第15話 君の隣にいる理由
二〇二七年十一月二十七日、土曜日。
午前九時二十六分。
窓の外で、風が街路樹を揺らしていた。
十一月も終わりに近づき、朝の空気はすっかり冷たくなっている。
俺は淹れたばかりのブラックコーヒーを飲みながら、机の上のスマートフォンを見つめていた。
一週間前。
中之島の川沿いで、みくに尋ねた。
『俺って、みくにとって何なんだろうな』
彼女は少し考えてから、答えてくれた。
『大切な人、だよ』
あれから何度、その言葉を思い出しただろう。
俺も、彼女に伝えた。
『一緒にいたい人だ』
好きだとは、まだ言えなかった。
けれど、嘘はつかなかった。
あのとき伝えた言葉は、確かに俺の本心だった。
スマートフォンが震えた。
『朔夜、おはよう!』
みくからだった。
『おはよう』
『今日、少しお散歩しない?』
俺は窓の外を見る。
空は晴れていた。
風は冷たそうだったが、雨の心配はなさそうだ。
『いいぞ。どこに行く?』
『中之島でもいい?』
俺は思わず笑った。
彼女も、あの場所が好きなのだろうか。
『ああ。午後からなら大丈夫だ』
『やった! じゃあ一時半に会おうね!』
『分かった』
送信したあと、少しだけ考える。
そして、もう一通送った。
『今日は寒いから、暖かくして来いよ』
しばらくして、返事が届いた。
『朔夜もね!』
たったそれだけのやり取りが、嬉しかった。
*
午後一時二十四分。
待ち合わせ場所に着くと、みくはまだ来ていなかった。
俺は駅の近くで立ち止まり、行き交う人々を眺めていた。
コートの襟を立てた人。
マフラーに顔を埋める人。
手袋をした小さな子供。
冬が近づいている。
そんなことを考えていると、聞き慣れた声がした。
「朔夜!」
振り返る。
みくが、こちらに向かって歩いてきた。
首元には柔らかそうなマフラーが巻かれている。
「……みく」
「お待たせ!」
「いや。まだ時間前だ」
彼女は笑った。
「朔夜、今日も早いね」
「……お前もな」
「えへへ」
その笑顔を見ると、寒さが少し和らいだような気がした。
「今日はどこ歩く?」
みくが尋ねる。
「……川沿いでいいか?」
「うん!」
俺たちは並んで歩き始めた。
*
中之島の川沿いには、冷たい風が吹いていた。
木々の葉は少なくなり、歩道には茶色や黄色の落ち葉が積もっている。
みくは足元を見ながら、楽しそうに言った。
「落ち葉、いっぱいだね」
「ああ」
「秋も終わっちゃうね」
「……そうだな」
彼女は少しだけ空を見上げた。
「でも、冬も好きだよ」
「寒いのに?」
「寒いけど!」
みくは笑った。
「温かい飲み物が美味しいし、街も綺麗になるし」
「……確かに」
「それにね」
彼女は俺を見た。
「誰かと一緒に歩くと、寒いのも少し楽しい気がする」
俺は返事に困った。
その言葉が、自分に向けられたものなのか。
それとも、ただの何気ない感想なのか。
分からなかった。
けれど。
「……俺もだ」
気づけば、そう答えていた。
みくが目を丸くする。
「ほんと?」
「ああ」
彼女は嬉しそうに笑った。
「そっか!」
それだけで、俺は十分だった。
*
午後二時十二分。
川沿いの小さなベンチに腰を下ろした。
近くでは、子供たちが落ち葉を踏みながら走っている。
みくはその様子を眺め、穏やかに笑っていた。
「……寒くないか?」
俺が尋ねると、彼女は首を横に振った。
「大丈夫!」
「本当か?」
「うん。今日はちゃんと暖かくしてきたから」
そう言って、マフラーを少し持ち上げる。
「朔夜が言ってくれたしね」
俺は彼女を見た。
「……俺が?」
「うん。朝、暖かくして来いって」
「……ああ」
「ちゃんと覚えてたよ」
みくは笑った。
俺が何気なく送った一言。
それを彼女は、覚えていてくれた。
「……そうか」
俺は小さく頷いた。
嬉しかった。
ただ、それだけだった。
しばらくして、みくが口を開いた。
「ねえ、朔夜」
「ん?」
「この前の話、覚えてる?」
俺は彼女を見た。
「……ああ」
忘れるはずがなかった。
『大切な人、だよ』
あの言葉は、今も胸の奥に残っている。
「私ね」
みくは膝の上で手を重ねた。
「ちょっと恥ずかしかったんだ」
「……何が?」
「朔夜に、大切な人って言ったこと」
俺は黙って彼女の話を聞いた。
「本当のことなんだけどね」
みくは少し照れくさそうに笑う。
「ちゃんと言葉にすると、なんか……恥ずかしくて」
「……分かる」
「え?」
「俺も、そうだった」
彼女がこちらを見る。
俺は川面に視線を向けた。
「一緒にいたいって言っただろ」
「……うん」
「言う前は、少し迷った」
「どうして?」
俺は少し考えた。
「……変に思われたら嫌だったから」
みくは、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「変になんて思わないよ」
「……そうか」
「うん」
彼女は続けた。
「むしろ、嬉しかった」
俺は彼女を見た。
みくは少しだけ頬を赤くしていた。
「朔夜が、私と一緒にいたいって思ってくれてるんだなって」
俺は何も言えなかった。
彼女は、俺の言葉をそんなふうに受け取ってくれていた。
そのことが、嬉しかった。
*
午後三時四分。
俺たちはベンチを離れ、ゆっくり歩き始めた。
風が少し強くなっていた。
みくのマフラーの端が、ふわりと揺れる。
「……みく」
「なあに?」
俺は少しだけ歩く速度を落とした。
「この前、言ったことだけど」
「うん」
「……今も、同じだ」
みくが俺を見る。
「……同じ?」
「ああ」
俺は頷いた。
「お前と一緒にいたいと思ってる」
彼女の足が、少しだけ遅くなった。
「……朔夜」
「別に、何か特別な理由があるわけじゃない」
俺は言葉を探した。
「一緒に飯を食ったり、歩いたり」
少し間を置く。
「……こうして、何でもない話をしたり」
みくは黙って聞いていた。
「そういう時間が、好きなんだ」
言い終えてから、胸の奥が落ち着かなくなった。
言いすぎただろうか。
困らせただろうか。
けれど。
みくは、ゆっくり笑った。
「……私も」
その声は、いつもより少し小さかった。
「私も、朔夜といる時間が好きだよ」
俺は彼女を見た。
みくは、まっすぐ俺を見ていた。
「何か特別なことをしなくても」
彼女は続けた。
「一緒に歩いてるだけで、楽しいんだ」
俺は、静かに頷いた。
「……そうか」
「うん」
彼女は笑った。
「だから、また一緒に歩こうね」
「ああ」
俺も笑った。
「……何度でも」
みくは少し驚いたような顔をした。
それから、嬉しそうに頷いた。
「約束だよ?」
「ああ。約束する」
冷たい風が吹いた。
けれど、俺はもう寒さを気にしていなかった。
*
午後四時三十八分。
帰り道。
駅へ向かう途中、みくが小さくつまずいた。
「わっ」
俺は反射的に手を伸ばした。
「……危ない」
彼女の腕を支える。
「大丈夫か?」
「う、うん!」
みくは足元を見た。
「落ち葉で滑っちゃった」
「……気をつけろよ」
「ごめんね」
「謝ることじゃない」
俺は彼女がしっかり立ったのを確認してから、手を離した。
みくは少しだけ俺を見つめていた。
「……どうした?」
「ううん」
彼女は笑った。
「ありがとう」
「……ああ」
俺たちは再び歩き始めた。
しばらくして、みくが言った。
「朔夜って、いつも助けてくれるね」
「……そうか?」
「うん」
彼女は指を折りながら数え始めた。
「雨の日も、寒い日も」
そして、少し笑った。
「今日みたいに転びそうになったときも」
「……たまたまだろ」
「違うよ」
みくは首を横に振った。
「ちゃんと見ててくれるんだよ」
俺は言葉に詰まった。
彼女は、そんなふうに思っていたのか。
「……みくだからだよ」
気づけば、口にしていた。
みくが足を止める。
「……え?」
俺も立ち止まった。
今、何を言った。
慌てて言い直そうとした。
けれど、嘘にはしたくなかった。
「……お前が困ってたら、放っておけない」
みくは黙って俺を見ていた。
「それだけだ」
少しの沈黙。
やがて、彼女が小さく笑った。
「……そっか」
「ああ」
「……ありがとう、朔夜」
その声は、少しだけ震えていた。
俺は何も言わず、頷いた。
それ以上の言葉は、まだ必要なかった。
*
午後五時二十一分。
駅の改札前。
みくはマフラーを直しながら、俺を見た。
「今日はありがとう」
「……こちらこそ」
「また会おうね」
「ああ」
彼女は少しだけ迷ったあと、言った。
「……朔夜」
「何だ?」
「私ね」
みくは、ゆっくり笑った。
「朔夜の隣、好きだよ」
胸の奥が、大きく動いた。
「……そうか」
それだけ答えるのが精一杯だった。
みくは少し照れくさそうに笑った。
「じゃあ、またね!」
「ああ。またな、みく」
彼女が改札を通る。
振り返って、小さく手を振った。
俺も手を上げた。
その姿が見えなくなるまで、俺は立っていた。
*
午後九時三十一分。
机の引き出しを開ける。
二通の手紙。
オムライスの日のメモ。
みくからもらったカード。
どれも、変わらずそこにあった。
今日も、手紙は書かなかった。
けれど、胸の奥には、残しておきたい言葉が増えていた。
『朔夜の隣、好きだよ』
俺は、その言葉を何度も思い出した。
彼女にとって、俺の隣が安心できる場所であること。
それが、嬉しかった。
俺も、彼女の隣が好きだった。
歩く速度を合わせて。
同じ景色を見て。
何でもない話をする。
そんな時間が、何よりも大切だった。
スマートフォンが震えた。
『今日は楽しかった! また一緒にお散歩しようね』
俺はすぐに返事を打った。
『ああ。また歩こう』
少し迷ってから、もう一言付け加えた。
『次も、隣を歩いてくれ』
送信したあと、画面を見つめる。
やがて、返事が届いた。
『もちろん!』
その下に、もう一通。
『ずっと隣がいいな』
俺は、しばらくその文字を見つめていた。
ずっと。
その言葉が、胸の奥に静かに残った。
明日も。
来週も。
来月も。
もっと先の未来も。
君の隣を歩いていたい。
それが、今の俺の願いだった。
君の隣にいる理由。
そんなものを、難しく考える必要はないのかもしれない。
ただ、君と一緒にいたい。
それだけで、十分だった。




