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第14話 君にとって、俺は何?

二〇二七年十一月二十日、土曜日。


 午前十時四十二分。


 机の上に置いたスマートフォンが、小さく震えた。


『朔夜、おはよう!』


 みくからだった。


 俺は手にしていたコーヒーカップを置き、画面を開いた。


『おはよう』


 そう返すと、すぐに次のメッセージが届く。


『今日、ちょっと会える?』


 その文字を見て、自然と口元が緩んだ。


 十一月十四日。


 みくが俺の部屋に来て、一緒に鍋を作った日から六日が経っていた。


 あの日、彼女はソファで眠ってしまった。


 俺が毛布をかけると、目を覚ましたあとで嬉しそうに笑ってくれた。


『また来てもいい?』


 帰り際の、その言葉。


 俺は今でも覚えている。


『ああ。いつでも』


 そう答えたことも。


 けれど、今日は俺の部屋ではなく、外で会いたかった。


 彼女と一緒に、秋の終わりを歩いてみたかった。


『午後なら大丈夫だ』


 送信すると、すぐに返事が来た。


『やった! じゃあ、二時に淀屋橋でどう?』


『分かった』


『楽しみにしてるね!』


 俺は少し迷ってから、返事を打った。


『俺も楽しみにしてる、みく』


 送信したあと、画面を見つめる。


 以前なら、こんな言葉を送るだけで何分も悩んでいた。


 今も、少しだけ照れくさい。


 けれど。


 彼女に会えることが嬉しいのなら。


 それを伝えることまで、隠さなくてもいいのかもしれない。


 俺は、そう思い始めていた。



     *



 午後一時五十三分。


 淀屋橋駅の近くで、みくを待っていた。


 十一月も下旬に近づき、風は一段と冷たくなっていた。


 街路樹の葉が歩道を転がり、行き交う人々の服装も少しずつ厚くなっている。


「朔夜!」


 聞き慣れた声がした。


 振り返ると、みくが手を振っていた。


「……みく」


「お待たせ!」


「いや。俺も今来たところだ」


 みくは俺の顔を見て、くすっと笑った。


「またそれ!」


「……何が」


「いつも『今来たところ』って言うんだもん」


「本当のことだ」


「ふふ。そういうことにしておくね」


 彼女は楽しそうに笑った。


 俺も、少しだけ笑う。


 こういうやり取りが、いつの間にか当たり前になっていた。


「今日はどこ行く?」


 みくが尋ねる。


「中之島を歩かないか」


「いいね!」


 彼女は嬉しそうに頷いた。


「私も、ちょうど行きたいと思ってた!」


「……そうなのか」


「うん。朔夜と最初に一緒に歩いた場所の一つだから」


 その言葉に、胸の奥が小さく動いた。


 十月三十日。


 雨の中、一本の傘を二人で使った日。


 彼女が俺の濡れた肩を心配してくれたことを思い出す。


 あの日から、まだ一か月も経っていない。


 それなのに。


 ずっと前のことのようにも感じた。



     *



 中之島公園へ向かう道を、二人で歩いた。


 空は薄い青色で、雲がゆっくり流れている。


 川面には午後の光が反射し、遠くの橋を車が渡っていた。


「ねえ、朔夜」


「ん?」


「この前のお鍋、楽しかったね」


「ああ」


「また作りたいな」


「……次は何鍋にする?」


「えっ、もう次のこと考えてくれてるの?」


「……嫌だったか?」


「全然!」


 みくは首を横に振った。


「嬉しい!」


 また、その言葉だった。


 彼女は本当に、よく笑う。


 そして、よく嬉しいと言う。


 俺はそのたびに、自分のしたことが間違っていなかったのだと安心する。


「朔夜は、何鍋が好き?」


「……そうだな」


 少し考える。


「この前のも、美味かった」


「それ、私も!」


「じゃあ、また同じのでもいいだろ」


「えー! せっかくだから違うのも食べたい!」


「……どっちなんだ」


 みくが声を上げて笑った。


 俺も、つられて笑った。


 こんな時間が好きだった。


 何かを決めるわけでもなく。


 何かを約束するわけでもなく。


 ただ、彼女と話している時間。


 それだけで、満たされていた。



     *



 午後三時十一分。


 川沿いのベンチに腰を下ろした。


 近くでは、散歩中の犬が落ち葉を追いかけている。


 みくはその様子を見て、楽しそうに笑った。


「可愛いね」


「ああ」


「朔夜って、動物好き?」


「嫌いじゃない」


「また曖昧!」


「……好きだよ」


「ほんと?」


「ああ」


 みくは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、いつか一緒に動物園とか行きたいね」


「……いいな」


「約束だよ?」


「ああ。約束する」


 みくは満足そうに頷いた。


 その横顔を見ながら、俺はふと思った。


 彼女は、俺と過ごす未来を当たり前のように話してくれる。


 また鍋を作ろう。


 また一緒に歩こう。


 いつか動物園へ行こう。


 その一つひとつが、俺には嬉しかった。


 けれど。


 みくにとって、俺は何なのだろう。


 友達。


 仲のいい知り合い。


 一緒にいて楽しい相手。


 それとも。


 その先に、何かがあるのだろうか。


 俺は彼女を好きだ。


 それだけは、もう分かっている。


 けれど、彼女の気持ちは分からない。


 分からないまま、勝手に期待するのが怖かった。


「……朔夜?」


 みくが顔を覗き込んだ。


「どうしたの?」


「……いや」


「また考え事?」


「ああ」


「最近、多いね」


 彼女は少し心配そうに笑った。


「何か悩んでる?」


 俺はすぐに答えられなかった。


 悩んでいる。


 確かに、そうなのかもしれない。


 けれど。


 彼女を困らせたいわけではなかった。


「……みく」


「なあに?」


 名前を呼ぶ。


 彼女が、まっすぐ俺を見る。


 その瞳から目を逸らさないようにして、俺は口を開いた。


「……一つ、聞いてもいいか」


「うん」


「俺って……」


 言葉が止まった。


 ここまで来て、何を怖がっているのだろう。


 聞くだけだ。


 答えを無理に求めるつもりはない。


 それなのに、胸の奥が落ち着かなかった。


「……俺って、みくにとって何なんだろうな」


 言ってしまった。


 風が、二人の間を通り抜けた。


 みくは目を丸くした。


「……え?」


「いや、変なこと聞いたな」


 俺は慌てて視線を逸らした。


「忘れてくれ」


「……待って」


 みくの声がした。


 思わず、彼女を見る。


 みくは少しだけ俯いていた。


 頬が、ほんのり赤くなっているように見えた。


「……何って言われると、難しいね」


「……そうだよな」


「でも」


 彼女はゆっくり顔を上げた。


「大切な人、だよ」


 胸の奥が、静かに震えた。


「……大切な?」


「うん」


 みくは頷いた。


「一緒にいると楽しいし、安心するし」


 少し照れくさそうに笑う。


「何かあったら、朔夜に話したいなって思う」


 俺は何も言えなかった。


「綺麗な夕焼けを見たときも」


 彼女は続けた。


「美味しいものを食べたときも」


 そして、少しだけ声を小さくした。


「……寂しいときも」


 俺は彼女を見つめた。


「朔夜に会いたいなって、思うんだ」


 風が吹いた。


 川面が小さく揺れた。


 遠くで、誰かの笑い声が聞こえた。


 けれど、俺には彼女の言葉だけが、はっきりと聞こえていた。


「……そうか」


 ようやく、それだけ答えた。


 みくは少し不安そうに俺を見た。


「……変かな?」


「いや」


 俺は首を横に振った。


「……嬉しい」


 みくが目を丸くした。


 それから、ゆっくり笑った。


「……よかった」


 俺も、小さく笑った。


 彼女の言葉は、告白ではなかった。


 俺の気持ちと同じなのかも、まだ分からない。


 けれど。


 少なくとも、俺は彼女にとって大切な人なのだ。


 それだけで、今は十分だった。



     *



 午後四時二十六分。


 俺たちは再び歩き始めた。


 先ほどまでと、何も変わらない道だった。


 同じ川。


 同じ橋。


 同じ街路樹。


 けれど、俺の胸の奥には、さっき聞いた言葉が残っていた。


『大切な人、だよ』


 何度も思い出してしまう。


「ねえ、朔夜」


「ん?」


「今度は、私から聞いてもいい?」


 足が止まりそうになった。


「……何を?」


 みくは少し迷ったあと、俺を見た。


「朔夜にとって、私はどんな人?」


 予想していたはずの質問だった。


 それなのに、すぐには答えられなかった。


 好きな人。


 本当は、そう言いたかった。


 けれど、その言葉を口にした瞬間、何かが変わってしまう気がした。


 今の関係を壊したくない。


 その気持ちは、まだ俺の中にあった。


 だから。


 俺は、今伝えられる本当のことを選んだ。


「……一緒にいたい人だ」


 みくが、静かに俺を見た。


「……一緒に?」


「ああ」


 俺は頷いた。


「今日みたいに、何でもない話をして」


 少し言葉を探す。


「一緒に飯を食べて、歩いて」


 そして。


「……また会いたいと思う人だ」


 みくは、しばらく何も言わなかった。


 俺も、それ以上は続けられなかった。


 やがて、彼女が小さく笑った。


「……そっか」


「ああ」


「……嬉しいな」


 その声は、いつもより少しだけ静かだった。


 俺は、彼女の横顔を見た。


 頬が、少し赤い。


 寒さのせいかもしれない。


 それでも。


 その表情を、ずっと覚えていたいと思った。



     *



 午後五時三十八分。


 駅の近くまで戻ると、みくが足を止めた。


「今日はありがとう」


「……こちらこそ」


「いっぱい話せたね」


「ああ」


 みくは少し照れくさそうに笑った。


「……ねえ、朔夜」


「何だ?」


「今日の話、忘れないでね」


 俺は彼女を見た。


「……忘れない」


 迷わず答えた。


 みくは、ほっとしたように笑った。


「うん」


 そして、小さく手を振った。


「またね、朔夜」


「ああ。またな、みく」


 彼女が改札の向こうへ消えていく。


 俺は、その姿が見えなくなるまで立っていた。


 今日、俺たちは恋人になったわけではない。


 好きだと告げたわけでもない。


 けれど。


 お互いにとって、相手が大切な存在なのだと知った。


 それだけで、十分だった。



     *



 午後九時四十二分。


 机の引き出しを開けた。


 二通の手紙。


 オムライスを作った日のメモ。


 そして、みくからもらった小さなカード。


 俺は、そのカードを手に取った。


『今日も一緒にいてくれてありがとう。』


 少し右上がりの文字。


 最後に、小さく書かれた名前。


『みくより』


 今日も、手紙は書かなかった。


 ただ、彼女の言葉を何度も思い出した。


『大切な人、だよ』


 俺は、彼女にとって大切な人だった。


 そして。


 彼女も、俺にとって大切な人だった。


 まだ、その先の言葉は言えない。


 けれど、いつか。


 自分の気持ちを、ちゃんと伝えられる日が来たら。


 そのときは、今日のことを思い出すのだろう。


 スマートフォンが震えた。


『今日はありがとう! また会おうね』


 俺は、すぐに返事を打った。


『ああ。また会おう、みく』


 送信して、机の明かりを消す。


 君にとって、俺は何?


 その答えを、今日、少しだけ知ることができた。


 そして俺も。


 君にとっての「大切な人」であり続けたいと、心から願った。

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