第11話 君の名前を呼ぶだけで
二〇二七年十一月八日、月曜日。
目覚まし時計が鳴る三分前に、目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、昨日と何も変わらない。
窓の外を走る車の音も、遠くから聞こえる誰かの話し声も、いつもと同じだった。
変わったことがあるとすれば、一つだけ。
俺は、みくが好きだ。
昨日、ようやく認めたその事実が、朝になっても消えていなかった。
「……当たり前か」
独り言を呟いて、ベッドから起き上がる。
好きだと気づいたからといって、何かが劇的に変わるわけではない。
空が違う色になるわけでも、世界が突然優しくなるわけでもない。
ただ、胸の奥に、昨日までは名前のなかった感情がある。
それだけだった。
それだけのはずだった。
*
朝食を済ませ、黒いコーヒーを淹れる。
湯気の向こうで、スマートフォンの画面が光った。
『おはよう、朔夜!』
みくからだった。
たった一行の挨拶。
これまでにも、何度か交わしてきた言葉だ。
なのに、今日はなぜか、すぐに返事ができなかった。
『おはよう』
そこまで入力して、指が止まる。
いつもなら、続けて名前を打つことがあった。
『おはよう、みく』
たった、それだけ。
何も難しいことはない。
文字にすれば、たった二文字なのだから。
それなのに。
「……なんでだよ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
昨日までは、何も考えずに呼べた名前だった。
初めて会った日も、二度目に会った日も。
彼女が笑えば、自然と口からこぼれていた。
みく。
それが彼女の名前だということに、特別な理由なんて必要なかった。
けれど、今は違う。
名前を呼ぶだけで、自分の気持ちまで一緒に伝わってしまいそうな気がした。
馬鹿げている。
そんなことがあるはずない。
俺は一度、入力した文字を消した。
そして、結局。
『おはよう。今日は寒いな』
名前を入れずに送信した。
数秒後、返事が届く。
『ほんとだね! 朔夜もあったかくしてね』
画面の向こうで、彼女が笑っている気がした。
「……ああ」
声に出して返事をしてから、気づく。
俺は今、誰もいない部屋で、スマートフォンに向かって頷いていた。
昨日まで、こんなことをしていただろうか。
思い出そうとして、やめた。
きっと、昨日までもしていたのだ。
ただ、気づいていなかっただけで。
*
昼休み。
いつものように、近くの店で簡単な昼食を済ませた。
外に出ると、十一月の風が頬を撫でた。
街路樹の葉は少しずつ色を変え、歩道の端には乾いた落ち葉が集まっている。
ふと、昨日立ち寄った花屋を思い出した。
青い花。
以前、みくに渡した小さなしおりの中にも、青い花が閉じ込められていた。
名前も知らずに選んだものだった。
彼女が大切そうに受け取ってくれたことだけは、はっきり覚えている。
あの日の笑顔を思い出すと、自然に口元が緩んだ。
「……何笑ってるんだ、俺」
慌てて表情を戻す。
誰かに見られていたわけではない。
それでも、妙に落ち着かなかった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
『朔夜、今日って忙しい?』
みくからだった。
『どうした?』
『帰りにちょっとだけ会えないかなって』
足が止まった。
会いたい。
その言葉が、胸の奥に真っ先に浮かんだ。
けれど、すぐには送れなかった。
あまりに簡単に返事をしたら、ずっと待っていたことまで知られてしまいそうだった。
……いや。
実際、待っていたのかもしれない。
『夕方なら大丈夫だ』
そう返すと、すぐに返事が来た。
『やった! じゃあ、いつものカフェの近くでどう?』
『分かった』
『ありがとう、朔夜!』
画面を閉じたあとも、しばらくその場を動けなかった。
会える。
今日、また彼女に会える。
ただそれだけのことで、午後の時間が少し長く感じられた。
*
午後六時十二分。
待ち合わせの場所に着いたとき、みくはまだ来ていなかった。
駅前の街灯が、歩道を淡く照らしている。
人々はコートの襟を立て、足早に通り過ぎていった。
俺は腕時計を確認した。
約束の時間より、八分早い。
別に、急いできたわけではない。
……そう自分に言い聞かせたところで、意味はなかった。
「朔夜!」
背後から声がした。
振り返る。
少し離れた場所で、みくが手を振っていた。
頬を冷たい風に赤くしながら、小走りで近づいてくる。
「ごめんね、待った?」
「いや。今来たところだ」
「ほんと?」
「ああ」
みくはほっとしたように笑った。
「よかった!」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が静かに熱くなった。
昨日までも、彼女はこんなふうに笑っていた。
何も変わっていない。
変わったのは、俺のほうだ。
「……朔夜?」
「ん?」
「どうしたの?」
「何が」
「なんか、ぼーっとしてた」
「……少し考え事をしてただけだ」
「そっか」
みくは、それ以上追及しなかった。
代わりに、俺の隣へ並ぶ。
「ねえ、ちょっと歩かない?」
「ああ」
俺たちは駅前の通りを歩き始めた。
*
みくが今日、会いたいと言った理由は、特別なものではなかった。
「帰り道でね、すごく綺麗な夕焼けを見たの」
歩きながら、彼女はそう話し始めた。
「それで、朔夜にも見せたかったなって思って」
「……夕焼け?」
「うん。でも写真撮ろうとしたら、もう暗くなっちゃって」
残念そうに笑う。
「だから、代わりに話そうと思ったの」
「それで、俺を呼んだのか」
「……うん。だめだった?」
「いや」
答えるまでに、一拍かかった。
「……嬉しい」
みくが足を止めた。
「え?」
「俺にも見せたいと思ってくれたんだろ」
「……うん」
「だったら、嬉しい」
自分で言っておきながら、少し気恥ずかしくなった。
普段なら、わざわざ口にしないような言葉だった。
けれど、今日は伝えたかった。
みくはしばらく俺を見つめてから、ふっと笑った。
「朔夜って、そういうこと言うんだね」
「……悪いか」
「ううん。嬉しい」
同じ言葉が返ってきた。
それだけで、胸が落ち着かなくなる。
俺は視線を逸らし、少し先の街灯を見た。
隣で、みくが小さく笑っている。
その声が、どうしようもなく好きだった。
*
川沿いの遊歩道まで来ると、風が少し強くなった。
水面には街の灯りが揺れ、遠くの橋を車が渡っていく。
みくが両手を擦り合わせた。
「寒くなってきたね」
「……手、冷たいのか」
「ちょっとだけ」
俺は自分のポケットに手を入れた。
何か温かいものを渡せればよかった。
けれど、今は何も持っていない。
「どこか入るか」
「ううん。もう少し歩きたい」
「風邪ひくぞ」
「大丈夫だよ」
そう言って、みくは笑った。
俺は少し迷ってから、歩く速度を落とした。
彼女の歩幅に合わせる。
それは、いつの間にか自然にできるようになっていたことだった。
「ねえ、朔夜」
「……ああ」
「今日、なんか変だよ?」
心臓が跳ねたような気がした。
「……そうか?」
「うん」
みくは首を傾げる。
「いつもより、ちょっと静か」
「元から静かだろ」
「そうだけど」
彼女はくすっと笑った。
「なんか、私のこと呼んでくれないなって」
足が止まりかけた。
「……え?」
「ほら。いつもだったら、もう少し名前呼んでくれる気がする」
そんなことまで、気づくのか。
俺は驚いて、彼女を見た。
みくは責めるような顔をしていなかった。
ただ、不思議そうに俺を見上げている。
「私、何かした?」
「してない」
思ったより強い声が出た。
みくが目を丸くする。
「……本当に、何もしてない」
慌てて言い直した。
「じゃあ、どうしたの?」
どうしたのか。
答えは分かっている。
昨日、俺は気づいた。
みくが好きだと。
だから、名前を呼ぶだけで緊張する。
そんなことを、今ここで言えるはずがなかった。
まだ、言葉にする勇気がない。
けれど、彼女を不安にさせたくもなかった。
俺は一度、息を吸った。
「……みく」
たった二文字。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
彼女が顔を上げた。
「なあに?」
その返事が、あまりにも自然で。
俺だけがこんなに戸惑っていることが、少し可笑しくなった。
「……別に、何でもない」
「えー?」
「呼んだだけだ」
みくは一瞬きょとんとして、それから笑い出した。
「何それ!」
「……悪いか」
「悪くないけど!」
笑いながら、彼女は言った。
「でも、嬉しい」
「……名前を呼んだだけだぞ」
「うん」
みくは、まっすぐ俺を見た。
「朔夜に呼んでもらうの、好きだから」
今度こそ、何も言えなくなった。
彼女にとっては、きっと何気ない言葉だった。
それでも俺には、簡単に受け流せなかった。
好き。
その一言が、胸の奥で何度も響いた。
「……そうか」
ようやく返した声は、少しだけ低かった。
みくは気づいたのか、気づかなかったのか。
ただ、嬉しそうに笑っていた。
*
帰り道。
駅の改札が見えるところまで来ると、みくが足を止めた。
「今日はありがとう」
「俺は何もしてない」
「そんなことないよ」
彼女は首を横に振った。
「夕焼けの話、聞いてくれたでしょ」
「……それだけでいいのか」
「それがよかったの」
みくはそう言って笑った。
「また綺麗なの見つけたら、朔夜に教えるね」
「ああ」
返事をしてから、少し考えた。
俺も、何かを見つけたら。
彼女に伝えたいと思うのだろうか。
綺麗な夕焼け。
道端に咲いた小さな花。
美味しかったコーヒー。
誰かに話すほどでもない、ありふれた出来事。
そんなものを、みくと分け合いたい。
そう思った。
「……みく」
今度は、自分から名前を呼んだ。
「ん?」
「次は、俺から連絡する」
みくが少し驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに頷く。
「うん! 待ってるね」
改札の向こうへ歩いていく彼女を、見えなくなるまで見送った。
最後に振り返って手を振る姿が、小さくなっていく。
俺も、そっと手を上げた。
*
午後九時二十七分。
部屋に戻り、コートを脱いだ。
いつもの椅子に腰掛け、スマートフォンを開く。
『今日はありがとう! 寒かったから、あったかくして寝てね』
みくからのメッセージだった。
俺は少し考えてから、返事を打つ。
『こちらこそ、ありがとう』
そこで一度、指を止めた。
今朝と同じだ。
名前を入れるかどうか。
たった、それだけのことで迷っている。
けれど、今は。
もう、逃げたくなかった。
『おやすみ、みく』
送信する。
すぐに、返事が来た。
『おやすみ、朔夜! またね!』
画面を見つめたまま、小さく笑った。
「……またな、みく」
声に出してみる。
誰もいない部屋に、彼女の名前が静かに響いた。
朝よりも、少しだけ自然に言えた気がした。
机の引き出しを開ける。
そこには、最初の手紙と、昨日書いた二通目の手紙。
オムライスを作った日のメモ。
そして、みくがくれた小さなカードが入っている。
俺はカードを手に取った。
『今日も一緒にいてくれてありがとう。』
少し右上がりの文字。
最後に、小さく書かれた名前。
『みくより』
その二文字を、指先でそっとなぞる。
今日は手紙を書かなかった。
何かを残さなければならないような、特別な出来事があったわけでもない。
ただ、彼女の名前を呼んだ。
そして、呼び返してもらった。
それだけの一日だった。
けれど、俺には十分だった。
名前を呼べば、振り向いてくれる。
声をかければ、笑ってくれる。
明日もきっと、同じように。
そんな当たり前が、今は何より愛おしかった。
カードを元の場所へ戻し、引き出しを閉める。
部屋の明かりを消す前に、もう一度だけ呟いた。
「……おやすみ、みく」
返事はない。
それでも、不思議と寂しくはなかった。
明日になれば、また呼べる。
俺は、そう信じていた。
君の名前を呼ぶだけで。
こんなにも、世界が優しくなることを。
俺は、昨日まで知らなかった。




