第9話 君の好きなものを、もっと知りたい
二〇二七年、十一月六日。
土曜日。
午前十時三十八分。
俺は、スマートフォンの画面を見つめていた。
『朔夜、今日って暇?』
みくから届いたメッセージ。
たったそれだけで、朝から少し落ち着かなくなっている自分がいた。
『特に予定はない』
そう返すと、すぐに既読がついた。
『じゃあ、一緒に本屋さん行かない?』
本屋。
そういえば、あいつは本を読むのが好きだったな。
先日渡した栞も、嬉しそうに受け取ってくれた。
『いいぞ』
『やった!』
画面に浮かんだ短い言葉を見て、俺は笑った。
……本当に、分かりやすい奴だ。
いや。
分かりやすいと思っているのは、俺だけかもしれない。
まだ、知らないことのほうが多い。
好きな食べ物。
好きな本。
苦手なもの。
嬉しいときの癖。
悲しいときに、どんな顔をするのか。
俺は、みくのことをどれだけ知っているんだろう。
そう考えると、急に今日が楽しみになった。
*
午後零時十三分。
待ち合わせ場所は、梅田の駅近くだった。
土曜日の街は、人で賑わっている。
改札から出てくる人。
買い物袋を持った人。
楽しそうに話す恋人たち。
俺は、柱のそばでみくを待っていた。
やがて、人混みの向こうから聞き慣れた声がした。
「朔夜!」
振り返ると、みくが手を振っていた。
「お待たせ!」
「……いや、俺も今来た」
「ほんと?」
「……少し前だ」
「またそれ!」
みくが笑った。
俺も、思わず笑ってしまう。
……また、見抜かれた。
「今日は本屋さん付き合ってくれてありがとう!」
「別に。俺も本は嫌いじゃねぇし」
「じゃあ、いっぱい見ようね!」
「ああ」
彼女は嬉しそうに歩き出した。
俺は、その隣に並んだ。
十一月の風は、少し冷たい。
けれど。
隣に彼女がいるだけで、寒さが気にならなかった。
*
午後零時三十九分。
俺たちは、大きな書店に入った。
店内には、紙とインクの匂いが漂っている。
棚には、色とりどりの本が並んでいた。
小説。
料理本。
旅行雑誌。
写真集。
みくは、目を輝かせながら棚を見て回っている。
「朔夜、見て!」
「ん?」
「この表紙、すごく綺麗!」
彼女が手に取ったのは、夜空を描いた小説だった。
深い青色。
小さな星。
その中に、一輪の白い花が描かれている。
「……綺麗だな」
「でしょ!」
みくは嬉しそうに笑った。
……ああ。
こういうものが好きなのか。
青い色。
小さな花。
綺麗な景色。
そういえば、あの栞も。
彼女は、あんなふうに笑っていた。
「……なあ、みく」
「なあに?」
「お前、こういう本が好きなのか?」
「うん。表紙が綺麗なのも好きだけど、お話が優しい本が好きかな」
「優しい本?」
「読んだあと、誰かに会いたくなるようなお話」
俺は、彼女を見た。
みくは本の表紙を指でそっと撫でた。
「悲しいことがあっても、最後には少しだけ温かくなれるお話が好き」
「……そうか」
俺は、その言葉を心の中で繰り返した。
誰かに会いたくなる物語。
……あいつらしいな。
「朔夜は?」
「俺?」
「どんな本が好き?」
少し考えた。
「……静かな話、かな」
「静かな話?」
「ああ。大きな事件が起きなくても、何かが少しずつ変わっていくような」
みくは、嬉しそうに頷いた。
「それ、私も好き!」
「……そうなのか」
「うん! 何でもない毎日が、ちょっとずつ特別になっていく感じ!」
俺は、思わず黙った。
……それって。
今の俺たちみたいじゃないか。
そんなことを考えてしまった。
*
午後一時二十二分。
みくは、文庫本を一冊買った。
表紙には、淡い水色の空が描かれている。
「……それにしたのか」
「うん!」
「さっきの夜空の本じゃなくて?」
「こっちも気になっちゃって」
みくは、少し照れくさそうに笑った。
「でも、今日は一冊だけにする」
「……そうか」
俺は、彼女の持つ紙袋を見た。
中には、一冊の本。
そして、きっと。
あの青い栞が挟まれるんだろう。
「……なあ」
「ん?」
「この前の栞、使ってるか?」
聞いた瞬間、少し恥ずかしくなった。
わざわざ確認することじゃないだろ。
けれど、みくは嬉しそうに笑った。
「もちろん!」
彼女はバッグから、小さな文庫本を取り出した。
ページの間から、透明な栞が覗いている。
小さな青い花。
俺が、あの日選んだもの。
「ほら!」
「……本当に使ってるんだな」
「当たり前だよ!」
みくは、栞をそっと指で押さえた。
「朔夜がくれたんだもん」
……また、それだ。
何でもない言葉みたいに、そんなことを言う。
俺は、少しだけ顔をそらした。
「……そっか」
それ以上、何も言えなかった。
けれど。
嬉しかった。
どうしようもなく。
*
午後二時七分。
書店を出たあと、俺たちは近くの喫茶店に入った。
窓際の席。
俺はブラックコーヒー。
みくは、温かいミルクティー。
いつもの組み合わせだった。
「朔夜って、本当にブラックコーヒー好きだよね」
「……そうか?」
「うん。いつも飲んでる!」
「まあ、落ち着くからな」
「苦くない?」
「苦いぞ」
「えー!」
みくは笑った。
「苦いのに好きなの?」
「苦いから、いいんだよ」
「大人だなあ」
「……お前も大人だろ」
「そうだけど!」
二人で笑った。
窓の外では、人々が行き交っている。
店内には、穏やかな音楽が流れていた。
みくはミルクティーを一口飲み、幸せそうに息を吐いた。
「……あったかい」
俺は、その顔を見つめた。
温かい飲み物を飲むとき。
あいつは、少し目を細める。
嬉しいときは、声が少し高くなる。
綺麗なものを見つけると、誰かに見せたくなる。
……こんな小さなこと。
今まで、気にしたこともなかった。
なのに。
今は、知るたびに嬉しくなる。
「ねえ、朔夜」
「ん?」
「朔夜の好きなものって、何?」
「……好きなもの?」
「うん! もっと知りたい!」
俺は、少し考えた。
「ブラックコーヒー」
「それは知ってる!」
「静かな場所」
「うんうん」
「雨の降らない日」
みくは、くすっと笑った。
「朔夜、雨嫌いだもんね」
「……ああ」
そう答えてから、ふと思った。
雨は嫌いだ。
濡れるし、冷たいし、面倒だから。
けれど。
あの日の雨だけは、嫌いじゃなかった。
みくと一本の傘に入った日。
彼女が、自分から俺の隣へ戻ってきてくれた日。
……あれは、特別だった。
「他には?」
みくが尋ねる。
「……他?」
「うん!」
俺は、考え込んだ。
好きなもの。
好きな場所。
好きな時間。
最近、少しずつ増えている気がする。
彼女と歩く川沿い。
彼女と飲むコーヒー。
彼女の笑い声。
彼女が俺の名前を呼ぶ声。
……待て。
それじゃ、全部。
「じゃあさ」
みくが、少しだけ身を乗り出した。
「好きな人は?」
その瞬間。
時間が、止まった気がした。
*
午後二時三十一分。
店内の音楽が、遠くなった。
窓の外を歩く人たちも。
隣の席から聞こえる話し声も。
全部、急に遠く感じた。
好きな人。
……好きな、人。
俺は、みくを見た。
彼女は、いつもと同じように笑っている。
けれど。
ミルクティーのカップを持つ指先に、少し力が入っていた。
……あれ。
もしかして。
あいつも、緊張してるのか?
「……それは」
声が出た。
たった四文字。
それだけなのに、ひどく長い時間がかかった気がした。
みくは、俺を見つめている。
俺も、目をそらせなかった。
答えなきゃ。
そう思った。
けれど。
何を答えればいいのか、分からなかった。
いや。
分からないわけじゃない。
ただ。
その言葉を口にしたら。
今までと同じようには、戻れない気がした。
そんなとき。
みくが、ふっと笑った。
「なーんてね! 冗談だよ!」
彼女は、ミルクティーを一口飲んだ。
「びっくりした?」
「……ああ」
「ふふっ。ごめんね!」
みくは笑っていた。
けれど。
その笑顔は、いつもより少しだけぎこちなかった。
俺は、何も言えなかった。
テーブルの上で、誰かのスプーンが小さく鳴った。
かちゃん。
いつもなら、気にも留めない音。
それが、妙にはっきり聞こえた。
俺は、冷めかけたコーヒーを口に運んだ。
苦い。
いつもと同じ味のはずなのに。
今日は、少し違って感じられた。
*
午後四時五十八分。
駅までの道を、二人で歩いた。
みくは、いつもどおり話していた。
今日買った本のこと。
次に行きたい場所のこと。
街で見かけた小さな雑貨のこと。
俺も、いつもどおり返事をした。
けれど。
あの質問だけが、頭から離れなかった。
『好きな人は?』
あいつは、どういうつもりで聞いたんだろう。
本当に、ただの冗談だったのか。
それとも。
……いや。
勝手に期待するな。
俺は、自分に言い聞かせた。
「朔夜?」
「……ん?」
「どうしたの?」
「いや。何でもねぇよ」
「ほんと?」
「ああ」
みくは、少しだけ俺を見つめた。
そして、笑った。
「また一緒に本屋さん行こうね」
「……ああ」
「約束!」
「分かったよ」
俺は、彼女の笑顔を見た。
……ああ。
この時間が、好きだ。
こんなふうに、何でもない話をして。
一緒に歩いて。
また会う約束をする。
そんな毎日が。
いつの間にか、俺にとって大切なものになっていた。
*
午後七時四十三分。
部屋に戻った。
上着を脱ぎ、机の前に座る。
引き出しを開けると、みくがくれたカードが目に入った。
『朔夜へ。
今日も一緒にいてくれてありがとう。
みくより』
俺は、しばらくその文字を見つめた。
少し右上がりの文字。
最後だけ、小さくなる名前。
……こいつの字、やっぱり好きだな。
そう思ってから、引き出しを閉めた。
今日、知ったことを思い返す。
みくは、優しい物語が好き。
綺麗な表紙を見ると、嬉しそうに笑う。
温かいミルクティーを飲むと、少し目を細める。
新しい本を買うときは、真剣に悩む。
俺が渡した栞を、大切に使ってくれている。
……知らなかったことが、こんなにあった。
それを知れたことが、嬉しかった。
けれど。
最後に聞かれた質問だけは、どうしても消えなかった。
『好きな人は?』
俺は、椅子の背にもたれた。
天井を見上げる。
……何で、答えられなかったんだろうな。
好きな人がいないなら。
いないと言えばよかった。
いるなら。
いると言えばよかった。
それだけのことなのに。
俺は、何も言えなかった。
*
午後九時十二分。
スマートフォンが震えた。
みくからだった。
『今日はありがとう!』
俺は、すぐに返事を打った。
『こちらこそ』
少しして、もう一通届いた。
『あと、変なこと聞いちゃってごめんね』
俺は、画面を見つめた。
……やっぱり、気にしてたのか。
あのとき。
カップを持つ指に、少し力が入っていたこと。
笑顔が、少しぎこちなかったこと。
全部、思い出した。
俺は、文字を打った。
『気にするな』
そこまで書いて、止めた。
……違うな。
それじゃ、何かを誤魔化しているみたいだ。
俺は、一度消した。
そして。
『別に、嫌じゃなかった』
送信した。
画面に、自分の言葉が残った。
……待て。
これじゃ、まるで。
俺は、スマートフォンを伏せた。
何を送ってるんだ、俺は。
嫌じゃなかった。
それは、本当だ。
むしろ。
聞かれたことが、少し嬉しかった。
……嬉しかった?
俺は、そこで考えるのをやめた。
やめようとした。
けれど。
スマートフォンが、もう一度震えた。
『そっか。よかった』
たった、それだけ。
俺は、画面を見つめた。
何度も。
何度も。
短い言葉を読み返した。
そして。
ようやく、少しだけ分かった気がした。
俺が、あの質問に答えられなかった理由。
好きな人がいないからじゃない。
答えが分からないからでもない。
ただ。
その答えを口にした瞬間。
今の関係が、変わってしまう気がしたんだ。
今までみたいに笑って。
何でもない話をして。
また会う約束をして。
そんな時間が、壊れてしまうかもしれない。
それが、怖かった。
俺は、スマートフォンを胸の上に置いた。
窓の外は、静かな夜だった。
今日、俺は。
みくの好きなものを、少しだけ知った。
そして。
自分のことも、少しだけ知った。
けれど。
まだ、言葉にできない答えがある。
俺は、目を閉じた。
彼女の笑顔が浮かんだ。
ミルクティーのカップを持つ指。
少しぎこちない笑顔。
そして。
『好きな人は?』
あの声。
……なあ、みく。
もし、あのとき。
俺が、ちゃんと答えていたら。
お前は、どんな顔をしたんだろうな。
――第9話 終――




