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Pacta sunt servanda ――陸奥宗光になる君と、国際法の言の葉を――  作者: Altis―法律を物語に翻訳中―
CapitulumⅠ Pacta sunt servanda――気づいたら幕末の少年に国際法を教えることになりまして――

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Articulus Ⅴ Audi alteram partem 怖がりやったで。

このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。


ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。


そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。


ですので、そのあたりは物語としてお読みください。




「おなごの嗜みや」




 私は、たった今整えたばかりの襟元から手を離して、小二郎を見た。


 男として育てられていても、女として気をつけることまで免除されるわけではないらしい。


 まだ事情はろくに分かっていないのに、注意事項だけはきっちり二人分ある。


「男として育てられても、そこは女なんだね」


「胸元開けたままでええことにはならんやろ」


 扱いがちぐはぐじゃないか、と言いたかったのだけれど、単なる着崩れの話として処理された。


 まあ、実際に開いていたのはこちらなので、この件については分が悪い。


「そもそも、どうして男として育てたの? 家の人も、藩の人も、女だって知ってるんでしょう」


 小二郎は硯を少し脇へ寄せた。


「跡取りがおらんかったんや。もう隠居を考えてもおかしない歳になって、ようやく生まれたんが一平太やった」


「それで、女の子を跡取りにしたの?」


「普通なら養子やろ。けど、何とか自分の子に継がせたかったんやろな」


 最後は小二郎の想像みたいだ。


「七百石の家やぞ。紀州に藩ができた頃から仕えとる。昨日今日の家やないし、殿様の方も、ひとまず目ぇつぶったんやろ」


「ひとまずって、その先は?」


「俺に聞くな。子供の頃に聞いた話や」


「あ、ごめん」


 幼馴染に昔話を聞いていたはずなのに、いつの間にか藩の公式見解まで求めていた。


 事情を知っていそうな人が一人しかいないと、つい全部そこへ聞きたくなる。問い合わせ先を間違えているのは、たぶん私の方だった。


「じゃあ、一平太は最初から跡取りとして育てられたの?」


「せや。後から急に男の真似せえ言われたんやない。物心ついた頃には、もうそうなっとった」


 私は自分の袖へ目を落とした。


 こっちへ来てから、どうして男物を着ているんだろう、と何度も思った。


 でも一平太にとっては、「どうして」なんて考える前から、これが普通だったのかもしれない。


「小二郎は、小さい頃から知ってるんだよね」


「家同士の行き来があったからな。俺が紀州におった頃は、よう会うた」


「どんな子だった?」


 小二郎の目が、私の顔へ戻った。


 同じ顔で聞くには、少し変な質問だったかもしれない。


 それでも、知りたかった。


 小二郎はしばらく私を見てから、少しだけ顎を引いた。


「……背筋、伸ばしとったな」


「背筋?」


「さっきまで遊んどっても、大人に呼ばれたら、すぐちゃんとするんや。手ぇ揃えて、顔まで変えてな」


 なんとなく、その姿が浮かんだ。


 走り回って髪も服も乱れているのに、大人の前へ出るときだけ急いで整えて、最初からそうしていたみたいな顔をする子供。


「しっかりしてたんだね」


「そう見せようとしとったんやろ」


 返事はすぐに返ってきた。


 小二郎は膝の上で指を動かしながら、今度は私を見ずに続ける。


「怖がりやったで。失敗したらどうしよう、怒られたらどうしようって、始まる前から言うとった。終わったら終わったで、今の変やなかったか、間違っとらんかったかって聞いてくる」


「小二郎に?」


「大体は俺にや。毎度、同じこと聞いとった」


 少し意外だった。


「間違えた日はよう泣いた。人がおる間は我慢しとるくせに、誰もおらんようになった途端、止まらんようになってな」


挿絵(By みてみん)


 小二郎の口元が少し緩んだ。


 困った子だった、と言っているみたいなのに、その声は少しも嫌そうじゃない。


「でも、次に会うたら、またちゃんと座っとった。もう嫌や、とはあんまり言わんかったな」


 私は何か返そうとして、やめた。


 しっかりしてたんだね、ではさっきと同じだし、かわいそうだったね、というのも違う気がした。


「幾つくらいの頃?」


「八つやそこらかな。……今の一平太がどうやったかまでは知らんぞ。ずっと一緒におったわけやない」


「うん。小さい頃の話ね」


 私は膝の上の手を見た。


 八歳の一平太が、七百石だとか藩の都合だとかを、どこまで分かっていたのかは知らない。


 でも、自分はちゃんとしていなければならない、ということだけは、ずいぶん早く覚えたらしい。


 私は襟元を見て、丸くなっていた背中を少し伸ばした。


「じゃあ、こういうのも覚えないとね」


 何もかも一度にできるようになるのは無理だ。


 でも、知らないままでいいとも思えなくなった。


「変なところがあったら教えて。言われないと分からないから」


「分かった」


 小二郎が頷いたので、私はまた紙へ顔を寄せた。


 さっき書かれた文字を最初から追い、見覚えのある形を探していく。少し遠くの字を見るために身を乗り出し、分からなくて戻り、また顔を寄せた。


 何度か繰り返したところで、小二郎が妙に静かになった。


「これ、何て――」


 顔を上げる。


 目が合うより先に、小二郎の視線が私の胸元あたりから紙へ逃げた。




 ん?


 気になって自分でも下を見る。




「あ」


 直したはずの襟が、また開いていた。


 しかも、さっきよりひどい。


 前へ屈むのを何度も繰り返したせいで合わせがずれ、さらしの端までしっかり見えている。


 私は襟へ手を伸ばしかけて、小二郎を見た。


 紙を見ている。


 いや、たぶん見ているふりをしている。


 さっきはすぐ注意したのに、今度は何も言わない。そのくせ私が少し動くと、視線まで微妙に揺れる。


 なるほど。


 見ちゃ駄目だと思うことと、本当に見ないでいられることは、どうやら別みたいだ。


 私は襟を引き寄せると、まだ紙へ視線を固定している小二郎へ少しだけ身を寄せた。





「残念だった?」


挿絵(By みてみん)




 小二郎の顔が、一気に赤くなった。


「何がや!」


「さっきは教えてくれたのに、今度は黙ってたから」


「お前が何べん直しても開けるからやろ!」


「ちゃんと直したつもりだったんだけど」


「前かがみになりすぎや!」


「分かった。次から気をつける。教えてくれてありがとう」


「さっき言うたんはそこやない!」


 丁寧にお礼まで言ったのに、なぜか怒られた。


 小二郎は何か言い返そうとして、結局やめたらしい。代わりに机の上の紙を一枚つかみ、私の顔の前へ突き出した。


「ええから、これ読め!」


「急に授業に戻ったね」


「戻れ!」


 私は紙を受け取り、その陰で少し笑った。


 昔の一平太について話していたときより、今の小二郎の方がずっと分かりやすい。


「ここ、もう一回教えて」


「さっき読めたやろ」


「さっきは助けてもらったから。今度は自分で読みたい」


 小二郎はまだ少し赤い顔でこちらを睨んだものの、結局は私の指の隣へ自分の指を置いた。


「ここまでで一つや。さっきのと一緒やろ」


「……あ、本当だ」


 一度つながりが見えると、その隣まで急に文字らしく見えてくる。


 私は今度こそ襟を崩さないよう背筋を伸ばし、紙を少し持ち上げた。


「これは?」


「さっきやった」


「もう一回」


「センセ、覚える気あるんか?」


「あるから聞いてるの」


「自信満々に言うことか」


「分からないまま分かったふりするよりいいでしょ」


 小二郎が一瞬だけ黙った。


「……そこは、そうやな」


 私は紙へ目を戻した。


「じゃあ次。ここは?」


「まだやるんか」


「覚えてるうちにやりたい」


「休憩せえや、センセ」


「まだ大丈夫」


「大丈夫やない。さっきから同じ字、三回聞いとる」


「……それは先に言って」


 小二郎が吹き出した。


 そんなに笑うことじゃないと思う。


 でも、声を立てて笑われると、こっちまで少し可笑しくなってくる。


 私はむっとした顔だけ作って、言われたとおり筆を置いた。


 力を抜いた途端、左手の指が思ったより重かった。


「……ねえ、小二郎」


「何や」


「休憩したら、もう一回これやっていい?」


「まだやるんか」


「今ちょっと分かりかけてるの」


「その顔で昨日、何も分からん言うとった奴とは思えんな」


「昨日と今日は違うでしょ」


「一日しか経っとらんぞ」


「一日あれば、少しくらい成長するよ」


 小二郎は呆れたように息を吐いた。


 でも、手本を片づけようとはしなかった。


 私はそれを横目で見ながら、湯呑みへ手を伸ばした。


 休憩が終わったら、さっき読めなかった字をもう一度聞こう。





 今度はできれば、三回以内に覚えたい。

【今回のタイトル】


Audi alteram partem は、ラテン語で「もう一方の側にも耳を傾けよ」くらいの意味です。


一方の話だけを聞いて決めてはいけない。


法律では、そんな考え方を表す言葉として使われます。


……このあたりも掘り始めると長くなりますので、今回はここまで。


※一部表現の修正を行っています。

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