第18話 忘れられた魔法
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最終話まで更新が止まることはありませんので、ご安心してお楽しみください。
三つ目の魔法の授業が始まったのは、防御と浮遊がどうにか形になった頃だった。
「先に言っておきます」
練習室の窓辺に立った先生は、珍しく、すぐには本題に入らなかった。
「思念具現化は、わたくしにはできません」
「え?」
「わたくしの師は使えました。ですが、この魔法は術者への負担が大きすぎました。それが使われなくなった理由です」
先生は、杖を握る自分の指を見下ろした。
「わたくしも若い頃に試しましたが、何も映りませんでした。その後、三日寝込みました」
「……じゃあ、私にも無理かもしれない?」
「さあ。理屈だけならお教えできます。できるかどうかは、あなた次第です」
理屈は、こうだった。
強い思いは、その場の魔力に痕を残す。水に落としたインクのように、時間が経てば薄まって消えていく。強い感情ほど濃く、長く残る。術者は自分の魔力をその場の魔力に溶かし込み、痕に触れて、形を与える。
「押してはいけません。ぐいぐい探しに行くと、痕は逃げます。耳を澄ますように、なじませるのですよ」
ところが、この「なじませる」が、とにかくできなかった。
二週間、何も起きなかった。
失敗すれば豆袋が飛んでくるか逆さまになる防御や浮遊と違って、こちらはただ何も起きない。それがいちばん堪えた。
糸口は、離れの自室にあった。いつものように妖精たちのための魔力玉を作っていたときのことだ。手のひらに魔力を集めて、ぎゅっと丸めて、ビー玉の大きさに固める。三年間、ほとんど毎日してきたことだ。
――集めて、丸める。
思念具現化は、たぶんその逆なのだ。丸めずに、ほどく。固めずに、広げて、薄めて、溶かす。
翌日、練習室の床に手をかざしたラヴェリナは、初めて指先に、ぬるま湯のような手ざわりを感じた。
その日の授業の終わり、先生は練習室の真ん中にしばらく一人で立っていた。それから部屋の外に出て、扉の向こうから言った。
「わたくしが今立っていた場所です。やってごらんなさい」
ラヴェリナは、先生が立っていた床の前に膝をついた。手をかざし、目を閉じる。魔力をほどいて、床に、空気に、溶かしていく。
ぬるま湯の中に、少しだけ温度の違う流れがあった。
それに、そっと触れる。
「ここに残された想いを――形にして」
目を開けると、淡い光の粒が集まり始めていた。粒は輪郭になり、輪郭は人の形になる。小柄な背中。結い上げた白い髪。杖。
光でできたマルグリット先生が、窓の外を見上げていた。
『見ておいでですか、師匠』
水の底から聞こえてくるような、くぐもった声だった。
『あの術を、十歳の子供が――』
そこで、扉が勢いよく開いた。
「……余計なものまで拾うんじゃありません」
光の先生はふっとほどけて、消えた。
本物の先生の耳の先が赤かったような気がしたけれど、ラヴェリナは見なかったことにした。
次の瞬間、足元の床がぐにゃりと傾いた。膝から力が抜けて、その場にぺたんと座り込む。同時に、練習室じゅうに響き渡る音で、ラヴェリナのお腹が鳴った。
先生は無言で自分の手提げ袋を開け、生姜入りの固い焼き菓子を差し出した。
「術の代金は、体が払うのですよ。覚えておきなさい」
焼き菓子は歯が折れそうなほど固かった。三枚食べて、ようやく立ち上がれた。
◇ ◇ ◇
それから一か月で、この魔法の癖が少しずつ掴めてきた。最初に浮かぶのは、いちばん新しくて強い思い。それより前のものを拾うには、もっと深く、薄く魔力を溶かさなければならず、深く潜るほど体は重くなる。
「では、どこまで遡れるか確かめましょう。わたくしが知っている出来事だけを選びますから、映ったものが本物かどうか、わたくしが判定します」
最初の場所は、練習室の前の廊下だった。
ラヴェリナは廊下の絨毯に膝をつき、手をかざした。思っていたよりずっと簡単に、それは浮かび上がってきた。
若いメイドだった。本邸で見かけたことのある、入ったばかりの子だ。足元には、粉々になった白い花瓶と、散らばった花。メイドは真っ青な顔で両手を口に当て、震えていた。
光のメイドがほどけて消えると、先生は少しだけ声を和らげた。
「この術はね、人を追い詰めるためだけのものではありません。謝る機会を作るためにも使えるのです」
次は練習室の中。部屋の隅、窓際の床だった。
「三日前です」
手をかざした瞬間、嫌な予感がした。
浮かび上がったのは、三日前、浮遊魔法の訓練中に油断して空中で一回転した自分だった。
輪郭は廊下のメイドより少しだけ薄く、声もわずかに遠い。それでも、表情まではっきり分かった。
次は七日前、練習室の壁際に置かれた木の長櫃の前。
今度は、なかなか浮かんでこなかった。魔力をもっと薄く、深く溶かしていくと、こめかみの奥がじんと痛んだ。ようやく、光がちらちらと集まり始める。
ぼんやりとした小柄な人影が、片足を抱えて跳ねている。それは、長櫃の角に小指をぶつけて悶絶している先生の姿だった。
「……先生にも、そういう日が」
「わたくしが見たとおりです。消しなさい」
八日前、練習室の中央、ラヴェリナがいつも浮遊の練習をしている場所。
八日前のことは、ラヴェリナもよく覚えていた。先生がわざと落としたティーポットを、床に届く前に浮遊魔法で受け止めた日だ。
嬉しくて、「やったー!」と叫んで練習室じゅうを跳ね回った。
あれだけ嬉しかったのだ。きっと、濃く残っている。
深く、もっと深く。七日前の長櫃よりも、さらに下へ。
何もなかった。
ぬるま湯のような手ざわりはある。けれど、温度の違う流れが見つからない。かすかな名残は、掴もうとした途端に砂のように崩れた。
「……映りません」
「そうですね」
先生は、驚いた様子もなかった。
「一週間。それが今のあなたの限界ですよ」
「あんなに嬉しかったのに」
「嬉しいことも、悲しいことも、時間が経てば薄れていくものです。人の気持ちとは、そういうものですよ」
先生は窓の外に目をやった。
「それが、この術のいちばん残酷なところで、いちばん優しいところでもあります」
ラヴェリナはその言葉の意味を考えようとして――そこで、床に倒れた。
四回連続は、さすがに無茶だった。
今度は自分ではなく、天井が回っている。お腹が盛大に鳴り、先生の手提げ袋から、また生姜の焼き菓子が出てきた。
「それから、もう一つ」
床に転がったまま焼き菓子をかじるラヴェリナを、先生は見下ろした。
「この術のことは、むやみに人に話すものではありませんよ。過去を映せる人間は、都合の悪い誰かに必ず嫌われます。わたくしの師がそうでした」
「……はい」
「よろしい。では、廊下の娘に、名乗り出るよう言っておやりなさい。奥様はお優しい方だと聞いています」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、離れの居間で事件が起きた。
「ない」
ラヴェリナは、空っぽのガラス瓶を逆さにして振った。
「クッキーが、ない」
昨日メアリーと焼いた、魔力入りのクッキーだ。妖精たちへのご褒美と、授業のあとの非常食を兼ねた大事な二十枚が、一枚残らず消えている。
居間にいた妖精たちが、一斉に首を横に振った。
「知らなーい」
「ぼく食べてないよー」
「俺も知らねー」
ルルの声だけ、なぜか少し裏返っていた。
「ふうん」
ラヴェリナは瓶を棚に戻し、その前に膝をついた。
「ちょうどいい練習台だね」
昨日から今日までの、ほんの一日分。先生の前でやったことに比べれば、浅瀬もいいところだ。
「ここに残された想いを、形にして――見せて」
棚の前に、淡い光が集まった。
光は、くしゃくしゃの髪の小さな人の形になった。
そいつは瓶の縁にしがみつき、きょろきょろと左右を確かめていた。
『……一枚だけ。一枚だけだからな』
光の妖精は瓶の中に上半身を突っ込み、クッキーを一枚抱えて出てきた。かじる。目を閉じる。
『……うめぇ』
そして、もう一度瓶に潜る。
『もう一枚。これで最後』
潜る。
『……ほんとにこれで最後』
潜る。
『……やべ、底が見えてきたじゃねーか。……ポロのせいにするか』
光がほどけて消えた。
居間が、しんと静まり返った。
全員の視線の先で、ルルが耳の先まで真っ赤になっていた。
「ち、ちげーよ!」
「何が違うの」
「あれは、あれだ! ラヴェリナの魔法が下手くそで、俺に似た別のやつが映っただけだ!」
「ルルだよー」
ポロがのんびりと言った。
「それより、ぼくのせいにしようとしてたのー?」
「してねー! 思っただけだ!」
「思ったのが残ってたんだよ」
「うるせー!」
メアリーが口元を押さえて肩を震わせ、ほかの妖精たちは遠慮なく笑い転げている。
「お嬢様。冤罪対策にしては、少々本格的すぎはしませんか」
「でも、ちゃんと役に立ったでしょ?」
ラヴェリナはポロを指さした。
「たった今、ポロの冤罪を一件、未然に防いだんだから」
「……さようでございますな」
クロードは、なんとも言えない顔でルルを見た。
勝ち誇ろうとしたラヴェリナの膝が、そこでかくんと折れた。
「お嬢様!?」
「だいじょうぶ……ちょっと、お腹がすいただけ……」
術の代金は、体が払う。そして、代金を払ったあとに食べるはずだったクッキーは、瓶の中に一枚も残っていない。
床に座り込んだラヴェリナの前に、ルルがふらふらと降りてきた。両腕で、クッキーを一枚抱えている。
「……部屋に、一枚だけ隠してた。やる」
「ルル……」
「勘違いすんなよ! 罪滅ぼしとかじゃねーからな! お前がぶっ倒れたら、明日のマナがもらえねーからだ!」
ラヴェリナは、少しだけ歯形のついたクッキーを受け取った。
生姜の焼き菓子よりずっと柔らかくて、ずっと甘かった。
◇ ◇ ◇
季節がひとつ、またひとつと移っていった。
防御魔法は、自分ひとりならほとんど何も通さなくなり、先生と二人を包んでもしばらくは立っていられる。
浮遊魔法は、踊り場から飛び降りても、マットレスなしで床の上に降りられるようになった。
ただし、油断するとまだ時々回る。
思念具現化は、相変わらず一週間より前には届かない。鞄には、焼き菓子の小袋が常備されるようになった。
最後の定期授業の日、先生は練習室の真ん中でラヴェリナを眺めて言った。
「三つとも、形にはなりましたね」
「ほんとですか!」
「形だけですよ。あとは使い込みなさい。月に一度は様子を見に来ます」
先生は杖をつき、扉へ向かった。そして取っ手に手をかけたところで、振り返らずに付け加えた。
「それから、万が一、本当に階段から突き落とされるようなことがあったら、わたくしに知らせなさい」
「浮遊魔法で止まれるから大丈夫です!」
「知っていますよ。あなたを心配しているのではありません」
扉が開く。
「突き落とした方の顔を、見に行くのです」
小柄な背中が廊下の向こうに消えていくのを、ラヴェリナはしばらく見送っていた。
それから手帳を開き、危機回避計画のページに書き足した。第三号、防御・浮遊・思念具現化魔法の習得――の横に、小さく丸をひとつ。
その下に、もう一行。
先生は、とても優しい。




