Praeambulum Ratio legis / Iuris tantum
このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。
ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。
そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。
ですので、そのあたりは物語としてお読みください。
淡い灯りの滲む薄闇のなか、赤いものが白い指を伝っていた。ひと雫、またひと雫と落ちるたび、そこだけが鮮やかで、世界のほうが先に色を失っていくようだった。
痛いのかどうかは、もうよく分からなかった。
ただ、その目だけが、まっすぐこちらを向いている。
もう、ほかには何も映っていない。
「……やっと、見てくれた」
唇だけが、ひどく静かに微笑んでいた。
目を覚ましたら、知らない天井だった。
――という始まり方には、ずいぶん昔から先人がいる。
先人が多すぎるせいか、いざ自分の身に起きてみると、思ったほど感動はなかった。
薄い木目の板が頭上を渡り、障子越しの白い光が、まだ眠たげな部屋へぼんやり滲んでいる。空気には畳と木の匂いがこもっていて、首筋には長い髪が張りついていた。
鬱陶しいな、と思って持ち上げた左手まで、私の知っているものではなかった。
私の手より小さくて、指が細い。手首を返す自分で動かしているはずの手が、どこか借り物みたいに見えた。
爪の横にあった傷も消えている。
企業説明会へ向かう途中、履き慣れないパンプスでよろけて、壁に手をついたときにつけた傷だった。採用には至らなかったのに負傷には至ったので、あの企業に対する私個人の印象は、今でも少しだけ悪い。
もちろん、私が壁にぶつかったのは企業の責任ではないし、大学院まで出た応募者を採用しなければならない理由もない。そのくらいを切り分ける理性は、まだちゃんと残っている。
傷の消えた手で頬に触れてみると、今度は指先の位置が合わなかった。
肌は若く、顎は小さい。肩へ落ちてきた髪をすくえば、普段の私のものよりずっと長くて、さらりと指の間を抜けていく。
寝ている間にものすごく美容効果の高い何かが行われた、と喜ぶには、元の私が消えすぎていた。
身体を起こして畳へ足を下ろすと、思ったより軽く動けた。ただ、重心の位置が少し違う。裸足の裏に触れた畳の冷たさまでやけにはっきりしていて、夢という感じがしなかった。
部屋には水差しと障子があり、頭上には木の梁が通っている。照明もコンセントも見当たらないので、泊まる場所として評価するなら、私はかなり点を引きたい。
夢かもしれない、とは一応思った。
でも、頬に触れた指の感触も、足の裏の冷たさも、畳の匂いもはっきりしすぎている。夢だったことにしてもう一度寝るには、少し無理がありそうだった。
若返ったのか、誰かの身体に入ったのか、それとも私の知らない何かが起きているのか。
今のところ、どれとも決められない。
大学院で身についたものの中で、こんなときにも役に立つのは、分からないことを無理に分かったことにしない癖らしい。全然格好よくはないけれど、少なくとも余計な間違いは減らせる。
そう考えていたところで、障子が開いた。
廊下から少し冷たい空気が入り、その向こうから着物姿の女性が現れる。
「一平太様!」
女性はほとんど膝をつくような勢いで近づくと、私の顔を覗き込んだ。張りつめていたものがほどけたように息をつき、そのまま昨夜のことを話し始める。
落馬したこと。熱が出たこと。先生は心配ないと言ったものの、なかなか目を覚まさなかったこと。
話は分かるのに、私の記憶には一つもなかった。
どうやらこの身体は一平太と呼ばれていて、落馬した翌朝を迎えているらしい。
本人に代わって回復を喜ばれながら、もう少し話を聞こうと思っていると、女性はにこやかに言った。
「間もなくお迎えが参りますゆえ、お支度をいたしましょう」
続きを待った結果、次の予定が入った。
女性は鏡台の前を整えると、私をそこへ座らせた。どうやら、まず髪を整えるらしい。
こちらとしても都合がよかった。さっきから気になっていたものを、ようやく確認できる。
私は恐る恐る鏡を見た。
――ずいぶんと、整っていた。
黒い髪に小さな輪郭、すっと通った鼻筋。目元には少し勝ち気な鋭さがあるのに、それがきつく見えるわけでもなく、むしろ顔全体によく似合っている。
試しに顎を少し上げてみる。
悪くない。
少し下げてみても、やっぱり悪くない。
就活写真を撮ったとき、私は写真館のお姉さんから、顎の位置と口角についてかなり細かく指示された。あれは少しでも感じよく写るための共同作業だったけれど、この顔なら、たぶん椅子に座るだけで済む。
ちょっと羨ましい。
いや、今のところ私の顔なのだけれど。
女性が髪へ櫛を入れるたび、頭皮がわずかに引かれ、鏡の中の少女もそれに合わせて眉を動かす。頬へ手を添えれば、当然のように同じ場所へ触れた。
分かっているのに、まだ不思議だった。
どうやら顔まで含めて、私はまったく知らない人になっているらしい。
もっとも、その顔について今のところ文句はなかった。
髪を整え終えた女性が、今度は衣類を運んできた。
寝間着の紐へ手を掛けられたところで、私はようやく、顔以外にも確認していない場所があったことを思い出した。
布が肩から離れていく。
そこで、この身体が女性であることを知った。
さすがに一瞬、息が止まった。
顔が違う時点で、自分の身体ではないことくらい分かっていたつもりだった。それでも、実際に目で確認すると、頭で考えていたときとは少し違う。
けれど、私が固まっているあいだにも女性の手は止まらない。手際よく衣類が重ねられ、最後に出てきたのは男物の着物だった。
一平太と呼ばれていて、身体は女性で、着るものは男物。
知っていることは増えたはずなのに、事情はむしろ分からなくなってきた。
ただ、目の前の女性は何の迷いもなく支度を続けている。少なくとも周囲にとっては、これが普通なのだろう。
だとしたら、ここで「どうして私は男物を着るんですか」と聞くのはまずい。
事情を知っているはずの本人がそんなことを聞き始める方が、服装よりよほど不自然だと思う。
私はひとまず黙って腕を通した。
袖の中を手が滑り、布が肩へ収まる。着慣れない服のせいなのか、この身体にまだ慣れていないせいなのか、腕を伸ばすだけでも距離感が少しずれた。
襟を整えられ、帯を締められてから立ち上がると、鏡の中にはさっきとは少し印象の違う人が立っていた。
背は高く、すらりとした身体に男物の着物がよく似合っている。
どうしてこの格好をしているのかは相変わらず分からないけれど、見た目だけなら納得できた。
選んだ人には、かなり見る目がある。
そう思ったところへ、腰に刀を差された。
帯がずしりと下へ引かれ、少し身体を動かすだけで長い鞘がついてくる。
これは、普通に邪魔だった。
もっとも、刀に向かって使い勝手が悪いと言うのも、たぶん何かが違う。
ところが鏡へ目を戻すと、これがまた妙によく似合っていた。
私は帯を少し直して背筋を伸ばす。
重さは何も変わっていないのに、さっきより少しだけ許せる気がした。
外見に左右されない公正な判断というものは、自分が当事者になると案外難しいらしい。
支度が済むと、廊下で待っていた男に引き渡され、そのまま屋敷の外へ連れ出された。
戸口を越えると、朝の光が少し眩しかった。
土の道には低い軒が並び、駕籠が通っている。馬を引く人がいて、腰に刀を差した男たちが行き交っていた。
電柱も舗装道路も見当たらない。
時代劇の撮影を疑うには町が広すぎるし、私一人を騙すためにここまで用意したのだとしたら、お金の使い方をかなり間違えている。
どうやら、本当に昔の日本らしい。
そこまでは分かった。
でも、それがいつなのかまでは分からない。
屋根瓦を見ただけで年号を当てるような訓練は受けていないし、当然ながら国際法の修士課程にも、そんな授業はなかった。
大学院まで行けば何でも分かるようになると思われることがあるけれど、実際はたぶん逆で、自分が何を知らないのかが前より分かるようになる。
案内役について歩いていると、腰の刀が歩幅に合わせて揺れた。最初はひどく気になったのに、何度か歩くうち、身体の方が自然に鞘を避けるようになる。
慣れたくはないのに、この身体の方はずいぶん素直だった。
通りの先で、周囲とは明らかに違う姿が目に入った。
洋装の男だった。
髪の色も違い、連れと何かを話しながらこちらへ歩いてくる。
外国人を見た途端、頭の中でいくつかの知識がつながった。
少なくとも開国後なのだろう。町の様子まで考えれば、幕末という可能性もある。
政変に暗殺、その先には内戦まで待っている。
歴史の教科書ならページをめくるだけで済むけれど、その途中で生活するとなると話はまるで違う。私は刀を腰に差しただけで、柱や人との距離が気になる程度の人間だ。
あまり住みやすそうな時代ではない。
それなのに、私は外国人の姿を目で追っていた。
彼らがここにいるなら、外国とのやり取りもある。
港を開くにも、商売をするにも、何かしら条件を決める必要がある。言葉が違えば、同じことを約束したつもりでも意味がずれることがあるし、そのせいで揉めることだってある。
そういう話なら、私は少し知っていた。
大学院で専攻していたのは国際法だった。
そして、その専門を抱えたまま、私は就職活動にしっかり苦戦していた。
面接で研究内容を説明すると、よく聞かれた。
――それで、何ができますか。
もっともな質問だと思う。
企業が知りたいのは研究が立派かどうかではなく、その知識を持っている人を採用したら、何をしてもらえるのかということだ。
でも、不採用通知が続くうちに、私はその問いを少しずつ違うものにしてしまった。
最初は「その専門で何ができるのか」だったはずなのに、いつの間にか「私は何の役に立つのか」と考えるようになっていた。
相手は、たぶんそこまで聞いていない。
なのに私は勝手に質問を大きくして、自分の人生まで審査対象へ入れた挙げ句、自分で不合格にしていた。
今考えると、ずいぶん雑な審査だった。
仕事でやったら、たぶん怒られる。
けれど、通りを歩いていく外国人を見ながら、この時代なら少し違うのかもしれないと思った。
英語は読めるし、フランス語もそれなりに読める。外国語で書かれた文書を見せてもらえれば、まず何が書いてあるのかを確かめられる。双方の話が食い違っているなら、どこからずれたのかを探すことだってできる。
本当に役に立つのかは、やってみなければ分からない。
でも、何もできないわけではない。
そう思えたことが、自分でも驚くくらい嬉しかった。
さっきまでただ知らないだけだった町が、少し違って見え始める。
外国との交渉はどこで行われているのだろう。外国語の文書は誰が読んでいるのだろう。そんなことを考えているうちに、年代すらまだ分かっていないのに、私はもう仕事の心配を始めていた。
生活より先に職探しを始めるあたり、前の人生で身についたものはなかなか抜けないらしい。
すれ違いかけた男が道の端へ寄り、私に頭を下げた。
「成瀬殿。お身体はもうよろしいので?」
頷いて会釈を返すと、男は一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに道を空けた。
成瀬。
そこへ、さっき聞いた一平太という名前がつながった。
成瀬一平太。
しかも、周囲からそれなりに丁重に扱われる人らしい。
これは、顔が整っていることよりありがたかった。
どれだけ知識があっても、話を聞いてもらえなければ使えない。どこの誰とも分からない人間が「外国との交渉について少し分かります」と言ったところで、そのまま偉い人のところまで通してくれる組織なら、むしろ私はそちらを心配する。
その点、この身体には名前があって、どうやら多少の信用もついている。
道中では、ほかにも何人かから落馬の具合を尋ねられた。
そのうちの一人が何かを言いかけたところで、隣の男がそっと袖を引いた。男はすぐに口を閉じ、私へ曖昧に笑ってみせる。
何を言おうとしたのかは分からなかった。
私は、落馬の失敗をわざわざ蒸し返さない気遣いなのだろう、と受け取ることにした。
この頃にはもう、いい方へ考えるために必要な根拠が、かなり少なくなっていた。
やがて案内役が大きな屋敷の門をくぐった。
門の向こうには広い庭があり、何人もの使用人らしい人たちが行き交っている。
少なくとも、成瀬一平太は明日の食費を心配するような立場ではなさそうだった。
生活をどうするか考えて、そのあとで仕事を探す。
本来なら必要だった順番を、一つ飛ばせるかもしれない。
私は別に身分制度を支持しているわけではない。
ただ、今のところ自分にかなり有利に働いているようなので、その問題についてはもう少し落ち着いてから考えることにした。
信念を曲げたわけではない。
考えるのを少し後回しにしただけだ。
知っていることを使えそうな時代で、話を聞いてもらえそうな立場もある。身体は若くて健康そうだし、顔についてはさっき確認したとおりだった。
腰の刀だけは相変わらず重かったけれど、それさえ今の私には、この立場についてきた少し扱いづらいおまけくらいに思えてきていた。
本当なら、条件がよすぎるときほど疑った方がいい。
でも、私は長い就職活動を経ている。
何か裏があるかもしれないと警戒する気持ちより、ようやく自分にも使い道があるかもしれないという気持ちの方が、ずっと大きかった。
文書を読んで、言葉を訳す。約束の中身を確かめて、話が食い違っているなら理由を探す。
知らないことがあれば調べればいい。
そのために勉強することなら、今までずっと続けてきた。
自分には価値があります、と一生懸命説明するより、一度何かを任せてもらいたかった。
まだ誰からも頼まれていないのに、私はもう、ちゃんと役に立てる気でいた。
出迎えた男が私の顔を見て、ほんの少し表情を曇らせた。その視線は一度だけ、腰の刀へ落ちる。
落馬した翌日に、こんなに機嫌よく歩き回っていたら心配にもなるのだろう。
私はそう解釈した。
こちらとしては、長いこと閉まっていた扉が、ようやく少し開いたような気分だった。
だから、そのときは本気で思った。
勝った、と。
何に勝ったのかも、そもそも何の勝負だったのかも分からない。
それでも、ずっと先の見えなかったところに、急に道らしいものが見えた。
証拠もないことを簡単に決めつけてはいけない。
そんなことは嫌というほど勉強してきたはずなのに、どうやら自分に都合のいい話になると、少しだけ効き目が悪くなるらしい。
女なのに一平太と呼ばれている理由も、男物を着ている事情も、さっきの男が何を言いかけたのかも、そのうち聞けばいい。
少しくらいややこしい事情があっても、たぶん何とかなる。
腰の刀はまだ重いし、着慣れない布も肌には馴染んでいない。庭の向こうから聞こえてくる人の声も、どれ一つとして私の知っている日常のものではなかった。
それでも私は、その全部を都合よく未来へ組み込んだ。
そうして、まだ一行も読んでいない契約書に、気持ちだけで署名した。
神様、愛してる!
本作でも、あとがきで法律や史実について少しだけ補足を始めるかもしれません。
本文だけで読めるようにはするつもりですので、興味のある方だけ、お付き合いいただければと思います。
なぜ小説のあとがきでそんなことをするのか。
―――作風です。
笑ってください。
※挿絵の季節感相違による修正を投稿後に行っています。




