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Pacta sunt servanda ――陸奥宗光になる君と、国際法の言の葉を――  作者: Altis―法律を物語に翻訳中―
CapitulumⅠ Pacta sunt servanda――気づいたら幕末の少年に国際法を教えることになりまして――

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Articulus Ⅳ Consuetudo pro lege servatur みんなやっとりゃ、そりゃ法なんか?

このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。


ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。


そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。


ですので、そのあたりは物語としてお読みください。




 翌日、団子屋へ着くと、小二郎はもう座っていた。





 昨日と同じ時刻なのに、通りにはまだ朝からの熱が残っている。軒下へ入れば少しは涼しいかと思ったけれど、直射日光を避けられるだけで、空気そのものはしっかり暑かった。


 小二郎の隣には紙と硯、それから細く巻いた手本まで置かれている。


 私に気づくと、小二郎は挨拶の代わりみたいに隣を指した。


 教材まで揃えて待っていたらしい。


 昨日、自分が私を待たせたことなんて最初からなかったような顔をしている。


「今日は早いね」


「昨日の今日で遅れるか。ほら、名前書いてみ」


 座った途端に筆を渡された。


 もう少しこう、昨日は悪かったな、とかあってもいい気がするけれど、期待するだけ無駄そうなので黙って受け取る。


 紙の端へ「成瀬一平太」と書いた。


 昨夜少し練習したおかげで、五文字がどうにか同じくらいの大きさに収まっている。途中で筆が一度滑りかけたけれど、少なくとも横に本人がいなくても、名前くらいは伝わりそうだった。


 上手ではない。


 でも昨日よりは、かなり文字に見える。


 私はちょっと満足した。


 小二郎はそんな私の気持ちを知るはずもなく、しばらく字を眺めると、その横へ同じ名前を書いた。


「こうや」


「途中で二文字くらい消えてない?」


「一文字も消えとらん。ここまでが『成』や」


 筆の軸で示されたところを見る。


 分からない。


 さっきまで自分で書いていた字と同じ名前のはずなのに、どう見ても途中から隣の文字と混ざっている。


「字の終わりを見ろ。そこで次と分けるんや」


「じゃあ、ここ?」


「そこはまだ『瀬』の途中や。ほら、こっちまで続いとる」


 小二郎が線を辿るのに合わせて、私も手本へ顔を寄せた。


 濃い墨から細い線が伸び、そのまま次の形へつながっている。


 説明されている間だけは、なんとなく見える気がした。


 でも、小二郎の指が離れる。




 途端にまた分からなくなった。





 どうやら理解したのではなく、案内してもらっていただけみたいだ。


 見よう見まねで筆を動かし始めると、小二郎が横から手を伸ばした。


「そこで止めんでええ。そのまま下や」


 筆を持つ左手に、小二郎の手が重なった。


 思わず指に力が入る。


 暑いせいで私の手だって十分に熱いはずなのに、指の付け根へ触れた小二郎の体温だけが、変にくっきり分かった。


 小二郎も一瞬だけ止まった。


 けれど何も言わず、私の左側へ少し身を寄せると、持ちやすい位置を探すみたいに手を添え直した。


「左やと教えにくいな」


「私はこっちの方が書きやすいんだけど」


「お前やなくて俺の話や。ほら、力抜け」




挿絵(By みてみん)




 持ち替えろとは言われなかったので、私は素直に指の力を抜いた。


 小二郎の手に合わせて筆を動かすと、下へ流れた線が、手首を返したまま次の形へつながっていく。


 勝手に省略されていると思っていたところにも、ちゃんと動きの流れがあった。


 一画ずつ止まって眺めているより、こうして続けて書いた方が、むしろ覚えやすい。


 墨を含んだ穂先が紙へ触れるたび、少し柔らかく沈む。離すのが遅いと、線の端だけが太くなる。


 自分一人で書いていたときには全然分からなかったことが、小二郎の手に動かされていると少しずつ見えてきた。


 やがて、その手が離れる。


 もう一度同じように書こうとして、私はそこで初めて、小二郎の顔が思ったより近くにあることに気づいた。


 切れ長の目はずっと筆先を追っている。


 私が止まりそうになるたびに、眉間へ小さな皺が寄る。


 ただ真面目に教えているだけなのは分かっている。


 分かっているのに、一度距離を意識してしまうと、急に落ち着かなくなった。




 いや、近いな。



 近いけど、今さら避けるのも変だ。




 そんなことを考え始めたせいで、今度は手元の字まで怪しくなる。


「肩も下げえ。そんなんで書いとったら疲れるで」


 昨日「刀を抜け」と言った人から、今日は「力を抜け」と言われている。


 こっちはまだ気持ちの整理が追いついていないのだけれど。


 とはいえ、小二郎の手は急かさずに待っていたので、私はゆっくり息を吐いて肩を下ろした。


 筆先がまた動き始めると、小二郎の目も紙へ戻った。


 ◇  ◇  ◇


 名前を書いたあとは、手本の中から短い言葉を選んで写していった。


 小二郎は、私が読めるところでは何も言わない。迷うと、少し前に出てきた字へ戻って同じ形を探させる。


 最初は答えを教えてくれた方が早いのに、と思った。


 でも、何度か繰り返しているうちに、小二郎が指す前に自分で見つけられる字が少しずつ増えてくる。


 そうなると、ちょっと楽しい。


 紙が半分ほど埋まる頃には、文字より先に左手の方が限界を訴え始めていた。


「今日はここまでや。続きはまたにしよ」


 私は筆を置き、固くなった指を何度か開いたり閉じたりする。


 その間に小二郎は紙を脇へ寄せると、今度は自分の番だと言いたげにこちらを見た。


「ほな、国の話や。昨日の続き」


 もちろん、忘れてはいない。


 昨夜は筆の練習をしたあと、国と藩の違いをどう説明したらいいのか、それなりに考えた。


 考えた結果、最初の一言が分からなくなった。


 この人たちが「国」という言葉をどう使っているのかを先に知りたい。でも、それを聞くには、こちらが何を知りたいのか説明しなければならない。


 準備をした結果、開始地点を見失ったのである。


 研究なら慎重で済むのかもしれないけれど、先生としてはかなり出足が悪い。


「あなたが国って言うとき、紀州のこと? それとも日本?」


「どっちも言うやろ。話による」


 小二郎は、それがどうした、という顔をしている。


 使っている本人は特に困っていないらしい。


 もう少し聞こうとしたところで、今度は足が痺れていることに気づいた。


「ちょっと待って。足、伸ばしていい?」


「好きにせえ」


 長く同じ姿勢でいたせいで、膝の裏へ着物が張りついていた。


 私は刀を右手で持ち上げ、人に当てないよう身体をひねる。


 その瞬間、こつ、と硬いもの同士が触れた。


 嫌な音だった。


 見ると、私の鞘の先が小二郎の刀へ当たっている。


 慌てて引くと、小二郎は自分の刀を確かめてから、私を見た。


「センセ。それ、他でやるなよ」


「ごめん。ちゃんと見てなかった」


「人の刀に鞘ぶつけたら、喧嘩売っとると思われるぞ」


「そんなつもりじゃないよ」


「俺は分かっとる。知らん奴にも分かると思うな言うてんねん」


 私は刀を持ち直した。


 前にいる人へ当てないようにした結果、横にいる人へ喧嘩を売ったことになるみたいだ。


 一応、気は遣ったけど、結果だけ見ると最悪だった。


「それ、何かに書いてあるの? お触れとか」


「いちいち読んで覚えるもんやない。刀差すようになったら教わる」


「誰に?」


「親でも兄貴でも、周りの奴でも。皆、気ぃつけとる」





 なるほど。


 文字を読めるようになれば全部解決、というわけでもないらしい。




 誰かに教えられて、周りを見て覚えて、みんなが当たり前みたいに守っている。


 私は刀へ目を落とした。


 それから、さっきまで悩んでいた「国」の話を思い出す。


「あ」


「何や」


「今のでいいかも」


「何がや」


「説明の入口」


 昨夜あれだけ考えて見つからなかったものが、刀をぶつけたら出てきた。


 できれば、もう少し安全な方法で見つけたかったけど。


「ねえ。国の話へ行く前に、今ので一つ説明していい?」


「鞘の話か?」


「うん。私が勉強してた法にも、誰かが紙に書いて命じたわけじゃない決まりがあるの。慣習法っていうんだけど」


「かんしゅうほう」


 小二郎は手本を裏返し、空いているところへ筆を走らせた。


 書かれた三文字を見る。


 最後の一字に見覚えがあった。


「それ、『法』?」


「せや。さっき書いたやろ」


 読めた。


 小二郎が書いた文字を、自分で見つけられた。


 たったそれだけなのに、思った以上に嬉しかった。


「ちょっと待って。今の、私すごくない?」


「一文字やぞ」


「昨日は一文字も読めなかったの」


「基準低すぎるやろ」


「成長をちゃんと評価して」


 小二郎は呆れたような顔をしたが、私は気にせず紙へ顔を寄せた。


「皆がやっとったら、法になるんか」


「それだけじゃ足りない」


 答えてから、卓の端に置かれた団子を見る。


「たとえば、私が毎日ここで同じ団子を食べてたとして、明日違うものを頼んだからって、何か決まりを破ったことにはならないでしょう」


「店の者は驚くかもしれんな」


「そこは慣れてもらう」


「もう顔覚えられとるぞ、たぶん」


 余計な情報だった。


「ともかく。みんながよくやってることと、みんなが『そうしないといけない』と思ってやってることは別なの」


 小二郎は団子の皿から、自分の刀へ目を移した。


「ほな、鞘ぶつけたらあかんいうんは、慣習法なんか」


「そこまでは、まだ言えない」


「何でや」


「作法なのか、法として扱うものなのか、そこは別に確かめないと」


「皆やっとって、したらあかんと思っとるんやろ?」


 すぐそこへ戻ってくる。


 聞いたことをそのまま覚えるのではなく、自分の中で使えるかどうか試しているらしい。


 私は少し考えた。


「似てる。でも、似てるからこそ一緒にしない方がいいの」


「面倒やな」


「そう。法って、だいたい面倒なの」


「センセに向いとるな」


「どういう意味?」


「面倒やから」


「先生を敬って」


 小二郎が笑いながら、さっき書いた「慣習法」の横へ何かを書き足した。


 口では面倒だと言いながら、手は止まっていない。


「国同士でも、こういう決まりはあるよ。ずっとそうしてきた、だけじゃなくて、それを守るべきものとして扱ってるかを見るの」


「破ったら?」


「相手が怒ることもある」


「なら怒らせたらあかんから守るんやろ」


「怒らせないためだけなら、機嫌の悪い人が一番強くなるでしょ」


 小二郎が顔を上げた。


 私は何でもない顔で団子へ手を伸ばす。


「……それ、昨日の俺に言うとる?」


「一般論です」


「今、目ぇ逸らしたやろ」



 団子がおいしかった。



 こういうとき、口に物が入っていると返事をしなくて済むので便利でもある。


 小二郎は何か言いたそうだったが、諦めたらしく、また筆を動かした。


 しばらくして、今度は向こうから紙を差し出してくる。


「読んでみ」


「全部?」


「分かるとこからでええ」


 まず「法」を見つけた。


 その近くには、さっき習った形もいくつかある。


 でも、つながって書かれた途端に急に自信がなくなった。


 小二郎は答えを言わず、一か所だけ筆の軸で示す。


「……守る?」


「せや。その前は」


 私はさっき自分が話した順番を思い出しながら、文字を追った。


「皆がしているだけでは、足りない」


「その次」


「え、待って。今ちゃんと読めたんだから褒めてもいいんじゃない?」


「読めて当たり前や」


 小二郎の言葉に私はぶつぶつ言いつつも続ける。


 途中で何度か止まったけれど、どうにか最後まで辿り着いた。


 私が話した文章そのままではない。


 団子の例はばっさり消されていたし、鞘の話には「法かどうかはまだ分からない」と書き添えてある。


「団子、消したの?」


「要るか?」


「分かりやすかったと思うけど」


「腹減るだけや」


 確かに、それはそうかもしれない。


 でも気になったのは、そこではなかった。


「ちゃんと、『分からない』って書いたんだ」


「センセが言うたんやろ。分かったことにしたらあかんて」


 小二郎は何でもないことみたいに言った。


 私はもう一度、紙を見る。


 必要だと思ったものは残して、例え話は削って、まだ決められないところは決めないままにしてある。




 ちゃんと聞いていた。




 それだけじゃなく、自分で考えていた。




 昨日まで、私は「何を教えれば伝わるか」ばかり考えていたけれど、この子には全部きれいに説明しなくてもいいのかもしれない。


 材料を渡せば、自分で続きを考える。


 そう思ったら、少しだけ気が楽になった。


「……何や?変な顔しとるぞ」


「先生らしい気分になってただけ」


「字ぃ一文字読めて喜んどった先生が?」


「そこはもう忘れて」


 忘れてくれる気はなさそうだった。


 私は紙の端を押さえ、今度は最初から一人で読んでみようと身を乗り出す。


 そのとき、小二郎が小さく咳払いをした。


「センセ、もう一個」


「どこ?」


「紙やない」


 小二郎は私を見ず、横を向いた。


「襟元。前かがみになるたび開いとる」


 言われて下を見る。


 帯の上で重なっていた布がずれ、合わせの間からさらしの端が覗いていた。


 まただ。


 職場で一度注意されたから、今朝はかなり気をつけたつもりだったのに。


「……これ、そんなに開く?」


「さっきから何べんもや」


「それなら早く言ってよ」


「言おうとしたらセンセずっと喋っとるやろ」


 反論しようとして、やめた。


 心当たりがありすぎた。


 私は紙を膝へ置いて、襟を引き寄せる。




挿絵(By みてみん)




 小二郎はまだ顔を横へ向けたまま、今度は帯のところも直せと言った。


「さらしって動きにくいし、ずれるし、本当に面倒なのよね」


「面倒でも気ぃつけえ」


「文字も覚えて、刀も気をつけて、服まで気にして……一平太として生活するの、要求事項が多すぎない?」


「普通にしとったらええだけや」


「その『普通』を私は知らないの」


 言ってから、少しだけ可笑しくなった。


 今日、小二郎に話していたことと同じだった。




 誰かが紙へ書いたわけでもないのに、みんなが当たり前に知っていて、守っている。




 文字より厄介かもしれない。




 私は帯へ指を入れて合わせを直し、少し前へ倒れても開かないことを確かめた。


「よし」


「何がよしや」


「今度は大丈夫」


 そこで、ふと思いつく。


「ねえ」


「何や」


「それも慣習法?」


 小二郎がようやくこちらを向いた。


 暑さのせいだけではないのか、耳のあたりが少し赤い。


 さっきまで私の胸元から必死に目を逸らしていたことまで含めれば、たぶん触れない方がいい。


 なので、そこについては親切に黙っておくことにした。


 小二郎は一度だけ私を睨み、それから吐き捨てるように言った。





「おなごの嗜みや」



【今回のタイトル】


Consuetudo pro lege servatur は、ラテン語で「慣習は法として守られる」くらいの意味です。


法の世界では、書かれていないものが法として扱われることがあります。


……とはいえ、みんながやっていることが、何でもそのまま法になるわけではありません。


そのあたりの話を始めると長くなりますので、今回はここまで。


なお――


「おなごの嗜み」については、いまのところ法源として扱わない方向で考えています。


……たぶん。



※一部表現の修正を行っています。

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