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Pacta sunt servanda ――陸奥宗光になる君と、国際法の言の葉を――  作者: Altis―法律を物語に翻訳中―
CapitulumⅠ Pacta sunt servanda――気づいたら幕末の少年に国際法を教えることになりまして――

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3/15

Articulus Ⅱ Lacuna 一平太は、どこ行った

このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。


ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。


そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。


ですので、そのあたりは物語としてお読みください。






 しばらくして、少年が眉間に皺を寄せた。




「……何や、それ」


 まあ、そうなるよね。


 私だって、できればもう少し事情を分かっている立場で話したかった。でも、分からないものを適当に埋めてしまうと、あとで自分の言ったことに自分が縛られる。


「朝、目を覚ましたら、この身体にいたの。それまでは別の場所で、別の名前で暮らしてた。この身体は私のものじゃない。それ以上は、本当に分からない」


 少年はすぐには答えなかった。



 冗談だと思ってもらえたら、たぶん楽だった。



 でも、そのためには彼の知っている一平太らしく振る舞わなければならない。私はその方法を知らないし、そもそも一度も一平太だったことがない。


「ほな、一平太は?」


「分からない。目を覚ましたときには、もう――」


 少年が勢いよく立ち上がった。


 膝が卓へ当たり、皿の上の串が跳ねて、乾いた音を立てる。近くの客がこちらを振り返り、店の奥からも視線が向いたので、私は残りの言葉を飲み込んだ。


「分からんて、お前がそこにおるんやろ」


 言いたいことは分かる。


 でも、ここにいることと、どうしてここにいるのかを知っていることは別だ。


 好きで入り込んだわけでもないし、一平太を追い出した覚えもない。私だって朝起きたら知らない身体にいて、文字は読めないし、利き手まで違うし、そのせいで仕事は初日から途中で帰されている。


 こっちにだって言いたいことはある。


 ただ、その全部を一平太の顔と声で言わなければならない。


 少年が知りたいのは、私が悪いかどうかじゃない。一平太がどこへ行ったのかだ。


 そこで先に「私は悪くない」を出すのは、たぶん違う。


「私も、一平太がどこにいるのか知りたい」


 少年は何か言いかけて、卓へ目を落とした。


 散った串を見て、ようやく周りの視線に気づいたらしい。ゆっくり腰を下ろし、店の人へ軽く頭を下げてから、また私へ向き直った。


「その前は、どこにおった」


 今度は私が少し迷った。


 場所の名前だけ答えて終わる話ではない。知っている地名を言ったところで、そこへ行けば昨日までの私の家や生活が残っているわけでもない。


 ここまで話したなら、一番信じてもらえなさそうなところまで言うしかなかった。


「ここが私の思ってる時代なら、百年以上先」


「……先?」


「未来。正確に何年前なのかは、まだ分からないけど」


 少年の顔が、さらに険しくなった。


 別人の身体に入ったというだけでも十分怪しいのに、今度は未来から来た話まで追加された。


 信用してほしい人間の説明としては、だいぶひどい。


「ふざけとるんか」


「ふざけるなら、もう少し信じてもらえそうな話にするよ」


 少年は笑わなかった。


 私も笑わせるつもりで言ったわけではない。


 誰かを騙すために来たのなら、せめて最初に渡された書付くらい読める設定にしておきたかった。


「証拠は」


 そう来るよね、と思った。


 そして、困ったことに何もない。


 服も財布も学生証も、昨日までの私を証明できそうなものは何ひとつ持ってきていなかった。あるのは記憶だけで、それを今すぐ、この時代の人にも分かる形に変える方法までは持っていない。


 未来の出来事を話すことならできる。


 正確には、私が知っている過去を、この時代ではまだ起きていない未来として話すことになる。


 でも、それが本当だったと分かるのは、実際にその出来事が起きたあとだ。


 それまで私は未来人ではなく、妙に具体的な予言をする怪しい人でしかない。


 すでに「知らない身体で団子を食べている人」という十分すぎる状態なので、これ以上ややこしくしたくはなかった。


「今すぐ見せられるものはない。知ってることなら話せるけど、それで未来から来た証明になるかは分からない」


「それで信じろ言うんか」


「信じろとは言ってないよ。聞かれたから、私に分かることを答えてる」


 口にしてから、少し冷たかったかもしれないと思った。


 もちろん、信じてもらえた方が私は助かる。


 でも、私が助かるから信じてほしい、では話が違う。


 少年には少年の事情があるし、信じるかどうかまで私が決めていいわけじゃない。


 少年はしばらく私を見ていたが、やがて卓へ視線を落とした。


「一平太が戻るかも、分からんのか」


 今度は、責めるような声ではなかった。


 戻るかもしれない、と言うだけなら簡単だった。


 私が来られたのだから、逆もあるかもしれない。何かのきっかけで入れ替わったのなら、同じような何かで戻れるかもしれない。


 そういう希望なら、少し考えればいくらでも作れる。


 でも、その言葉を信じて待つのは私じゃない。


「……うん。ごめん」


 少年は何も言わなかった。


 店では新しく来た客が団子を頼み、通りからは人の声が流れ込んでくる。甘い餡の匂いも、さっきまでと変わらない。




 一平太がいなくなったかもしれない、と話しているのに、茶店は普通に商売を続けていた。




 当たり前なのだと思う。


 誰か一人がいなくなったからといって、世の中まで一緒に止まってはくれない。


 私は持っていた串を皿へ置いた。


 さっきまであんなにおいしかった団子も、もう食べる気にはならなかった。


「名前は」


 少年が顔を上げる。


「お前のや。一平太やないなら、あるんやろ」


 もちろん、ある。


 昨日までずっと使っていた、私の名前が。


 それなのに、口に出そうとしたところで声が止まった。


 ここで名乗れば、この少年は一平太の顔を見ながら、別の人間の名前を覚えることになる。


 今さら何を気にしているんだろう、と自分でも思う。


 身体が違うと言って、未来から来たとまで話したあとだ。名前だけ隠したところで、何もなかったことにはならない。


 それでも、自分から名乗ってしまったら、「私は一平太じゃない」と最後のところまで自分で決めてしまうような気がした。


 全然、理屈にはなっていない。


 分かっていることを、そのまま綺麗にできる人間だったら、私はたぶんもう少し器用に生きている。


「……先に、あなたの名前を教えて」


 少年の眉が、ほんの少し動いた。


 私は、ただ順番を整えただけです、という顔をしてみる。


 相手がまだ名乗っていないのは事実だ。


 どうして今それを持ち出したのかまで聞かれたら、ちょっと困るけれど。


「俺の名前も、知らんのか」


「うん」


 少年は口を閉じた。


 それまでの質問には、私の話が本当かどうか確かめようとする感じがあった。


 でも、今の顔は少し違う。


 自分の名前すら知らない相手と、さっきからずっと一平太の話をしていた。


 そのことに、今になって追いついたみたいだった。


「成瀬殿?」


 呼ばれて振り向く。


 紀州藩邸で見かけた男が、店先に立っていた。


 こちらへ近づこうとして、隣の少年に気づいたところで足を止める。一度だけ少年へ目を向け、それから何も言わず私へ顔を戻した。


「お帰りになったと伺いましたが」


「途中です」


 男は卓の上の団子を見た。


 休むように言われた人間が、帰り道で団子を食べている。


 何か言われるかと思ったけれど、その視線はすぐ少年へ戻った。


 どうやら、そっちの方が気になるらしい。


 少年の方も、見られて驚いた様子はなかった。


 口元をほんの少し歪めると、卓へ置いていた手を離す。


 この二人の間には、私が未来から来たこととも、一平太の記憶がないこととも関係のない何かがある。


 そう思ったところで、少年が立ち上がった。


「ほな、俺は行く」


「待って」


 気づいたら呼び止めていた。


 少年が振り返る。


 何を言うのかは、そのあとで考えた。


 この少年へ話したことを、ほかの誰に話せばいいのか分からない。


 信じてもらえたわけではない。


 それでも少なくとも彼は、もう私を昨日までの一平太と同じ人間だとは見ていなかった。


 朝から会った人たちは、みんな私を「知っている人」として話しかけてきた。


 この少年だけが、私を知らない人として見ている。


 そんな相手に、名前すら聞けないまま帰られるのは困る。


「私も、聞きたいことがある」


 少年は立ったまま私を見たあと、すぐそばにいる紀州の男へ一度だけ目をやった。



挿絵(By みてみん)



「明日、同じ時刻に来い」


「ここに?」


「俺も、まだ聞くことある」


 それだけ言うと、少年は店先から通りへ出た。


 信じるとも、信じないとも言わなかった。


 ただ、明日もう一度会うことだけは決まった。


 私はその背中を目で追った。


 日向へ出た少年の姿は、行き交う人に何度か隠れながら、少しずつ遠ざかっていく。


 さっきまで呼び止める理由なら、頭の中にいくらでも浮かんでいた。


 でも、明日も会えると分かった途端、今すぐ追いかけてまで言わなければならないことは、急になくなった気がした。


 隣の男は、少年が人混みに紛れるまで黙っていた。


 その沈黙の意味を考え始める前に、私はもっと大事なことを思い出した。




 聞ける相手なら、ここにいる。




「あの人、誰?」


 男が私を見る。


「……ご存じないので?」


「昨日、頭を打ってから、思い出せないことがあって」


 これを言えば、今度こそ本当に寝床へ戻されるかもしれない。


 でも、知っているふりをした結果、私はついさっき存在しない池へ落ちたばかりだ。


 一日のうちに同じ失敗を二度やるくらいなら、体調を心配される方がまだいい。


 男は通りへ目をやり、それから私のそばへ半歩寄った。


 声が少し低くなる。




「……あれは、伊達殿の――」




 私は皿から手を離して、男へ向き直った。




 今度は知っているふりをせず、その先を待った。

【今回のタイトル】


Lacuna は、ラテン語で「空白」「欠落」「欠けている部分」くらいの意味です。


法律の世界でも、必要な規律が存在しないことを「法の欠缺」と呼んだりします。


何かが欠けていると、つい埋めたくなるものですが、そのあたりの話を始めると少し長くなりそうです。


なので今回は、この言葉だけ置いておきます。


※一部表現の修正、あとがきの修正作業を行っています。

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