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第8話 君に贈る、小さな青い花

二〇二七年、十一月三日。


 水曜日。文化の日。


 午前九時二十一分。


 俺は、机の引き出しを三度目に開けた。


 中には、一通の手紙と、小さなメモ。


 そして、淡いクリーム色の封筒がある。


 封筒の中身は、透明な栞だった。


 小さな青い花が、樹脂の中に閉じ込められている。


 十月最後の日曜日。


 中之島の近くにある古本屋で、偶然見つけたものだ。


 みくが喜びそうだと思って買った。


 ただ、それだけ。


 ……それだけのはずなのに。


「……何で、こんなに緊張するんだよ」


 俺は封筒を取り出し、机の上に置いた。


 今日は、みくと会う約束をしている。


 先日、俺から誘った。


 彼女は、迷うことなく返事をくれた。


『行く!』


 たった二文字。


 それが、どれほど嬉しかったか。


 本人は、きっと知らない。


 俺は封筒を上着の内ポケットにしまった。


 忘れ物はない。


 財布も、スマートフォンもある。


 待ち合わせの場所も確認した。


 それなのに、落ち着かない。


 ……参ったな。


 今日は、雨も降っていないのに。


     *


 午前十一時四十八分。


 待ち合わせ場所は、淀屋橋駅の近くだった。


 空はよく晴れている。


 風は少し冷たい。


 街路樹の葉は、黄色や赤に色づき始めていた。


 俺は時計を確認した。


 約束の時間まで、あと十二分。


 早く来すぎた。


 ……いや。


 会いたかったんだから、仕方ないだろ。


 そう自分に言い訳していると、背後から声がした。


「朔夜!」


 振り返る。


 みくが、小さく手を振りながら歩いてきた。


 柔らかな色のカーディガン。


 肩にかけた小さなバッグ。


 少しだけ弾む足取り。


 それだけで、俺の胸の奥が温かくなった。


「おはよう!」


「……もう昼だぞ」


「じゃあ、こんにちは!」


「最初からそう言えよ」


 みくは笑った。


 俺も、つられて笑ってしまう。


 ……ああ。


 会いたかった。


 言葉にする前に、そう思った。


「朔夜、待った?」


「いや。今来たところだ」


「本当?」


「……少し前だ」


「ふふ。ありがとう」


 彼女は、嬉しそうに俺の隣へ並んだ。


 昨日まで、画面越しにやり取りしていた人が。


 今、こうして隣にいる。


 それだけで、今日はもう十分にいい日だった。


     *


 午後零時二十七分。


 昼食を終え、二人で川沿いを歩いた。


 今日は雨が降っていない。


 傘も必要ない。


 けれど、歩く距離は、あの日とほとんど変わらなかった。


「ねえ、朔夜」


「ん?」


「今日、何かいいことあった?」


「……何でだよ」


「なんか、嬉しそうだから」


 俺は、思わず彼女を見た。


「そんな顔してるか?」


「うん。ちょっとだけ」


「……気のせいだろ」


「そうかなあ」


 みくは首をかしげる。


 俺は前を向いた。


 ……鋭いな。


 嬉しいに決まっている。


 お前に会えたんだから。


 けれど、そんなことを正面から言えるほど、俺はまだ器用じゃなかった。


 しばらく歩いたところで、俺は足を止めた。


「……みく」


「なあに?」


「渡したいものがある」


 彼女が目を丸くした。


「えっ?」


 俺は上着の内ポケットから、封筒を取り出した。


「……これ」


「私に?」


「ああ」


「何だろう?」


「開けてみろよ」


 みくは両手で封筒を受け取った。


 そして、そっと中身を取り出す。


 透明な栞。


 その中で、小さな青い花が光を受けて輝いた。


「……わあ」


 みくの声が、小さく弾んだ。


「綺麗……!」


 彼女は栞を空にかざした。


 透き通った樹脂の向こうに、青空が見える。


 小さな花が、光の中に浮かんでいるようだった。


「朔夜、これ……!」


「……たまたま見つけただけだ」


「どこで?」


「この前、一人で歩いてたとき。古本屋で」


「えっ、あの日?」


「ああ」


「中之島に行った日?」


「そうだ」


 みくは、もう一度栞を見つめた。


 そして、俺に尋ねた。


「ねえ、朔夜。どうして青いお花なの?」


「……どうしてって」


 俺は、少し考えた。


 花の名前は知らない。


 何か特別な意味があるのかも分からない。


 ただ、あの店で見つけた瞬間。


 彼女の笑顔が浮かんだ。


「……お前が好きそうだと思ったから」


 そう答えると、みくは黙った。


 ……あれ。


 何か、おかしなことを言ったか?


「……みく?」


「私のこと、考えて選んでくれたの?」


「……悪いかよ」


 みくは、首を横に振った。


「ううん」


 そして。


 花が咲くみたいに、笑った。


「すごく嬉しい」


 俺は、言葉を失った。


 栞を渡したのは、俺なのに。


 喜ばせたかったのも、俺なのに。


 どうして、俺のほうがこんなに嬉しいんだろう。


「……そっか」


 やっと、それだけ言った。


 みくは栞を大切そうに封筒へ戻した。


「これ、宝物にするね」


 ……宝物。


 あの小さな古本屋で見つけた、何でもない栞が。


 彼女にとって、そんなものになるのか。


 俺は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


     *


 午後二時十六分。


 俺たちは、小さな雑貨店に立ち寄った。


 店内には、便箋やカード、色とりどりの封筒が並んでいる。


「朔夜、ちょっと待ってて!」


「……何だよ、急に」


「いいから!」


 みくは、文房具の棚へ小走りに向かった。


 俺は店の入り口近くで待った。


 しばらくすると、彼女が小さな紙袋を持って戻ってきた。


「買い物、終わったのか?」


「うん!」


「何買ったんだ?」


「内緒!」


「……何でだよ」


「あとで分かるから!」


 みくは、いたずらっぽく笑った。


 ……何を企んでるんだ、あいつ。


 そう思いながらも、俺はそれ以上聞かなかった。


     *


 午後二時四十二分。


 俺たちは、近くの喫茶店に入った。


 窓際の席。


 俺はブラックコーヒー。


 みくは、温かいミルクティーを注文した。


 運ばれてきたカップを前に、彼女はバッグから先ほどの紙袋を取り出した。


「朔夜」


「ん?」


「ちょっとだけ、こっち見ないでね」


「……は?」


「お願い!」


 俺は、彼女を見た。


 みくは真剣な顔で、小さなカードとペンを取り出している。


「……何するんだよ」


「内緒!」


「またそれか」


「完成するまで見ちゃダメ!」


「……分かったよ」


 俺は苦笑して、窓の外へ顔を向けた。


 ガラスの向こうを、人々が行き交っている。


 自転車が通り過ぎる。


 街路樹の葉が、風に揺れる。


 背後ではなく、向かいの席から。


 さらさらと、ペンの音が聞こえた。


 俺は、少しだけ視線を戻しかけた。


「朔夜!」


「……何だよ」


「見ちゃダメ!」


「まだ見てねぇだろ」


「今、見ようとした!」


「……気のせいだ」


「ふふっ」


 彼女が笑う。


 俺も、つられて笑った。


 ……何なんだ、この時間。


 何をしているのか分からない。


 何を書いているのかも分からない。


 それなのに。


 こうして彼女を待っているだけで、楽しかった。


 やがて、ペンの音が止まった。


「……よし!」


「終わったのか?」


「うん。でも、まだ!」


「まだあるのかよ」


「最後の仕上げ!」


 紙が擦れる音。


 何かを折り畳む音。


 そして、小さな笑い声。


「……できた!」


 みくが言った。


「もう見ていいよ!」


 俺は、彼女へ顔を向けた。


 みくは、両手で小さな封筒を持っていた。


 淡いクリーム色。


 俺が栞を入れて渡した封筒と、少し似ている。


「はい!」


「……何だ?」


「私からもプレゼント!」


 俺は、思わず瞬きをした。


「……俺に?」


「うん。朔夜に!」


 彼女は、封筒を差し出した。


 俺も手を伸ばす。


 そのとき。


 指先が、ほんの少し触れた。


 あの日。


 雨の中で、一本の傘を持ったときと同じように。


 けれど、今日は晴れている。


 傘もない。


 ただ、彼女が俺に何かを渡そうとして。


 俺が、それを受け取ろうとした。


 それだけだった。


 なのに。


 二人とも、一瞬だけ黙ってしまった。


 みくが、先に笑った。


「……開けてみて?」


「……ああ」


 俺は封筒を開いた。


 中には、小さなカードが入っていた。


 白い紙。


 端には、淡い青色の模様。


 そして。


 手書きの文字。


『朔夜へ。


 今日も一緒にいてくれてありがとう。


 みくより』


 俺は、その文字を見つめた。


 少し右上がり。


 一文字ずつ、丁寧に書かれている。


 最後の「みくより」だけ、少し小さかった。


「……これ」


 声が、うまく出なかった。


 みくは、少し照れくさそうに笑った。


「栞のお礼!」


「……お礼って」


「だって、すごく嬉しかったんだもん」


 彼女は、カップを両手で包んだ。


「私のこと考えて選んでくれたのが、嬉しくて」


 俺は、もう一度カードを見た。


「だから、私も何か渡したくなったの」


「……そうか」


「急いで書いたから、字がちょっと変かもしれないけど」


「……そんなことねぇよ」


 俺は、カードをそっと持ち直した。


 少し右上がりの文字。


 最後だけ、小さくなる名前。


 綺麗に揃っているわけじゃない。


 けれど。


 ……こいつの字、好きだな。


 そう思った。


「……ありがとな」


 俺が言うと、みくは嬉しそうに笑った。


「どういたしまして!」


 俺は、カードを封筒に戻した。


 折れないように。


 汚れないように。


 大切に、上着の内ポケットへしまった。


 彼女がそれを見て、また笑った。


「朔夜、大事にしてくれるの?」


「……当たり前だろ」


 答えたあとで、自分でも少し驚いた。


 何も考えずに出た言葉だった。


 みくは、ほんの少し頬を赤くした。


「……嬉しい」


 その顔を見て。


 俺は、また一つ知った。


 誰かを喜ばせることも。


 誰かに喜ばせてもらうことも。


 こんなに、幸せなことなんだな。


     *


 午後五時二十三分。


 夕暮れの街を、二人で歩いた。


 十一月の風は、少し冷たかった。


 空は、淡い橙色に染まっている。


 みくは、栞の入った封筒をバッグから取り出しては、何度も眺めていた。


「……そんなに見るものか?」


「見るよ!」


「ただの栞だぞ」


「ただの栞じゃないもん」


 彼女は、俺を見上げた。


「朔夜が選んでくれた栞だもん」


 ……本当に。


 どうして、そんなことを真っ直ぐ言えるんだ。


 俺は、返事に困って前を向いた。


 みくは楽しそうに笑っている。


 やがて、駅が見えてきた。


 今日の終わりが、近づいている。


 さっきまで、あんなに楽しかったのに。


 急に、時間が早く流れている気がした。


「……もう、こんな時間か」


 俺が呟くと、みくも時計を見た。


「ほんとだね」


「……気をつけて帰れよ」


「うん。朔夜もね」


 それだけ言って、別れるはずだった。


 けれど。


 俺は、なかなか足を動かせなかった。


 みくも、すぐには歩き出さなかった。


 駅の入り口を、人々が通り過ぎていく。


 俺たちは、その少し手前で立ち止まっていた。


「……みく」


「なあに?」


 俺は、少しだけ迷った。


 会いたい。


 また、すぐに。


 そんな言葉が、喉の奥まで出かかった。


 けれど、まだ上手く言えなかった。


 だから。


「……また、会おうな」


 そう言った。


 みくは、一瞬だけ目を丸くした。


 そして。


 今日、一番嬉しそうに笑った。


「うん! 約束!」


 俺は、小さく頷いた。


「ああ。約束だ」


 みくは、何度か振り返りながら駅へ向かった。


 最後にもう一度、手を振る。


 俺も、手を上げた。


 彼女の姿が見えなくなるまで。


 その場に立っていた。


     *


 午後七時十一分。


 部屋に戻った。


 上着を脱ぎ、鞄を置く。


 いつもと同じ部屋。


 いつもと同じ机。


 いつもと同じ静けさ。


 けれど。


 今日は、帰ってくるのが少し楽しみだった。


 俺は、上着の内ポケットから封筒を取り出した。


 みくがくれた、小さなカード。


 折れていない。


 汚れてもいない。


 俺は、それを机の上に置いた。


 そして、引き出しを開けた。


 中には、最初の手紙がある。


 雨の日に、みくと出会ったことを書いた手紙。


 その隣には、オムライスを作った日の小さなメモ。


『みくは、ふわふわの卵が好き。』


『ケチャップの花を見て、笑った。』


 俺は、思わず笑った。


 あの日、ケチャップで描いた花は、少し曲がっていた。


 それでも、みくは嬉しそうに笑ってくれた。


 今日、渡した青い花は、もっと小さかった。


 けれど、彼女はそれを宝物だと言った。


 ……不思議だな。


 俺が渡したものは、彼女のところへ。


 彼女がくれたものは、俺のところへ。


 同じ場所にはない。


 けれど。


 きっと、どちらも大切にされている。


 俺は、カードをもう一度取り出した。


 少し右上がりの文字。


 最後だけ、小さくなる名前。


『朔夜へ。


 今日も一緒にいてくれてありがとう。


 みくより』


 ……こいつの字、好きだな。


 昼間と同じことを、また思った。


 俺は、カードを封筒に戻した。


 そして、最初の手紙とメモの隣へ、そっと置いた。


 引き出しを閉める前に、もう一度だけ中を見た。


 ほんの少しずつ。


 俺の部屋に、彼女との思い出が増えている。


 それは、高価なものでも。


 誰かに自慢できるようなものでもない。


 けれど。


 俺にとっては、何より大切なものだった。


 俺は、静かに引き出しを閉めた。


 窓の外には、十一月の夜が広がっている。


 彼女は今頃、何をしているだろう。


 あの青い栞を、どこに置いただろう。


 そんなことを考えるだけで、自然と笑みがこぼれた。


 また、会える。


 次に会ったとき、どんな話をしよう。


 どこへ行こう。


 何を食べよう。


 そんな未来を考えることが、今は楽しかった。


 俺の引き出しには、また一つ、帰りたくなる理由が増えた。


 ――第8話 終――

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