Articulus Ⅲ Pacta sunt servanda 約束は守れ
このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。
ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。
そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。
ですので、そのあたりは物語としてお読みください。
翌日、私は約束どおり、同じ団子屋にいた。
一平太のことを知っている相手から、少しでも話を聞くためだ。
昨日、少年が帰ったあと、紀州の男から聞けたのは、伊達という家に関わる相手らしい、というところまでだった。それ以上聞こうとすると、今度は私の記憶や体調について質問され、最後にはもう一度帰宅を勧められた。
どうやら情報を集めようと頑張るほど、社会復帰から遠ざかる仕組みになっているらしい。
だったら、本人に聞けばいい。
そう思って約束の時刻に来たのだけれど、その本人がいなかった。
軒下なら少しは涼しいかと思ったのに、日陰には通りから逃げてきた熱まで一緒に溜まっている。じっとしているだけで首筋に汗が浮き、湿った襟が少しずつ重くなっていった。
団子を一本食べ終え、二本目へ手を伸ばしかけてやめる。
ここで追加したら、待たされている人なのか、ただ団子を食べに来た人なのか分からなくなりそうだった。
もちろん、両立はする。
でも今の私は一応、待たされている側だ。そのくらいの立場は守りたい。
少年が現れたのは、それからしばらく経ってからだった。
急いでいる様子はなく、こちらを見つけても歩く速さは変わらない。
自分で時間を決めたのに、その時間を守る気はあまりないらしい。
昨日はあれだけ私の話を疑っていたのだから、自分の言ったことにも少しくらい責任を持ってほしい。
私は、少年が席へ着くより先に口を開いた。
「Pacta sunt servanda」
少年の足が止まった。
「……何や、それ」
「ラテン語」
少年の眉が動く。
「異人の言葉か」
「昔の西洋の言葉。今でも――」
「もうええ」
それまで残っていた気安さが、すっと顔から消えた。
「その顔で、夷狄の言葉を口にするな」
少年の手が腰へ落ち、親指が鍔へ掛かった。
ほんの少し押し上げただけだったと思う。
それでも、鞘の中で金属が擦れる低い音がして、黒い鯉口から刃の根元がわずかに覗いた。
近い。
卓を一つ挟んでいるだけで、腕を伸ばされたら届きそうな距離だった。
さっきまで暑くて仕方なかったのに、首筋を流れていた汗だけが急に冷たくなる。
昨日までの私にとって、刀は重くて邪魔な持ち物だった。
でも、目の前で刃が見えた瞬間、それが人に向けて抜くものだという当たり前のことが、ようやく身体まで届いた。
そう思った途端、自分の腰に差している刀まで急に怖くなる。
「待って」
「抜け」
少年の声は静かだった。
怒鳴られるより、その方がずっと怖い。
脅しているだけじゃない。本当に、私が刀を抜くのを待っている。
返事が出ないまま、私は反射的に自分の腰へ手をやった。
柄には触れた。
でも、そこまでだった。
汗ばんだ掌に巻き柄の硬さは伝わるのに、その先を身体が知らない。
どう動かせば抜けるのか、本当に分からなかった。
少年の視線が、私の顔から止まった右手へ落ちる。
「……何しとる」
「分からない」
「何がや」
「抜き方」
少年の眉間に、思いきり皺が寄った。
「抜き方なんて知らない!」
「そないな侍がおるか!」
「ここにいる!」
「刀も使えんのか!」
「使えない!」
そこまで言い切ると、少年の表情が少し変わった。
怒りが消えたわけではない。
ただ、目の前にいる私と、自分の知っている一平太を、もう一度比べ直しているように見えた。
「……お前のおった先では、刀も使わんのか」
「普通は使わない」
「ほな、何で戦う」
「銃とか、もっと別の武器とか」
少年の目が細くなる。
「結局、戦はあるんやないか」
「あるよ!」
思ったより大きな声が出た。
怖いのは変わらないし、できれば今すぐその手を刀から離してほしい。
でも、刀を使えないことと、何もできないことまで同じにされるのは嫌だった。
「軍隊もいるし、武器もあるし、戦争だってなくなってない! でも、何でも撃ったり斬ったりして決めるわけじゃないの」
少年は黙っている。
私はその顔を見たまま、続けた。
「話して、書いて、約束して、それで相手を動かすこともある。私が勉強してたのは、そっち!」
言い切ってから、ようやく口を閉じた。
少年の親指は、まだ鍔に掛かっている。
余計なことを言えば、本当に抜かれそうな気がしたので、今度は黙って待った。
やがて、少年の指から力が抜けた。
わずかに浮いていた刃が鞘へ戻り、小さな音がする。
そこで初めて、自分がずっと浅くしか息をしていなかったことに気づいた。
息を吸うと胸元の布が肌を擦れ、店の奥からこちらを見ていた人たちも、まだ動きを止めたままだった。
少年もようやく周囲の視線に気づいたらしい。
刀から手を離すと、何事もなかったように私の隣へ腰を下ろした。
私は少し距離を空けて座り直した。
ついさっきまで本気で刀を抜こうとしていた相手と、すぐ隣で普通に団子を食べられるほど、私はまだこの時代に慣れていない。
「……さっきの」
「何?」
「夷狄の言葉や。どういう意味や」
「約束は守れ」
少年がこちらを見た。
「当たり前やろ」
「さっき破ったばっかりでしょ」
目が合ったまま、少年が黙る。
私も待った。
約束の時間に遅れたことについて、ここで何かしら言うのだと思った。
できれば、来てすぐ刀を抜こうとした件についても一言ほしい。
でも少年は、私が期待したのとは別のところで考え始めたらしい。
「じゃあ、約束守らんとどうなる?」
話をそらしたな。コイツ。
わざとなら、なかなか将来性がある。
「次に信じてもらえなくなる」
「それだけか」
「それが困るの」
私は卓へ手を置いた。
「たとえば、またここで会おうって言われても、今日遅れた人なら、本当に来るのかなって一回考えるでしょ」
少年は黙って聞いている。
「もっと大事な約束なら、今度は念のため確認したり、破られたときのことまで先に決めたりするかもしれない。一回守らなかっただけで、次から余計な手間が増えるの」
「せやから守るんか」
「次も、その相手と話したいならね。毎回、本当に信じていいのか確かめるところから始めるのは大変だから」
少し考えてから、ちょっとだけ付け足した。
「私が勉強してた国同士の約束も、そこはそんなに変わらないよ」
少年が眉を寄せる。
「国いうんは、藩みたいなもんか?」
すぐに頷きそうになって、やめた。
「似てるところはある。でも、私が勉強してた国と、あなたが言ってる藩が同じものかは、ちゃんと考えないと分からない」
「何が違う」
「そこから説明すると長いよ」
「どれくらい長い」
「そこまで聞く?」
「分からんまま終わる方が気持ち悪いやろ」
少年は、もう刀へ手をやっていなかった。
代わりに、私の返事をじっと待っている。
足りなければ、続きを聞くつもりらしい。
命の危険がなくなったのはありがたいけれど、今度は説明を途中でやめる自由が怪しくなってきた。
「じゃあ、その話はまた今度」
「明日か?」
「明日も会うの?」
「まだ聞きたいことある」
昨日と同じ理由だった。
でも、少しだけ違う。
昨日は、私が何者なのかを確かめようとしていた。
今は、私が何を知っているのかを知りたがっている。
だったら、こちらも欲しいものを頼んでいい気がした。
「じゃあ、文字を教えて」
「文字?」
「こっちの書付、私には読めないから」
少年は黙った。
それから、本気なのか確かめるみたいに私の顔を覗き込んでくる。
「お前、あれだけ訳分からんこと知っとって、字ぃ読めんのか」
「私のいた時代の文字なら読める」
「ここで読めんかったら一緒やろ」
「昨日、それは嫌ってほど分かったから」
痛いところを、かなり正確に刺してくる。
でも、昨日できなかったことを今日も眺めていたって仕方がない。
読めないなら、覚えるしかない。
「あなたは私に聞きたいことを聞く。私は文字を教えてもらう。それなら、どっちにも明日ここへ来る理由があるでしょ」
少年は少し考えたあと、口元を歪めた。
「……字ぃ書けんのか、センセ」
「センセ?」
「先生や」
「それは分かるけど、何で?」
少年の笑いが、ほんの少し薄くなった。
「一平太とは呼べんから、センセや」
返事が止まった。
分かっていたはずだった。
この少年にとって、私はもう一平太じゃない。
昨日からずっと、その話をしてきた。
それでも本人の口からそう言われると、胸の奥へ小さく何かが落ちた。
痛いほどではない。
ただ、ちょっとだけ寂しかった。
「変なことは知っとるし、それでええやろ」
名前じゃない呼び方なら、今の私でも受け取れる。
そう思って、私は頷いた。
「じゃあ、センセでいい」
「何でお前が許可するんや」
「私の呼び名なんだから、本人の同意くらい必要でしょ」
「面倒くさいな、センセ」
「先生を敬って」
「字ぃ読めん先生を?」
「だから、あなたが教えるんでしょう!」
少年が声を立てて笑った。
少し前まで刀へ手を掛けていた相手なのは、もちろん忘れていない。
でも、その笑いにつられるように肩の力が抜けると、今度は暑さが一気に戻ってきた。
私はようやく湯呑みを手に取り、冷めた茶を飲んだ。
ぬるくなっていると思ったのに、火照った口には意外なくらい気持ちいい。
「それで、あなたの名前は? 伊達までは聞いたけど」
少年はすぐには答えず、一度こちらの顔を見た。
「……伊達か」
「昨日、あの人が言ってた。続きは私の体調の話になったけど」
「ほな、小二郎や。伊達小二郎」
ようやく名前が分かった。
伊達小二郎。
頭の中で何度か繰り返してみたけれど、知っている歴史上の人物には結びつかなかった。
もっとも、私が知らないからといって、有名じゃないとは限らない。
今のところは、遅刻して、気に入らないことがあると刀へ手を掛けて、分からないことは納得するまで聞いてくる少年、と覚えておけば十分だと思う。
「分かった。小二郎」
「呼び捨てか」
「センセに敬ってほしいの?」
「……もうええわ」
小二郎は立ち上がり、通りへ目を向けた。
私も残った茶を飲みながら、明日までに必要なものを考える。
文字を習うなら、筆と紙はあった方がいい。
こちらから話すことも、言葉の意味が本当に同じなのか確かめながら進めた方がよさそうだった。
教えるつもりで、この時代へ来たわけじゃない。
まして、昨日まで名前すら知らなかった少年の先生になるなんて、考えたこともなかった。
でも、私にできることと、小二郎に教えてもらいたいことが、一つずつ見つかった。
それだけで、昨日より少しだけ足元ができた気がする。
「ほな、明日」
「文字、忘れないでね」
「センセも話すこと考えとけ」
「今度は遅れないでよ」
小二郎が露骨に嫌そうな顔をした。
国同士の約束まで話を広げたからといって、最初の遅刻までなかったことになると思われては困る。
私は座ったまま、帰りかけた小二郎を見上げた。
「約束?」
小二郎はしばらく私を見ていた。
さっき自分が何を聞いて、私がどう答えたのか。
まさか、もう忘れたとは言わせない。
「……約束や」
その答えを聞いて、少しだけ笑った。
昨日なら、本当に信じていいのか、もう少し考えたかもしれない。
でも今度は、信じてみようと思った。
【今回のタイトル】
Pacta sunt servanda は、ラテン語で「約束は守られなければならない」という意味です。
国際法では、とても大事な原則で、条約法条約にも明記されています。
……その話を始めると長くなりますので、今回はここまで。
なお――
遅刻した件を許したとは言っていません。
※一部表現の修正を行っています。




