しゃばらない。
けれど、公爵令嬢として恥ずかしくない振る舞いをする。
殿下に話しかけられれば、微笑んで過不足なく答える。沈黙しかけたら、隣の令嬢に話を振って自分は一歩下がる。
前世で読んだ物語なら、名前すら出てこないモブ令嬢の立ち位置だ。ラヴェリナはこの立ち位置を、たいへん気に入っていた。
――少なくとも、ラヴェリナ本人は……
◇ ◇ ◇
緊張というのは、いつまでも続かないものである。回を重ねるうちに候補者たちは少しずつ素が出始めた。いちばん変わったのは、イザベラ・ドルトン侯爵令嬢だった。
「まあ、ミネット様。その刺繍、ご自分で?」
その日、イザベラはミネットの手元のハンカチに目を留めた。
「……はい」
「そうなのですね。少し糸が不揃で、てっきりまだ練習中のものかと思いましたわ。まあ、味があってよろしいのではなくて?」
にこりと、花のような笑顔。ミネット・ハートウェル伯爵令嬢は、ハンカチをそっと膝の上に隠した。
始まった、とラヴェリナは紅茶のカップの陰で思う。
最初の頃のイザベラは、ドレスの仕立てや習い事の進み具合などの嫌味を、会話にさりげなく混ぜる程度だった。それが回を追うごとに露骨になり、いつも声の小さいミネットが標的になった。
「ミネット様は、まだ古代語のお勉強を始められていないのですって? もちろん、ご家庭によって教育方針は違いますもの。仕方のないことですわ」
仕方のないことですわ、の言い方がすごい。一言も悪口を言っていないのに、聞き終わったあとには相手の家ごと見下したようになっている。
前世の物語で何度も読んだ、お手本のような嫌味だった。
隣にいるカミラ・ベック伯爵令嬢は、イザベラに合わせて一緒に笑っている。ヴィオラ・ランベール公爵令嬢は優雅にカップを傾けたまま、加わりもしなければ止めもしない。アイリス・グランツ辺境伯令嬢に至っては、全く目をくれず、三つ目の焼き菓子に手を伸ばしていた。
ミネットは言い返すことができず、俯き、肩をすぼめ小さくなっていた。だからイザベラはますます調子に乗りエスカレートしていった。
ラヴェリナは、そっと王太子殿下をうかがってみる。目の前で行われていることに、気づいていないはずがない。なのに殿下は、いつもの穏やかな微笑みのまま紅茶を飲んでいた。
次のお茶会でも、その次でも、殿下は同じだった。
◇ ◇ ◇
そして、とうとう……
「ミネット様は、本当に大人しくていらっしゃるのですね。王太子妃になれば、外国からのお客様をお迎えすることもございますでしょう? そんなに小さなお声では、少々心配ですわ」
「…………」
「まあ、これから精進なさればよろしいのでしょうけれど」
ミネットの顔が目に見えて曇っていった。膝の上で握りしめた手が白くなっている。
それでも、殿下は何も言わなかった。
ラヴェリナはカップをソーサーに置いた。かちり、と自分で思ったより硬い音がした。
「殿下」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「ん?」
「どうして、ご自分の婚約者候補が嫌味を言われているのに、何もおっしゃらないのですか?」
「……ラヴェリナ様?」
イザベラは目を見開いた。サロンの空気が、重く冷える。
頭のどこかで令嬢ラヴェリナが「やめなさい」と叫んでいるが、止まらなかった。
「咎めることもなく、かばうこともなく、ずっと黙って見ていらっしゃいますよね。殿下の婚約者になるということは、将来のパートナーになるということでしょう? でしたら、その相手が困っているときに手を差し伸べることも――」
「ラヴェリナ嬢」
静かな声が、言葉の途中に差し込まれた。
いつもよりやわらかいくらいの声だった。それなのに、ラヴェリナの声はそこでぴたりと止まり、それ以上、言葉は出てこなかった。
「はい」
「僕の婚約者になるということは、未来の王妃になるということだ」
殿下の声音は穏やかなままだった。
「王妃になれば、今日のような言葉よりもっと酷いことを言われるかもしれない。国内の貴族だけじゃない。外国の使節や王族と接することもある。はっきりとした悪意を向けられることだってあるだろう。その度に、僕が隣から助けなければ立っていられない人では、困るんだ」
殿下の視線が、ミネットに移った。
「だから、見ていた」
「……見ていた、のですか」
「うん。もちろん、本当に危ないことをされれば止めるよ。でも、嫌味を言われたときにどうするのか。それくらいは自分で対処できる人でなければ、僕の婚約者には向かないと思っている」
ラヴェリナは言葉を失った。
見て見ぬふりではなかった。見ていたのだ。最初から、全部。十一歳の男の子が、紅茶を飲むふりをしながら。
前世の自分の勘が囁く。この人、やっぱり腹黒策士だ。
「ミネット嬢。君はどう思う?」
ミネットは膝の上で手をぎゅっと握った。長い沈黙ののち……
「私は、殿下のおっしゃるような強さを、持ち合わせておりません」
声は小さい。けれど、これまでのどのお茶会で聞いた声よりも、はっきりしていた。
「王太子妃というお立場を務めるのは、私には難しいと思います」
「そうか。では、僕の婚約者候補を降りるということでいいかい?」
「はい。そのようにお願いいたします」
「分かった。父上には僕から報告しておくよ。短い間だったけど、ありがとう。ミネット嬢と話せてよかった」
「私も、王太子殿下とお茶会をご一緒できましたこと、嬉しく思います」
ミネットは立ち上がり、ドレスの裾をつまんで丁寧に一礼すると、背筋を伸ばしてサロンを出ていった。
扉が閉まる。
ラヴェリナは、カップを持ったまま固まっていた。
え。待って。もしかして、私が、きっかけ?
背中を、冷たい汗がつうっと流れていった。
◇ ◇ ◇
殿下は何事もなかったように会話を戻し、イザベラもさすがに勢いを失っていた。ヴィオラは相変わらず優雅で、アイリスは相変わらず菓子を食べていた。
その後のラヴェリナは、紅茶を飲んでも全く味がしなかった。
私が殿下を責めるような言い方をしたから、話が妙な方向に転がったのではないか。
黙っていれば、ミネット様はまだ候補でいられたのではないか。様々な思考が飛び交う。
焼き菓子をひとつ手に取ってみたが、結局そのまま皿に戻した。
謝らなきゃ。
お茶会が終わるやいなや、ラヴェリナは殿下への挨拶をどうにか礼儀の範囲に収めてサロンを出た。王宮の長い廊下を、走らない程度の早足で進む。控え室にも玄関ホールにもいない。
馬車の停泊場まで出たところで、ようやく見つけた。ハートウェル伯爵家の紋章がついた馬車のそばに、ミネットがひとりで立っていた。
「ミネット様……!」
「ラヴェリナ様!」
ミネットはぱっと顔を上げ、なぜか向こうから小走りで駆け寄ってきた。
「よかった、お待ちしていたんです!」
「え? あの、ミネット様、私――」
「ありがとうございました!」
「……はい?」
謝罪の言葉を並べる前に、感謝を述べられ、深々と頭を下げられた。
「ラヴェリナ様のおかげで、候補を降りることができました。私、ずっと思っていたんです。王太子殿下の婚約者なんて、私には無理だって」
顔を上げたミネットは、ほっとしたように笑っていた。
「皆様とお話しするだけでも精一杯でした。王太子妃になれば、国を代表してお話しすることもあるでしょう? 絶対に向いていないって、ずっと思ってました」
「だったら、辞退すれば……」
「それができなかったんです。王家から選んでいただいた候補を自分から辞退するなど、とんでもないと父に言われまして」
「……ああ」
覚えがある。
婚約者候補の知らせが来た日、「お断りすることは……」と言いかけて、父に「できるわけがないだろう」と一刀両断された、あのときの自分だ。
「ですから、殿下から直接お尋ねいただけて、助かりました」
「でも、私が余計なことを言ったから……」
「余計なんかじゃありません!」
ミネットは、今まで聞いたことのない強い声で言った。
「私ひとりでは、きっとずっと言えませんでした」
謝るつもりで来たのに、なぜか感謝されている。
ラヴェリナはしばらく口をぱくぱくさせてから、ようやく言った。
「……ど、どういたしまして?」
「ふふっ」
ミネットが声を立てて笑った。お茶会の席では一度も見たことのない、明るい笑顔だった。
「今度お会いしたときは、普通のお友達としてお話ししてくださいますか? お手紙も、書いてもいいですか?」
「はい是非! 私からも書きますね!」
ミネットの馬車が停泊場を出ていくのを、ラヴェリナは手を振って見送った。胸のつかえが下りて、ほうっと息を吐いた、そのとき。
頭の中で、前世の算数の授業がふいに再生された。婚約者候補は最初六人。選ばれるのはその中の一人だから、六分の一。それが今日、一人減って、五人の中から一人になった。
ラヴェリナの顔から、すっと笑顔が消えた。
「……確率、上がった」
ぽつりと呟いた声に、答える者はいなかった。
背景に徹するはずだった。
モブ令嬢のはずだった。
なのに、結果として、自分の手でライバルを一人減らしてしまった。
帰りの馬車の中で、ラヴェリナは何度も指を折って数えた。何度折っても、答えは五分の一にしかならなかった。
◇ ◇ ◇
「ミネット嬢は停泊場にて、ローデンベルク公爵令嬢とお話しされておりました。たいへん明るいご様子で、その後お二方とも問題なくお帰りになりました」
侍従の報告に、王太子は「そう。ありがとう」とだけ返した。
お茶会のあと、礼だけは非の打ちどころなくこなし、かなりの早足でサロンを出ていった令嬢がいた。走ってはいない。ぎり走ってはいない。彼女を追いかける理由がなかったので、代わりにミネット嬢の帰りの様子を確認させた。
やはり、探しに行っていたようだ。自分のせいだと思って謝りに行き、逆に礼を言われて目を白黒させたのだろう。見ていないのに、その顔が目に浮かぶ。
人の減ったサロンで、王太子は冷めた紅茶を一口含んだ。
見ていた理由は、あの場で話したとおりだ。ただ、話していないこともある。イザベラ嬢は最初の頃、僕の前でああいう物言いはしなかった。それが回を重ねる毎に露骨になったのは、「王太子は止めない」と学んだからだろう。どこまで踏み込むかを見れば、その人なりが分かる。
黙って観察していたヴィオラ嬢、顔色をうかがうだけのカミラ嬢、菓子を食べ続けていたアイリス嬢、みんなを同じように見ていた。
そして、ラヴェリナ嬢は怒っていた。
普段は一歩引いて、話しかければ完璧な笑顔で完璧な答えを返し、それ以上は踏み込んではこない。六人の中でいちばん読みにくい令嬢が、あのときは眉間にかすかな皺を寄せ、ソーサーをかちりと鳴らした。
来るな、と思ったら、やはり来た。
困っているときに手を差し伸べることもできないのですか。その先は、たぶん、そんなことで王太子としてよろしいのですか、だったはずた。彼女の目は、そこまで行きかねない色をしていた。
中身が問題なのではない。場所が悪いのだ。候補たちがいて、その後ろに侍女がいて、扉の脇には護衛、壁際には給仕の使用人が並んでいる。耳が多すぎる。十歳の令嬢の言葉とはいえ、公の場で王太子を正面から批判した、という形で話が広まれば、火の粉は本人だけでなくローデンベルク公爵家にまで及ぶ。
王宮の廊下には、そういう話を好んで運ぶ人間がいくらでもいるのだ。
だから、ラヴェリナが言い切る前に名を呼んだ。止まった瞬間、間に合った、と胸の内で呟いたが、顔には出していない。あとは問いに答える形で説明に切り替えればいい。周りの耳には「ラヴェリナ嬢が尋ね、王太子が答えた」としか残らない。
本当に危ないことなら止める、という一言は、イザベラ嬢に聞かせるためのものだった。
ミネット嬢のこともそうだ。王家の側から選んだ候補を、伯爵家の方から辞退するのは難しい。家の格を思えば、王家の面子に泥を塗るのと変わらない。だったら、こちらから道を作ればいい。王太子が尋ね、本人が答え、王太子が認めた。それなら誰の面子も傷つかない。
向いていない場所に、無理に押し込む必要はないのだから。
問題は、ラヴェリナ嬢の方だった。
婚約者候補なら、普通は王太子の機嫌を損ねないことを何より優先する。けれど彼女は、王太子の機嫌よりミネット嬢を気にした。不思議と、不快ではなかった。ただ、自分がどれほど危ういところまで踏み込みかけていたか、本人はおそらく気づいてもいない。
「……危なっかしいな」
小さく呟いて、王太子はカップを置いた。
問題になりそうなことは、問題になる前に処理する。それが王太子の役目だ。ただ、ラヴェリナに関しては、その役目がこれから妙に増えていきそうな気がする。面倒だとは、なぜか思わなかった。婚約者候補の身辺に目を配るのも務めのうちなのだから、当然だと。
――そういうことにしておこう。
◇ ◇ ◇
その日の夕食の席でも、ラヴェリナはずっと上の空だった。
本邸の食堂には、いつものように家族四人が揃っている。スープの湯気の向こうで、父が何度かこちらを見ているのには気づいていた。
ラヴェリナはスプーンを置いて、ぽつりと言った。
「お父様。一人だけ選ばれる場合、人数が減ると選ばれる確率って上がりますよね」
「……何の話だ」
「お姉様、算術のお勉強?」
隣のリアが、目を輝かせて袖を引いた。
「うん……まあ、そんなところ……」
義母のセシリアが、心配そうに父を見る。父は黙って娘を見つめ、それから珍しく、もう一言付け加えた。
「……今日の茶会で、何かあったのか」
「候補が一人、辞退されました」
父の眉が、ぴくりと動いた。
「お前が何かしたのか」
「し、してません! ……たぶん」
「たぶん」
「いえ、してません。ちょっとだけ口を出しただけです」
食堂に、長い沈黙が落ちた。
やがて父は深いため息をひとつついて、パンをちぎった。
「……詳しくは聞かん。聞いたら、胃に悪そうだ」
セシリアが口元を押さえて小さく笑った。リアは分からないなりにラヴェリナつられて楽しそうに笑った。
分母は、それでも五のままだった。




