Addendum 与阿国再会、論一平太之事 ―変わったもの―
一筆啓上仕候。
本篇、史実に名を残せし人々ならびに出来事を借り受け候えども、
その会話、心中、書状、そのほか細々したるところは、
筆者の想像にて補い候もの多々これ有り。
ゆえに、史実と違うではないかとの御叱り、もっともに御座候。
されど此度ばかりは、ひとつ物語として御容赦願いたく候。
恐惶謹言
約束の刻には、まだ少し早かった。
軒先から差し込む陽射しは通りの半ばまで伸び、荷を担いだ男や買い物帰りらしい女が、その明るいところを行き交っている。店先には甘い餡の匂いが漂い、向かいの店から流れてきた魚を焼く煙が、湿り気を含んだ風に押されて軒下まで入り込んできた。
紙と硯を出してしまうと、ほかにすることもない。
手本を広げたところへ風が入り、浮いた端を指で押さえる。朝から湿気を吸っているせいか紙は少し柔らかく、硯を重し代わりに寄せても、端だけがゆっくり持ち上がっては戻った。
筆先まで整えてみたものの、まだ書くことはないので、俺は片腕を膝へ置いて通りを眺めた。軒の下には日陰なりの熱が溜まり、じっと座っていると首筋へ汗が浮いてくる。襟へ染み込んだところへたまに風が触れるものの、涼しいというほどではなかった。
早う来いと思っているわけではない。
遅刻した相手に説教していた奴が、今日はどんな顔で来るのか。それが少し気になっただけなのに、人影が店の前を横切るたび、目が勝手にそちらへ向いた。
何度目かで自分でも鬱陶しくなり、団子でも頼もうかと店の奥を振り返ったところで、通りの向こうから歩いてくる女が目に入った。
落ち着いた赤茶の着物を着て、髪をきちんとまとめている。細かな花模様の裾が歩くたびに揺れ、日向へ出るたび、その色だけが少し明るく見えた。
見覚えはあるのに、名前がすぐには出てこなかった。
向こうもこちらに気づいたらしく、歩調がわずかに落ちた。人が二人ほど間を横切り、その姿が近づくにつれて、今の顔の奥へ昔の面影が重なっていく。
俺は腰を浮かせかけた。
「……阿国?」
女は足を止め、俺の顔をしばらく見つめてから目を見開いた。
「小二郎様」
声を聞くと、ようやく全部つながった。
背丈も顔つきも変わっているのに、その呼び方だけが昔のままだった。
俺は腰を下ろし直して笑った。
「その言い方。昔、気持ち悪い言うたやろ」
「七年ぶりにお会いして、最初におっしゃることがそれですか。小二郎」
「ほかに言うこと考えてへんかったんや」
阿国は呆れた顔をして、それから笑った。
その笑い方を見ると、七年という時間が一度だけ縮んだような気がした。
昔は俺が何か始めると、たいていこいつが止めに来た。一平太を連れ出そうとすれば行き先を聞かれ、答えずに逃げても、帰れば待っている。久しぶりに会ったのだから懐かしい話でもするものなのだろうが、こうして目の前へ立たれると、懐かしさより先に、叱られる直前の居心地の悪さが戻ってきた。
阿国は俺の向かいまで来ると、広げてある紙と硯へ目をやった。
「ところで小二郎」
「何や」
「周りの方と、また喧嘩などしておられませんでしょうね」
「してへん」
「言い争いは?」
「……あれは向こうが」
「小二郎」
俺は硯の縁を指でなぞりながら視線を逸らした。汗ばんだ指先が黒い縁を滑り、そのまま止まる。
「俺が間違っとったわけちゃうで」
「正しいかどうかは伺っておりません」
「七年ぶりやぞ」
「七年ぶりですから確認しております」
どういう理屈や。
俺が黙っていると、荷車が店の前を通り過ぎた。車輪の音が近づき、軒先の前で一度大きくなってから遠ざかる。そのあいだに押された空気が襟元へ入り、汗の溜まっていた首筋だけを撫でていった。
「それで、お前は何しに来たんや」
「お届け物でございます」
阿国が懐から折り畳んだ紙を取り出した。
その手元を見て、ようやく思い当たる。
「センセは?」
阿国の手が止まった。
「……一平太様を、そうお呼びになるのですか」
しまった、と思ったが、もう遅い。
「向こうがそう呼ばせとるわけちゃうぞ。字ぃ教える代わりに、俺も教わっとることがあるんや」
「法のお話でございますね」
「そこまで聞いとるんか」
「少しは」
阿国はそれ以上何も言わなかった。
何となく居心地が悪くなり、俺は差し出された紙へ手を伸ばした。
「それ、あいつからやろ」
「はい。本日は参れないそうです」
紙を受け取りかけた手が止まった。
「何かあったんか」
「私が止めました」
「お前が?」
「毎日のようにお二人で会っておられると伺いましたので」
「字ぃ教えとるだけやぞ」
「一平太様からも、そのように伺いました」
だったら何が悪い、と言いかけたが、阿国の顔を見てやめた。
昔から、こいつとこういう話をすると勝てたためしがない。何が悪いのかと聞けば、こちらが聞きたくなかったところまで順番に説明されるので、余計な入口は開けない方がいい。
俺は紙を開いた。
折り目だけは妙にきっちり揃っているのに、中身は簡単で、今日は来られないことと、明日のことはまた知らせるという旨が、普段喋るのとほとんど変わらない調子で書かれている。
「……ほんま、喋るまま書いとるな」
「何か?」
「いや」
文字を追っていると、あいつが目の前で同じことを言っているような気がした。
内容より先に声が浮かぶ手紙というのも、妙なものだった。
「分かった。まだ刻にもなってへんし、ええよ」
「お返事がございましたら、お預かりいたします」
「今書くわ。そこ座ったらええ」
手本を寄せ、向かいに場所を空けた。
ところが阿国は座らず、俺を見たままだった。
「何や」
「小二郎。一平太様にお会いして、どう思いました?」
筆へ伸ばしていた手を止めた。
通りでは荷を担いだ男が店の者へ道を尋ねており、やけに大きな声で行き先を繰り返している。阿国はその男が礼を言って歩き出してから、ようやく腰掛けの端へ座った。
「随分、お変わりでしょう」
俺は筆を指先で転がした。湿った指に竹の軸が滑り、板へ小さく当たる。
「できなくなったことだけではございません。物の尋ね方も、お困りになるところも、以前とは違います。私も、ときどき、どう接すればよいのか分からなくなります」
すぐには返事が出なかった。
あいつが最初に言った言葉を思い出す。
――私がそれ知りたい。
昔の一平太とは違うことくらい、俺にも分かった。
けれど、あいつが言ったように未来から来た人間なのかと聞かれれば、やっぱり分からない。確かめる方法も思いつかず、そもそも未来から人が来るのかどうかを、俺が判断できるはずもない。
「小二郎?」
「……俺に聞かれても、よう分からん」
正直に言うと、自分でも少し情けなかった。もう少し気の利いたことを言えるかと思っていたのに、結局、あいつ本人と同じところへ戻ってきただけである。
それでも、困った顔なら何度も見ていた。
「ただ、本人もよう分かってへんのやと思う」
阿国が俺を見る。
「小二郎には、何かお話しになったのですね」
また余計なことを言ったらしい。
俺は筆を置き、さっき渡された手紙へ目を落とした。
「少しな」
「私も、知っておいた方がよいことでしょうか」
風が軒下へ入り、紙の端を持ち上げた。俺は指で押さえたまま考える。
あいつから口止めされたわけではない。
だからといって、口止めされていないことと、俺が勝手に話してよいことは、たぶん同じではなかった。
「本人に聞いてくれ。俺から言うんは、何か違う気がする」
「そうですか」
「俺も全部信じたわけちゃうしな」
阿国の眉がわずかに動いた。
言ってから、また余計なものを一つ足した気がしたが、今度は何も聞かれなかった。
その沈黙の方が落ち着かず、俺は筆を持ち直したものの、まだ墨にはつけなかった。
「……お前、怖ないんか」
「怖いですよ」
返事があまりに早くて、今度は俺が顔を上げた。
阿国は困ったように笑った。
「毎日お世話をしていた方が、ある日を境に、知らない方のようになったのです。何とも思わない方が難しいでしょう」
「ほな、何で一緒におる」
「それは……」
今度は阿国が少し考えた。
すぐ答えが返ってくると思っていたので、俺は黙って待った。
店の奥から湯を扱う音がして、その熱まで流れてきたように軒下の空気が重くなる。背中へ張りついていた着物を少し浮かせようと肩を動かしたが、間に入ったのは生ぬるい空気だけだった。
阿国の額にも薄く汗が浮いている。
「放っておけないから、でしょうか」
「何やそれ」
「私にも、よく分かりません」
意外な答えだった。
阿国は膝の上へ目を落とし、着物の皺を指先でゆっくり伸ばした。
「ただ、今の一平太様は着るもの一つにもお困りです。分からないことを尋ねられる相手も必要でしょうし、放っておけば、また妙なところで刀をぶつけかねません」
「センセは、そっちでも変わらんのか」
「そのようですね」
そこで初めて阿国が少し笑い、俺もつられて口元を緩めた。
昔から、阿国はこういうところがあった。
誰かが困っていれば、理由を全部聞き出してから動くのではなく、必要なら先に隣へ座る。その前後で俺まで一緒に叱られることが多かったので、全面的によい思い出とは言い難いが、そこだけは変わっていないらしい。
「……変わってへんな、お前」
「何がです?」
「何でもない」
俺はようやく筆先に墨を含ませ、新しい紙を一枚引き寄せた。
「返事書くから待っとって」
「はい」
来られないことは分かったと書き、知らせが来たから待たずに済んだこと、それから明日のことは分かったら知らせろと続けた。
そこで、横へ置いたあいつの手紙が目に入る。
もう一度だけ読み返してみたが、やはり手紙というより伝言だった。
俺相手なら読めるからまだええとして、これをほかの誰かにも寄越すようになったら困るし、字を教えたのが俺だと知られれば、何を教えたのかとこちらまで言われかねない。
俺は返事の下へ筆を運んだ。
字は読める。せやけど、手紙はちゃんと書け。
そこまで書いたところで筆が止まった。
あいつなら、たぶん「ちゃんとって何」と聞く。
実際に言われたわけでもないのに、少し眉を寄せ、説明するまでこちらを見ている顔だけは妙にはっきり浮かんだ。
「……面倒やな」
「何がです?」
「センセが」
阿国が怪訝そうな顔をする横で、俺は仕方なく説明まで書き足した。
話すまま書くな。書き出しと結びくらい覚えろ。
これなら、少なくとも「何を」とまでは聞かれないだろう。
聞かれないだけで、次に会えば別のところを尋ねてくる気はしたが、そこまで先回りしていたら紙が足りなくなる。
「これでええやろ」
阿国が少し身を寄せ、返事を覗いた。
「小二郎が教えてくださるのですね」
「一度始めたんやから、途中で放っとくんも気持ち悪いやろ」
「そうしていただけると助かります」
「お前まで俺に押しつけるなや」
「お願いいたします」
頭まで下げられ、俺は返事に困った。
「……まあ、ええけど」
結局そう答えると、阿国が笑った。
湿気のせいか墨はなかなか艶を失わず、紙を陽の当たる方へ少し寄せる。待っているあいだにも筆を握っていた指の間へ汗が滲み、手を開くと竹の軸が触れていたところだけ皮膚が少し白くなっていた。
朝より人通りが増えたのか、軒の外では値を尋ねる声と誰かの笑い声が重なっている。店の者が隣の卓から皿を下げると、陶器の触れ合う硬い音が、そのざわめきの中へ短く混じった。
墨が乾いたところで返事を折り、阿国へ渡した。
「ほら」
「確かにお届けいたします」
阿国が懐へしまうのを見ながら、俺は手本を巻き始めた。
その途中で、ふと思う。
「……あいつ、無理に出てきたりせんやろな」
「あの様子では、今頃は手本を写していらっしゃるかと」
「そうか」
それならいい、と言いかけてやめた。
俺が来るなと言ったわけでもないし、出てきたところで困る理由を、うまく説明できるわけでもなかった。
阿国は立ち上がって裾を整え、俺も使わなかった紙を重ねた。長く同じ姿勢で座っていたせいか膝の裏には汗が溜まり、足を少し動かすと、張りついていた布が遅れて肌から離れた。
硯を片づけようとしたところで、結局頼まなかった団子のことを思い出した。
今から一人で食べるために頼むのも妙な気がして、そのまま手を伸ばさなかった。
阿国が通りへ出たので、俺も手本を巻き終える。
「小二郎」
呼ばれて顔を上げた。
阿国は人の流れから少し外れたところで、こちらを振り返っていた。
「何や」
「お帰りなさい」
手本を巻いていた手が止まり、締める前だった端が緩んで、膝の上へ少し戻った。
ここは江戸であって、紀州へ帰ってきたわけでも、昔の家へ戻ったわけでもない。それくらいは分かっているのに、今それを訂正するのは、何か違う気がした。
「……今さらか」
「言いそびれておりましたので」
「遅いわ」
「ええ。お待たせいたしました」
阿国は笑って頭を下げると、今度こそ歩き出した。
赤茶の着物が人の間を抜けていく。荷を担いだ男に隠れ、また見え、そのうち俺が目を離した隙に、どこかへ紛れた。
膝の上では、巻き損ねた手本が少しほどけている。
俺はそれを巻き直そうとして、隣に一枚だけ紙が残っていることに気づいた。
センセの手紙だった。
阿国へ渡したのは返事だけで、こちらは俺宛てなのだから、置いていくわけにもいかない。
折り目に沿って畳み直し、端を揃えて懐へ入れる。紙は汗のこもった着物と胸の間へ収まり、その乾いた角だけが、湿った布越しにも分かった。
店を出て人の流れへ混じると、歩くたびに、その角が胸元へかすかに触れた。
取り出して読み返したわけでもないのに、その感触だけは、しばらく消えなかった。
【今回のタイトル】
Addendum は、ラテン語で「追記」「付記」くらいの意味です。
本文を書いたあとで、補足したいことが出てきたときなどに使います。
論文でも、ときどき見かけます。
今回の「与阿国再会、論一平太之事」は、
「阿国と再会し、一平太について話した」
くらいでしょうか。
今回は、このくらいで。




