第7話 君のいない日曜日
二〇二七年、十月三十一日。
日曜日。
午前九時十七分。
目が覚めて、最初に見たのはスマートフォンだった。
画面には、昨夜のみくとのやり取りが残っている。
『朔夜が元気なら、それでいいよ』
その一文を、もう何度読んだだろう。
俺は画面を閉じ、天井を見上げた。
昨日は、雨だった。
中之島の川沿いを、二人で歩いた。
一本の傘に入って、肩が触れそうな距離で。
雨がやんだとき、少し寂しかった。
けれど、みくは自分から俺の隣に戻ってきてくれた。
『もう少し、歩かない?』
その声を思い出す。
……参ったな。
たった一日で、こんなにも変わるものなのか。
昨日は隣にいた人が、今日はいない。
ただ、それだけのことなのに。
部屋が、いつもより静かに感じられた。
*
午前十時四十二分。
朝食を済ませ、洗い終えた食器を片づけた。
窓の外は晴れている。
昨日の雨が嘘のような青空だった。
玄関には、乾いた黒い折り畳み傘がある。
俺はそれを手に取り、しばらく眺めた。
何の変哲もない傘。
昨日までは、ただの雨具だった。
なのに今は、見るだけで彼女の声が聞こえてくる。
『もっと真ん中にして!』
思わず笑ってしまった。
「……怒られたな」
あんなふうに、真剣に心配されたのは初めてだった。
俺は傘を畳み、元の場所へ戻した。
それから、上着を羽織った。
今日は特に予定がない。
買うものもない。
誰かと会う約束もない。
それでも、外へ出ようと思った。
部屋にいると、昨日のことばかり考えてしまうから。
……いや。
外に出たところで、きっと同じだろう。
*
午後零時二十八分。
気づけば、昨日歩いた中之島の近くまで来ていた。
川沿いには、散歩を楽しむ人たちがいる。
昨日、みくと並んで歩いた道。
昨日、二人で見上げた建物。
昨日、雨宿りをしながら笑った場所。
景色は、ほとんど変わっていない。
変わったのは、隣に彼女がいないことだけだった。
「……何やってんだ、俺」
思わず呟いた。
会う約束もしていないのに、昨日と同じ場所へ来てしまった。
まるで、ここに来れば彼女に会えるとでも思っているみたいじゃないか。
俺は小さく息を吐き、歩き出した。
橋を渡り、少し細い通りへ入る。
そこで、一軒の店が目に留まった。
古い木製の扉。
小さなガラス窓。
入り口の横には、手書きの看板が置かれている。
『古書と小さな雑貨』
……古本屋か。
普段なら、通り過ぎていただろう。
けれど、その日は何となく足を止めた。
窓の向こうに、色とりどりの小物が並んでいたからだ。
その中に。
小さな青いものが見えた。
*
午後零時三十四分。
扉を開けると、小さな鈴が鳴った。
からん。
店内には、古い紙の匂いが漂っていた。
天井近くまで並んだ本棚。
少し色あせた背表紙。
窓から差し込む柔らかな光。
奥では、年配の店主が本を読んでいる。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声がした。
「……少し、見てもいいですか」
「どうぞ、ごゆっくり」
俺は軽く頭を下げ、店内を歩いた。
古い小説。
詩集。
旅の写真集。
手作りの便箋や、小さなガラス細工。
その一角に、栞が並んでいた。
木製のもの。
革でできたもの。
薄い金属に模様を彫ったもの。
そして。
透明な栞。
俺は、そこで足を止めた。
細長い透明な樹脂の中に、小さな青い花が閉じ込められていた。
花びらは五枚。
淡い青色。
まるで、晴れた日の空を小さく切り取ったようだった。
……綺麗だな。
そう思った次の瞬間。
みくの顔が浮かんだ。
『わあ、綺麗!』
きっと、あいつならそう言う。
目を輝かせて、栞を光に透かして。
それから、少し嬉しそうに笑うんだろう。
俺は、栞を手に取った。
光の角度を変えると、青い花が柔らかく輝いた。
……似合いそうだな。
そう思った。
みくに。
*
「贈り物ですか?」
不意に声をかけられた。
顔を上げると、店主がこちらを見ていた。
「……え?」
「その栞。どなたかに?」
俺は、手元を見下ろした。
透明な栞。
小さな青い花。
そして、頭の中に浮かぶ彼女の笑顔。
「……まあ」
曖昧に答える。
店主は、優しく笑った。
「素敵ですね」
「……まだ、渡すかどうかも決めてませんけど」
「それでも、誰かを思い浮かべて選ぶものは、きっと特別ですよ」
俺は、もう一度栞を見つめた。
特別。
そんな大げさなものじゃない。
ただ、みくが喜びそうだと思っただけだ。
……それだけのはずだった。
「これ、ください」
気づけば、そう言っていた。
店主は栞を受け取り、小さな紙袋に入れてくれた。
「贈り物なら、こちらもお付けしましょうか」
差し出されたのは、淡いクリーム色の封筒だった。
「栞が折れないように、厚紙を入れてあります」
「……ありがとうございます」
俺は紙袋を受け取った。
店を出ると、秋の風が頬を撫でた。
手の中には、小さな贈り物。
たったそれだけなのに。
何だか、いつもより足取りが軽かった。
*
午後一時二十六分。
近くの喫茶店に入った。
注文したのは、いつものブラックコーヒー。
窓際の席に座り、紙袋をテーブルの上に置く。
……どうして買ったんだろうな。
誕生日でもない。
記念日でもない。
何かのお礼というわけでもない。
ただ、店で見かけて。
彼女の顔が浮かんで。
気づけば、買っていた。
俺は紙袋から栞を取り出した。
透明な樹脂の中で、青い花が静かに咲いている。
「……あいつ、喜ぶかな」
口に出してから、少し驚いた。
自分のために何かを買うとき、こんなに迷ったことはない。
必要か。
使えるか。
値段は妥当か。
それだけ考えれば、十分だった。
けれど、今は違う。
彼女が好きかどうか。
似合うかどうか。
笑ってくれるかどうか。
そんなことばかり考えている。
……俺は、何をやってるんだ。
小さく笑った。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ。
こうして彼女のことを考える時間が、楽しかった。
*
午後二時四分。
スマートフォンが震えた。
みくからだった。
『朔夜、何してる?』
俺は、思わず画面を見つめた。
まるで、今考えていたことを見透かされたみたいだった。
『外にいる』
『お出かけ?』
『まあな』
『いいなあ! どこ?』
『中之島の近く』
送信する。
すぐに返事が来た。
『えー! 昨日行ったところじゃん!』
『たまたまだ』
『本当に?』
『本当だ』
少し間が空いた。
それから。
『朔夜、もしかして昨日のこと思い出してた?』
俺は、コーヒーカップを持つ手を止めた。
……何で分かるんだよ。
『別に』
そう打って、消した。
昨日の雨。
一本の傘。
彼女の手。
隣に戻ってきてくれたこと。
全部、思い出していた。
それなのに。
何もなかったことにするのは、少し違う気がした。
『……少しな』
送信する。
返事は、すぐだった。
『私も!』
たった三文字。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
『昨日、本当に楽しかったね』
『ああ』
『また一緒に行こうね!』
『そうだな』
俺は、画面を見つめた。
そして、少し迷ってから文字を打った。
『今度は、別の場所でもいいな』
『うん! 朔夜とならどこでも楽しいよ!』
……また、それだ。
彼女は、どうしてこうも簡単に、俺が欲しかった言葉をくれるんだろう。
俺は、しばらく返事ができなかった。
*
午後四時十一分。
部屋に戻った。
窓から差し込む光が、床の上に長い影を落としている。
俺は上着を脱ぎ、机に向かった。
紙袋から、透明な栞を取り出す。
小さな青い花。
光に透かすと、花びらの輪郭がくっきり見えた。
俺は、机の引き出しを開けた。
そこには、一通の手紙と、小さなメモが入っている。
初めてみくに会った日の手紙。
そして、オムライスを作った日のメモ。
俺は、それらを少し眺めた。
……不思議だな。
たった半月ほど前まで。
この引き出しには、何も特別なものは入っていなかった。
ただの文房具。
使いかけのノート。
予備のペン。
それだけだった。
なのに今は。
彼女との思い出が、少しずつ増えている。
俺は、栞を封筒に戻した。
そして、手紙とメモの隣へ、そっと置いた。
まだ、渡していない。
渡せるかどうかも、分からない。
けれど。
次に会ったとき。
きっと、渡そう。
そう思った。
*
午後八時三十六分。
夕食を終え、ソファに座っていた。
テレビはついている。
けれど、何を放送しているのか、ほとんど頭に入ってこなかった。
俺は、スマートフォンを手に取った。
みくとのメッセージを開く。
『また一緒に行こうね!』
その言葉が、画面に残っている。
……また。
彼女は、何度もそう言ってくれる。
次がある。
また会える。
そんな当たり前の未来を、疑いもせずに。
俺は、少し考えた。
次に会うのは、いつだろう。
来週か。
それとも、もっと先か。
……いや。
そんなに待たなくてもいいんじゃないか。
俺は、メッセージの入力欄を開いた。
『今度、会わないか』
そこまで打って、指を止めた。
以前の俺なら。
きっと、消していただろう。
会いたいなんて。
そんな言葉を、自分から伝えるのが怖かった。
断られたらどうしよう。
迷惑だったらどうしよう。
そう考えて、何度も指を止めていた。
けれど。
今日は、少し違った。
彼女は、昨日。
雨がやんでも、俺の隣へ戻ってきてくれた。
今日も。
俺とまた出かけたいと言ってくれた。
だったら。
俺だって、伝えていいはずだ。
会いたいと。
……いや。
まだ、その言葉を直接送る勇気はなかった。
俺は、文章を少し書き直した。
『今度、また一緒に出かけないか』
そして。
送信した。
数秒後。
『行く!』
返事が届いた。
俺は、思わず笑った。
……本当に、敵わねぇな。
*
午後十一時二分。
寝る前に、もう一度机の引き出しを開けた。
透明な栞を取り出す。
小さな青い花が、部屋の明かりを受けて輝いた。
俺は、それを手のひらに載せた。
昨日は、隣にいた。
今日は、いなかった。
けれど。
会えなかった今日も、決して寂しいだけの一日じゃなかった。
街を歩けば、彼女の好きそうなものが目に入る。
綺麗な景色を見れば、一緒に見たいと思う。
美味しそうなものを見れば、食べさせてやりたいと思う。
そして。
小さな花を見つければ、彼女の笑顔が浮かぶ。
俺は、今まで知らなかった。
誰かを好きになるというのは。
一緒にいる時間だけのことじゃない。
離れている時間さえ。
その人で、いっぱいになってしまうことなんだ。
俺は、栞を封筒に戻した。
次に会ったら、渡そう。
何でもない顔をして。
『たまたま見つけたから』
そう言えばいい。
……きっと、みくには見抜かれるだろうけど。
俺は、ベッドに横になった。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
昨日の雨は、もう降っていない。
けれど。
あの傘の下で感じた温かさは、まだ胸の奥に残っていた。
「……早く、渡してぇな」
小さく呟く。
それは、栞のことだった。
けれど。
本当に待ち遠しいのは、栞を渡す瞬間じゃない。
それを受け取った彼女が、どんな顔で笑うのか。
その笑顔を、もう一度見られることだった。
会えない日曜日。
彼女のいない一日。
それでも、俺は今日という日を、少しだけ好きになっていた。
彼女を思い出すたび。
次に会う日が、楽しみになったから。
――第7話 終――




