第12話 君の手を温める理由
二〇二七年十一月十二日、金曜日。
午後五時四十八分。
御堂筋を歩く人々の足取りが、少しずつ速くなっていた。
十一月も半ばに近づき、大阪の街には冬の気配が漂い始めている。
街路樹のイチョウは黄色く色づき、歩道には落ち葉が散っていた。
俺は待ち合わせ場所で、腕時計を見た。
約束の時間まで、あと七分。
今日は俺から、みくを誘った。
十一月八日の帰り際、次は俺から連絡すると約束したからだ。
あの夜、みくは嬉しそうに笑っていた。
『うん! 待ってるね』
その言葉を思い出すだけで、胸の奥が少し温かくなる。
以前なら、こんな感覚にいちいち戸惑っていただろう。
今も慣れたわけではない。
ただ、理由は分かっていた。
俺は、みくが好きだ。
それを認めてから、五日が経っていた。
*
「朔夜!」
聞き慣れた声に振り返る。
みくが、小さく手を振りながら歩いてきた。
淡い色のコートを着て、首元には柔らかそうなマフラーを巻いている。
「ごめんね。待った?」
「いや。今来たところだ」
「……本当?」
「本当だ」
みくは俺の顔をじっと見た。
「朔夜って、いつもそう言うよね」
「何が」
「『今来たところ』って」
「……実際、そんなに待ってない」
「ふふ。そっか」
みくが笑う。
それだけで、早く来てよかったと思った。
「今日はどこ行くの?」
「特に決めてない」
「えっ」
「……歩きながら考えようと思ってた」
みくは一瞬驚いた顔をしたあと、楽しそうに笑った。
「いいね、それ!」
「いいのか?」
「うん。朔夜と一緒なら、どこでも楽しいよ」
あまりにも自然に言われて、返事に困った。
「……そうか」
俺がそう答えると、みくはまた笑った。
最近、彼女の笑顔を見るたびに思う。
この人は、自分がどれほど簡単に俺を困らせるか、きっと知らない。
*
御堂筋の歩道を、二人で並んで歩いた。
夕方の空は、青から群青へとゆっくり色を変えていく。
車のライトが道路を流れ、街路樹の向こうには店の明かりが並んでいた。
「綺麗だね」
みくが顔を上げる。
「何が?」
「街の明かり。なんか、冬が来るって感じがする」
「まだ十一月だぞ」
「もう十一月だよ」
みくは少し得意そうに言った。
「朔夜、冬は好き?」
「……嫌いじゃない」
「曖昧!」
「寒いのは得意じゃないからな」
「私も!」
そう言って笑ったあと、みくは両手を擦り合わせた。
その仕草に、俺は目を留めた。
「……寒いか?」
「ちょっとね。でも大丈夫」
みくは笑った。
大丈夫。
彼女は、よくそう言う。
十月の終わりに中之島を歩いたときも、雨に濡れた俺の肩を心配していた。
自分のことより、先に俺のことを気にかける。
そういう人だった。
「少し待ってろ」
「え?」
「すぐ戻る」
俺は通りの先に見えたコンビニへ向かった。
店内は暖かかった。
飲み物の棚の前で立ち止まる。
ブラックコーヒー。
温かいお茶。
ココア。
そして、ミルクティー。
迷わず、甘いミルクティーを手に取った。
十月十五日。
雨の日のカフェで、みくが頼んでいた飲み物。
あのときは、ただ好みが違うのだと思った。
俺はブラックコーヒーが好きで、彼女は甘いミルクティーが好き。
それだけのことだった。
今は、その違いさえ愛おしい。
自分の分のブラックコーヒーも手に取り、会計を済ませた。
*
店の外へ出ると、みくは約束した場所で待っていた。
「あ、おかえり!」
「ああ」
「何買ってきたの?」
俺は温かいミルクティーを差し出した。
「……ほら」
「え?」
「寒いんだろ」
みくが目を丸くする。
「これ、私に?」
「他に誰がいるんだよ」
そう言うと、みくは両手でボトルを受け取った。
「あったかい……!」
冷えた指先で、温かい容器を包み込む。
彼女は嬉しそうに目を細めた。
「しかも、ミルクティー!」
「……好きだろ」
「覚えててくれたの?」
「最初に会ったとき、飲んでたから」
言ってから、少し後悔した。
そんな細かいことまで覚えていると知られたら、どう思われるだろう。
けれど、みくは驚いたように俺を見つめたあと、柔らかく笑った。
「……嬉しい」
小さな声だった。
「朔夜、ありがとう」
「……別に」
「ふふ」
「何だよ」
「朔夜って、優しいね」
街の灯りが、彼女の横顔を照らしていた。
俺は視線を逸らした。
「……大したことしてない」
「ううん」
みくは首を横に振った。
「私が寒いって言ったの、覚えててくれたんでしょ?」
「……さっき言ったばかりだろ」
「そうだけど」
彼女はボトルを胸の前で抱えた。
「気づいてくれたのが、嬉しいの」
何も言えなかった。
ただ寒そうだったから、温かいものを渡したかった。
それだけのことなのに。
こんなふうに笑ってくれるなら。
また、何かをしてやりたいと思ってしまう。
彼女が喜ぶことを、もっと知りたくなる。
その気持ちに、もう名前をつける必要はなかった。
*
「……あれ?」
みくが、ふと俺の手元を見た。
「朔夜、それは?」
「コーヒー」
「ブラック?」
「ああ」
「やっぱり!」
みくは楽しそうに笑った。
「朔夜はいつもブラックだね」
「みくも、いつも甘いのだろ」
「うん!」
それから、彼女は俺の手をじっと見た。
「……ねえ、朔夜」
「何だ?」
「朔夜の手も、冷たいんじゃない?」
不意を突かれた。
「……そうでもない」
「本当?」
「ああ」
みくは少しだけ眉を寄せた。
「さっき、買いに行ってくれたでしょ。寒かったよね」
「すぐそこだった」
「でも、私のために行ってくれたんだよね」
答えに迷った。
否定する理由はない。
けれど、正面から認めるのは、少し照れくさかった。
「……まあな」
みくは、俺の手元のコーヒーを見た。
「それ、まだ温かい?」
「ああ」
「じゃあ、ちゃんと持っててね」
「……持ってるだろ」
「両手で!」
「え?」
「両手で持ったほうが、温かいよ」
真剣な顔で言われて、思わず笑いそうになった。
「……分かった」
言われたとおり、コーヒーを両手で包む。
みくは満足そうに頷いた。
「よし!」
「……何が『よし』なんだ」
「朔夜の手も温まるから」
彼女は当たり前のように言った。
俺は、みくの手を温めたかった。
それなのに。
彼女は、俺の手が冷えていないかを心配していた。
誰かのために何かをすることと、誰かに気遣われること。
その二つが、こんなにも自然に同じ場所にあるのだと、初めて気づいた気がした。
「……みく」
「なあに?」
「ありがとう」
みくは一瞬、不思議そうな顔をした。
「え? 私、何かした?」
「……いや」
俺はコーヒーを持ち直した。
「何でもない」
「またそれ!」
彼女が笑う。
俺も、今度は少しだけ笑った。
*
それから俺たちは、御堂筋をゆっくり歩いた。
みくはミルクティーを少しずつ飲みながら、今日あったことを話してくれた。
昼間に見つけた小さな雑貨屋。
道端で見かけた犬。
買おうか迷って、結局買わなかった可愛い手袋。
どれも、特別な話ではなかった。
けれど、俺は聞いていたかった。
「その手袋、買わなかったのか」
「うん。ちょっと迷っちゃって」
「気に入ったんだろ」
「そうなんだけどね」
みくは照れくさそうに笑った。
「また今度、見に行こうかな」
「……そうか」
俺は、その言葉を覚えておこうと思った。
いつか、彼女がまた寒そうにしていたら。
今度は、手袋を一緒に選ぶのもいいかもしれない。
そんな未来を、自然に想像していた。
「朔夜?」
「ん?」
「何考えてるの?」
「……次に会うときのこと」
口にしてから、自分でも驚いた。
みくが足を止める。
「……次?」
「ああ」
もう、言ってしまった。
今さら誤魔化す必要もない。
「また、一緒に歩こうと思って」
みくはしばらく俺を見つめていた。
そして、嬉しそうに笑った。
「……うん!」
その笑顔を見た瞬間、今日誘ってよかったと思った。
*
午後八時十一分。
駅の近くまで戻ると、みくは空になったミルクティーの容器を見つめた。
「全部飲んじゃった」
「……飲み物だからな」
「そうだけど!」
みくは笑った。
「なんか、もったいなかったな」
「また買えばいいだろ」
「……また?」
「ああ」
みくが俺を見上げる。
「また、買ってくれるの?」
「寒かったらな」
「じゃあ、寒い日が楽しみになっちゃうね」
そう言って笑う彼女に、俺は返事ができなかった。
冬が来る。
これから、もっと寒くなる。
けれど、寒い日が楽しみになるなんて、考えたこともなかった。
彼女と一緒なら。
そんな日も、悪くないと思えた。
「……みく」
「ん?」
「今日は、来てくれてありがとう」
みくは目を丸くした。
それから、ゆっくり笑った。
「こちらこそ。誘ってくれてありがとう、朔夜」
改札へ向かう彼女を見送る。
最後に振り返ったみくが、小さく手を振った。
俺も手を上げた。
その姿が見えなくなるまで、しばらく動けなかった。
*
午後十時三分。
部屋に戻り、机の前に座った。
引き出しには、二通の手紙がある。
最初に書いた手紙。
そして、みくを好きだと認めた日に書いた手紙。
今日も、そこに新しい一通を加えることはしなかった。
書き残さなくても、覚えていられると思った。
御堂筋の冷たい風。
街路樹の黄色い葉。
温かいミルクティーを受け取ったときの、みくの笑顔。
『朔夜の手も、冷たいんじゃない?』
あの声。
あの、当たり前のような気遣い。
俺は、彼女の手を温めたかった。
ただ、それだけだった。
なのに、帰り道で何度も思い出したのは、自分の手を心配してくれた彼女の顔だった。
スマートフォンが震えた。
『今日はありがとう! ミルクティー、すっごく美味しかったよ』
続けて、もう一通。
『また一緒に歩こうね』
俺は迷わず返事を打った。
『ああ。また行こう、みく』
送信して、画面を伏せる。
窓の外では、冷たい風が吹いていた。
これから先、何度も冬が来るのだろう。
そのたびに、今日のことを思い出すかもしれない。
俺は机の明かりを消した。
君の手を温めたかったはずなのに、温められたのは、俺のほうだった。




