Articulus I Alter ego お前、だれや?
このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。
ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。
そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。
ですので、そのあたりは物語としてお読みください。
ニーチェは正しい。
――神は死んだ。
少なくとも、私の神様は死んだ。
ついさっきまで、顔も名前も知らないその神様を、私はかなり本気で愛していたのに。
「成瀬殿。まずはこちらをお願いいたします」
その愛は、差し出された一枚の紙で終わった。
書付には、墨で文字が並んでいる。
開け放たれた障子から生ぬるい風が入ってきているのに、部屋の湿気はほとんど動かない。襟の内側には朝からの熱が残っていて、さらしの下までじっとりしていた。
でも、今は暑さより文字だった。
たぶん、日本語だと思う。
ところどころ漢字っぽい形はある。でも、一文字が終わる前から次の文字が始まって、そのまま隣へ流れていく。
文章の意味以前に、どこからどこまでが一文字なのか分からない。
私は書付を顔へ近づけて、それから少し遠ざけてみた。
墨の濃淡も、紙の繊維もよく見える。
視力は大丈夫。
ということは、問題があるのは完全に私の方だった。
――崩し字。
現代の日本語なら読める。英語も読めるし、フランス語にも多少の心得はある。
なのに、その三つを全部持ってきても、目の前の一行にはまるで届かない。
履歴書に書ける能力というものは、場所を間違えると本当にただの文字列になるらしい。
「こんなの、分かるか――!」
筆を動かしていた人も、帳面を繰っていた人も、一斉に手を止めた。
紙をめくる音まで消えたせいで、それまで気にもしていなかった蝉の声が、障子の向こうから急に近くなる。
やってしまった。
どうやら神様は、私への業務説明を済ませる前にきれいに逃げたらしい。
「……成瀬殿?」
書付を渡した男が、ものすごく慎重に声を掛けてきた。
四十前後だろうか。額にはうっすら汗が浮いているのに、背筋はきちんと伸びている。
態度も丁寧なままだ。
ただし、さっきまでの「偉い家の人への気遣い」みたいなものが、今は完全に「この人大丈夫かな」へ変わっていた。
「これ、何て書いてあるの?」
「昨日の御番についての書付にございますが」
「昨日までの私は、読めた?」
「無論でございます」
聞かなければよかった。
昨日の一平太には読めて、今日の私には読めない。
つまり、ちゃんと仕事のできる人を私が勝手に休ませて、その席に座っているようなものだった。
顔がいいとか、家柄も悪くなさそうとか、そんなところばかり見ていた自分を少し殴りたい。
仕事に必要な能力を何一つ確認していない。
採用する側なら、たぶん嫌な顔をする応募者だった。
とはいえ、まだ終わったわけではない。
読んでもらえば内容くらいは分かるはずだし、分かる文字で控えておけば、次から似たものが来ても少しは対応できる。
初日に必要なのは、たぶん才能の証明じゃない。
覚える姿勢だ。
数分前まで外国との交渉に参加する気満々だったけれど、最初の配属については柔軟に考えることにした。
「読んでもらえる? 書き留めたいから、筆もお願い」
男は少しだけためらってから、紙と筆を差し出した。
私はそれを受け取って、いつものように左手で持つ。
湿気を吸った指先で竹の軸が少し滑った。
隣にいた若い男の目が、そこで止まる。
その視線を追うように、年長の男も私の手元を見た。
あ。
嫌な予感がする。
「右だった?」
「……はい」
ですよね。
私は何も言わずに筆を持ち替えた。
昨日までの本人に合わせるくらいなら、こちらにも協力する意思だってある。
問題は、右手の方にまったく協力する気がなかったことだった。
筆を握るところまではできる。
でも、紙へ線を引くと途中で妙に太くなり、慌てて力を抜けば今度はかすれる。墨を含んだ穂先が紙へ吸いつく感じも、指に返ってくる重さも、どう扱えばいいのか分からない。
自分の手なのに、ものすごく遠い。
人から借りた道具を、さらに別の道具で動かしているみたいだった。
じゃあ左手なら綺麗に書けるのかといえば、もちろんそんなわけもない。
そもそも私は、筆で日常的に文章を書く生活なんてしていなかった。
右か左かを選べば解決すると思った時点で、だいぶ甘かった。
穂先ばかり見ているうちに袖が落ちてきて、湿った布が手首へまとわりつく。
暑いし、邪魔だ。
私は何も考えず、肘の辺りまで袖をまくった。
「成瀬殿。お袖を」
年長の男の声が、ちょっと低くなった。
ん?
今度は何?
袖を戻そうと身体をひねった拍子に、緩んだ襟元から朝に巻かれたさらしが覗いたらしい。
正面にいた若い男が、ものすごい勢いで顔を背けた。
年長の男まで視線の置き場に困っている。
私は筆を置いて、慌てて襟を合わせた。それから袖も下ろす。
湿った布が腕へ戻ってきて、さっきより余計に暑い。
でも、それでようやく二人の視線がこちらへ戻ってきた。
少なくとも、私が女だということを初めて知った反応ではない。
知っている。
そのうえで、一平太として扱っている。
どうやら、男物を着てその名前で呼ばれていれば終わり、みたいな簡単な事情ではなさそうだった。
「やはり昨日の落馬で、どこかお加減が悪いのでは」
助かった。
その説明は、かなり助かる。
文字が読めない。利き手が変わった。振る舞いまで妙に違う。
それを全部まとめるなら、「別人が入っています」より「頭を打ちました」の方がずっと自然だ。
「たぶん、それ」
男の顔がさらに深刻になった。
あ、間違えた。
そういう意味じゃない。
私としては説明がついたつもりだったけれど、相手からしたら「仕事をさせてはいけない理由」が一つ増えただけだ。
頭を打った心当たりがあります、だから働けます。
そんな理屈が通るわけがない。
男が隣の人へ目配せした。
このままだと本当に帰される。
まずい。
私は急いで、まだ使っていない手札を出した。
「法律に関係する仕事は?」
「……御法度のことでございましょうか」
返事を聞いた瞬間、またこれも違う、と思った。
私が知っている「法律」と、ここで働いている人たちの「法」が、同じ言葉でそのままつながるとは限らない。
というか、その前に私はここがどこなのかも、この人たちが何の仕事をしているのかも、ちゃんと聞いていない。
相手の仕事も知らないのに、いきなり自分の専門だけ差し出した。
就活で何を学んできたんだろう。
少なくとも、相手の話を聞いてから自分を売り込む、という基本はどうやら身についていなかったみたいだ。
「ごめん、今のなしで」
男はすぐに頷いた。
その納得の早さを見る限り、今の発言も体調不良の一部として処理された気がする。
「成瀬殿。本日はお休みになられてはいかがでしょう」
言い方こそ提案だったけれど、隣の人はもう私の前から硯を下げ始めていた。
協議の余地が、道具と一緒に片づけられている。
「まだ大丈夫だけど」
「大丈夫には見えませぬ」
反論できなかった。
昨日まで普通に働いていた人が、書付を前に叫び、利き手を間違え、服の着方を注意され、そのうえ突然「法律の仕事はありませんか」と言い出したのである。
私が管理する側でも、たぶん帰す。
組織がちゃんと機能しているせいで、私の居場所がなくなった。
仕方なく立ち上がると、畳に触れていた膝の裏へ湿った布が張りついていた。歩き出した瞬間、それが少し遅れて剥がれる。
こうして、幕末らしき時代での初勤務は、書付を一枚も処理しないまま終わった。
外国との交渉に参加するより先に、まず日本語で書かれた日常業務を読めるようにならないといけないことは明白だ。
研修の順番としては正しいと思う。
私が思い描いていた未来とは、かなり違うけれど。
◇
外へ出ても暑さはほとんど変わらなかった。
帰り道で見つけた店先へ腰を下ろして、私は団子を頼んだ。
出されたものを一つ口へ入れる。
甘くて、おいしい。
それだけで、ちょっと泣けてきた。
読めなくても困らないし、説明する必要もない。こちらに足りない技能を指摘されることもなく、口へ運んで、噛んで、飲み込めば、それでちゃんと終わる。
餡の甘さが舌に残って、乾いていた口の中が少しだけ戻ってきた。
今日初めて、自分一人で最後まで扱えるものに出会えた気がした。
神様への評価は最低ランクまで落ちたけど、団子については急上昇中だ。
串を持った左手を眺める。
職場で向けられた視線を思い出した。
筆の感触なんてもう残っていないのに、右手へ持ち替えた瞬間の沈黙だけは、妙にはっきり覚えている。
あの人たちにとっては、私が突然読めなくなったのだ。
昨日までは、同じ顔の誰かが書付を読んで、右手で筆を取って、何の問題もなくあそこへ座っていた。
その人は、どこへ行ったんだろう。
私は顔がいいと喜んだ。
暮らしにも困らなそうだと安心した。
でも、この身体は、誰も使っていなかった空っぽのものじゃない。
名前を呼ぶ人がいて、仕事を任せる人がいて、落馬したことを心配してくれる人までいた。
文字なら覚えればいいと思う。
筆だって練習すれば、少しはましになる。
できないことなら、時間をかけてできるようになればいい。
そう思っていた。
でも、私がどれだけ一平太らしく振る舞えるようになっても、昨日までここにいた本人が戻ってくるわけじゃない。
団子を飲み込む。
さっきまで甘かったのに、喉の奥には何かが薄く引っかかったままだった。
「……一平太?」
顔を上げると、店先に少年が立っていた。
十五、六歳くらいだろうか。若侍らしい格好をして、切れ長の目でこちらを見ている。
整った顔だった。
でも、最初に気になったのは顔立ちより表情の方だった。
私を見つけた驚きに、喜びなのか戸惑いなのか分からないものが一瞬だけ混じる。
それは次の瞬間には、きれいに消えていた。
「久しぶりやな」
その一言に、ちょっとだけほっとした。
久しぶりなら、多少の変化は時間のせいにできる。
昨日まで一緒に働いていた人たちとは違う。この少年と一平太の間には、しばらく会っていなかった時間がある。
そこへ成長とか心境の変化とか、いろいろ詰め込めば、今の私でもなんとかなるかもしれない。
「久しぶり」
初対面の相手に、私は昔から知っているような顔で答えた。
少年はほんの少し眉を動かしたけれど、何も言わずに隣へ腰を下ろした。
肩が触れるほど近くはない。
でも、この暑さの中で他人同士が座るなら、もうちょっと離れそうな距離だった。
遠慮がない。
一平太とは、かなり親しかったんだと思う。
だったら、この少年は、さっきまで私が考えていた「昨日までここにいた人」のことを知っている。
ちょっと聞きたい。
すごく聞きたい。
でも名前すら知らない。
久しぶり、と言った直後に「ところであなた誰?」はさすがに無理だった。
「団子か」
「食べる?」
「いらん」
少年は少し笑った。
その目が、ほんの一瞬だけ私の左手へ落ちる。
私は串を持ち直しかけて、やめた。
職場では右手へ替えたところで、何ひとつ取り繕えなかったばかりだ。
今度は団子を持つ手まで急に変えたら、それこそ怪しい。
少年は、そのまま昔の話を始めた。
一緒に木へ登ったこと。入ってはいけない場所へ忍び込んだこと。見つかって、二人で叱られたこと。
私は一つも覚えていない。
それでも話を聞いているうちに、一平太という人がどんな子だったのか、少しずつ見えてきた。
よく動いて、余計なことをして、叱られてもたぶんまた何かやる。
どう考えても、おとなしく座っているタイプではない。
私は曖昧に笑いながら話を聞いて、具体的な返事を求められそうになるたびに団子を食べた。
食べている人を急かさない程度の礼儀に、記憶がないことを預けていた。
自分でも、あまり褒められた方法ではないと思う。
でも、ほかに思いつかなかった。
少年は相変わらず軽い調子で話していた。
だから私も、向けられる視線に、昔を懐かしんでいる以上の意味があるとは考えなかった。
「そういや、城の裏の池に落ちたこと、あったな」
また、知らない話だった。
ここまでずっと曖昧な返事なのも、そろそろ変な気がする。
一つくらい、覚えているように見せた方がいいかもしれない。
そんなことを考えて、私は小さく頷いた。
「あったね」
少年の口元に、笑みが浮かんだ。
「池なんかないで。城の裏に」
手が止まった。
串を持つ指先が、急に冷たくなったような気がした。
やられた。
私は情報をもらっているつもりだった。
でも実際には、こっちの情報を渡していた。
しかも、今ので知られたのは「覚えていない」ことだけじゃない。
知らないのに、知っているふりをしたことまで、きっちりばれた。
「汚くない?」
「知らん話に合わせたんは、お前やろ」
何も言い返せなかった。
やり方がずるい、と言ったところで、私が嘘をついた事実は消えない。
その理屈が自分でもちゃんと分かってしまうのが、今だけはすごく嫌だった。
少年は、もう笑っていなかった。
団子でも串でもなく、まっすぐ私の顔を見ている。
何か言わないと。
落馬のせいにすることはできるかもしれない。
でも、この少年が昨日のことをどこまで知っているのか分からない。
変なことを言えば、またこっちから余計な情報を渡す。
何を言えばいい。
考えているうちに、舌に残っていた甘さまで消えていた。
「一平太は、そんな顔で俺を見ん」
そこで、用意しかけていた言い訳が全部止まった。
文字なら習える。
筆も、利き手も、話し方も、時間をかければ多少は近づけられるかもしれない。
でも、一平太がこの少年を見たとき、どんな顔をしていたのかは分からない。
何を思い出して、何を期待して、どれくらい気を許していたのか。
そんなものは、この身体の中をいくら探しても出てこない。
さっき私は、一平太はどこへ行ったんだろうと考えた。
まだ答えは分からない。
でも、目の前には、その人がいないことに気づいた人がいる。
「お前、誰や」
名乗ることならできた。
二十四歳。
国際法を勉強していて、就職活動がうまくいっていなかった。
私にはちゃんと名前もあるし、それなりに自分の人生だってあった。
でも、それを答えたところで、どうして一平太の身体で団子を食べているのかは説明できない。
この少年から見た私は誰なのか。
ここにいたはずの一平太を、私はどうしたことになるのか。
それは、私にも本当に分からなかった。
手の中で、串が汗ばんだ指へ少し食い込む。
「私がそれ知りたい!」
少年は初めて、返す言葉をなくした。
【今回のタイトル】
Alter ego は、ラテン語で「もう一人の自分」「第二の自己」くらいの意味です。
ちなみに英米法では、法人格否認の場面などで alter ego という言葉が出てくることもあります。
……そちらの話を始めると、あとがきが一話分になりますので、またいつか。
今回は、この言葉だけ置いておきます。
※冒頭に掲載している書簡画像は、物語上の書簡をイメージしてAIで作成したものであり、実在する史料ではありません。雰囲気をお楽しみください。
※本文の誤表記及びあとがきを修正しています。




