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Pacta sunt servanda ――陸奥宗光になる君と、国際法の言の葉を――  作者: Altis―法律を物語に翻訳中―
CapitulumⅠ Pacta sunt servanda――気づいたら幕末の少年に国際法を教えることになりまして――

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Articulus Ⅵ Ab extra ただの世間でございます

このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。


ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。


そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。


ですので、そのあたりは物語としてお読みください。




 翌日、出かける前に鏡で襟元を確かめた。


 合わせはずれていない。腰の刀も、鞘の先まで一応見る。


 昨日よりは、少しだけましに見える。


 その程度で満足するのもどうかと思うけれど、数日前の私は、その程度のことすら気にしていなかった。


 練習した紙を懐へ入れ、部屋を出ようとしたところで、後ろから声がした。


「最近、よくお出かけになりますね」


挿絵(By みてみん)


 振り返ると、赤茶の着物を着た女性が立っていた。


 細かな花模様に濃い色の帯。茶色がかった髪は簪と白い紐でまとめられ、頬の脇へ落ちた髪だけが、こちらを見た拍子にふわりと揺れた。





 阿国だ。





 私がこの身体で目を覚ました朝から、着替えも髪も、分からないことのかなりの部分を助けてもらっている。


 今日ようやく一人で襟元を確認した程度では、まだ胸を張って自立しましたとは言えない。


「今日も団子屋へ行くよ。文字を教わってるの」


「どなたに?」


「小二郎。代わりに、私も法の話を少ししてる」


 阿国の目が、紙を入れた懐から私の顔へ戻った。


「……小二郎様でございますか」


「知ってる?」


「ええ。存じております」


 返事をしたあとも、阿国はそこを動かなかった。


 道を塞いでいるわけではない。


 でも、このまま横を通り抜けるのは違う気がして、私も足を止めた。


「一平太様。毎日のようにお会いになるのは、お控えになった方がよろしいかと存じます。本日はお出かけを見合わせて、今後のことも少しお考えくださいませ」


「どうして? 文字を習ってるだけだよ」


「そのことを疑っているのではございません。伊達家のことは、お覚えでいらっしゃいますか」


「小二郎の家?」


 阿国が頷いた。


 名前は知っている。


 でも、そこから先は何も知らない。


「ごめん。そっちは分からない」


 阿国は少しだけ私の顔を見たものの、それ以上は聞かなかった。


「七年ほど前、小二郎様のお父上、伊達宗広様は、御家中で重いお役を務めておられました。ですが、御家中の争いでお役を失われ、田辺へ移されまして。その後、ご家族も城下を離れております」


「小二郎も?」


「はい」


 昨日、小二郎が話していたことを思い出す。


 一平太とは子供の頃によく会った。でも、ずっと一緒にいたわけではない。


 私は勝手に、家の都合で遠くへ移ったくらいに考えていた。


「……追い出されたってこと?」


「乱暴な言い方ではございますが、大きく違ってもおりません」


 阿国は、わざわざ聞き心地のいい言葉へ直そうとはしなかった。


「今も伊達なの?」


「現在は、中村を名乗っておられます」


「私には、伊達小二郎って言ったよ」


 口にしてから、あのときのやり取りを思い返した。


 先に伊達と言ったのは、私だ。


 小二郎は「伊達か」と一度繰り返してから、自分の名前を答えた。


 名前が分かったことに満足して、その先までは考えなかった。


「お話しになりたくないことも、おありなのでしょう」


「私には誰だとか、一平太はどこへ行ったとか、散々聞いたくせに」


 阿国の目が止まった。


 私はそこで、しまったと思った。


 私の事情を知っている相手が二人いるからといって、その二人に同じ話を全部していいわけではない。


「……昔の話をされても、私には分からなくて。ちょっと揉めたの」


 阿国はそれ以上聞かなかった。


「ご事情をお伝えしたのは、お付き合いの仕方をお考えいただきたいからでございます」


「家が昔失脚したことと、私が文字を習うことは別でしょう?」


「一平太様には、そうでございましょうね」


 あっさり認められた。


 ただし、だから行っていい、とは続かなかった。


「成瀬家の跡取りが、伊達家の御子息と江戸で何度も会っている。それを見た者が、皆、お二人の事情をご存じとは限りません」


「ああ……何か相談してると思われるんだ」


「そのように見る者もいるでしょう」


 相談ならしている。


 主な内容は、崩し字の読み方と、刀の鞘を人へぶつけない方法だけれど。


 それを正直に説明したところで、疑いが晴れる代わりに、成瀬家の跡取りについて別の心配をされそうだった。


「それだけでもございません。お二人とも、もう幼い子供ではいらっしゃいませんので」


 意味が分かるまで、一拍かかった。


「……私は男として育てられてるんでしょう?」


「ご事情を知る方が、皆、同じように受け取るとは限りません」


 昨日の小二郎の赤い顔が、ものすごく余計なタイミングで浮かんだ。


 私は反射的に懐の紙を押さえる。


 あの場に誰か別の人がいたとして、私たちが何を話していたのか、どういう事情であの距離になったのか、そこまで丁寧に確認してから判断してくれる保証はない。


「それも慣習法?」


 阿国が珍しく困った顔をした。


 少し考えてから、首を横へ振る。


「よく存じませんが、ただの世間でございます」


 もっと大きいものが出てきた。


 法律なら、少なくとも何が決まりなのか調べようがある。


 世間はたぶん、こちらが尋ねる前に向こうで話をまとめる。


「面倒だね」


「左様でございますね」


 そこは同意してくれるんだ。


 少しだけ肩の力が抜けた。


「分かった。今日は行かない」


「ありがとうございます」


 阿国の表情も少し緩んだ。


 私は履物から離れた。


 その拍子に、懐へ入れた紙が身体へ当たる。


「あ。でも、小二郎には今日も会うって言ってある」


 阿国がこちらを見る。


「何も知らなかったら、待つよね」


「何時のお約束でございますか」


 時刻を伝えると、阿国は少し考えた。


「今でしたら、まだ間に合うかと存じます。お知らせをお届けいたしましょうか」


「お願い。行けなくなったって、書くから」


 数日前、遅刻してきた小二郎へ、私はわざわざラテン語まで持ち出して「約束は守れ」と言った。


 その本人が、今度は何も言わずに待たせる。


 さすがに、それは格好が悪い。


 立派な言葉は、相手が覚えていると自分にもちゃんと効くらしい。


 私は刀を外し、文机へ向かった。


 ◇  ◇  ◇


 紙を広げて、筆を取る。


 習いたての崩し字を使って意味まで崩れては困るので、今日は素直に自分の書ける文字で書くことにした。


 練習の成果より、まず伝わることの方が大事だ。




 今日は行けなくなったこと。


 約束の時刻に待たせたくないから知らせること。


 明日のことは、分かったらまた知らせること。




 三つ書いて、小二郎の名前と自分の名前を添える。


 読み返す。


 用件は、全部ある。


「これ、読める?」


 阿国が横から覗き込み、頷いた。


「内容は、たいへんよく分かります」


「内容は?」


「小二郎様へは、確かに伝わるかと」


 褒める範囲が妙に狭い。


 でも、直せとは言われなかった。


「じゃあ、これでお願い」


「承知いたしました」


 阿国は紙を受け取り、宛名を確かめる。


「では、行ってまいります」


「よろしくね」


 障子が閉まった。


 急に、することがなくなった。


 私は少し迷ってから、懐へ入れていた手本を出す。


 どうせなら、昨日読めなかったところをもう一度やっておこう。



 ◇  ◇  ◇



 阿国が戻ってきたとき、私は同じ言葉を三回目に書いていた。


「お返事をお預かりしております」


 その声に筆を置く。


「もう来てたの?」


「ええ。お約束の時刻より前でしたが、道具を出してお待ちでした。今日はお見えにならないとお伝えすると、その場でお書きになりました」


 先日遅刻した人とは思えない。


 ちゃんと待っていた。


 それが少し嬉しくて、私は差し出された紙を受け取った。


 広げて、覚えている文字から拾っていく。


 来られないことは分かった。


 知らせが来たから、待たずに済んだ。


 明日のことは、分かったら知らせろ。


 そこまでは読めた。


 その下にも、まだ続いている。


「字は読める。せやけど、手紙はちゃんと書け……?」


 私は顔を上げた。


 阿国が口元へ手を当てている。


「ちゃんとって、何が?」


「続きにございますよ」


 もう一度読む。




 話すまま書くな。


 書き出しと結びくらい覚えろ。




「……用件は全部伝わってるじゃん」


「よい先生でいらっしゃいますね」


 阿国の声に笑いが混じった。


 待たずに済んだ、と確認した直後に手紙の書き方を添削されている。


 小二郎らしいと言えば、かなり小二郎らしい。


「阿国、これ分かってたでしょう」


「何のことでございましょう」


「私の手紙が雑なの」


 阿国はにこりと笑った。


 否定しない。


「私から申し上げるより、よくお覚えになるかと思いまして」


「二人で私を教育しないで」


「大変よく学んでおられますよ」


 褒められている気がしない。


 私はもう一度、小二郎の返事へ目を落とした。




 明日のことは、分かったら知らせろ。




 そこだけは、もう一度読めた。


「……明日、聞いてみようかな」


「お会いになれましたら」


 阿国の一言で、私は顔を上げた。


 そうだった。


 手紙がちゃんと届いたからといって、外出まで許可されたわけではない。


「手紙なら、いい?」


「それでしたら、お届けできます」


「じゃあ書く」


 私は新しい紙を出した。


 今度こそ、少しまともなものを書いてやろう。


 そう思って筆を構え――止まる。


 用件は分かる。


 ありがとう。


 明日のことはまた知らせる。


 聞きたいこともある。


 問題は、その前と後だった。


 同じ書き方をしたら、たぶん同じ注意が返ってくる。


 それはちょっと悔しい。


「阿国」


「はい」


「書き出しって、何を書くの?」




挿絵(By みてみん)




 阿国は今度こそ隠さず笑った。


 そのまま文机の脇へ座る。


「まずは、そこからでございますね」


「笑うところじゃないと思うんだけど」


「失礼いたしました」


 全然そう思っていない顔だった。


 私は白い紙を少し上へずらし、阿国が書けるよう場所を空ける。


「最初は?」


 阿国が筆を取った。


 私はその手元へ顔を寄せる。




 今度は、小二郎に直されない手紙を書きたかった。

【今回のタイトル】


Ab extra は、ラテン語で「外から」「外部から」くらいの意味です。


法律でも、ある物事を外側から捉えるときに使われることがあります。


……このあたりを詳しく始めると、また長くなりますので、今回はここまで。


なお――


手紙にも作法があるとは聞いていませんでした。



※一部表現の修正を行っています。

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