第16話 婚約者候補・危機回避計画
「お帰りなさいませ、お嬢様」
離れの玄関では、クロードとメアリーが並んで待っていた。
馬車の中でずっと張っていた緊張が、扉をくぐった瞬間にふにゃりと緩む。ラヴェリナは靴を脱ぎ捨て、ほとんど飛び込むようにして室内履きに足を入れた。
足の裏が、ようやく自分の家に帰ってきたと言っている。
「ただいまー……」
「お茶会はいかがでしたか?」
メアリーが、脱ぎ捨てられた靴をそろえながら尋ねた。
「んー……すごかった」
「すごかった、とは」
「ラノベみたいだった」
「……らのべ?」
「あ、なんでもない。こっちの話」
危ない。前世のことは、クロードたちには話していない。気が緩むと、こういう単語がすぐに口からこぼれてしまう。
「それで、お嬢様」
クロードが、何事もなかったように話を戻した。聞かなかったことにするのが上手い執事である。
「ほかの候補の方々は、どのようなご令嬢でございましたか」
「それがね!」
ラヴェリナは待ってましたとばかりに振り返った。
居間に移り、クッションベッドに腰を落ち着けるなり、今日のお茶会の報告会が始まった。
「まずね、ランベール公爵家のヴィオラ様。この人がすっごく完璧なの。殿下の話を引き出して、そこに自分の話をすっと寄せて、相槌の間まで完璧で」
「なるほど」
「絶対、婚約者の座を狙ってると思う!」
「婚約者候補でいらっしゃるのですから、それは当然では」
「まあ、そうなんだけど」
次に、とラヴェリナは指を折る。
「ドルトン侯爵家のイザベラ様は、自分の話ばっかり。演奏会に行きました、お父様と宝飾店に行きました、刺繍が得意です、ってずーっと」
「積極的なご令嬢なのですね」
「その隣にベック伯爵家のカミラ様がいて、イザベラ様が何か言うたびに『素敵ですわ』って」
「取り巻き、というものでしょうか」
メアリーが控えめに言うと、ラヴェリナは大きく頷いた。
「それから、グランツ辺境伯家のアイリス様。婚約にも殿下にも、ぜんぜん興味なさそうだった。お菓子の断面ばっかり見てたの」
「ほう、断面を」
「あとハートウェル伯爵家のミネット様。小さくて、声も小さくて、すっごくか弱そう」
「……なるほど」
クロードが静かに相槌を打っている間に、気づけば居間の入口に小さな影が集まってきていた。話を聞きつけた妖精たちだ。
「なになに、お茶会の話?」
「王子いた?」
「どんなやつ? 強い?」
「強いかどうかは知らないけど、いたよ。あとで話すから」
ラヴェリナはぱんと手を叩いた。
「それより、重要な話があります!」
「重要な話、でございますか」
「今後の、嫌がらせ対策を考えます!」
クロードとメアリーが、そろって黙った。
「……お嬢様」
「なに?」
「すでに、何かございましたか」
「まだないよ」
「では、なぜ嫌がらせ対策を」
「これからあるかもしれないから!」
「……左様でございますか」
クロードの視線が、窓の外のどこか遠くへ泳いだ。
けれど、ラヴェリナは大真面目だった。
王子様がいて、婚約者候補がいて、貴族の令嬢たちがいる。
前世で読み漁った物語において、この三つが揃って何も起こらなかった例を、ラヴェリナは知らない。
膝の上に手帳を広げる。七歳の頃から使っている、表紙の擦り切れた革の手帳だ。
新しいページのいちばん上に、大きく書いた。
婚約者候補・危機回避計画。
「まず、飲み物をかけられた時の対策!」
「飲み物、でございますか」
「今はお茶会だけど、そのうち夜会に出るようになったら、赤ワインとか! 真っ白なドレスに!」
「……わざと、でございますか」
「そう!」
「なぜそのようなことを」
「嫌がらせだから!」
メアリーが困ったように眉を下げた。
「ですが、もしドレスに何かこぼされましたら、すぐにお着替えを――」
「それじゃ負けなの!」
「勝ち負けなのでございますか」
「気持ちの問題!」
ラヴェリナは腕を組んだ。
「着替えに下がったら、その間に何を言われるか分からないでしょ。だから、そもそも濡れなければいいの。布が水を弾くように、防水加工できないかなって」
「ぼうすい……」
「液体を、ぱしゃって弾くようにするの」
「ドレスが、水を弾くのでございますか」
メアリーは自分のエプロンの布地を指でつまみ、しげしげと眺めた。
「そのような加工は、聞いたことがございません」
「私も存じませんな」
「うーん……」
三人そろって唸っていると、クッションの縁に腰かけていた妖精が、のんびりと手を挙げた。
「あのねー」
ポロだった。
「テテクの樹液が服につくとねー、水、はじくよー」
ラヴェリナは、ぴたりと止まった。
「……何それ」
「テテク。森にある木だよー。樹液がぺたってつくとねー、雨の日でも、水がころころ転がって落ちてっちゃうのー。ぜんぜん濡れないのー」
「それ!」
ラヴェリナは勢いよく立ち上がった。クッションが大きく揺れて、ポロがころんと転がった。
「それだよ、ポロ!」
「なにがー?」
「その樹液を使えば、防水加工ができるかもしれない!」
「……お嬢様」
クロードが何か言いかけたが、ラヴェリナは聞こえなかったことにした。
「ポロ、その樹液、取ってきてくれる?」
「いいよー。小瓶ちょうだいー」
「メアリー!」
「はい」
「小瓶!」
「……ただいまお持ちいたします」
「あいつ、あの木のそばで昼寝すると、起きたとき羽がべたべたになって飛べなくなるんだぜ」
ルルが横から口を挟むと、ポロは「だから知ってるのー」と胸を張った。どうやら経験者らしい。
ラヴェリナは手帳に書き込んだ。
第一号、防水加工。材料、テテクの樹液。
「次!」
「まだあるのでございますか」
「服を破られた場合の対策!」
メアリーが、思わず自分のスカートを押さえた。
「破られましたら、私どもで縫い直しますが」
「その場ですぐ直さないといけない時もあるでしょ? お茶会の途中とか」
「応急処置でしたら、針と糸を持って……」
「でも、縫ってたら時間がかかるよね。人前で針仕事もできないし」
「それは、確かに」
ラヴェリナは考え込み、机の上の紙を二枚取った。重ねて、指でぎゅっと押さえてみせる。
「縫えないなら、貼ればいい」
「貼る?」
「布と布をくっつける接着剤を作るの。破れたところにレースとかリボンを当てて、その場でぺたっと。最初からそういう飾りだったみたいな顔をして」
メアリーの目が、すっと真剣になった。仕立て物の話になると、彼女の顔つきは変わる。
「……上手く接着できて、洗っても剥がれないものがございましたら、確かに応急処置には使えます。レースの縁を切りっぱなしにしておけば、貼ったことも目立ちにくいかと」
「でしょ!」
「ですが、その接着剤はどうなさるのです」
「これから作る!」
「やはり、そうなりますか……」
クロードが、小さく息を吐いた。
第二号、布用接着剤。手帳の文字が増えていく。
「次!」
「まだあるのでございますか」
「階段から突き落とされた時の対策!」
「お嬢様」
さすがに、クロードの声が一段低くなった。
「それは嫌がらせの範囲を超えております」
「でも、あるかもしれない!」
「どのような世界を想定しておいでなのですか」
「貴族社会!」
「偏見がひどうございますな」
それでも、ラヴェリナは止まらない。
「あと、魔法攻撃」
「魔法攻撃まで」
「火の玉とか飛んできたら危ないでしょ?」
「それはもう、完全に犯罪でございます」
「犯罪でも、飛んできてから『犯罪です』って言っても遅いの!」
ラヴェリナは指を立てた。
「だから、魔法で身を守れるようにする。飛んできたものを弾く防御魔法。それから、突き落とされても、ふわっと浮いて着地できる浮遊魔法」
「……理屈は、分からなくもございませんが」
「それとね、もう一つ」
ラヴェリナの声が、少しだけ静かになった。
「いちばん怖いのは、やってもいないことを、やったって言われること」
メアリーが、はっとしたように顔を上げた。
「お茶会の間じゅう考えてたの。ドレスが汚れても、破れても、なんとかなる。階段も魔法でなんとかする。でも、『ラヴェリナ様に突き飛ばされました』って誰かが泣きながら言って、その子のお友達が『わたくしも見ましたわ』って言ったら?」
カミラ様が、イザベラ様のために。そういう光景が、頭の中にありありと浮かんだ。
「証人がいればいい、って最初は思ったの。でも、向こうにも証人がいたら、言った言わないの勝負になっちゃう。そうなったら、立場が上の人とか、声が大きい人とか、泣いてる人の方が勝つでしょ」
クロードは、何も言わなかった。
長く屋敷勤めをしてきた老執事には、心当たりがないとは言えない話なのだろう。
「だから、本当に何があったのかを、その場でみんなに見せられたらいいのにって」
「そのようなことが……」
「できるかもしれないの」
ラヴェリナは手帳のページを、ぱらぱらと前へめくった。
紙の端が黄ばんだ最初の方のページ。大きくて、右に傾いた七歳の字が並んでいる。
この国の貴族の家名。
魔物の名前と弱点。
妖精に会える場所の心当たり。
その合間に、ひときわ力を込めて書かれた一行があった。
古き魔法とその衰微について。思念具現化。いつか使ってみたい。
「……あった」
三年前、前世を思い出したばかりの春。書庫のいちばん下の棚で埃をかぶっていた古い本の、乾いた紙の音まで思い出せる。
「思念具現化っていう、古い魔法があるの。強い想いは、その場所に痕を残す。その痕を魔力で拾い上げて、そのとき何があったのかを、姿と声ごと映し出すんだって」
「姿と、声ごと」
メアリーが繰り返す。
「うん。突き落とされたなら、突き落とした人の姿が。やってないなら、やってないことが。その場に映る。誰がどれだけ泣いても、嘘はつけない」
居間が、少しの間しんとした。
妖精たちまで、ぽかんと口を開けてラヴェリナを見ている。
「……思念具現化」
やがて、クロードがゆっくりと口を開いた。
「私も若い頃、古い話として耳にしたことがございます。昔は審問の場で用いられた術であったとか。ですが、術者の負担があまりに大きく、使える者が絶えて久しい、とも」
「その本にも、そう書いてあった」
「お嬢様。そのような古い魔法を教えられる者が、今の世にどれほど残っておりますことか……」
「だから探して!」
「……お嬢様」
「防御と浮遊も一緒に教えてくれる先生! 厳しくてもいいから!」
クロードは長いこと黙っていた。
それから、観念したように目を閉じた。
「……心当たりを、いくつか当たってみましょう。お約束はいたしかねますが」
「やった!」
ラヴェリナは手帳に、力いっぱい書き込んだ。
第三号、防御・浮遊・思念具現化。三つの魔法の習得。
ペン先が紙を少し破いた。
◇ ◇ ◇
王太子殿下の婚約者候補に選ばれた令嬢たちは、今ごろ屋敷で刺繍の腕を磨き、楽器の練習をし、外国語の辞書を引き、社交の作法をさらっているのだろう。未来の王妃にふさわしい教養を、少しでも身につけるために。
ローデンベルク公爵家の離れで、その婚約者候補の一人が書き上げた計画書には、防水加工、布用接着剤、そして防御・浮遊・思念具現化の魔法、と並んでいる。
「よし!」
ラヴェリナは満足げに手帳を閉じた。
「これだけ準備しておけば、だいたい何とかなる!」
「……いったい何が起こる想定なのでございましょうな」
クロードが、誰にともなく呟いた。
「王宮って、戦場なの?」
妖精の一人が、真顔で首を傾げる。
「……私も、分かんなくなってきた」
「お嬢様ご自身がお分かりにならないのでございますか」
メアリーが、とうとう吹き出した。
◇ ◇ ◇
小瓶を持ったポロが窓の専用出入口から飛び立っていくのを見送ったあと、クロードが、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、お嬢様」
「なあに?」
「肝心の王太子殿下は、どのような方でございましたか」
ラヴェリナは固まった。
「……あ」
「お忘れでしたか」
「忘れてないよ!」
忘れていたわけではない。ただ、ほかの候補者の観察と嫌がらせ対策に夢中で、王太子殿下本人のことを、ほとんど考えていなかっただけだ。
「えーっと……」
ラヴェリナは、今日の殿下を思い返した。
まだ少年なのに、整った顔立ち。話し方は穏やかで、誰に対しても分け隔てがない。質問が上手くて、相手に話させるのが上手い。アイリス様の素っ気ない返事にも、ミネット様の小さな声にも、同じ笑顔で頷いていた。場の空気を、よく見ている人だった。
「頭の回転は、すごく速そうだった」
「ほう」
「人当たりもいいし、誰にでも優しかった。それに、顔がすっごく整ってた。将来は格好よくなること確定」
「お嬢様、そのような見方は」
メアリーが笑いを噛み殺している。
「でもねぇ」
ラヴェリナは、少し目を細めた。
「ああいう、完璧に優しくて、誰にでも同じ笑顔の人に限って」
「限って?」
「腹黒策士なんだよね〜」
クロードとメアリーが、同時に黙った。
「……どのような根拠で」
「経験則」
「十歳のお嬢様が、どちらでそのようなご経験を」
「……勘!」
「今、言い直されましたな」
「気のせい!」
ラヴェリナはクッションに顔を埋めた。
ルルが耳元で「お前、たまにすげえ適当だよな」と囁いたので、指で弾いておいた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、王宮の一室。
「……っくしゅん!」
「殿下?」
書類をめくっていた王太子は、鼻を押さえて顔を上げた。
「大丈夫。なんでもないよ」
「お風邪でございますか。今日は庭園に長くおいででしたから」
「いや、そういう感じはしないんだけど――っくしゅん!」
「やはり、医師を」
「必要ないよ」
にこり、と王太子はいつも通りの完璧な笑顔を浮かべた。
その笑顔のまま、三度目のくしゃみが出た。
「……誰かが、僕の噂でもしているのかな」
冗談めかして言うと、侍従は大真面目な顔で一礼した。
「恐れながら、殿下の噂をしていない者の方が、王都には少のうございます」
「それもそうだね」
王太子は笑って、また書類に目を落とした。
開いていたのは、婚約者候補たちの身上書だった。一枚だけ、指が挟まったままになっている頁がある。
四度目のくしゃみを、彼はどうにか飲み込んだ。




