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第10話 君を好きだと、認めた日

二〇二七年、十一月七日。


 日曜日。


 午前八時十二分。


 目が覚めて、最初に思い出したのは、昨日のことだった。


『じゃあ、好きな人は?』


 みくの声。


 少しだけ身を乗り出して、俺を見つめていた顔。


 そして。


『なーんてね! 冗談だよ!』


 そう言って笑った、あいつの表情。


「……朝から、何考えてんだよ」


 誰もいない部屋で呟いた。


 窓の外には、薄い雲が広がっていた。


 雨は降っていない。


 いつもなら、それだけで悪くない朝だと思う。


 けれど、今日は。


 晴れているかどうかより、気になっていることがあった。


 枕元のスマートフォンに手を伸ばす。


 昨夜のメッセージが、まだ画面に残っていた。


『別に、嫌じゃなかった』


『そっか。よかった』


 俺は、二つの言葉を見つめた。


 ……何が、よかったんだろうな。


 俺が嫌じゃなかったことか。


 それとも。


 あの質問をしたことを、後悔しなくて済んだからか。


 考えても、答えは出なかった。


 ただ一つ、分かることがある。


 昨日からずっと。


 俺は、みくのことを考えている。


     *


 午前九時四十六分。


 キッチンに立ち、コーヒーを淹れた。


 豆の香りが、静かな部屋に広がっていく。


 いつものカップ。


 いつものブラックコーヒー。


 一口飲む。


 苦い。


『苦いのに好きなの?』


 昨日のみくの声が、頭の中で響いた。


「……苦いから、いいんだよ」


 思わず、同じ返事を口にした。


 当然、返事はない。


 それなのに。


 俺は、少し笑ってしまった。


 ……何やってんだ、俺。


 たった一日前の会話を、こんなにはっきり覚えている。


 ミルクティーのカップを両手で包む姿。


 温かい飲み物を口にして、目を細める仕草。


 嬉しいときに、少しだけ高くなる声。


 どれも、今すぐ思い出せる。


 俺はカップを置いた。


 みくと出会う前も、俺はこうしてコーヒーを飲んでいた。


 同じ部屋で。


 同じ朝を迎えて。


 同じように、一日を始めていた。


 それなのに。


 今は、何かが違う。


 ……いや。


 違うのは、部屋じゃない。


 コーヒーでもない。


 俺自身だ。


     *


 午前十一時二十八分。


 少し外を歩くことにした。


 家にいても、昨日のことばかり考えてしまう。


 だったら、外の空気でも吸えば気が紛れるだろう。


 そう思った。


 ……甘かった。


 街路樹の葉は、少しずつ色を変え始めていた。


 風が吹くたび、乾いた葉が歩道を転がっていく。


 角を曲がると、小さな花屋があった。


 店先には、色とりどりの花が並んでいる。


 その中に、青い小さな花が見えた。


 俺は、思わず足を止めた。


 ……青い花。


 あの栞。


 透明な樹脂の中に閉じ込められた、小さな花。


 古本屋で見つけたとき。


 どうして、あれを手に取ったんだっけ。


 綺麗だったから。


 ……それだけじゃない。


 みくが好きそうだと思ったからだ。


 あいつが喜ぶ顔を、見たかった。


 俺は、花屋の前でしばらく立ち止まっていた。


 店員が花に水をやっている。


 その水滴が、花びらの上で光っていた。


 青い花の名前を、俺はまだ知らない。


 あの栞に入っていた花と同じ種類なのかも、分からない。


 けれど。


 青い花を見ると、みくを思い出す。


 それだけは、確かだった。


     *


 午後零時五十四分。


 気づけば、昨日みくと訪れた書店の近くまで来ていた。


「……何で、こっちに来てんだよ」


 自分で自分に呆れた。


 別に、本を買う予定はない。


 読みたい本が決まっているわけでもない。


 ただ、歩いていたら。


 ここに来てしまった。


 店の入口には、昨日と同じ新刊の案内が並んでいる。


『朔夜、見て!』


 みくの声が、聞こえた気がした。


 もちろん、そこに彼女はいない。


 昨日、夜空の表紙を見つけて嬉しそうに笑っていた場所。


 どの本を買うか真剣に悩んでいた棚。


 俺に、好きな本を尋ねたときの顔。


 全部、覚えている。


 ……たった一日しか経っていないのに。


 もう、会いたい。


 その考えが浮かんだ瞬間。


 俺は、足を止めた。


 ……会いたい?


 昨日、会ったばかりだろ。


 何時間も一緒にいた。


 書店に行って。


 喫茶店に入って。


 駅まで歩いて。


 また会う約束までした。


 それなのに。


 もう、会いたいのか。


「……重症だな」


 小さく呟いた。


 何の病気かは、分からない。


 ただ。


 みくのいない日曜日は、思っていたより静かだった。


     *


 午後二時十七分。


 中之島まで歩いた。


 川沿いの道には、穏やかな日差しが落ちている。


 ベンチに腰を下ろすと、少し冷たい風が頬を撫でた。


 川面には、空の色が映っていた。


 ここも。


 みくと歩いた場所だ。


 十月三十日。


 突然、雨が降ってきた。


 俺は折り畳み傘を開き、彼女のほうへ傾けた。


 自分の肩が濡れていることなんて、どうでもよかった。


 ただ、みくを濡らしたくなかった。


『だったら、私にも心配させてよ』


 あの言葉を思い出した。


 俺は、膝の上で手を組んだ。


 ……あいつ、怒ってたな。


 自分だけ濡れなければいいわけじゃない。


 俺が濡れたら、あいつも心配する。


 そんな当たり前のことを、教えてくれた。


 雨が止んだあと。


 みくは、もう一度俺の隣に並んだ。


 傘は、もう必要なかったのに。


 ……あのとき。


 俺は、嬉しかったんだ。


 理由なんて、考えもしなかった。


 ただ。


 隣にいてくれることが、嬉しかった。


 俺は、川を見つめた。


 十月十五日。


 最初に出会った日も、雨だった。


 駅の近くの喫茶店。


 金木犀の香り。


 初めて聞いた、みくの声。


 あのとき、俺は思った。


 もう一度、会いたい。


 そして。


 初めて手紙を書いた。


 まだ何も始まっていないのに。


 あいつのことを、忘れたくないと思った。


 ……どうしてだろうな。


 今なら、少し分かる気がした。


     *


 午後四時三十三分。


 帰り道、スーパーの前を通った。


 入口の近くには、卵の特売を知らせる紙が貼られていた。


 俺は、思わず笑ってしまった。


 ……卵を見ても、みくかよ。


 十月二十三日。


 初めて、みくのためにオムライスを作った。


 何度も練習して。


 卵を焦がして。


 形を崩して。


 ようやく完成した、ふわふわのオムライス。


 ケチャップで描いた花は、少し歪んでいた。


 花びらは、五枚。


 綺麗とは言えなかった。


 それでも。


 みくは笑ってくれた。


 美味しいと言ってくれた。


 俺は、その顔を見ただけで。


 練習した時間も、失敗した卵も。


 全部、無駄じゃなかったと思えた。


 ……ああ。


 そういうことか。


 俺は、スーパーの前で立ち止まった。


 何かをしてあげたい。


 喜んでほしい。


 笑ってほしい。


 心配させたくない。


 でも、自分のことも心配してほしい。


 会えたら嬉しい。


 会えなければ寂しい。


 そんな気持ちが。


 少しずつ。


 少しずつ。


 俺の中に積もっていた。


 気づかないうちに。


     *


 午後五時四十二分。


 部屋に戻った。


 窓の外には、夕暮れが広がっていた。


 薄い橙色の光が、机の上に落ちている。


 俺は椅子に座った。


 そして、引き出しを開けた。


 そこには、三つのものがあった。


 最初に書いた手紙。


 オムライスを作った日のメモ。


 そして。


 みくからもらった、小さなカード。


 俺は、カードを手に取った。


『朔夜へ。


 今日も一緒にいてくれてありがとう。


 みくより』


 少し右上がりの文字。


 最後だけ、小さく書かれた名前。


 指先で、カードの端をそっと押さえた。


 ……みく。


 名前を、心の中で呼んだ。


 初めて会った日。


 俺の名前を呼んでくれた日。


 オムライスを食べてくれた日。


 雨の中、隣を歩いてくれた日。


 青い栞を受け取ってくれた日。


 昨日、一緒に本を選んだ日。


 どの日にも、みくがいた。


 そして。


 どの日の俺も。


 あいつが笑うと、嬉しかった。


 あいつが帰ると、寂しかった。


 あいつから連絡が来ると、安心した。


 また会える日を、楽しみにしていた。


 俺は、カードを見つめた。


 ……そうか。


 昨日の質問に答えられなかったのは。


 答えがなかったからじゃない。


 答えを口にするのが、怖かったからだ。


 この気持ちを認めたら。


 もう、何も知らなかった頃には戻れない。


 みくの言葉一つで、嬉しくなる。


 みくの表情一つで、不安になる。


 そんな自分を、認めることになる。


 けれど。


 もう、誤魔化せなかった。


 俺は、ゆっくり息を吐いた。


 そして。


 誰もいない部屋で。


 初めて、その言葉を口にした。


「……俺、みくが好きなんだな」


 声は、思っていたより小さかった。


 窓の外で、車が一台通り過ぎた。


 遠くから、誰かの笑い声が聞こえた。


 夕暮れの光が、机の上を照らしている。


 何も変わらなかった。


 部屋も。


 街も。


 空の色も。


 昨日までと、同じだった。


 それなのに。


 俺の中では。


 何かが、静かに変わっていた。


 ……好きなんだ。


 俺は、みくが好きなんだ。


 そう思った途端。


 これまでの出来事が、違う色を帯び始めた。


 雨の日に、もう一度会いたいと思ったこと。


 名前を呼ばれるだけで、嬉しかったこと。


 オムライスを何度も練習したこと。


 傘を、彼女のほうへ傾けたこと。


 青い花を見て、あいつを思い浮かべたこと。


 手書きのカードを、何度も読み返したこと。


 昨日。


『好きな人は?』


 そう聞かれて、答えられなかったこと。


 全部。


 全部、つながった。


 俺は、思わず笑った。


「……遅ぇよ、俺」


 こんなに分かりやすかったのに。


 どうして、今まで気づかなかったんだろうな。


 笑っているうちに、胸の奥が少し熱くなった。


 嬉しいのか。


 怖いのか。


 自分でも、よく分からなかった。


 ただ。


 この気持ちを、なかったことにはしたくなかった。


     *


 午後六時十九分。


 俺は、引き出しの奥から便箋を取り出した。


 黒い万年筆。


 十月十五日に買った、あの一本。


 最初の手紙を書いたときと同じものだ。


 机に便箋を広げる。


 何を書けばいいのか、少し迷った。


 みくに渡すつもりは、まだない。


 告白する勇気も、今はない。


 それでも。


 今日のことを、残しておきたかった。


 いつか。


 何年も経ってから。


 今日の自分を思い出せるように。


 俺は、ペン先を紙に置いた。


     *


 二通目の手紙。


 みくへ。


 今日は、日曜日だった。


 昨日、お前と会ったばかりなのに。


 朝からずっと、お前のことを考えていた。


 コーヒーを飲んでも。


 街を歩いても。


 本屋の前を通っても。


 青い花を見ても。


 卵の特売を見ても。


 何を見たって、お前を思い出した。


 ……笑うだろ。


 俺も、少し笑った。


 でもな。


 今日、ようやく分かったんだ。


 俺が、お前に会いたかった理由。


 お前のために料理を作りたかった理由。


 お前が笑うと、嬉しくなる理由。


 お前が帰ると、寂しくなる理由。


 全部、同じだった。


 昨日、お前は俺に聞いたな。


『好きな人は?』


 あのとき、答えられなくてごめん。


 冗談だって笑ってくれたのに。


 俺は、何も言えなかった。


 でも。


 今日なら、答えられる。


 まだ、お前の前では言えないけど。


 ここには、書いておく。


 今日、俺は君を好きだと知った。


 明日も、君を好きでいられたらいい。


     *


 午後六時五十一分。


 最後の一文字を書き終えた。


 俺は、しばらく便箋を見つめていた。


 ……書いちまった。


 少し、照れくさい。


 誰にも見せていないのに。


 自分の気持ちを文字にするだけで、こんなに恥ずかしいとは思わなかった。


 インクが乾くのを待ち、便箋を丁寧に折った。


 封筒に入れる。


 表には、日付を書いた。


 二〇二七年十一月七日。


 そして、小さく。


『二通目』


 最初の手紙の隣に、その封筒を置いた。


 二通。


 たった二通。


 それでも。


 俺にとっては、どちらも大切な手紙だった。


 引き出しを閉める前に、もう一度だけカードを見た。


『今日も一緒にいてくれてありがとう。』


「……こちらこそ」


 小さく答えた。


 もちろん、みくには聞こえない。


 それでも、言いたかった。


     *


 午後九時三十四分。


 スマートフォンが震えた。


 みくからだった。


『朔夜、今日もお疲れさま!』


 俺は、画面を見つめた。


 昨日までなら、何も考えずに返事をしていたと思う。


 けれど。


 今は。


 たった一通のメッセージに、胸が少し高鳴った。


『お前もな』


 そう送ると、すぐに返事が来た。


『ありがとう!』


 続けて、もう一通。


『また会えるの楽しみにしてるね!』


 俺は、思わず笑った。


 ……ああ。


 俺もだよ。


 そう思った。


 けれど、そのまま送るのは、少し恥ずかしかった。


 しばらく迷ってから、文字を打つ。


『俺も楽しみにしてる』


 送信。


 今度は、スマートフォンを伏せなかった。


 後悔もしなかった。


 画面の向こうで、みくがどんな顔をしているのか。


 想像するだけで、嬉しかった。


 やがて。


『えへへ。おやすみ、朔夜!』


 そんな返事が届いた。


『おやすみ、みく』


 俺は、スマートフォンを置いた。


 窓の外には、静かな夜が広がっていた。


 明日は、月曜日。


 きっと、いつもどおりの朝が来る。


 同じ部屋で目を覚まして。


 同じコーヒーを飲んで。


 同じ街を歩く。


 何も変わらないように見える、普通の一日。


 けれど。


 俺は、もう知っている。


 明日も、きっと。


 あいつのことを考える。


 そして。


 その時間を、楽しみにしている。


 俺は、机の引き出しに目を向けた。


 そこには、二通の手紙が眠っている。


 一通目は、君と出会った日の記憶。


 二通目は、君を好きだと認めた日の記憶。


 まだ、二通しかない。


 これから、どんな日々が待っているのかも分からない。


 でも。


 もし、いつか。


 今日という日を振り返ることがあったなら。


 俺は、きっと思うだろう。


 あの日。


 何でもない日曜日に。


 俺の恋は、ようやく名前をもらったんだ、と。


 ――第10話 終――

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