第15話 婚約者候補のお茶会
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王太子殿下と婚約者候補たちが初めて顔を合わせるお茶会。
その日取りが知らされてから、ひと月半が過ぎた。
鏡台の前で、ラヴェリナは自分の姿を上から下まで点検した。淡い金色の髪は、メアリーが一時間かけて編み上げてくれた。
若葉色のドレスは、母が好んだ色に近いものを、と父が仕立て屋に指定したらしい。背筋、よし。顎の角度、よし。スカートの裾、蹴っていない。
昨日はベルタ夫人から
「これならば、どこへお出しになっても恥ずかしくはございません」と言ってもらえた。
あの人が褒め言葉らしきものを口にしたのは、ひと月半で初めてのことだ。
「準備は完璧。残る課題は……選ばれないこと」
候補として恥ずかしくない振る舞いはする。
けれど、王太子殿下に気に入られてはいけない。
控えめに、失礼なく、印象には何も残らない。
それが今日の目標である。
なにしろ前世で読み漁った物語を思い返せば、危険な台詞の見本市が頭の中に並んでいるのだ。
王子様がふと目を細めて
「君は、他の令嬢とは違うね」――絶対に駄目。
「面白い人だね」はもっと駄目だ。
前世の界隈で「おもしれー女」と呼ばれていた、
最も危険な認定である。
そこから始まらなかった恋物語を、ラヴェリナはほとんど知らない。
「認識されないのが一番……!」
握りこぶしを作りかけて、慌てて指をほどく。令嬢は拳を握らない。昨日ベルタ夫人に三回言われた。
◇ ◇ ◇
王宮の庭園は、絵本から抜け出してきたようだった。
白い石の東屋を囲んで、刈り込まれた植え込みが緩やかな曲線を描いている。薔薇のアーチの向こうでは噴水が陽を受けて細かく光り、長いテーブルには磨き上げられた銀のポットと、花の形の焼き菓子が行儀よく並んでいた。
前世の自分なら、この一枚絵だけで三日は幸せに暮らせたと思う。
候補者がそろうと、侍従が一人ずつ名を読み上げた。
「ランベール公爵家ご息女、ヴィオラ様」
最初に立った令嬢を見て、ラヴェリナは内心で唸った。礼の角度は教本通り、微笑みは目元と口元の釣り合いまで計算されている。
ローデンベルクと並ぶもう一つの公爵家の令嬢で、王太子殿下と同じ十一歳。一つ年上なだけなのに、立ち姿に隙がない。
「ドルトン侯爵家ご息女、イザベラ様」
鮮やかな紅色のドレスに、大きなリボンと宝石のブローチ。この場で誰よりも華やかであろうという意志が、布地の一枚一枚から伝わってくる。
「ベック伯爵家ご息女、カミラ様」
イザベラの隣で、控えめな色のドレスの令嬢が礼をした。立ち上がる直前、その目がちらりとイザベラを窺った。
「グランツ辺境伯家ご息女、アイリス様」
グランツ。リアの本当のお父様が、魔物討伐で命を落とした土地の名だ。
立ち上がったのは、よく日に焼けた令嬢だった。礼は正確だが手早く、済ませるなりさっさと座り直す。王宮の庭園より、馬の背の上が似合いそうな人だ。
「ハートウェル伯爵家ご息女、ミネット様」
いちばん端の小柄な令嬢が、びくりと肩を揺らした。椅子の脚が石床をこすって小さく鳴り、ミネットの頬が見る見る赤くなる。
「ローデンベルク公爵家ご息女、ラヴェリナ様」
ベルタ夫人仕込みの礼をして、音もなく座り直す。完璧。自分で自分を褒めたい。
候補者は六人。
単純に考えれば、六分の五の確率で選ばれない。
王家の婚約者選びがくじ引きでないことくらい分かっているけれど、自分さえ積極的に動かなければ、ほかの五人の誰かが選ばれる見込みの方がずっと高い。
候補になった上での落選なら、父だって文句は言えないはずだ。光が見えてきた。
◇ ◇ ◇
薔薇のアーチの陰で、王太子は侍従の読み上げが終わるのを待っていた。
六つの名前は、どれも書類で見たものだ。家柄、派閥、領地の位置、王家との距離。
父王はその束を執務室でよこしながら、
「普通はな、十一の男の子なら、まだ早いとか、誰々は勘弁してくれとか言うものだ」
と笑った。自分の時は三日ほど城壁の上に立てこもったのだそうだ。
「目は通しておけ。だが、紙で分かるのは半分だけだぞ」
もちろん、承知している。書類だけで一生の相手を決めるほど、王太子は素直な子供ではない。
会って、話して、見る。まずはそこからだ。
一度だけ呼吸を整え、口元に笑みをのせる。
王太子がこうして笑えば、相手はたいてい安心する。優しい方だった、と思って帰ってくれる。
それでいい。
人は安心したときにこそ、本当の顔を見せるものだから。
彼はアーチをくぐった。
◇ ◇ ◇
「皆、今日は来てくれてありがとう」
令嬢たちが一斉に立ち上がる。ラヴェリナも目を伏せて礼をし、それから、そっと顔を上げた。
――あ。
これは、将来絶対に格好よくなる人だ。目鼻立ちはすでに彫刻のように整い、柔らかく笑っているのに立ち姿には芯が一本通っている。
前世の物語なら間違いなく表紙の中央にいて、背景にはきらきらした光の粒が描き込まれている。
ラヴェリナは、心の中で自分の頬をぴしゃりと叩いた。
鑑賞するだけ。
推しにしてはいけない。
まして攻略対象として認識してはいけない。
私はモブ。
私は背景。
私は庭園の植え込み。
三回唱えたところで、お茶会が始まった。
◇ ◇ ◇
紅茶が二杯目になる頃には、ラヴェリナの関心はすっかりほかの候補者たちへ移っていた。
「殿下は、読書がお好きだと伺いました」
「うん。歴史書を読むことが多いかな」
「まあ。わたくしも歴史には興味がございますの。先日は建国期の年代記を読み返しておりまして」
ヴィオラは上手い。自分を押し売りせず、殿下の口から話題を引き出して、そこへ自然に自分の興味を寄り添わせる。
相槌の間まで整っていて、あれはベルタ夫人の教本のさらに一段上の技術だ。感情ではなく計算で、婚約者の座を狙っている。
前世の分類でいえば正統派ライバル令嬢、主人公がどれだけ頑張っても気品では勝てない相手である。
「わたくし、先日は領地の演奏会に参りましたの。それから、お父様と王都の宝飾店へ――そうそう、刺繍も得意ですのよ。今度、殿下にもお見せしたいわ」
「まあ、素敵ですわ、イザベラ様」
「さすがですわ」
イザベラは話す。とにかく話す。殿下が何か言いかけても、話題は気づけば彼女の手元に戻っている。
そしてカミラの相槌は、その台詞の終わりにぴたりと重なる。息の合い方がもはや芸の域だ。取り巻きポジション、と頭の中の分類表に書き込んだ。
アイリスは、殿下に「王都には慣れたかな」と聞かれて「はい」。「庭園は気に入った?」には「綺麗だと思います」。そこで会話が終わる。
一瞬、仲間かと思った。けれど違う。アイリスは頑張ってすらいない。焼き菓子を割って断面を眺めているときの方が、殿下と話しているときより、よほど目が真剣だった。
婚約者候補であること自体に興味がないのかもしれない。かなり気になる。
ミネットは終始小さくなって、話しかけられるたびに「……はい」と怯えたように微笑み、膝の上で手袋の指先をいじっていた。
守ってあげたくなる雰囲気では群を抜いている。
前世の物語なら、主人公属性を持っていてもおかしくない。
「……すごい顔ぶれ」
思わず、紅茶の陰で呟いてしまった。
「ラヴェリナ嬢」
呼ばれて、ラヴェリナはカップを受け皿に戻した。
音は立てない。
「はい、殿下」
「王宮に来るのは初めて?」
「正式なお茶会にお招きいただくのは、初めてでございます」
「緊張してる?」
「少しだけ」
「そう。無理をしなくていいよ」
「ありがとうございます」
会話終了。よし、この調子。
続くお菓子の質問にも「とても美味しゅうございます」「こちらの焼き菓子が」と答えて、それきりにする。質問には丁寧に答え、自分からは広げない。
これで殿下の記憶には「特に問題のない公爵令嬢」とだけ残るはずだ。
「ラヴェリナ嬢は、普段は何をして過ごしているの?」
「本を読むことが多いです」
「読書が好きなんだ。どんな本?」
思考が真っ白になった。
妖精が描いたコミックです。騎士と魔女の冒険もので、最新刊は見開きの決め場面がすごいんです。
ちなみに原作は私です。
言えるわけがない。
「……いろいろ、です」
「いろいろ?」
「はい。いろいろと」
殿下はほんの少しだけ首を傾け、それから何事もなかったように「そうなんだ」と微笑んだ。
それ以上は聞かれなかった。ラヴェリナは紅茶を一口飲んで、喉の奥の動揺を流し込んだ。危なかった。
◇ ◇ ◇
殿下の関心がほかへ移ると、ラヴェリナは改めて東屋の中を見回した。
前世の物語なら、この顔ぶれを見た時点で先の展開はだいたい読める。誰かのドレスに紅茶がかかり、誰かの持ち物がなくなり、誰かが階段から落ちる。
そして最後に、誰かが誰かを指さして叫ぶのだ。
あなたがやったのでしょう、と。
「……ありそう」
選ばれたくはない。だからといって、嫌がらせまで受けてあげる義理はない。
ドレスに飲み物をかけられたら、予備のハンカチ一枚では足りない。着替えを馬車に積んでおく?
持ち物を隠されたら困るから、自分だけが分かる印をつけておけば証拠になる。
階段は壁側を歩き、真後ろに誰かがいるときは要注意。
視線が東屋の外の石段に向かう。高さはそれほどでもないけれど、十歳の体で転げ落ちれば無傷では済まないだろう。
やってもいないことを、やったと言われたら。できるだけ一人にならない。侍女をそばに置く。大事な話は人前でする。
それから、毒。
ティーカップの中で、琥珀色の紅茶に自分の顔が小さく映っている。
「いや、さすがに十歳相手に毒はないよね……?」
前世の物語なら、ある。わりと、ある。紅茶の中の自分としばらく見つめ合ってから、ラヴェリナは対策を足した。
飲み物は目の届くところに置く。お菓子は大皿から、ほかの人と同じものを取る。
真剣な顔で紅茶を口に運び、ときどき小さく頷き、石段や大皿やイザベラの背後にちらちらと目をやる。
頭の中の危機管理計画が項目を増やしていくうちに、お茶会は終わりの時間になっていた。
◇ ◇ ◇
お茶会の終わりを告げる前に、王太子は六人の様子を順に眺めた。
ヴィオラ嬢は、王太子が誰と話しているかをさりげなく確かめている。
イザベラ嬢は次に何を話すか考えていて、カミラ嬢はそのイザベラ嬢の顔色を窺っている。
アイリス嬢は二つ目の焼き菓子に手を伸ばし、ミネット嬢は紅茶を両手で持って固まっていた。
五人については、何を望んでいるのか、おおよその見当がついた。人は望むものがあればそれに向かって動く。
好かれたい者は好かれる振る舞いをし、選ばれたい者は長所を示し、興味のない者は興味のない態度をとる。見ていれば分かる。
一人だけ、分からない。
ラヴェリナ・ローデンベルク嬢は、話しかければきちんとこちらを向く。
返事も礼も非の打ちどころがない。それなのに、王太子への質問も、自分の話も、共通点を探す素振りもない。
アイリス嬢のような無関心とも違う。婚約者になりたいのか、なりたくないのか、それすら読めなかった。
ただ一度だけ、崩れたところがある。
本の話をしたときだ。完璧だった笑顔の端が固まって、瞳の奥で何かが大急ぎで行き来するのが見えた。
あのとき彼女は、答えを探していたのではない。答えを隠す場所を探していた。
覚えておくことにした。
そして今、彼女は紅茶を持ったまま、ひどく真剣な顔で何かを考えている。視線は東屋の外の石段へ、大皿へ、イザベラ嬢の背後へ、自分のカップの中へ。
そのたびに小さく頷く。
給仕がお茶を注ぎ足すときにはポットの口元をじっと見つめ、焼き菓子は誰かがすでに手をつけた列からしか取らない。
まるで、何かを警戒しているような。
まさか、と王太子は思った。王宮のお茶会で、十歳の候補者がそんなことを考える理由がない。では、石段を見るときのあの測るような目は何なのだろう。
王太子と話していたときより、一人で考え込んでいる今の方が、彼女はずっと真剣だった。
少し、気になる。
そう思ってすぐに、王太子は考えを改めた。これは興味ではない。候補者の一人を正確に把握しておく必要があるだけだ。
王太子なのだから、分からないままにしておくわけにはいかない。そういうことにしておこう。
「今日はありがとう。また皆と話せるのを楽しみにしているよ」
「はい、殿下」
六人の令嬢がそろって頭を下げる。
顔を上げたラヴェリナ嬢は、試験を無事に切り抜けた生徒のような顔をしていた。
◇ ◇ ◇
帰りの馬車で、ラヴェリナは座席の背にもたれ、ようやく長い息を吐いた。
粗相なし。殿下との会話は最低限。本の話で少し詰まったけれど、あれくらい誰も気にしないだろう。
ほかの令嬢の方がずっと印象的だったし、殿下は最後まで、みんなに等しく完璧な笑顔を向けていた。
つまり、自分のことなどほとんど覚えていないはずだ。
「作戦、成功」
付き添いのアンナが
「何かおっしゃいましたか」と首を傾げる。
「ううん。なんでもない」
窓の外を流れる王都の街並みを眺めながら、ラヴェリナはにんまりと笑った。
離れに帰ったら、まずクロードとメアリーに相談しなければ。ドレスの問題が、いちばん急ぎだ。
◇ ◇ ◇
「で、どうだった。六人の令嬢たちは」
夕食の席で、国王は葡萄酒の杯を傾けながら、案の定それを聞いてきた。
「皆さん、それぞれに優れた方々でした」
「つまらん答えだな。一人ずつ言ってみろ」
王太子は角の立たない言葉を選んで順に述べた。
ヴィオラ嬢は聡明で、場の運び方を心得ている。
イザベラ嬢は快活で話題が豊富。
カミラ嬢は周囲への気配りが細やか。
アイリス嬢は率直で飾らない。
ミネット嬢は慎ましく、誠実そうに見える。
黙って聞いていた国王が、にやりと笑った。
「一人、抜けておるぞ、ユリウス」
「……ラヴェリナ嬢は、礼儀作法の申し分ない方でした」
「それだけか」
「今のところは」
「ほう。今のところは、か」
国王はそれ以上何も言わず、ひどく楽しそうに肉を切り分けた。自分の答えのどこが父を喜ばせたのか、王太子はしばらく考える羽目になった。
その夜、就寝前に侍従を呼んだ。
「ローデンベルク公爵家の書庫には、どんな本が収められているのかな」
「書庫、でございますか。調べさせましょうか」
「ううん、いいよ。聞いてみただけだから」
侍従が下がると、王太子は寝台の上で書類の束をもう一度めくった。六人分の名前と家柄と、紙で分かる半分のこと。
ラヴェリナ・ローデンベルクの頁で、指が止まる。趣味の欄には、几帳面な字で「読書」とだけ書かれていた。
いろいろ、か。
王太子は書類を閉じて、灯りを落とした。




