Articulus Ⅷ Renovatio pacti また約束や。
このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。
ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。
そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。
ですので、そのあたりは物語としてお読みください。
三日後の約束を書いた紙を懐へ入れた、その翌朝。
紀州から知らせが届いた。
母が病に伏したらしい。
私宛ての手紙ではなく、成瀬家から江戸の藩邸へ届いた文書に、そう書かれていたという。
「すぐにどうこうということではございません。ただ、お歳もございますので」
藩士は、かなり慎重に言葉を選んでいた。
でも、それだけでは安心していいのか、急いだ方がいいのか分からない。
私が続きを待っていると、国元では、一平太が戻れるならその方がよいと考えているのだと付け加えられた。
「じゃあ、帰ります」
「まずは、御帰国の伺いを」
相手の眉が、ほんの少し動いた。
私は開きかけた口を閉じる。
母が病気で、家も戻ってほしいと言っている。なら帰る。
私の中ではそれで全部つながっていたのだけれど、その間には、ちゃんと手続があるそうだ。
「……そちらを、お願いできますか」
言い直すと、今度は相手が小さく頷いた。
何を伝えればよいのか教わり、帰国したいという希望を、必要な形で取り次いでもらうことになった。
◇ ◇ ◇
帰国の伺いが通ったのは、二日後だった。
国元の事情を踏まえて帰国を許すこと。
道中の手配が整い次第、江戸を発ってよいこと。
そう告げられ、私は頭を下げた。
「国元へ戻られれば、御家の方でも安心なさるでしょう」
脇にいた人がそう言うと、別の人も頷いた。
それまで私へ向いていた顔が、それぞれの仕事へ戻っていく。
書類を重ねる音がして、次の用件を尋ねる声が続いた。
母のもとへ帰れる。
それは、もちろんよかった。
なのに部屋を出たあとも、胸の奥に小さなものが残っていた。
うまく言葉にできないまま廊下を歩いていると、いつの間にか少し足が速くなっている。
「一平太様」
呼ばれて振り向くと、阿国がこちらへ歩いてきた。
「支度ができたら、帰っていいって」
「では、早速取りかからなければなりませんね」
阿国と並んで部屋へ戻りかけたところで、私は歩幅を緩めた。
「みんな、安心してた。私が帰るって聞いて」
阿国の目が、ほんの少し細くなる。
すぐには何も言わなかった。
「戸惑っておられる方は、多うございます」
「うん」
「一平太様を嫌っておられる、ということではございませんよ」
私は廊下の先へ目を戻した。
今の私は、周りからすれば扱いに困る相手なのだと思う。
昨日まで普通にできていたはずのことができなくなって、文字も怪しく、昔のことを聞かれても答えられない。
そんな人間が家へ戻るなら、ほっとする人がいても不思議ではない。
そこまでは分かる。
分かるのだけれど、理解できたからといって、気持ちまできれいに納得してくれるわけではなかった。
「阿国も、困ってる?」
「困っております。先日は、異国の言葉の書き方まで尋ねられましたので」
「あれは一回だけでしょう」
「本日は、旅支度についてお尋ねいただけますと助かります」
阿国の口元が少し緩んだ。
担当する内容まで先に指定された。
私もつられて少し笑う。
「阿国も、一緒に帰るんだよね」
「もちろんでございます。私の分も支度しなければなりませんから、お部屋へ戻りましたら、まずお荷物を見せてくださいませ」
「うん。お願い」
そのまま隣を歩く。
部屋へ着く少し前、懐へ手を入れたところで紙の角に触れた。
「あ」
「どうなさいました?」
「今日、小二郎と会う日だ」
「ええ。午後のお約束でございますね」
「行っても大丈夫?」
「お支度を少し進めておけば、刻限には間に合うでしょう」
阿国は最初から、そのつもりで考えていたらしい。
私は紙を懐の奥へ戻した。
「じゃあ、まず何からやればいい?」
◇ ◇ ◇
昼を過ぎると、朝の涼しさはきれいになくなっていた。
団子屋には、もう小二郎が来ている。
手本の端を硯で押さえ、こちらに気づくと少しだけ口元を上げた。
「来たな。条約どおりや」
「その名前、本当に気に入ったのね」
「センセがええ言うたんやろ」
私は座りながら、例の紙を懐から出した。
日付も刻限も合っている。
小二郎は一度だけそこへ目を落とすと、いつものように手本をこちらへ寄せた。
「これで、この約束は終わりだね」
「会うたんやからな。何や、まだ何かあるんか」
紙を折りかけて、指が止まった。
「紀州に帰ることになったの」
小二郎の手も止まった。
筆先が、紙へ触れる少し手前で宙に浮く。
「いつ」
「支度ができたら。母が病気なんだって」
「……おばさんが?」
さっきまで手本へ向いていた目が、まっすぐ私を見る。
具合を聞かれ、私も分かっている範囲で答えた。
小二郎は筆を硯の脇へ置く。
「ほな、帰らなあかんな」
「うん」
私は折った紙を懐へ戻した。
帰るなと言われても困る。
でも、帰らなきゃね、とすぐに納得されると、それはそれで少し寂しい。
自分でも勝手だと思う。
なので、そのことは口にせず、紙の角が引っかからないよう必要以上に丁寧に押し込んだ。
「次に江戸へ来るのがいつか、分からないの。そのとき小二郎がいるかどうかも分からないし」
「せやな。俺も、ずっとここにおるとは言えん」
小二郎は卓の上へ目を落とした。
硯の脇に置いた筆を指で転がし、そこで止める。
「ほな、今度会うたら酒でも奢れ」
「どうしてそうなるの」
「しばらく会えん分や」
「私のせいじゃないでしょう」
「ほな、俺が奢る方がええか」
払うのがどちらかという話になった。
私は一度、返事を止める。
小二郎はもう、次に会ったときの話をしている。
それが少しだけ嬉しくて、でも素直にそう言うのもちょっと悔しい。
「……私が奢るのでいいよ」
「小二郎」
少し離れた席から、阿国の声が飛んだ。
小二郎は首だけそちらへ向け、阿国の顔を見てから、何事もなかったようにこちらへ戻る。
「次に会うたらの話や」
「先のことであっても、お約束にはお気をつけくださいませ」
「一本くらいなら大丈夫だよ。小二郎、勝手に二本へ増やさないでね」
「増やさんわ」
「権利の濫用は禁止だから」
口にした途端、小二郎の眉間へ皺が寄った。
「一本を二本にしてええ話があるんか」
「……ないね。今のは取り下げる。ただの水増し請求だった」
話を逸らすつもりで法律を持ち出したら、法律の方に逃げ道を塞がれた。
「思いついた名前、何でもつけたらええんちゃうぞ」
条約の名づけ親に注意された。
今回は、たしかにこちらが悪い。
◇ ◇ ◇
いつもより、少しゆっくり団子を食べた。
道中はどれくらいかかるのか。何を持っていくのか。
小二郎に聞かれるたび、答えに詰まって阿国を見る。
自分が行く旅なのに、三人の中で私が一番知らない。
本人であることと、事情を把握していることは、どうやら別みたいだ。
「詳しい具合は?」
小二郎が、もう一度聞いた。
「詳しくは、会ってみないと分からないみたい」
「そうか」
短く言って、手元の串を皿へ置く。
少し間があってから、小二郎がふいに口を開いた。
「ほな、手紙はどこへ出したらええ?」
私は食べかけの串を止めた。
「書いてくれるの?」
「センセが書いて寄越したら、返すやろ」
私の返事を待つこともなく、小二郎は紙を引き寄せた。
今の宿の名を書き、取り次いでもらう相手を添える。
紀州の送り先については阿国へ尋ね、そのまま下へ書き足していった。
私は団子を皿へ戻し、その筆先を追った。
私はさっきまで、別れ際に何を言えばいいのかばかり考えていた。
小二郎はもう、その先の返事をどこへ届けるかを決めている。
「着いたら、私から書くね」
「おう。こっちも動くことになったら知らせる」
「行き先が決まってなかったら?」
「決まってへんって書く。分かったら、また知らせたらええやろ」
あっさりしている。
でも、その答えが妙にしっくりきた。
送り先の控えを受け取ると、小二郎は別の紙を一枚出し、こちらへ筆の柄を向けた。
「こっちも書いとこか。センセ、決めたこと残すん好きやろ」
「好きとまでは言ってないけど」
そう言いながら、筆は受け取る。
紀州へ着いたら、私から手紙を出す。
小二郎は返事をする。
送り先が変わるときは、お互いに知らせる。
そこまで書き、次の行へ筆を運びかけて止めた。
返事を何日以内に出すか。
そこまで決めれば、待つ側には分かりやすい。
でも、母の具合も、道中も、小二郎の先の予定も分からない。
今の私が安心するためだけに、守れるかも分からない期限を置くのは違う気がした。
私は白い一行を残したまま、筆を戻した。
「これでどう?」
紙を向けると、小二郎は最初から最後まで読んだ。
何も足さず、そのまま筆を受け取る。
私が書いた名前の隣へ、自分の名を書いた。
「ほな、条約その二やな」
「増えたね」
「嫌なんか」
「ううん。ちゃんとなくさないようにしないと」
小二郎は紙の端を持ち、墨が乾くのを待った。
やがて二つに折り、私へ差し出す。
送り先の控えと重ねて受け取った。
「酒の話は、書いてないけど」
「あれは覚えとる」
「何年先でも?」
紙を懐へ入れかけたまま尋ねる。
小二郎の手が止まった。
目が合う。
「センセこそ、忘れんなよ」
先に視線を外したのは、私だった。
急に紙の折り目が気になったことにして、きちんと揃えて懐へ収める。
「手紙は、ちゃんと書けよ」
「まず、無事に着いたって書くね」
「せやな。それは先に知らせて」
小二郎は道具をまとめながら答えた。
阿国も立ち上がる。
私も帯を直し、腰を上げた。
店を出て少し歩いたところで、なんとなく振り返る。
小二郎はまだ店先にいた。
こちらを追いかけてくるわけでも、手を振るわけでもない。
ただ、夕方の空の下で、少し遠くを見るように立っていた。
「一平太様、前を」
阿国に言われ、踏み外しかけた段差を避ける。
「……はい」
慌てて前を向いた。
もう一度振り返るのは、やめておいた。
◇ ◇ ◇
出立の朝は、薄く曇っていた。
私は懐へ入れるものを机の上へ並べた。
送り先の控え。
手紙を交わす約束を書いた紙。
その下に、三日後に団子屋で会うと決めた一枚が残っている。
もう、用は済んだ紙だった。
一度だけ広げる。
日付と場所。
その下に、二人の名前。
必要かどうかで言えば、もう必要はない。
私は少し迷ってから折り目を整え、ほかの二枚と一緒に重ねた。
「一平太様、参りますよ」
「今行く」
阿国に呼ばれ、三枚まとめて懐へしまう。
廊下へ出ると、見送りの人たちへ一人ずつ頭を下げ、そのまま門へ向かった。
「お忘れ物はございませんか」
私は懐の上から、紙の位置を確かめた。
「大丈夫」
母がいる。
一平太を知っている人たちもいる。
なのに、私にとっては初めて行く場所だった。
帰る、という言葉だけが、まだ少し変な感じがする。
私は阿国の隣へ並んだ。
「行こうか」
「はい」
遠くで鳴いていた蝉の声が、少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
――――Sequitur。
【今回のタイトル】
Renovatio pacti は、ラテン語で「約束の更新」「合意の更新」くらいの意味です。
一度交わした約束も、事情が変われば、そのままでは守れなくなることがあります。
そんなとき、約束そのものを捨てるのではなく、今の自分たちが守れる形へ結び直す。
今回は、そんなお話でした。
なお――
二枚目の紙も、もちろん条約ではありません。
……でも、また一つ増えました。
私たちの新しい Pactaです。
そして、最後の
――――Sequitur。
Sequitur は、ラテン語で「続く」「その先へ続く」という意味です。
約束も、物語も、ここでは終わりません。
結び直された約束は、また次の場所へ。
その先へ。
――――Sequitur。




