Articulus Ⅵ Ab extra ただの世間でございます
このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。
ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。
そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。
ですので、そのあたりは物語としてお読みください。
翌日、出かける前に鏡で襟元を確かめた。
合わせはずれていない。腰の刀も、鞘の先まで一応見る。
昨日よりは、少しだけましに見える。
その程度で満足するのもどうかと思うけれど、数日前の私は、その程度のことすら気にしていなかった。
練習した紙を懐へ入れ、部屋を出ようとしたところで、後ろから声がした。
「最近、よくお出かけになりますね」
振り返ると、赤茶の着物を着た女性が立っていた。
細かな花模様に濃い色の帯。茶色がかった髪は簪と白い紐でまとめられ、頬の脇へ落ちた髪だけが、こちらを見た拍子にふわりと揺れた。
阿国だ。
私がこの身体で目を覚ました朝から、着替えも髪も、分からないことのかなりの部分を助けてもらっている。
今日ようやく一人で襟元を確認した程度では、まだ胸を張って自立しましたとは言えない。
「今日も団子屋へ行くよ。文字を教わってるの」
「どなたに?」
「小二郎。代わりに、私も法の話を少ししてる」
阿国の目が、紙を入れた懐から私の顔へ戻った。
「……小二郎様でございますか」
「知ってる?」
「ええ。存じております」
返事をしたあとも、阿国はそこを動かなかった。
道を塞いでいるわけではない。
でも、このまま横を通り抜けるのは違う気がして、私も足を止めた。
「一平太様。毎日のようにお会いになるのは、お控えになった方がよろしいかと存じます。本日はお出かけを見合わせて、今後のことも少しお考えくださいませ」
「どうして? 文字を習ってるだけだよ」
「そのことを疑っているのではございません。伊達家のことは、お覚えでいらっしゃいますか」
「小二郎の家?」
阿国が頷いた。
名前は知っている。
でも、そこから先は何も知らない。
「ごめん。そっちは分からない」
阿国は少しだけ私の顔を見たものの、それ以上は聞かなかった。
「七年ほど前、小二郎様のお父上、伊達宗広様は、御家中で重いお役を務めておられました。ですが、御家中の争いでお役を失われ、田辺へ移されまして。その後、ご家族も城下を離れております」
「小二郎も?」
「はい」
昨日、小二郎が話していたことを思い出す。
一平太とは子供の頃によく会った。でも、ずっと一緒にいたわけではない。
私は勝手に、家の都合で遠くへ移ったくらいに考えていた。
「……追い出されたってこと?」
「乱暴な言い方ではございますが、大きく違ってもおりません」
阿国は、わざわざ聞き心地のいい言葉へ直そうとはしなかった。
「今も伊達なの?」
「現在は、中村を名乗っておられます」
「私には、伊達小二郎って言ったよ」
口にしてから、あのときのやり取りを思い返した。
先に伊達と言ったのは、私だ。
小二郎は「伊達か」と一度繰り返してから、自分の名前を答えた。
名前が分かったことに満足して、その先までは考えなかった。
「お話しになりたくないことも、おありなのでしょう」
「私には誰だとか、一平太はどこへ行ったとか、散々聞いたくせに」
阿国の目が止まった。
私はそこで、しまったと思った。
私の事情を知っている相手が二人いるからといって、その二人に同じ話を全部していいわけではない。
「……昔の話をされても、私には分からなくて。ちょっと揉めたの」
阿国はそれ以上聞かなかった。
「ご事情をお伝えしたのは、お付き合いの仕方をお考えいただきたいからでございます」
「家が昔失脚したことと、私が文字を習うことは別でしょう?」
「一平太様には、そうでございましょうね」
あっさり認められた。
ただし、だから行っていい、とは続かなかった。
「成瀬家の跡取りが、伊達家の御子息と江戸で何度も会っている。それを見た者が、皆、お二人の事情をご存じとは限りません」
「ああ……何か相談してると思われるんだ」
「そのように見る者もいるでしょう」
相談ならしている。
主な内容は、崩し字の読み方と、刀の鞘を人へぶつけない方法だけれど。
それを正直に説明したところで、疑いが晴れる代わりに、成瀬家の跡取りについて別の心配をされそうだった。
「それだけでもございません。お二人とも、もう幼い子供ではいらっしゃいませんので」
意味が分かるまで、一拍かかった。
「……私は男として育てられてるんでしょう?」
「ご事情を知る方が、皆、同じように受け取るとは限りません」
昨日の小二郎の赤い顔が、ものすごく余計なタイミングで浮かんだ。
私は反射的に懐の紙を押さえる。
あの場に誰か別の人がいたとして、私たちが何を話していたのか、どういう事情であの距離になったのか、そこまで丁寧に確認してから判断してくれる保証はない。
「それも慣習法?」
阿国が珍しく困った顔をした。
少し考えてから、首を横へ振る。
「よく存じませんが、ただの世間でございます」
もっと大きいものが出てきた。
法律なら、少なくとも何が決まりなのか調べようがある。
世間はたぶん、こちらが尋ねる前に向こうで話をまとめる。
「面倒だね」
「左様でございますね」
そこは同意してくれるんだ。
少しだけ肩の力が抜けた。
「分かった。今日は行かない」
「ありがとうございます」
阿国の表情も少し緩んだ。
私は履物から離れた。
その拍子に、懐へ入れた紙が身体へ当たる。
「あ。でも、小二郎には今日も会うって言ってある」
阿国がこちらを見る。
「何も知らなかったら、待つよね」
「何時のお約束でございますか」
時刻を伝えると、阿国は少し考えた。
「今でしたら、まだ間に合うかと存じます。お知らせをお届けいたしましょうか」
「お願い。行けなくなったって、書くから」
数日前、遅刻してきた小二郎へ、私はわざわざラテン語まで持ち出して「約束は守れ」と言った。
その本人が、今度は何も言わずに待たせる。
さすがに、それは格好が悪い。
立派な言葉は、相手が覚えていると自分にもちゃんと効くらしい。
私は刀を外し、文机へ向かった。
◇ ◇ ◇
紙を広げて、筆を取る。
習いたての崩し字を使って意味まで崩れては困るので、今日は素直に自分の書ける文字で書くことにした。
練習の成果より、まず伝わることの方が大事だ。
今日は行けなくなったこと。
約束の時刻に待たせたくないから知らせること。
明日のことは、分かったらまた知らせること。
三つ書いて、小二郎の名前と自分の名前を添える。
読み返す。
用件は、全部ある。
「これ、読める?」
阿国が横から覗き込み、頷いた。
「内容は、たいへんよく分かります」
「内容は?」
「小二郎様へは、確かに伝わるかと」
褒める範囲が妙に狭い。
でも、直せとは言われなかった。
「じゃあ、これでお願い」
「承知いたしました」
阿国は紙を受け取り、宛名を確かめる。
「では、行ってまいります」
「よろしくね」
障子が閉まった。
急に、することがなくなった。
私は少し迷ってから、懐へ入れていた手本を出す。
どうせなら、昨日読めなかったところをもう一度やっておこう。
◇ ◇ ◇
阿国が戻ってきたとき、私は同じ言葉を三回目に書いていた。
「お返事をお預かりしております」
その声に筆を置く。
「もう来てたの?」
「ええ。お約束の時刻より前でしたが、道具を出してお待ちでした。今日はお見えにならないとお伝えすると、その場でお書きになりました」
先日遅刻した人とは思えない。
ちゃんと待っていた。
それが少し嬉しくて、私は差し出された紙を受け取った。
広げて、覚えている文字から拾っていく。
来られないことは分かった。
知らせが来たから、待たずに済んだ。
明日のことは、分かったら知らせろ。
そこまでは読めた。
その下にも、まだ続いている。
「字は読める。せやけど、手紙はちゃんと書け……?」
私は顔を上げた。
阿国が口元へ手を当てている。
「ちゃんとって、何が?」
「続きにございますよ」
もう一度読む。
話すまま書くな。
書き出しと結びくらい覚えろ。
「……用件は全部伝わってるじゃん」
「よい先生でいらっしゃいますね」
阿国の声に笑いが混じった。
待たずに済んだ、と確認した直後に手紙の書き方を添削されている。
小二郎らしいと言えば、かなり小二郎らしい。
「阿国、これ分かってたでしょう」
「何のことでございましょう」
「私の手紙が雑なの」
阿国はにこりと笑った。
否定しない。
「私から申し上げるより、よくお覚えになるかと思いまして」
「二人で私を教育しないで」
「大変よく学んでおられますよ」
褒められている気がしない。
私はもう一度、小二郎の返事へ目を落とした。
明日のことは、分かったら知らせろ。
そこだけは、もう一度読めた。
「……明日、聞いてみようかな」
「お会いになれましたら」
阿国の一言で、私は顔を上げた。
そうだった。
手紙がちゃんと届いたからといって、外出まで許可されたわけではない。
「手紙なら、いい?」
「それでしたら、お届けできます」
「じゃあ書く」
私は新しい紙を出した。
今度こそ、少しまともなものを書いてやろう。
そう思って筆を構え――止まる。
用件は分かる。
ありがとう。
明日のことはまた知らせる。
聞きたいこともある。
問題は、その前と後だった。
同じ書き方をしたら、たぶん同じ注意が返ってくる。
それはちょっと悔しい。
「阿国」
「はい」
「書き出しって、何を書くの?」
阿国は今度こそ隠さず笑った。
そのまま文机の脇へ座る。
「まずは、そこからでございますね」
「笑うところじゃないと思うんだけど」
「失礼いたしました」
全然そう思っていない顔だった。
私は白い紙を少し上へずらし、阿国が書けるよう場所を空ける。
「最初は?」
阿国が筆を取った。
私はその手元へ顔を寄せる。
今度は、小二郎に直されない手紙を書きたかった。
【今回のタイトル】
Ab extra は、ラテン語で「外から」「外部から」くらいの意味です。
法律でも、ある物事を外側から捉えるときに使われることがあります。
……このあたりを詳しく始めると、また長くなりますので、今回はここまで。
なお――
手紙にも作法があるとは聞いていませんでした。
※一部表現の修正を行っています。




