第二條 論面目保持之事――お礼は、ちゃんと言いました。
このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。
ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。
そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。
ですので、そのあたりは物語としてお読みください。
「会ってもいないのに、お断りするのは失礼じゃない?」
膝の上の手紙を畳みながら言うと、阿国は、今日着ていく羽織を広げたまま答えた。
「先方にも、ご都合がおありなのでしょう」
「全員に?」
「それぞれに」
そんなに都合って重なるものだろうか。
こちらでは父も母も早く婿を迎えろと言う。そのつもりで話を持っていけば、今度は向こうの都合が悪くなるという。
私一人を真ん中に置いて、どうして誰とも都合が合わないんだろう。
「せめて、どこが駄目なのか教えてくれればいいのに。直せるところなら、直すでしょう」
阿国がこちらを見た。
その顔で、今の言い方には何か足りないみたいだと分かったので、もう少し考える。
「……納得できれば」
「お取り持ちくださる方は、先方にも何度もお顔を出して、お話をしてくださっているのですよ」
「それは、ありがたいと思ってる」
「でしたら、お会いになった折には、まずそのように」
まずは、というところに妙に力があった。
別に、お礼を言わないつもりではない。
ちゃんとお礼を言って、相手の話を最後まで聞く。それからなら、こちらの事情を話すくらいは問題ないはずだ。
この前の手紙では、小二郎に人の話は最後まで聞いた方がいいと書いたばかりだ。自分でできなければ、さすがに格好がつかない。
そこまで気をつければ、今度こそ大丈夫だと思った。
少なくとも、そのときの私はそう思って、差し出された羽織へ腕を通した。
◇ ◇ ◇
その人に会ったのは、出仕して間もなくだった。
ちょうど用向きが済んだところらしく、私に気づくと足を止めた。
こんなに早く会うとは思っていなかったので少し慌てたけれど、阿国に言われたことを思い出し、まずはお礼だと、こちらから頭を下げた。
「このたびは、何かとお骨折りいただき、ありがとうございました」
「いや。しかし、一平太殿にも、もう少しお考えいただかねば」
頭を上げると、相手は困ったように息をついた。
それから、私を先方へどう紹介したのか、成瀬家についてどれだけ話したのか、その辺りから順番に話し始めた。
こちらの事情を知らない相手へ話を持っていくのだから、大変だったことは分かるし、それだけ動いてもらったのに、結局まとまらなかったのだから、申し訳ないとも思っている。
だから、きちんと聞いていたし、途中で口も挟まなかった。
ただ、話が私の日頃の振る舞いへ移った辺りから、少しずつ雲行きがおかしくなってきた。
少し変わっている。
周囲への配慮が足りない。
家のことより、自分の考えを優先する。
聞きながら否定したい気持ちはあったけれど、その辺りなら見方によってはそう見えるのかもしれない。
全部が全部、間違っているとは言い切れないのが悔しい。
それでも我慢して聞いていた。
ところが、家のことなどどうでもよいと私が放言したことになった辺りで、さすがに黙っていられなくなった。
そこまでは言っていない。
いくら何でも、それは違う。
ちょうど相手が言葉を切ったので、まだ続くのかと思って少し待ったけれど、次はなかった。
これなら最後まで聞いたことになる。
少なくとも、そのときの私はそう思った。
「お待ちください。そのようなことは申しておりません」
「そういうおつもりがなくとも、周りにはそう聞こえるのです」
「ですが、何を申し上げたかも確かめずに、そう言ったことにされましても」
相手の眉が動いた。
そこで、少しくらい嫌な予感を持てばよかったのだろう。
でも、そのときの私は、むしろ自分はちゃんと手順を守ったつもりでいた。
お礼を言って、相手の話を遮らずに聞いたのだから、今度はこちらが話す番だ。
そんなふうに考えてしまったのだ。
◇ ◇ ◇
【小二郎】
センセ。返事が遅うなったけど、その間に、断った相手へ理由を聞きに行ったりしてへんやろな。
席の話をあれだけ詳しゅう書いてきた後やから、ちょっと心配しとる。
話を持っていった人にも都合があるんやし、何もかも納得するまで問い詰めたらあかんで。
それで、前の手紙の続きや。
間に入ってもらうのと、最後まで決めてもらうのが違ういうのは分かった。
けど、双方が頼りにできる人がおるなら、初めからその人に決めてもろた方が早いんと違うか。
二人で話しても決まらんのに、間へ人だけ増やして、その人まで違うことを言い始めたら、余計に面倒になりそうや。
その辺りは、どうなんや。
◇ ◇ ◇
【成瀬】
理由を聞きに行ってはいません。
出仕した折にお会いしたので、まずお礼を申し上げましたし、相手のお話も最後まで聞きました。
少なくとも、前の手紙に書いたところまではちゃんと守りました。
その後、事実と違うところを順番に説明していたら、三浦休太郎様に止められました。
どうやら、最後まで聞いたら、その後は全部言い返していいという話ではなかったようです。
この点については、あなたの方が少しだけ先に分かっていたことを認めます。
本当に少しだけですからね。
それで、あなたの質問ですが。
双方が「この人に決めてもらおう」と決めて、その結論に従うところまで約束できるなら、あなたの言うとおり、その方が早いことはあります。
それが、前に書いた仲裁です。
ただ、そこで一つ増える話があります。
誰に決めてもらうのか。
何について決めてもらうのか。
そして、その人が出した答えに本当に従うのか。
そこまで双方で決めないと、仲裁にはなりません。
「この人なら話を聞いてくれそうだ」と思うことと、「この人が決めたことなら従います」と約束することは、同じではないのです。
たぶん、あなたが聞きたかったのは、そこですよね。
今回の三浦様は、まさにその違いが分かりやすい例でした。
三浦様は先方ともお付き合いのある方で、私たちの話がいつまでも終わらないのを見かねたようでした。
「ここはわしの顔を立ててくれ」
そう言われると、先方も、それまでの勢いでは続けにくくなりました。
私には、言い分は後で聞くから、今日はここまでにしておけ、と。
正直に言えば、そのときはまだ言いたいことがありました。
むしろ、ようやくこちらの話を始めたところだったので、もう終わりなのですか、と言いたいくらいでした。
でも、三浦様にそう言われると、不思議と続けにくくなりました。
三浦様は、私と先方のどちらが正しいとも言っていません。
私たちも、三浦様に「どちらが正しいか決めてください」と頼んだわけではありません。
だから、これは仲裁ではありません。
それでも先方は引きましたし、私も口を閉じました。
納得したわけでも、負けたと思ったわけでもありません。ただ、ここでまだ続けたら、今度は三浦様にまで迷惑をかける。
そう思った途端、さっきまで今ここで言わなければならないと思っていたことが、別に今日でなくてもいいような気がしてきました。
先方も、たぶん似たようなところだったのだと思います。
決めてもらわなくても、話をいったん止めてもらうことはできる。
逆に、最後まで決めてもらうなら、先にそこまで任せる約束がいる。
実際に自分がその中へ入ってみて、前に書いた違いが少し分かった気がしました。
決着はついていないのに、その場はいったん終わったのです。
こういう止まり方もあるのですね。
ともかく、後日、先方には改めてお礼とお詫びをして、三浦様のところにも伺いました。
そこでは謝って帰るつもりでした。
本当に、そのつもりだったのです。
ところが、三浦様の机に何枚かの書付が広げてありました。
加太の方へ来た英吉利の船に関わるものだそうで、外国語で書かれた紙と、それを日本語へ直したものが並んでいました。
用が済んだのだから、そのまま帰ればよかったのでしょう。
でも、机の上に目をやると、見覚えのある綴りがあって、そこで足が止まりました。
英語でした。
目に入った瞬間、読める、と分かって、少し大げさなくらいうれしくなりました。
こちらへ来てから、崩し字にはずっと苦労しています。
知っている字を探して、前後から意味を考えて、それでも分からなければ阿国や周りの人に聞く。それが普通になっていたので、文章を見ただけで意味がそのまま頭へ入ってくる感覚を、いつの間にか忘れていました。
英語そのものが簡単なのではありません。
ただ、読める文字を前にするだけで、こんなに気持ちが楽になるのだな、と思いました。
それで、つい日本語の方にも目を通しました。
たぶん、この「つい」がよくなかったんだろうなと思います。
大体は合っていたのですが、一か所だけ、意味が変わっていました。
ある条件を満たした場合に認める、と書いてあるのに、その条件が抜けていて、最初から無条件で認めたようになっていたのです。
そこまで違っているものを見てしまうと、見なかったことにして帰るのも落ち着きません。
かなり迷った、と書ければ少し格好がつくのですが、実際にはあまり迷いませんでした。
「三浦様、そこ、訳が違います」
三浦様が顔を上げ、その顔を見た時――――
――――やっちゃった。
そう思いました。
さっきまで人との話し方について反省していたはずなのに、今度は人の仕事へ口を出している。
どうして私は、気をつけようと思ったことを、その日のうちに別の形でやるのでしょう。
「読めるのか。英吉利の言葉を?」
「はい」
「なら、どこが違う」
怒られるかと思っていたので、普通に聞き返されて少し驚きました。
示したところから条件が始まって、ここまでが一つの文です、と説明しました。そこを外してしまうと、相手が認めた範囲そのものが変わってしまいます。
私がそこまで話したところで、三浦様の指が別の箇所へ動きました。
「なら、ここは」
「前の文を受けています。ただ、その後に例外があります」
「こっちは」
「別です。こちらは相手側の義務です」
話しているうちに、さっきまで謝りに来ていたことを少し忘れていました。
三浦様は日本語の方へ目を移し、それから、また英語の紙へ戻りました。
そこまでなら、まだよかったのです。
すると、机の端から別の紙が出てきました。
「これは」
受け取って目を通すと、今度は英語ではありませんでした。
「……仏蘭西語ですね」
三浦様が私を見ました。
「これも読めるのか」
「はい」
聞かれたので、答えました。
別に、自分から仕事を増やしたつもりはありませんが、今思えば、あそこで「少しだけです」とでも言っておけばよかったのかもしれません。
そのあと、紙が順調に増えていきました。
英語のものを一枚見終えると次が出てきて、フランス語のものについて大まかな内容を話せば、また別の書付が置かれます。
でも、不思議と嫌ではありませんでした。
むしろ、次の紙が出てくるたびに、今度は何だろうと思っていました。
全部を訳してほしいわけではなく、何を認めているのか、どこから条件が付いているのか、相手が何を求めているのかを、まず見てほしいとのことでした。
そういう読み方なら、できます。
少なくとも、こちらの崩し字よりはずっと気が楽です。
帰る頃には、何枚かの紙を預かっていました。
持ち帰ってよいかは確かめましたし、誰に見せてはいけないかも聞いてあります。この手紙にも、詳しい中身は書きません。
帰り道では、預かった紙が何度も気になりました。
なくしていないか心配だった、という意味でもありますが、それだけではありません。
最初に出仕した日は何も読めず、昨日までの自分ができていたことさえ分からなくて、周りには教えてもらうばかりでした。
ところがその日は、「何も分からないのか」ではなく、「これも分かるか」と聞かれました。
前の私が覚えていたことを、初めてそのまま仕事として渡せた気がしたのです。
言葉にすればほんの少しの違いですが、私にはずいぶん大きく感じました。
まだ何枚か読んだだけで、仕事だって終わっていません。それでも、自分の知っていることがちゃんと使えたのが、うれしかったのです。
帰ってから阿国に話したら、よかったですね、と言ってくれました。
それで、英語の紙が読めたところから話し始め、フランス語の紙まで増えた辺りまで話したところで、
「そこは、もう二度伺いました」
と言われました。
どうやら私は二度とも最初から話していたらしいのですが、まったく気づいていませんでした。
三度目へ入る前に教えてもらえてよかったと思います。
あなたにも知らせたくなりました。
今、預かった紙を机に置いて、この手紙を書いています。
先に仕事をしろと思うかもしれませんが、一通りは読みましたから、そこは大丈夫です。
明日もう一度確かめて、きちんとまとめます。
たぶん、今夜もう一度くらい見ると思いますが。
今日は、読めるものが机にあるのが、うれしいのです。
◇ ◇ ◇
【小二郎】
センセ。
やっぱり俺よりひどいやろ。
最後まで聞いたあと、違うところを一つずつ全部説明したんやな。そこまでは言うてへん。
三浦様には、ようお礼を言うとけ。
ちゃんと言ったと返してきそうやけど、今度は預かった仕事を仕上げて返すところまでやで。
その紙を机に置いたまま俺への手紙を書いとる時点で、少し怪しいけどな。
それでも、読めたんやな。
そっちでちゃんと役に立ったなら、よかったわ。
阿国に同じ話を二度したいうのも分かる気がするし、この手紙も、その辺りから字が走っとる。
三浦様とは随分話が早かったみたいやな。
説明しとる途中で次を聞かれて、センセもそのまま次を答えとる。
俺と話すときも大体そんな感じやけど、三浦様みたいに次の紙を出してくれる相手ばっかりやないんやから、ほかでは少しくらい待った方がええと思う。
俺もそうする。
それで、前の話や。
三浦様が何も決めてへんのに、二人とも引いたいうのは分かった。
顔を立てるいうのは、思ってたより大事なんかもしれんな。
三浦様に収めてもろたあとで、センセがまた先方へ行って同じ話を始めたら、今度は先方だけやなく、三浦様との話までおかしくなる。
先方が蒸し返しても同じやろ。
国同士でも、間に入ってくれた国との付き合いがあるなら、似たことはあるんと違うか。
命令されたから従うんやなくて、そこまでしてくれた相手を無視できんから、その話を守る。
そういうことなら、誰に間へ入ってもらうかは、かなり大事やな。
全部納得せんでも話を止められるいうのも、今回の話で何となく分かった。
ただ、それでも誰も引かんかったらどうなるんかは気になる。
間に入った相手の顔まで潰して、それでも譲らんのやったら、最後は戦になるんか。
これは、預かった仕事をちゃんと仕上げてから答えてくれたらええ。
俺からも、一つ知らせることがある。
父と兄が、この六月にお許しを受けた。
藩へ戻れることになったんや。
父は和歌山へ戻った。兄はまだ入郷におるけど、まずは二人とも許された。
長かったわ。
これで何もかも元どおりになるわけではないと思う。
せやけど、帰ってええと言われたことは、やっぱり違う。
センセの前の手紙に、家の人が喜んでくれたと書いてあったやろ。
あれを、もう一度読み返した。
こっちにも、ええ知らせがあった。
◇ ◇ ◇
そこまで書いて、俺は筆を置いた。
父が和歌山へ戻ったのなら、俺も国へ戻ることがあるかもしれん。
そうなれば、センセの顔を見に行ってもええやろう。
今のセンセなら、三浦様のところで何があったのか、止めんかったら半日くらい喋るかもしれん。
手紙でもこれだけ書いとるんやから、顔を合わせたらもっと長いやろう。団子でも持っていけば、少しは口も休まるはずや。
阿国に聞けば、手紙には書いてこない失敗も二つ三つ出てきそうやった。
それも少し聞いてみたい。
紙の端には、まだ余白が残っていた。
帰れたら顔を出す。
そう書こうとして、筆を止める。
父が帰れたことと、俺がいつ帰るのかは別の話や。まだ決まってもおらんことを先に書いて、センセに待たせるのも違う気がした。
結局、その一文は書かないまま、余白だけを残した。
そのうち会えるやろう。
その頃には、英吉利と仏蘭西だけやなく、また何か余計なことまでできると三浦様に知られているかもしれん。
今度は何をやらかしているのか。
それを少し楽しみにしながら、俺は手紙を畳んだ。
今回は、紛争解決手段としての仲裁と、その前段階にある第三者の関与、それから「顔を立てる」ということが、紛争を収めるうえでどんな意味を持つのかを、成瀬と小二郎のやり取りに混ぜています。
この辺りのお話は、また詳しく補講でお会いしましょう。




