Articulus Ⅶ Bona fides 待たんで済んだやろ
このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。
ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。
そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。
ですので、そのあたりは物語としてお読みください。
小二郎の返書は、翌朝には阿国に尋ねなくても読めるようになっていた。
昨日から同じ紙ばかり眺めていた成果である。
どの字がどこにあるかだけでなく、墨がかすれた場所まで覚えかけているので、これを読み書きの上達と呼んでいいかは少し怪しい。試験問題と答えを先にもらって、ほとんど暗記してから満点を取るようなものだった。
それでも、読めるものは読める。
私は返書を文机へ置き、その隣の紙へ目を移した。
昨日、阿国に教わった書き出しを入れて、返事への礼までは書いてある。
そこで筆が止まっていた。
「怒ってないのか、もう一回聞いたら変かな」
向かいで縫い物をしていた阿国が、針を止めた。
「そのお返事では、ご不満でしたか」
「そうじゃないけど」
ご不満、と言われると、苦情が足りないと訴えているみたいで嫌だった。
小二郎はもう構わないと書いている。
それなのに、私が安心したいからもう一度確認するのは、怒っていないことまで証明してほしいと言っているような気もする。
そこまで考えた。
考えたのだけれど、やっぱり気になった。
「……聞く」
「でしたら、お書きになればよろしいかと」
「止めないんだ」
「私が決めることでございましょうか」
「それは、そうなんだけど」
書き方は教えてもらえても、何を聞くかまで阿国に決めてもらうわけにはいかないらしい。
私は筆を取り、約束どおり行けなかったことを、本当に怒っていないのかと書いた。
左手で筆を持つことには、少しずつ慣れてきた。
ただ、一文字崩れるだけで、頭の中ではまとまっていたはずの文章まで急に頼りなく見える。
書き終えた紙を阿国へ渡すと、彼女は目を通し、結びのところだけ直した。
「そこは聞かなくていい、とは言わないんだね」
「聞きたいのでございましょう?」
「……うん」
「では、よろしいのでは」
簡単に言われてしまった。
私は直されたところを書き直し、墨が乾くのを待ってから紙を畳んだ。
◇ ◇ ◇
返事は、その日のうちに届いた。
事情があって、知らせまで寄越したのだから構わない。
小二郎はそう書いていた。
その下に、もう一行ある。
――何で、そこまで気にする?
私はそこで手を止めた。
こちらは、小二郎がどう思っているのかを知りたかった。
でも、怒っていないと二度も言った本人からすれば、いつまでも確認してくる私の方が不思議だったようだ。
「何で、か」
声に出すと、少し離れたところで着物を畳んでいた阿国が顔を上げた。
「小二郎様から、何か?」
「何でそこまで気にするのかって」
返書を見たまま答える。
「私が先に、約束は守れって言ったからかな」
「小二郎様にですか」
「前に遅れてきたことがあって。そのとき私が、約束したんだから守れって言ったの」
それで今度は、私の方が約束どおりに行けなかった。
そう言いかけて、少し違う気がした。
事情があって行けなくなった。
分かった時点で手紙も出した。
小二郎は怒っていない。
それでも、まだ何かが引っかかっている。
私は返書を机へ置いた。
もし、あの日何も知らせなかったら。
私が行くと言った以上、小二郎はそのつもりで来る。
手本を用意したかもしれないし、別の用を入れなかったかもしれない。
少なくとも、私の言葉を当てにして、自分の時間を使う。
それが分かっているのに、こちらの都合が変わったから仕方がない、と私だけで話を終わらせるのが嫌だった。
「……ああ」
ようやく、引っかかっていたところが見えた。
「信義の話か」
阿国が手を止める。
「しんぎ、でございますか」
「うん。たぶん」
口にしてから、もう少しだけ考える。
「約束したことだけ守れば、あとは知らない、っていうのとも違うでしょう。相手がその言葉を当てにするって分かってるなら、そこまで無視するのは変というか」
説明してみると、頭の中で考えていたよりずっと短かった。
講義なら、もっと整った言い方がある。
でも小二郎が聞いたのは、信義則の定義ではない。
どうして私が、そこまで気にしたのかだ。
なら、これくらいでいい。
私は筆を取り、そのまま書き始めた。
数行進んだところで、白い余白が目に入る。
まだ書ける。
そう思ったところで、筆を止めた。
このまま続けたら、信義の説明を始めて、条件を分けて、例外まで書いて、そのうち小二郎が一度も聞いていない話まで増やす気がする。
かなりありそうだった。
「一平太様」
阿国が畳んだ着物を脇へ置いた。
「何?」
「続きは、お会いになってお話しなさってはいかがですか」
思わず顔を上げた。
「会っていいの?」
「私もご一緒いたします」
阿国は私の反応を待たず、そのまま続ける。
「毎日のようにお二人だけでお会いになるのは、お控えいただきたいのですが。少し間を空け、家の者が付き添うのでしたら」
その視線が、文机の上を通った。
小二郎からの返書が二通。
書きかけの手紙が一通。
その横には、次に使うつもりで出していた紙まである。
「何度もお届けするより、私にも都合がようございます」
「折れた?」
「お付き合いの仕方をお考えくださいと、申し上げたはずですが」
声は涼しかった。
どうやら、私が粘って勝ったことにするのだけは許してもらえないみたいだ。
「世間の方は大丈夫なの?」
「誰も何も言わないところまでは、お約束できません。ただ、家の者が承知していると分かることには、意味がございます」
「なるほど」
誰も何も言わなくなるまで待っていたら、次に小二郎へ会う頃には、せっかく覚えた字の方が先に消えそうだった。
明日の昼過ぎ。
阿国と一緒なら行ってよい、ということになった。
私は書きかけの紙を見る。
「じゃあ、信義の続きは書かない」
「その方がよろしいかと」
「会う時間だけ?」
「まずは、それで」
少し物足りない。
でも、読む小二郎にとっては、その方がたぶん親切だった。
◇ ◇ ◇
翌日、団子屋へ着くと、小二郎はもう手本を広げていた。
私を見つけたあと、その視線が後ろの阿国へ移る。
眉が少し寄った。
「ほんまについてきたんか」
「お知らせしたとおりでございます」
阿国は気にした様子もなく答えると、少し離れたところへ腰を下ろした。
小二郎は何か言いたそうだったけれど、それ以上は何も言わない。
私はそこには入らず、懐から書きかけの手紙を出した。
「返事、途中だったから」
小二郎は受け取った紙へ目を落とした。
「何でそこまで気にするか、分かったんか」
「たぶん」
「たぶんかい」
「昨日よりは分かってる」
私は向かいへ座った。
「私が来るって言ったら、あなたはそのつもりで待つでしょう」
「そら待つやろな」
「私が気にしてたの、たぶんそこだった。約束どおりに行けなかったことより、私が来るって言ったせいで、あなたが待つことの方」
小二郎が紙から目を上げる。
「せやから、知らせてきたんやろ」
「うん」
「ほな、それでええやん」
「そうなんだけど、自分で理由が分かってなかったの」
小二郎の眉が少し動く。
「約束した言葉だけじゃなくて、その言葉を相手が当てにすることも考える。そういう話が、私が勉強してた法にはあるの」
「何ていうんや」
「Bona fides。信義って言うの」
「しんぎ」
小二郎は空いた紙へ二文字を書いた。
私より迷いなく筆が動く。
ちょっと腹が立つ。
「約束を守れいうんと、何が違う?」
「近いよ。でも、約束した言葉だけ見れば終わり、でもないの」
「今回やったら?」
「来るとは約束した。でも、来られなくなったときに手紙を出すところまでは決めてないでしょう」
「決めてへんな」
「だからって、手紙を出す約束はしてないから黙ってました、で済ませるのも変じゃない?」
小二郎は少し考えた。
「俺が待つと分かっとるのにな」
「そう。それ」
昨日から私が紙を前にして考え続けていたところを、一息で言われた。
少し悔しい。
「ほな、決めてへんことまでせなあかん場合があるんか」
「何でも追加していいわけじゃないよ。そんなことしたら、最初に何を約束したのか分からなくなるし」
「ほな、どこまでや」
そこを聞くよね。
私は少し考えた。
「約束した内容とか、そのときの事情とか、相手との関係とか。全部まとめて見ないと決められない」
「決まってへんやん」
「だから信義って面倒なの」
「センセが言い出したんやろ」
正しい。
自分で持ち込んだ話に、自分で困っている。
「全部先に決めるのも無理でしょう。来られないとき、遅れるとき、途中で道に迷ったときまで、一個ずつ決める?」
「最後のはセンセだけ決めといたらええんちゃうか」
「道には前より慣れたよ」
「前より、やろ」
反論しづらい。
小二郎は笑いながら筆を動かし、書いたものをこちらへ向けた。
「相手が困ると分かっとるのに、決めてへんから知らん、では済まさん。今日の話やったら、こんなもんか」
私は文字を追った。
短い。
しかも今日の話だけなら、私が考えていたものよりずっと分かりやすかった。
「うん。それでいいと思う」
「ほな、手紙はあれでよかったんやな」
「内容はね」
小二郎の口元が緩む。
「字は?」
「読めたけど、阿国に直してもらったところはある」
「やっぱりな」
聞かれていない不利な情報まで、自分から出してしまった。
小二郎は楽しそうに紙を置く。
悔しいので、私は卓の上の手本を指した。
「今日はこっちもやるんでしょう」
「当たり前や」
信義が一つ分かったところで、文字まで勝手に読めるようにはならないらしい。
そこは別件だった。
◇ ◇ ◇
帰る頃には、卓へ差し込む日の向きが変わっていた。
小二郎が紙を一枚引き寄せる。
「次、いつ来る」
「三日後なら大丈夫だと思う」
「思う?」
筆を持ったまま待たれたので、私は阿国を見た。
「三日後の午後は、どう?」
「今日と同じ頃でしたら、ご一緒できます」
今度は小二郎を見る。
「俺もええ」
「じゃあ、三日後。同じくらいの時間に、ここ」
小二郎は頷くと、紙へ日付と刻限、それから店の名を書いた。
いつもより字の間が広い。
私にも読めるようにしてくれたらしい。
「書いておくの?」
「何日やったか後で揉めるんも面倒やろ。来られんときは、また知らせて」
「小二郎もね」
「分かっとる」
私は筆を借り、その下へ自分の名前を書いた。
小二郎も横へ名前を入れる。
日付。
場所。
その下に、二人の名前。
会う日を決めただけなのに、こうして並ぶと少しだけ改まったものに見えた。
私は日付を確かめた。
そのついでに、名前のところも見る。
どちらかというと、そっちの方を長く見た。
「口で決めるんと、何が違う?」
小二郎はまだ紙を持っていた。
「口でも約束はできるよ。でも紙にしておけば、あとで何を決めたか確かめやすいでしょう」
「言うた、言うてへんにならんのか」
「そういうことも減るね」
小二郎は頷いたものの、紙を渡そうとはしなかった。
しばらく眺めたあと、ふと顔を上げる。
「夷狄と幕府が結んどる、あれもそうなんか」
「あれ?」
「港開くとか、どこで商いするとか、紙に書いて決めとるやつ」
「ああ。条約?」
「じょうやく」
「国同士で話し合って、決めたことを文書にした約束。そういうものを条約っていうの」
国とは何か、そこから戻った方がいいのか一瞬迷った。
でも、小二郎はもう手元の紙と、自分が知っている外国との約束を勝手につないでいる。
ここで順番を巻き戻して講義を始める方が、たぶん分かりにくい。
「話し合って決めたことを書いて残す、ってところは似てるよ」
「ほな」
小二郎はもう一度、紙を見る。
「これは俺とセンセの条約やな」
「法律の言葉としては違うよ。私たちは国じゃないから」
「名前くらい、ええやろ」
あっさり返された。
違うものは違う、ともう一度訂正することもできる。
でも、小二郎が自分でつけた呼び名にまで、いちいち法的な正確さを求めなくてもいい気がした。
「……呼び名なら、まあ」
「ほな決まりや。センセ、持っとき」
小二郎は紙を半分に折り、こちらへ差し出した。
「小二郎の分は?」
「俺は覚えとる」
「それだと、紙にした意味が半分なくない?」
「センセは字ぃ読む練習にもなるやろ」
「教材扱いなんだ」
「役に立つやろ」
否定はできない。
私は紙を受け取り、折り目を指でなぞった。
小二郎が書いたところはもう乾いている。
自分の名前の辺りだけ、まだ墨の匂いが少し残っていた。
その紙を懐へしまう。
阿国が先に立ち上がったので、私も刀の先を確かめながら腰を上げた。
「ほな、三日後」
「うん。遅れないでね。条約違反になるよ」
「さっき違う言うたやろ」
そこはちゃんと覚えているらしい。
私は聞こえなかった顔で、阿国のあとを追った。
店先の段差を下りると、腰の刀が軽く揺れ、その拍子に懐の紙も少し動いた。
たった一枚の紙なのに、入っている場所だけは妙にはっきり分かる。
私は歩きながら、一度だけ懐へ手をやった。
折った紙の感触を、着物の上からそっと確かめた。
【今回のタイトル】
本文でもでましたが、Bona fides は、ラテン語で「信義」「誠実」「善意」くらいの意味です。
法律では、相手の信頼を裏切らないことや、誠実に振る舞うことに関わる言葉として使われます。
日本法でいう「信義則」と重なるところもありますが、そのあたりを詳しく始めると長くなりますので、今回はここまで。
なお――
あの紙は、条約ではありません。
……でも、私たちのPactaです。




