第14話 王太子の婚約者候補と、離れを守る戦い
朝は室内履きに足を入れるところから始まる。
午前は妖精たちとアトリエにこもって、次の巻の筋を練ったり、下書きに台詞を入れたりする。
昼を過ぎたらクッションベッドに沈んで読書。
冷蔵箱には冷えた果実水があり、グラスにはガラスのストローが差してある。
気が向けば厨房に立って、メイドたちと新しいお菓子作りを試す。
夕方には本邸へ渡り、家族四人で夕食をとる。
「……幸せ」
クッションに埋もれたまま、ラヴェリナは天井に向かって呟いた。
十歳の夏。
この暮らしさえあれば、もう何もいらない。本気でそう思っていた。
父の執務室に呼ばれた、その日の午後までは。
◇ ◇ ◇
「ラヴェリナ。少し話がある」
執務室の空気は、いつもより重かった。
書類の山の向こうで、父のギルベルトが両手を組んでいる。眉間の皺はいつも通りだが、その深さが一段階違う。
ラヴェリナは入口で一瞬足を止め、それから背筋を伸ばして机の前に立った。
「なんでしょうか、お父様」
「王宮から、話が来た」
「王宮……」
嫌な予感がした。
前世で読んだ物語において、
「王宮から話が来た」のあとに、穏やかな展開が続いたためしはない。
「お前が、王太子殿下の婚約者候補の一人に選ばれた」
「……はい?」
「婚約者候補だ」
「王太子殿下の」
「そうだ」
「私が」
「そうだ」
予感が当たった。
ラヴェリナはしばらく、父の顔を見つめたまま動けなかった。
王太子殿下。
この国の第一王子で、たしか自分より一つ年上。
肖像画が王都で出回っていると、侍女たちが噂していた気がする。会ったことは一度もない。
やがて、恐る恐る口を開いた。
「一応、お聞きしますけれど」
「なんだ」
「お断りすることは……」
「できるわけがないだろう」
即答だった。
「やっぱり!?」
「当然だ」
父は、額に手を当てた。
「王家から正式に候補として名が挙がったのだぞ。こちらの都合で辞退できるわけがない」
「でも、候補なんですよね?」
「そうだ、候補だ」
「ということは、選ばれなければいいんですよね?」
父の目が、すっと細くなった。
「……その考えは捨てなさい。絶対にわざと不始末をしでかして落ちようなどと考えるな」
「だから、まだ何も」
「顔に書いてある」
ラヴェリナは口をつぐんだ。
自分の顔は、どうやら思っている以上に正直らしい。
別に、王太子殿下が嫌いなわけではない。
嫌いになれるほど知らない。
けれど、婚約者候補ということは、王宮へのお呼ばれ、お茶会、そのうち夜会。今よりずっと厳しい礼儀作法、仕立て直しのドレス、覚えきれない家名と顔。
それは、離れで過ごす時間が少なくなるということを意味する。
「離れにいられる時間が……」
「何か言ったか」
「いいえ、なんでも」
これは、ラヴェリナにとって大問題だった。
◇ ◇ ◇
その夜の夕食は、いつもより少しだけ静かに始まった。
父がスープを半分ほど飲んだところで匙を置き、短く告げた。
「今日、王家から正式な話があった。ラヴェリナが、王太子殿下の婚約者候補に選ばれた」
セシリアの手が止まった。
「まあ……」
驚きのあとに、祝いの言葉が続きかけて、そこでふと途切れた。セシリアが、ラヴェリナの顔を見て、一瞬止まる。
「……おめでとう、と申し上げてよいのかしら」
ラヴェリナはどきりとした。そんなに分かりやすい顔をしていただろうか。父だけでなく、義母にまで。
「えっと、光栄なことだとは、思っています」
「そうですわね」
セシリアはそれ以上何も聞かず、ただやわらかく微笑んだ。
そのとき、隣でがたんと椅子が鳴った。
「お姉様、王子様のお嫁さんになるの!?」
リアだった。フォークを握ったまま身を乗り出し、目を丸くしている。
「な、ならない! ……かもしれない。まだ候補、候補だから」
「こうほ?」
「ほかにも何人か、同じようにお話が来ている令嬢がいるということだ」
父が補足すると、リアは眉を寄せて考え込んだ。
「じゃあ、お姉様が選ばれたら、お城に住むの?」
「ずっと先の話だよ。選ばれたら、だし」
「でも、選ばれたら」
「……まあ、そうなるかな」
リアはフォークを置いた。それから、いつになく真剣な顔でラヴェリナを見上げた。
「そしたら、おはなしの続き、誰がしてくれるの?」
ラヴェリナは言葉に詰まった。
二年前、母親の背中に隠れて挨拶もできなかった女の子が、今は夕食のたびに「次のおはなしの夜はいつ?」とせがんでくる。
週に一度、夕食のあとでリアの寝室を訪ね、ラヴェリナが離れで書いた物語を少しずつ語って聞かせる。それがいつの間にか、二人の決まりごとになっていた。
「……お城からでも、手紙で続きを書いて送るよ」
「手紙じゃ、お姉様の声が聞こえないもん」
リアは唇を尖らせ、それから小さな声で付け足した。
「王子様、ずるい」
「ずるい?」
「だって、お姉様のおはなし、毎日聞けるようになるんでしょう?」
一拍おいて、父が咳払いをした。
見れば、口元を拳で隠している。肩がほんのわずかに揺れていた。
「お父様、今笑いました?」
「笑っていない」
「笑いましたよね」
「スープが少し熱かっただけだ」
父のスープは、とっくに冷めているはずだった。
セシリアがくすくすと笑いながら、リアの口元についたソースを布で拭った。
「大丈夫よ、リア。お姉様はまだどこへも行かないわ」
それから、ラヴェリナの方に向き直る。
「王宮のお作法は、少し独特ですのよ。わたくしも若い頃、夫の……前の夫の叙勲の折に、何度か王宮へ上がったことがあるの。困ったことがあったら、いつでも聞きにいらっしゃいね」
前の夫、と言い直すとき、セシリアの声はほんの少しだけ低くなった。リアがちらりと母を見上げる。
「……ありがとうございます、お義母様」
ラヴェリナが頭を下げると、セシリアは嬉しそうに目を細めた。
その週のおはなしの夜は、いつもより少しだけ長くなった。
◇ ◇ ◇
ところが、離れに戻った途端、ラヴェリナは崩れ落ちた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「……ただいま」
「ずいぶんとお元気がございませんな」
玄関で迎えたクロードの横を素通りして、室内履きに履き替える。その足で居間へ向かい、クッションベッドに、顔から突っ込んだ。
ぼふっ。
「……クロード」
「はい」
「私、王太子殿下の婚約者候補になったんだって」
背中の向こうで、老執事が息を吸う気配がした。
「それは……おめでとうございます」
「めでたくないよぉ……」
クッションに埋もれた声は、我ながら情けなくくぐもっていた。
「王宮なんて行きたくない……」
「お嬢様」
「お茶会とか、いっぱいあるんでしょ……」
「おそらくは」
「マナーの授業も、もっと厳しくなるよね……」
「当然でしょうな」
「やだぁ……」
手足をばたつかせると、クッションの中身がざらざらと鳴った。どこからどう見ても駄々をこねる子供である。
もっとも、見た目も十歳の子供なので、その点に矛盾はない。
妖精たちが何事かと集まってきて、クッションの縁に並んでラヴェリナを覗き込んだ。
ルルが「なんだ、腹でも痛いのか」と聞き、
ポロが「クッキー食べるー?」と差し出した。
ラヴェリナは顔を埋めたまま、手だけ伸ばしてクッキーを受け取った。
クロードは、しばらく黙ってその様子を眺めていた。
「ですが、お嬢様」
「なに……」
「ここは、対外的にはきちんとなさいませんと」
「え?」
ラヴェリナは顔を半分だけ上げた。額にクッションの縫い目の跡がついている。
「王太子殿下の婚約者候補ともなれば、お嬢様の立ち居振る舞いは、これまで以上に人目にさらされます。王宮でも、社交の場でも」
「……うん」
「そこでもし、離れで暮らしているせいで公爵令嬢としての教育が疎かになっている、などと噂されましたら」
クロードは、ことさらゆっくりと続けた。
「旦那様が、お嬢様を本邸へお戻しになる可能性もございますな」
居間が、しんとした。
クッキーを持つラヴェリナの手が、宙で止まっている。
「……え?」
「離れでのお暮らしが、お嬢様に悪影響を与えている。そう判断されれば、の話でございますが」
「待って」
「はい」
「それ、本当にある?」
「可能性は、ございます」
次の瞬間、ラヴェリナはがばっと跳ね起きた。妖精が二人、クッションの縁から転がり落ちた。
「それは困る!」
「左様でございますか」
「困るなんてもんじゃないよ!」
本邸に戻る。
それはつまり、この離れを出ていくということだ。
壁一面の本棚。
アトリエ。
妖精たちの部屋と、窓の専用出入口。
畳もどきも、クッションベッドも、冷蔵箱も、置いていくことになる。
妖精たちを本邸に連れていけば、いつか誰かに見つかる。自分が自分のままでいられる場所が、まるごとなくなる。
想像しただけで、背筋が冷たくなった。
「どうしよう!」
「きちんとなさればよろしいかと」
「きちんとって、どうやって?」
「まずは公爵令嬢としての立ち居振る舞いを、根本から見直されてはいかがでしょう」
「……マナー」
「左様でございます」
ラヴェリナが迷ったのは、一瞬だけだった。
「マナーの先生、呼んで!」
「お早いですな」
「すぐ!」
「承知いたしました」
「できれば厳しい人!」
「それはまた、どうして」
「絶対に、ぜったいに、離れを追い出されたくないから!」
◇ ◇ ◇
三日後に離れへやってきたのは、ベルタ夫人という、背の高い痩せた婦人だった。
王都の名家の令嬢を何人も社交界に送り出してきたという評判で、灰色のドレスは一分の隙もなく、扇の先で床を指すだけで空気が引き締まる。
「では、お歩きなさいませ」
最初の言葉がそれだった。
ラヴェリナは応接室の端から端まで歩いた。
自分では、まあまあ上品に歩けたと思った。
「歩幅が広すぎます。顎が上がっています。それから、スカートを蹴っていらっしゃいますね」
「……はい」
「もう一度」
その日から、ラヴェリナの一日は目に見えて忙しくなった。
頭に本を載せて廊下を往復する。
座るときはスカートの裾をどう払うか、
立つときはどちらの足から力を入れるか。
礼の角度は、
相手の身分によって指一本分ずつ変わる。
紅茶のカップは音を立てずに受け皿へ戻し、
焼き菓子は二口で食べ終える。
会話では相手の言葉が終わってから一呼吸おき、
視線は相手の目と口元の間を行き来させる。
扇は開く速さひとつで機嫌の良し悪しを語ってしまうから、決して慌てて開かない。
「もう一度お願いします!」
「ええ、お嬢様」
「今度はもっと厳しく!」
三度目の礼をやり直させたところで、ベルタ夫人の眉が、初めてわずかに動いた。
「……ずいぶんと熱心でいらっしゃいますこと」
「はい! 絶対に失敗できないので!」
「王太子殿下の婚約者候補として、ですか。よいお心がけです」
「……はい!」
一瞬の間は、ベルタ夫人には気づかれなかったと思う。
なぜなら、ラヴェリナにとってこれは、王太子殿下のための努力ではない。
離れを守るための戦いだった。
「姿勢」
「はい!」
「肘が開いています」
「はい!」
「扇の扱いを、もう一度」
「はい!」
応接室の扉の上、明かり取りの小窓の桟には、毎日のように妖精たちが鈴なりになって見物していた。
授業が終わってベルタ夫人の馬車が遠ざかると、たちまちルルが飛び降りてきて、細い腕を胸の前で組み、つんと顎を反らしてみせる。
「肘が開いておりましてよ、お嬢様」
「似てない!」
「スカートを蹴っていらっしゃいますわね」
「うるさい!」
ポロは真似をして礼をしようとし、そのままくるりと一回転して床に落ちた。それを見て、ほかの妖精たちが笑い転げる。
ラヴェリナは頭の上の本を下ろし、ため息をついて、それから一緒になって笑った。
笑い終わると、もう一度本を頭に載せた。
◇ ◇ ◇
ひと月ほど経った頃、クロードは本邸の執務室に呼ばれた。
離れの月次の報告は、いつもなら書面で済ませている。旦那様が直接会いたいと言うときは、たいてい娘に関する話だ。
「ラヴェリナが、自分からマナー講師を呼んだそうだな」
書類から顔を上げずに、ギルベルトが言った。
「はい。ベルタ夫人に、講師として週に四日、お越しいただいております」
「ベルタ夫人か。厳しいと評判の」
「お嬢様のご希望でございます。できるだけ厳しい方を、と」
ペンの動きが止まった。
ギルベルトはゆっくりと顔を上げ、クロードを見た。
「あれが、自分から厳しい講師を」
「左様でございます。毎日、夜遅くまで復習をなさっておいでです」
「……そうか」
公爵は椅子の背にもたれ、長く息を吐いた。
婚約者候補の話を告げた日の娘の様子を、思い出しておいでなのだろう。
もっとも、あの夜お嬢様が離れのクッションに顔から突っ込んでいたことまでは、旦那様もご存じないはずだ。
それが今では、自分から厳しい講師を求め、夜遅くまで礼の練習をしている。
「自分の立場を、理解したのだな」
その声には、隠しきれない安堵がにじんでいた。
「……はい」
クロードは、わずかに視線を窓の外へ逸らした。
嘘は申し上げていない。
お嬢様はご自分の立場を、それはもう正確に理解された。離れ生活を守るという立場を、である。
「引き続き、よろしく頼む」
「かしこまりました」
一礼して執務室を辞し、長い廊下を渡って離れへ戻る。
玄関の扉を閉めると、老執事は誰も見ていないのを確かめてから靴を脱ぎ、自分専用の室内履きに足を入れた。
足の裏から、すっと力が抜けていく。
「……これも、守らねばなりませんからな」
応接室の方から、ベルタ夫人の「もう一度」という声と、お嬢様の元気な「はい!」が聞こえてきた。




