第13話 君と過ごす、何でもない休日
二〇二七年十一月十四日、日曜日。
午前九時十七分。
窓の外には、雲ひとつない青空が広がっていた。
昨日までの冷たい風が嘘のように、穏やかな朝だった。
俺は淹れたばかりのコーヒーを手に、窓辺に立っていた。
今日は、みくと会う約束をしている。
十一月十二日。
御堂筋を歩いた帰り道、俺たちはまた会おうと約束した。
あの夜、彼女に渡した温かいミルクティー。
そして、俺の手まで心配してくれた彼女の言葉。
『朔夜の手も、冷たいんじゃない?』
思い出すたびに、胸の奥が少し温かくなる。
俺はコーヒーを一口飲んだ。
いつもと同じ苦さだった。
それなのに、今日は少しだけ、違う朝のように感じた。
*
午前十一時二十三分。
待ち合わせ場所に着くと、みくはすでにそこにいた。
駅前の小さな時計の下。
淡い色のコートを着た彼女が、スマートフォンを見つめている。
「……みく」
声をかけると、彼女が顔を上げた。
「あっ、朔夜!」
ぱっと笑顔になる。
その表情を見るだけで、来てよかったと思った。
「早いな」
「朔夜こそ!」
「俺は約束の時間より少し早く来ただけだ」
「私もだよ」
みくは楽しそうに笑った。
「じゃあ、二人とも早く会いたかったってことかな?」
「……そうかもしれないな」
答えた瞬間、彼女が目を丸くした。
「えっ」
「……何だよ」
「朔夜が素直!」
「悪いか」
「ううん!」
みくは首を横に振った。
「嬉しい」
俺は思わず視線を逸らした。
最近、彼女の「嬉しい」という言葉に弱い。
それを聞くたびに、自分まで嬉しくなってしまうからだ。
*
今日の予定は、特に決めていなかった。
どこかへ出かけることよりも、ただ一緒に過ごしたかった。
それだけだった。
「ねえ、朔夜」
「ん?」
「今日は何しようか?」
「……何か行きたいところはあるか?」
「うーん」
みくは少し考えたあと、俺を見た。
「朔夜のおうち、行ってもいい?」
足が止まった。
「……俺の?」
「うん」
「別に構わないが……」
「ほんと?」
「ああ」
みくは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今日はおうちでのんびりしたい!」
俺は頷いた。
十月二十三日。
彼女が初めて俺の部屋に来た日を思い出す。
あの日は、オムライスを作った。
卵をふわふわに仕上げようと何度も練習して、ケチャップで歪んだ花を描いた。
みくは、それを見て笑ってくれた。
今日も何か作ろうか。
そんなことを考えながら、俺たちはスーパーへ向かった。
*
「朔夜、何食べたい?」
スーパーの入口で、みくが尋ねた。
「……みくは?」
「私が聞いたのに!」
「俺は何でもいい」
「それ、一番困る答えだよ?」
「……そうなのか」
「そうだよ!」
みくは笑いながら、買い物かごを手に取った。
「じゃあ、一緒に決めよ」
野菜売り場を抜け、肉の並んだ棚の前で立ち止まる。
「今日は寒いから、温かいものがいいな」
「……鍋とかか?」
「鍋!」
みくの目が輝いた。
「いいね! 鍋にしよう!」
「何鍋がいい?」
「うーん……」
みくは並んだ食材を見つめた。
「お肉も野菜もいっぱい入れたい!」
「分かった」
俺は白菜を手に取った。
みくは隣で、きのこを選んでいる。
豆腐。
長ねぎ。
豚肉。
少しずつ買い物かごが重くなっていく。
「……二人分にしては多くないか?」
「えっ、そうかな?」
みくがかごを覗き込む。
「……多いかも」
「だろ」
「でも、いっぱい食べられるよ!」
「……食べきれるならな」
みくは楽しそうに笑った。
俺も、つられて笑った。
ただ、一緒に買い物をしている。
それだけのことなのに。
不思議と、帰り道が待ち遠しかった。
*
午後零時四十八分。
部屋に着くと、みくは慣れた様子で靴を揃えた。
「お邪魔しまーす!」
「ああ」
買ってきた食材をキッチンに運ぶ。
みくがコートを脱ぎながら、部屋を見回した。
「なんか、懐かしいね」
「まだ一か月も経ってないぞ」
「そうだけど!」
彼女は笑った。
「ここでオムライス食べたなって思って」
「……ああ」
「あのケチャップのお花、可愛かったよ」
「……歪んでただろ」
「そこがよかったの!」
俺は返事に困った。
あの日、上手く描けなかった花。
それを彼女は、今でも覚えている。
「また作ってね」
「……ああ」
みくは嬉しそうに頷いた。
*
鍋の準備は、二人で進めた。
俺が白菜を切っている間、みくはきのこをほぐしていた。
「朔夜、これくらい?」
「ああ。ちょうどいい」
「やった!」
そんな小さなやり取りを繰り返す。
包丁の音。
水の流れる音。
鍋の中で、だしが温まっていく音。
いつもは静かなキッチンが、今日は少し賑やかだった。
「ねえ、朔夜」
「何だ?」
「こういうの、いいね」
「……鍋が?」
「違うよ」
みくは笑った。
「一緒にご飯作るの」
俺は包丁を置いた。
彼女は、きのこをほぐしながら続けた。
「一人で作るのもいいけど、誰かと一緒だと楽しいね」
「……そうだな」
答えながら、思った。
これまで俺にとって、料理は食事を用意するためのものだった。
けれど、みくと作る料理は少し違う。
何を食べるかよりも。
誰と作るかが、大切になる。
そんな当たり前のことを、俺は今さら知った。
*
午後一時三十六分。
テーブルの中央に、湯気の立つ鍋を置いた。
「わあ……!」
みくが目を輝かせる。
「美味しそう!」
「熱いから気をつけろよ」
「うん!」
二人で手を合わせる。
「いただきます」
みくが白菜を口に運んだ。
ゆっくり噛んでから、嬉しそうに笑う。
「美味しい!」
「……よかった」
「朔夜も食べて!」
「ああ」
俺も箸を伸ばした。
温かいだしが、口の中に広がる。
特別な味付けをしたわけではない。
けれど、いつもより美味しく感じた。
「ねえ、朔夜」
「ん?」
「また一緒に作ろうね」
俺は箸を止めた。
また。
最近、彼女はよくその言葉を使う。
また会おう。
また歩こう。
また一緒に食べよう。
そのたびに、俺は少し先の未来を想像する。
明日。
来週。
来月。
そして、もっと先の時間。
「……ああ」
俺は頷いた。
「また作ろう」
みくは、満足そうに笑った。
*
食事を終えたあと、俺たちは並んで食器を洗った。
「私が洗うよ」
「いや、俺がやる」
「じゃあ、一緒に!」
結局、みくが洗って、俺が拭くことになった。
濡れた皿を受け取り、布巾で水気を拭う。
隣で、みくが鼻歌を歌っていた。
何の曲かは分からなかった。
ただ、楽しそうだった。
「……機嫌いいな」
「うん!」
「そんなに鍋が美味かったか?」
「それもあるけど」
みくは俺を見た。
「朔夜と一緒だから」
俺は、手に持っていた皿を落としそうになった。
「……危ない」
「あっ、大丈夫?」
「ああ」
皿をしっかり持ち直す。
みくは心配そうに俺の手元を見た。
「気をつけてね」
「……分かってる」
何でもない顔で返したつもりだった。
けれど、心臓は落ち着かなかった。
彼女は本当に、自分の言葉がどれほど俺を困らせているか知らない。
*
午後三時十二分。
片づけを終え、俺たちはソファに座った。
窓から差し込む午後の光が、床に長い影を作っている。
みくは温かいミルクティーを飲みながら、静かに外を眺めていた。
俺の手には、ブラックコーヒー。
いつもと同じ組み合わせだった。
「……眠いのか?」
みくが小さくあくびをしたのを見て、尋ねた。
「ちょっとだけ」
「無理するな」
「うん」
彼女はカップをテーブルに置いた。
「少しだけ、こうしててもいい?」
「……ああ」
みくはソファの背にもたれた。
俺も、隣に座ったまま窓の外を眺める。
会話は途切れた。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
誰かと一緒にいるとき、沈黙を埋めなくてもいい。
それが、こんなに心地よいことだとは思わなかった。
しばらくすると、みくの呼吸がゆっくりになった。
目を向ける。
彼女は、静かに眠っていた。
「……みく?」
小さく呼んでみる。
返事はない。
俺は、そっと立ち上がった。
クローゼットから薄い毛布を取り出し、彼女の肩にかける。
起こさないように、静かに。
みくは少し身じろぎしたあと、また穏やかな寝息を立てた。
俺は隣に座り直した。
窓の外では、秋の陽射しが少しずつ傾いていた。
*
午後四時二十一分。
「……ん」
小さな声がした。
みくが目を開ける。
「……あれ?」
「起きたか」
「朔夜……?」
「ああ」
彼女はゆっくり体を起こした。
肩にかかった毛布に気づく。
「……これ」
「寒いかと思って」
みくは毛布を見つめたあと、俺を見た。
「ありがとう」
「……別に」
彼女は柔らかく笑った。
「朔夜って、ほんとに優しいね」
また、その言葉だ。
俺は視線を逸らした。
「……普通だろ」
「普通じゃないよ」
みくは毛布をそっと抱きしめた。
「嬉しいんだよ」
俺は何も言えなかった。
ただ、彼女が安心して眠れる場所でありたいと思った。
それが、今の俺にできることなら。
何度でも、毛布をかけてやりたい。
*
午後五時四十七分。
みくが帰る時間になった。
玄関でコートを着る彼女を見ながら、俺は少しだけ寂しさを感じていた。
「今日はありがとう、朔夜」
「……こちらこそ」
「鍋、美味しかったね」
「ああ」
「また作ろうね」
「……ああ」
みくは靴を履き、振り返った。
「ねえ、朔夜」
「何だ?」
「今日、すっごく楽しかった」
俺は頷いた。
「……俺もだ」
みくが嬉しそうに笑う。
「また来てもいい?」
答えは、決まっていた。
「ああ。いつでも」
彼女は目を丸くした。
それから、少し照れくさそうに笑った。
「……じゃあ、また来るね」
「ああ」
ドアが閉まる。
静けさが戻ってきた。
けれど、部屋にはまだ、彼女のいた気配が残っていた。
キッチンに置かれた二つのカップ。
綺麗に畳まれた毛布。
ソファに差し込む夕方の光。
どれも、昨日までと変わらないはずのものだった。
なのに、今日は少し違って見えた。
*
午後九時十八分。
机の引き出しを開ける。
そこには、二通の手紙と、小さなカードがある。
オムライスを作った日のメモも、変わらずそこにあった。
俺は、その一つひとつを眺めた。
今日も、手紙は書かなかった。
ただ、一緒に買い物をして。
一緒に料理を作って。
一緒に食事をして。
同じ部屋で、静かな午後を過ごした。
それだけだった。
けれど、俺は思った。
特別な場所へ行かなくてもいい。
何か大きな出来事がなくてもいい。
ただ、君が隣にいてくれる。
それだけで、何でもない休日が、かけがえのない一日になる。
スマートフォンが震えた。
『今日はありがとう! また一緒にお鍋しようね』
俺は、すぐに返事を打った。
『ああ。また作ろう、みく』
送信して、引き出しを閉める。
明日になれば、またいつもの日常が始まる。
けれど、その日常の中に。
今日のような休日が、これからも増えていけばいい。
俺は、そう願った。
君と過ごす、何でもない休日。
それは、俺にとって。
何よりも特別な一日だった。




