Articulus Ⅴ Audi alteram partem 怖がりやったで。
このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。
ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。
そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。
ですので、そのあたりは物語としてお読みください。
「おなごの嗜みや」
私は、たった今整えたばかりの襟元から手を離して、小二郎を見た。
男として育てられていても、女として気をつけることまで免除されるわけではないらしい。
まだ事情はろくに分かっていないのに、注意事項だけはきっちり二人分ある。
「男として育てられても、そこは女なんだね」
「胸元開けたままでええことにはならんやろ」
扱いがちぐはぐじゃないか、と言いたかったのだけれど、単なる着崩れの話として処理された。
まあ、実際に開いていたのはこちらなので、この件については分が悪い。
「そもそも、どうして男として育てたの? 家の人も、藩の人も、女だって知ってるんでしょう」
小二郎は硯を少し脇へ寄せた。
「跡取りがおらんかったんや。もう隠居を考えてもおかしない歳になって、ようやく生まれたんが一平太やった」
「それで、女の子を跡取りにしたの?」
「普通なら養子やろ。けど、何とか自分の子に継がせたかったんやろな」
最後は小二郎の想像みたいだ。
「七百石の家やぞ。紀州に藩ができた頃から仕えとる。昨日今日の家やないし、殿様の方も、ひとまず目ぇつぶったんやろ」
「ひとまずって、その先は?」
「俺に聞くな。子供の頃に聞いた話や」
「あ、ごめん」
幼馴染に昔話を聞いていたはずなのに、いつの間にか藩の公式見解まで求めていた。
事情を知っていそうな人が一人しかいないと、つい全部そこへ聞きたくなる。問い合わせ先を間違えているのは、たぶん私の方だった。
「じゃあ、一平太は最初から跡取りとして育てられたの?」
「せや。後から急に男の真似せえ言われたんやない。物心ついた頃には、もうそうなっとった」
私は自分の袖へ目を落とした。
こっちへ来てから、どうして男物を着ているんだろう、と何度も思った。
でも一平太にとっては、「どうして」なんて考える前から、これが普通だったのかもしれない。
「小二郎は、小さい頃から知ってるんだよね」
「家同士の行き来があったからな。俺が紀州におった頃は、よう会うた」
「どんな子だった?」
小二郎の目が、私の顔へ戻った。
同じ顔で聞くには、少し変な質問だったかもしれない。
それでも、知りたかった。
小二郎はしばらく私を見てから、少しだけ顎を引いた。
「……背筋、伸ばしとったな」
「背筋?」
「さっきまで遊んどっても、大人に呼ばれたら、すぐちゃんとするんや。手ぇ揃えて、顔まで変えてな」
なんとなく、その姿が浮かんだ。
走り回って髪も服も乱れているのに、大人の前へ出るときだけ急いで整えて、最初からそうしていたみたいな顔をする子供。
「しっかりしてたんだね」
「そう見せようとしとったんやろ」
返事はすぐに返ってきた。
小二郎は膝の上で指を動かしながら、今度は私を見ずに続ける。
「怖がりやったで。失敗したらどうしよう、怒られたらどうしようって、始まる前から言うとった。終わったら終わったで、今の変やなかったか、間違っとらんかったかって聞いてくる」
「小二郎に?」
「大体は俺にや。毎度、同じこと聞いとった」
少し意外だった。
「間違えた日はよう泣いた。人がおる間は我慢しとるくせに、誰もおらんようになった途端、止まらんようになってな」
小二郎の口元が少し緩んだ。
困った子だった、と言っているみたいなのに、その声は少しも嫌そうじゃない。
「でも、次に会うたら、またちゃんと座っとった。もう嫌や、とはあんまり言わんかったな」
私は何か返そうとして、やめた。
しっかりしてたんだね、ではさっきと同じだし、かわいそうだったね、というのも違う気がした。
「幾つくらいの頃?」
「八つやそこらかな。……今の一平太がどうやったかまでは知らんぞ。ずっと一緒におったわけやない」
「うん。小さい頃の話ね」
私は膝の上の手を見た。
八歳の一平太が、七百石だとか藩の都合だとかを、どこまで分かっていたのかは知らない。
でも、自分はちゃんとしていなければならない、ということだけは、ずいぶん早く覚えたらしい。
私は襟元を見て、丸くなっていた背中を少し伸ばした。
「じゃあ、こういうのも覚えないとね」
何もかも一度にできるようになるのは無理だ。
でも、知らないままでいいとも思えなくなった。
「変なところがあったら教えて。言われないと分からないから」
「分かった」
小二郎が頷いたので、私はまた紙へ顔を寄せた。
さっき書かれた文字を最初から追い、見覚えのある形を探していく。少し遠くの字を見るために身を乗り出し、分からなくて戻り、また顔を寄せた。
何度か繰り返したところで、小二郎が妙に静かになった。
「これ、何て――」
顔を上げる。
目が合うより先に、小二郎の視線が私の胸元あたりから紙へ逃げた。
ん?
気になって自分でも下を見る。
「あ」
直したはずの襟が、また開いていた。
しかも、さっきよりひどい。
前へ屈むのを何度も繰り返したせいで合わせがずれ、さらしの端までしっかり見えている。
私は襟へ手を伸ばしかけて、小二郎を見た。
紙を見ている。
いや、たぶん見ているふりをしている。
さっきはすぐ注意したのに、今度は何も言わない。そのくせ私が少し動くと、視線まで微妙に揺れる。
なるほど。
見ちゃ駄目だと思うことと、本当に見ないでいられることは、どうやら別みたいだ。
私は襟を引き寄せると、まだ紙へ視線を固定している小二郎へ少しだけ身を寄せた。
「残念だった?」
小二郎の顔が、一気に赤くなった。
「何がや!」
「さっきは教えてくれたのに、今度は黙ってたから」
「お前が何べん直しても開けるからやろ!」
「ちゃんと直したつもりだったんだけど」
「前かがみになりすぎや!」
「分かった。次から気をつける。教えてくれてありがとう」
「さっき言うたんはそこやない!」
丁寧にお礼まで言ったのに、なぜか怒られた。
小二郎は何か言い返そうとして、結局やめたらしい。代わりに机の上の紙を一枚つかみ、私の顔の前へ突き出した。
「ええから、これ読め!」
「急に授業に戻ったね」
「戻れ!」
私は紙を受け取り、その陰で少し笑った。
昔の一平太について話していたときより、今の小二郎の方がずっと分かりやすい。
「ここ、もう一回教えて」
「さっき読めたやろ」
「さっきは助けてもらったから。今度は自分で読みたい」
小二郎はまだ少し赤い顔でこちらを睨んだものの、結局は私の指の隣へ自分の指を置いた。
「ここまでで一つや。さっきのと一緒やろ」
「……あ、本当だ」
一度つながりが見えると、その隣まで急に文字らしく見えてくる。
私は今度こそ襟を崩さないよう背筋を伸ばし、紙を少し持ち上げた。
「これは?」
「さっきやった」
「もう一回」
「センセ、覚える気あるんか?」
「あるから聞いてるの」
「自信満々に言うことか」
「分からないまま分かったふりするよりいいでしょ」
小二郎が一瞬だけ黙った。
「……そこは、そうやな」
私は紙へ目を戻した。
「じゃあ次。ここは?」
「まだやるんか」
「覚えてるうちにやりたい」
「休憩せえや、センセ」
「まだ大丈夫」
「大丈夫やない。さっきから同じ字、三回聞いとる」
「……それは先に言って」
小二郎が吹き出した。
そんなに笑うことじゃないと思う。
でも、声を立てて笑われると、こっちまで少し可笑しくなってくる。
私はむっとした顔だけ作って、言われたとおり筆を置いた。
力を抜いた途端、左手の指が思ったより重かった。
「……ねえ、小二郎」
「何や」
「休憩したら、もう一回これやっていい?」
「まだやるんか」
「今ちょっと分かりかけてるの」
「その顔で昨日、何も分からん言うとった奴とは思えんな」
「昨日と今日は違うでしょ」
「一日しか経っとらんぞ」
「一日あれば、少しくらい成長するよ」
小二郎は呆れたように息を吐いた。
でも、手本を片づけようとはしなかった。
私はそれを横目で見ながら、湯呑みへ手を伸ばした。
休憩が終わったら、さっき読めなかった字をもう一度聞こう。
今度はできれば、三回以内に覚えたい。
【今回のタイトル】
Audi alteram partem は、ラテン語で「もう一方の側にも耳を傾けよ」くらいの意味です。
一方の話だけを聞いて決めてはいけない。
法律では、そんな考え方を表す言葉として使われます。
……このあたりも掘り始めると長くなりますので、今回はここまで。
※一部表現の修正を行っています。




