第6話 君の隣が、僕の居場所になる
二〇二七年、十月三十日。
午後三時十二分。
大阪、中之島。
秋の風が、川沿いの並木を静かに揺らしていた。
俺は隣を歩くみくを、横目で見た。
「朔夜、見て! あの建物、すごく綺麗!」
みくが指さした先には、大阪市中央公会堂があった。
赤レンガの壁が午後の日差しを受け、柔らかな橙色に染まっている。
「……そうだな」
「反応薄い!」
「綺麗だって言ってるだろ」
「もっと感動してよ!」
「お前の分まで感動したら、騒がしくなるだろ」
「もう!」
そう言いながら、みくは笑った。
俺も、つられて口元を緩める。
あの日。
彼女が俺の部屋でオムライスを食べてから、一週間が経っていた。
その間、俺たちは何度もメッセージを交わした。
おはよう。
おやすみ。
今日は何を食べた。
こんなことがあった。
そんな、何でもない話ばかりだった。
けれど。
気づけば、彼女からの連絡を待つことが、一日の楽しみになっていた。
そして今日。
俺は初めて、自分から彼女を誘った。
『今度の土曜日、暇か?』
たったそれだけの文章を送るのに、十分近くかかった。
返事は、驚くほど早かった。
『暇だよ! 朔夜とお出かけ?』
『……そうだ』
『行く!』
その一文字を見た瞬間。
俺は、誰もいない部屋で笑っていた。
……今思い出しても、少し恥ずかしい。
*
午後三時三十八分。
俺たちは川沿いの遊歩道を歩いていた。
水面には、秋の空が映っている。
時折、風に揺れた木の葉が、足元を転がっていった。
「ねえ、朔夜」
「何だ?」
「こうやって一緒に歩くの、なんかいいね」
「……何が?」
「何も決めずに、ただ歩くの」
みくは、川の向こうを見つめた。
「どこかに行かなきゃって思わなくても、楽しいんだよね」
俺は、その言葉を考えた。
目的地のない散歩。
特別な予定もない休日。
以前の俺なら、退屈だと思ったかもしれない。
けれど、今は違った。
隣で彼女が笑っている。
それだけで、時間が過ぎるのが惜しい。
「……俺も、嫌いじゃない」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ、また一緒に歩こうね!」
また。
彼女は、当たり前のように未来の話をする。
来週。
来月。
来年。
まるで、これからも俺が隣にいると信じているみたいに。
俺は、そのことが嬉しかった。
*
午後四時九分。
最初に気づいたのは、風の変化だった。
さっきまで穏やかだった空気が、急に冷たくなる。
俺は空を見上げた。
西の方から、灰色の雲が広がっていた。
「……降りそうだな」
「えっ?」
みくも空を見上げる。
「本当だ。さっきまで晴れてたのに」
「傘、持ってるか?」
「……持ってない」
「だろうな」
「何その言い方!」
俺は鞄を開けた。
中から、黒い折り畳み傘を取り出す。
「俺は持ってる」
「わあ、準備いいね!」
「天気が変わりやすそうだったからな」
「さすが朔夜!」
「大げさだ」
そう言った直後。
ぽつり。
俺の手の甲に、水滴が落ちた。
続いて、もう一滴。
そして。
雨が降り始めた。
*
午後四時十三分。
雨脚は、思ったより早く強くなった。
俺は傘を開いた。
黒い布が、二人の頭上に広がる。
「……入れよ」
「えっ、いいの?」
「濡れるだろ」
「でも、朔夜は?」
「二人くらい入れる」
みくは少し迷ったあと、俺の隣へ近づいた。
「じゃあ……お邪魔します」
「傘にお邪魔しますって何だよ」
「だって、なんとなく!」
彼女が笑う。
俺は、傘を持つ手に少し力を込めた。
……近い。
思っていたより、ずっと。
肩が触れそうな距離。
少し顔を向ければ、彼女の横顔が見える。
雨の音が、傘の上で小さく弾けていた。
「朔夜?」
「……何だ」
「歩かないの?」
「ああ、悪い」
俺たちは、ゆっくり歩き始めた。
傘は、決して大きくなかった。
二人で入れば、どうしても片方の肩が外へ出る。
俺は、無意識に傘を彼女の方へ傾けた。
みくの肩が濡れないように。
髪に雨粒が落ちないように。
ただ、それだけを考えていた。
*
午後四時二十一分。
「……あれ?」
みくが足を止めた。
「朔夜、ちょっと待って」
「どうした?」
彼女は俺の右肩を見つめていた。
「肩、濡れてる!」
「……ああ」
「ああ、じゃないよ! びしょびしょじゃん!」
「このくらい平気だ」
「平気じゃない!」
みくは、傘の柄に手を伸ばした。
「もっと真ん中にして!」
「お前が濡れるだろ」
「朔夜だって濡れちゃうでしょ!」
「俺は別に――」
「駄目!」
いつもより少し強い声だった。
俺は、思わず口を閉じた。
みくは、真剣な顔で俺を見上げていた。
「朔夜が私を濡らさないようにしてくれたんでしょ?」
「……まあな」
「だったら、私にも心配させてよ」
その言葉に。
俺は、何も返せなかった。
心配。
彼女が、俺を。
ただ濡れているだけなのに。
それでも彼女は、自分のことのように気にしてくれている。
俺は、傘を持つ手を少し緩めた。
みくが、柄に手を添える。
その瞬間。
指先が触れた。
「……っ」
ほんの一瞬だった。
けれど、俺は手を引きそうになった。
驚いたから。
どうしていいか、分からなかったから。
でも。
引かなかった。
彼女も、手を離さなかった。
二人の手が、同じ傘を支えていた。
「……これなら、二人とも濡れないね」
みくが笑う。
「……そうだな」
俺は、そう答えるのが精いっぱいだった。
*
午後四時三十七分。
雨は、まだ降り続いていた。
俺たちは、同じ傘の下を歩いている。
少しずつ、歩幅が揃ってきた。
彼女が立ち止まれば、俺も止まる。
俺が歩き出せば、彼女も隣を歩く。
それが、妙に心地よかった。
「ねえ、朔夜」
「何だ?」
「雨って、嫌い?」
突然の質問だった。
「……嫌いだな」
「即答!」
「濡れるし、靴も汚れる。予定も狂う」
「確かにね」
みくは、小さく笑った。
「でも、私は今日の雨、ちょっと好きかも」
「……何でだよ」
「だって」
彼女は、俺を見上げた。
「朔夜と一緒に傘に入れたから」
俺は、言葉を失った。
雨の音が、少しだけ大きく聞こえた。
彼女は、何でもないことのように言った。
けれど。
俺にとっては、何でもない言葉じゃなかった。
「……そうかよ」
それだけ答える。
顔を見られたくなくて、少し前を向いた。
みくが、くすくす笑っている。
「朔夜、照れてる?」
「照れてねぇ」
「本当に?」
「……うるせぇ」
「ふふっ!」
俺は、小さく息を吐いた。
……敵わねぇな。
本当に。
*
午後四時五十二分。
雨は、少しずつ弱まっていた。
川面には、街灯の光が映り始めている。
細かな雨粒が水面を叩くたび、光が小さく揺れた。
中央公会堂の赤レンガも、雨に濡れて深い色を帯びていた。
夕暮れの大阪は、どこか静かだった。
俺は、空を見上げた。
雲の切れ間から、淡い光が差している。
……もうすぐ、やむ。
そう思った瞬間。
胸の奥に、小さな寂しさが生まれた。
雨がやめば。
この傘を閉じることになる。
そうしたら、彼女は少し離れるだろう。
今みたいに、肩が触れそうな距離を歩く理由もなくなる。
……それが、嫌だった。
俺は、雨が嫌いだ。
ずっと、そうだった。
濡れることも。
冷たい風も。
空が暗くなることも。
何一つ、好きじゃなかった。
けれど。
今日だけは。
もう少し、このままでいたかった。
雨が降るたび、俺は早くやめばいいと思っていた。
なのに。
生まれて初めて。
雨が、もう少し続けばいいと思った。
*
午後五時三分。
雨がやんだ。
傘を叩いていた音が、静かに消えていく。
「あ、やんだね!」
みくが空を見上げる。
「……そうだな」
俺は、傘を閉じた。
冷たい空気が、二人の間を通り抜ける。
みくが一歩、横へ離れた。
たった、それだけ。
けれど。
さっきまでの距離が、急に遠く感じられた。
俺は、閉じた傘を見つめた。
……馬鹿みたいだ。
雨がやんだだけだろ。
それなのに、何を寂しがっているんだ。
そう思った、そのとき。
「ねえ、朔夜」
声がした。
顔を上げる。
みくが、俺の隣に戻ってきた。
傘がないのに。
雨は、もう降っていないのに。
さっきと同じくらい、近くに。
「もう少し、歩かない?」
彼女が笑った。
俺は、その顔を見つめた。
……ああ。
そうか。
雨が降っていたから、一緒にいたわけじゃない。
傘があったから、隣にいたわけでもない。
彼女は。
自分から、俺の隣へ戻ってきてくれた。
それだけのことが。
どうしようもなく、嬉しかった。
「……ああ」
俺は、小さく笑った。
「もう少し、歩こうぜ」
「うん!」
二人は、再び歩き始めた。
*
午後五時二十六分。
中之島の川沿いには、夜の気配が近づいていた。
街灯が、一つ、また一つと灯っていく。
濡れた石畳が、柔らかな光を映していた。
俺たちは、並んで歩いた。
もう、傘は差していない。
肩が触れそうな距離でもない。
けれど。
不思議と、寂しくなかった。
「朔夜」
「何だ?」
「今日、楽しかったね」
「……ああ」
「また来ようね」
「そうだな」
「今度は晴れてるといいね!」
俺は、少し考えた。
晴れの日。
雨の日。
どちらでもいい。
彼女が隣にいるなら。
きっと、どんな天気でも悪くない。
「……雨でもいいんじゃねぇか」
そう言うと、みくが目を丸くした。
「えっ?」
「何だよ」
「朔夜、雨嫌いなんじゃなかった?」
「……嫌いだ」
「じゃあ、どうして?」
俺は、少しだけ視線を逸らした。
「……お前となら、別に悪くねぇと思っただけだ」
言ってから、後悔した。
何を言ってるんだ、俺は。
こんなの。
ほとんど――
「……そっか」
みくが、小さく笑った。
「私も、朔夜となら雨の日も好きだよ」
その声は、いつもより少しだけ優しかった。
俺は、返事ができなかった。
ただ。
隣を歩く彼女の足音を、聞いていた。
*
午後七時四十八分。
部屋に戻ると、濡れた折り畳み傘を広げて乾かした。
右肩のシャツは、まだ少し湿っている。
俺は着替えを済ませ、机に向かった。
引き出しを開ける。
そこには、一通の手紙と、小さなメモが入っていた。
最初に出会った日の手紙。
そして、彼女の好きなオムライスについて書いたメモ。
俺は、その隣に今日のことを残そうとして、手を止めた。
何を書けばいいのだろう。
雨が降ったこと。
同じ傘に入ったこと。
彼女が俺の肩を心配してくれたこと。
指が触れたこと。
雨がやんでも、隣へ戻ってきてくれたこと。
……全部、覚えていたい。
けれど。
今日は、手紙を書かなかった。
代わりに、折り畳み傘を見つめた。
黒い、何の変哲もない傘。
今まで何度も使ってきた。
けれど、今日からは。
きっと、少し違うものになる。
俺は、玄関で広げたままの傘を見つめた。
雨粒は、もう落ちていなかった。
それでも、今夜はもう少し、このままにしておこうと思った。
*
午後十一時十四分。
スマートフォンが震えた。
『朔夜、今日はありがとう!』
みくからだった。
『こちらこそ』
そう返す。
少しして、もう一通届いた。
『肩、大丈夫? 風邪ひいてない?』
俺は、思わず笑った。
『大丈夫だ。心配しすぎ』
『だって、私のせいで濡れちゃったから』
『お前のせいじゃねぇよ』
そう送ってから、少し考えた。
そして。
『心配してくれて、ありがとな』
送信する。
数秒後。
『どういたしまして!』
続けて。
『朔夜が元気なら、それでいいよ』
俺は、その言葉を何度も読み返した。
彼女は、俺が元気ならそれでいいと言う。
俺は、彼女が笑ってくれればそれでいいと思う。
……似ている。
俺たちは、案外似ているのかもしれない。
俺は、スマートフォンを胸元に置いた。
目を閉じる。
雨の音が、まだ耳に残っている気がした。
あの日。
初めて彼女に出会った日も、雨だった。
そして今日。
彼女と一つの傘に入った日も、雨だった。
俺は、雨が嫌いだった。
けれど。
彼女と出会ってから。
嫌いだったはずの雨が、少しずつ違うものになっていく。
雨そのものが、好きになったわけじゃない。
ただ。
彼女が隣にいるだけで。
世界の見え方が、変わってしまうのだ。
「……おやすみ、みく」
小さく呟く。
返事はない。
それでも、寂しくはなかった。
明日も、彼女と話せる。
また、会える。
そう信じられるから。
俺は、静かに目を閉じた。
今日、初めて知った。
誰かの隣にいることが、こんなにも心地いいということを。
そして。
誰かが自分の隣を選んでくれることが、こんなにも嬉しいということを。
俺は、まだ知らなかった。
この何気ない雨の日が、いつか自分にとって、何より大切な記憶になることを。
ただ、今は。
彼女の隣にいられることが、嬉しかった。
――第6話 終――




