第13話 最高の読書環境を作ろう
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本作は完結まで執筆済みです。
最終話まで更新が止まることはありませんので、ご安心してお楽しみください。
離れの居間の壁際には、ラヴェリナの背丈よりも高い本棚がある。
いちばん上の段の端には、七歳の冬に妖精たちと作った最初のコミックが立ててある。
それから一年あまりで、棚は上から下までぎっしり埋まった。
妖精たちが描くコミックの絵柄は少しずつそろい、背景に森や城が描き込まれ、今では見開きのシーンまである。
ラヴェリナの小説に至っては、本棚からあふれて床にまで積まれており、二つ目の棚の設置をクロードと交渉中だ。
棚の横の貸出帳には、メイドたちの名前がびっしり並んでいる。端正な筆跡のクロードの名前もいくつか書かれていた。
貸出帳にある『風の精霊と、忘れられた森』は、第四巻だけ返却欄が空白のままになっており、クロードの机の引き出しに、そっとしまわれていることを、ラヴェリナはルル経由で知っていた。
九歳の秋。
離れは、ほぼ理想の城になりつつあった。
ほぼ、である。
窓辺の椅子で新刊を十ページ読んだところで、ラヴェリナはぱたんと本を閉じた。
「違う。読書環境が、まだ完成してない」
「十分だろ。静かだし、本はあるし、菓子もあるし」
本棚の上のルルが片目を開ける。
「甘い! 背中もお尻も首も、どこにも力を入れなくていい場所が必要なの!」
「ベッドで読めよ」
「ベッドだと寝ちゃうの! 椅子は硬いの!」
「面倒くせえな、お前」
前世の部屋の隅には、人をダメにするというキャッチフレーズで販売されていた大きなクッションがあった。座れば中身が体の形に沈み、本を胸に載せたまま何時間でも過ごせた。
思い出したら、もう駄目だった。
◇ ◇ ◇
「……寝具でございますか」
「寝具じゃないの。クッションベッド! でもベッドじゃないよ」
大きな紙に描いた、ずんぐりと丸い袋の絵を前に、クロードが白い眉を寄せた。
「お嬢様。名称の段階で、すでに矛盾しております」
身を乗り出したのはメアリーだった。
「帆布を二重にして、中身は綿に刻んだ端切れを混ぜれば形が保てると思います。口を紐で絞るようにしておけば、量もあとから調整できますし」
「メアリー天才!」
ラヴェリナが振り向くより早く、クロードは
「予算、でございますね」
と帳簿を開いていた。
帆布も端切れも綿も安いもので、縫製は離れの中で済む。珍しく一度でクロードという関所を通過した。
五日後、居間の床に据えられたそれに、ラヴェリナは助走をつけて飛び込んだ。
ぼふっ。
帆布の内側で中身がゆっくりと押し分けられ、背中の丸みと膝の曲がり具合に合わせて形を変えていく。沈みきる手前で、ふわりと押し返された。
「これ! これぇ……これが欲しかったの……」
「そのまま眠ってしまわれそうなお顔ですが」
「これは読書用だから大丈夫」
「根拠がございません」
ラヴェリナが半分目を閉じたまま、「予備として、あと二つ作って」と頼むと、クロードは「予算を確認致します」とだけ答えた。
ついでに欲しい人を聞くと、メアリーが控えめに胸の高さまで手を挙げ、結局は希望者全員の分を作ることになった。
翌朝の厨房では、
「髪を解く前に沈んで、そのまま朝でした」
という証言が出たらしい。
◇ ◇ ◇
冬が過ぎ、ラヴェリナは十歳になった。そして初夏。
「冷たい飲み物が欲しい」
「また始まりましたな」
「聞こえてるよ、クロード」
クッションベッドで本を読んでいると喉が渇く。
いいところで本を置いて厨房まで行きたくはない。
「冷蔵庫を作る! 陶器の蓋付きの箱に氷の魔石を入れたら、中が冷えるでしょ。簡単!」
クロードは何か言いたげだったが、黙って職人に手紙を書いた。
十日後に届いたのは、つるりとした白い肌の、両手で抱えるほどの陶器の箱だった。ラヴェリナは底に氷の魔石を据え、桃と杏を並べ、果実水の瓶を立てて蓋を閉めた。
夕方、わくわくしながら蓋を開ける。白い靄がひやりと顔にかかった。
桃を持ち上げた。
ごつん、と指の骨に響いた。
「……硬い」
杏も硬い。
果実水の瓶は中身が白く濁り、瓶にひびが一本、斜めに走っていた。
「全部凍ってるじゃん!」
「氷の魔石で直接冷やしたのでございますから、当然の結果かと」
「先に言ってよ!」
「お嬢様があまりに自信満々でいらっしゃいましたので」
カチカチの桃を握りしめてうなだれてから、ラヴェリナは手帳に書きつけた。
試作一号、失敗。
魔石と食品が近すぎる。
瓶に亀裂。
桃は石。
「……分ければいいんだ。魔石の場所と、食べ物の場所。間の仕切りは木! 木なら冷たさがゆっくり伝わるでしょ?」
仕切りには、厨房の古いまな板を削って使ってみた。次の夕方、そっと蓋を開けて杏をつまむ。ひんやりしているのに、指で押すとちゃんとへこんだ。
瓶は表面にうっすら汗をかいている。
「成功! これが冷蔵庫!」
クロードは仕切りの木に触れ、両側の冷たさを指先で比べた。
「なるほど、単純なものほど、誰も思いつかぬものですね。……それで、欲しい者の部屋にも、とお考えでございましょう」
「なんで分かったの」
「長年お仕えしておりますので」
冷蔵箱も希望者の分が作られ、休憩室では
「夜中のお菓子も冷やせます」
とささやかれるようになった。
離れの使用人が本邸へ戻りたくない理由が、またひとつ増えたのである。
◇ ◇ ◇
その夜も、ラヴェリナは本邸で家族と夕食の席についた。
離れに移って二年あまり、夕食は家族一緒にという父との約束は、もうすっかり日々の習慣になっていた。
上座に父、右手に義母のセシリア、左手にラヴェリナ。その隣は、リアの指定席になっている。
「今日は暑かったですわね」
セシリアが扇で首元をあおぐと、リアが小さな声で白状した。
「お庭の噴水、お湯みたいだった」
「こんな日は、冷たい果物が食べたいね」
「分かる! 私も昼間、冷たい杏を――」
ラヴェリナはスープの匙を持ったまま固まった。
「杏?」
「……杏の、絵を。本で見て。冷たそうだなって」
「絵の杏は冷たいの?」
「冷たそうな絵だったの」
危なかった。
離れで見たことは本邸では話さないように。
言い出した本人が破ってどうする。
視線を感じて顔を上げると、父がほんの少し口の端を持ち上げて、パンをちぎっていた。
娘の嘘を見抜いたのか、冷たい絵の杏が可笑しかったのかは分からない。ただ、父の口元がゆるむ回数は、去年よりずっと増えている。
「お姉様、今度のおはなしの夜、続きしてくれる?」
「いいよ。魔女がお城に着いたところからね」
週に一度、リアの寝室で語るその物語が、離れの棚に並んだ小説の一冊だということも、もちろん秘密だった。
◇ ◇ ◇
仕上げは、ガラス職人に作らせた指より細い中空の管だった。
冷えた果実水に差して吸うと、甘酸っぱい冷たさが舌の上をまっすぐ走る。
「これがストロー!」
「そのままグラスからお飲みになればよろしいのでは」
「雰囲気が大事なの!」
◇ ◇ ◇
初夏の風がカーテンの裾を揺らす午後。
ラヴェリナはクッションベッドに、ぼふん、と体を預けた。
手の届く小さなテーブルには、冷蔵箱から出したばかりの果実水。グラスに細かな水滴が浮かび、ガラスのストローが斜めに差してある。
膝の上には、本棚のいちばん上から抜いてきた最初の一冊。表紙の角はめくれ、一度切れた綴じ糸にはメアリーが縫い直した跡がある。
灰色の髪の妖精が描いた大鹿の少女は、角に絡んだ苔の一本一本まで細かい。
ところが次のコマでは、別の誰かが描いた大鹿の角が枠をはみ出して隣のページまで伸び、その次では、どんぐりを抱えて怒る木の精霊が棒のような手足で描かれている。
吹き出しの字は、七歳のラヴェリナが書いた大きく傾いた文字だった。
上手いコマと下手なコマが、一ページの中で喧嘩しているようだ。でも、この一冊がなければ今のコミックの棚はできなかった。
肩の近くに陣取ったルルが、横から同じページを覗き込んだ。
「なあ、この精霊、腕の長さが左右で違うぞ」
「描いたのルルでしょ」
「……昔の俺は昔の俺だ」
ストローをくわえて、果実水をひと口。冷たさが喉を落ちていく。背中はどこにも力が入っていない。
魔法と妖精のいる世界と、前世のごろごろできる快適さが、いまこの部屋にそろっていた。
「……これで、読書環境は完璧」
小さく宣言して、ラヴェリナは次のページをめくった。
はずだった。
◇ ◇ ◇
一時間後、書類を持って居間に入ってきたクロードは足を止めた。
クッションベッドの真ん中でラヴェリナが寝息を立て、胸の上には開いたままのコミック。妖精たちもクッションの縁や彼女の髪の間で丸くなっている。
ルルだけが片目を開けて、口の前に人差し指を立てた。
クロードは膝掛けを取ってきてラヴェリナの肩まで掛け、落ちかけていたコミックをそっとテーブルに置いた。




