第5話 君のために、初めて作るもの
第5話 君のために、初めて作るもの
二〇二七年、十月十九日。
午前七時十二分。
スマートフォンが震えた。
目を開ける。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
画面に表示されていたのは、一件のメッセージ。
『おはよう、朔夜!』
みくだった。
俺は、しばらくその文字を見つめた。
昨日の夜。
俺は、彼女に「会いたい」と送れなかった。
何度も入力しては消した、たった三文字。
けれど今朝、彼女は何事もなかったように俺の名前を呼んでいる。
それだけで、少し嬉しかった。
『おはよう』
返信する。
すぐに既読がついた。
『今日もいい天気だね!』
『そうだな』
『朔夜、ちゃんと朝ごはん食べてね!』
「……母親かよ」
思わず呟いた。
けれど、口元は緩んでいた。
『お前もな』
『はーい!』
短いやり取り。
それだけで、いつもの朝が少し違って感じられた。
俺はベッドから起き上がった。
そして、ふと思い出す。
昨夜の約束。
『朔夜のオムライス食べてみたい!』
「……オムライス、か」
料理は嫌いじゃない。
手順通りに作れば、たいていのものは完成する。
けれど。
誰かに食べてもらうために料理をする。
それは、俺にとって少し特別なことだった。
*
午後零時三十八分。
昼休み。
俺はスマートフォンを取り出した。
みくとの会話を開く。
『なあ』
送信。
『なにー?』
『オムライス、どんなのが好きなんだ』
数秒後。
『えっ!?』
『作ってくれるの!?』
『約束しただろ』
『覚えててくれたんだ!』
俺は画面を見つめた。
覚えているに決まっている。
昨日交わした約束だ。
忘れる理由がない。
『卵はふわふわがいい!』
『あと、ケチャップライスは濃いめが好き!』
『わがままかな?』
『別に』
『分かった』
『やったー! 楽しみ!』
楽しみ。
また、その言葉だ。
彼女は何度も、俺との時間を楽しみにしていると言う。
俺はそのたびに、どう返せばいいのか分からなくなる。
けれど今日は。
『……俺も』
そこまで入力して、指が止まった。
俺も、楽しみだ。
そう送ればいい。
昨日より、ずっと簡単な言葉のはずだった。
なのに、少しだけ迷う。
結局。
『うまく作れるかは分からねぇけどな』
そう書き換えて送信した。
『朔夜が作ってくれるなら、それだけで嬉しいよ!』
彼女は、また真っ直ぐな言葉を返してきた。
「……ずるいだろ」
誰もいない場所で、小さく呟く。
俺ばかりが、言葉を飲み込んでいる気がした。
*
二〇二七年、十月二十日。
午後六時十四分。
スーパーの食品売り場。
俺は買い物かごを持ち、卵の前で立ち止まっていた。
「……ふわふわ、ねぇ」
みくの言葉を思い出す。
卵はふわふわ。
ケチャップライスは濃いめ。
それが彼女の好みらしい。
俺は卵をかごに入れた。
鶏肉。
玉ねぎ。
ケチャップ。
バター。
牛乳。
必要な材料を一つずつ確認する。
料理は、手順が大切だ。
材料の量。
火加減。
加熱時間。
それらを守れば、失敗は少ない。
少なくとも、今まではそうだった。
けれど。
今回は、失敗したくなかった。
みくが食べるからだ。
その理由だけで、いつもより慎重になっていた。
*
午後七時二十六分。
自宅のキッチン。
フライパンの中で、卵が固まっていく。
「……違うな」
一回目。
卵に火を通しすぎた。
ふわふわというより、しっかり焼いた卵焼きに近い。
味は悪くない。
だが、彼女が望んだものとは違う。
二回目。
火を弱め、卵を動かす。
今度は柔らかく仕上がった。
けれど、形が崩れた。
「……難しいな」
料理の手順は理解できる。
だが、同じ材料を使っても、同じ仕上がりにはならない。
火加減。
手を動かす速さ。
ほんの数秒の違い。
それだけで、結果が変わる。
三回目。
ようやく、納得できる形になった。
俺は皿の上のオムライスを見つめた。
卵は柔らかい。
中のケチャップライスも、濃いめに仕上げた。
悪くない。
……いや。
「……これなら、喜ぶか」
自分でも驚いた。
俺が考えていたのは、料理の完成度ではなかった。
彼女が、これを食べて笑うかどうか。
それだけだった。
俺はスマートフォンを取り出した。
『二十三日、空いてるか』
送信。
少しして、返信が来た。
『空いてるよ!』
『どうしたの?』
『オムライス、作る』
『ええっ!? 本当に!?』
『ああ』
『行きたい!』
『じゃあ、昼くらいに来い』
『うん! 楽しみにしてるね!』
俺は画面を見つめた。
それから、キッチンを振り返る。
使い終わったフライパン。
洗い物。
試作した三皿のオムライス。
「……何やってんだ、俺」
呆れたように呟いた。
けれど、後悔はなかった。
*
二〇二七年、十月二十三日。
土曜日。
午前十一時二十六分。
インターホンが鳴った。
俺は時計を見た。
約束の時間より、少し早い。
玄関へ向かい、扉を開ける。
「朔夜!」
みくが立っていた。
柔らかな色の服を着て、小さな鞄を持っている。
俺を見ると、いつものように笑った。
「こんにちは!」
「……ああ。入れよ」
「お邪魔しまーす!」
彼女は靴を揃えて、部屋に入った。
それだけのことなのに。
いつも静かな部屋が、急に賑やかになった気がした。
「わあ、綺麗にしてるね!」
「普通だろ」
「ちゃんとしてる!」
「……子供扱いすんな」
「あははっ!」
みくは楽しそうに笑った。
俺はキッチンへ向かった。
「少し待ってろ。今から作る」
「えっ、私も手伝おうか?」
「今日はいい」
「どうして?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
どうして。
理由は、簡単だった。
彼女に食べてもらいたいから。
俺が作ったものを。
けれど、そのまま口にするのは妙に照れくさかった。
「……俺が作るって約束しただろ」
そう答える。
みくは目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「そっか。じゃあ、楽しみに待ってるね!」
俺は頷いた。
背中を向ける。
その瞬間、少しだけ緊張した。
料理をするだけだ。
何度も練習した。
手順も覚えている。
なのに。
どうして、こんなに落ち着かないのだろう。
*
午後零時六分。
テーブルに、二皿のオムライスを並べた。
ふわふわの卵。
濃いめに味つけしたケチャップライス。
そして。
「……あ」
みくが小さく声を上げた。
俺は、彼女の視線の先を見た。
オムライスの上。
ケチャップで描いた、小さな花。
……のつもりだった。
花びらは左右で大きさが違う。
線は少し曲がっている。
中心も、微妙にずれていた。
どう見ても、綺麗な花とは言い難い。
「……失敗した」
俺は呟いた。
みくが顔を上げる。
「え?」
「ケチャップ」
俺は皿を指差した。
「花にするつもりだったんだけどな」
彼女はもう一度、皿を見た。
そして。
「……可愛い!」
「は?」
「すっごく可愛い!」
俺は思わず、彼女を見た。
「……どこがだよ」
「ここ!」
みくは花を指差した。
「ちょっと曲がってるところ!」
「そこは失敗だろ」
「違うよ!」
彼女は真剣な顔で首を振った。
「朔夜が描いてくれたんでしょ?」
「……ああ」
「じゃあ、世界に一つしかない花だよ」
俺は何も言えなくなった。
世界に一つ。
そんな大げさなものじゃない。
ただのケチャップだ。
食べれば消える。
皿を洗えば、何も残らない。
けれど。
彼女は、宝物を見つけたように笑っていた。
「ありがとう、朔夜」
その声を聞いた瞬間。
俺は、ようやく気づいた。
俺は、綺麗な花を描きたかったわけじゃない。
彼女に、喜んでほしかったのだ。
「……冷めるぞ」
照れ隠しに、そう言った。
みくは笑った。
「はーい!」
*
午後零時十二分。
「いただきます!」
みくはスプーンを手に取った。
俺は、何となく彼女を見ていた。
一口。
彼女がオムライスを口に運ぶ。
噛む。
飲み込む。
その間が、妙に長く感じられた。
「……どうだ」
思わず尋ねる。
みくは顔を上げた。
そして。
「美味しい!」
笑った。
「卵ふわふわ! ご飯も味がしっかりしてる!」
「……そうか」
「すごいよ、朔夜!」
「大げさだろ」
「大げさじゃないよ!」
彼女はもう一口食べた。
「本当に美味しい!」
俺は、ようやく自分の皿に手を伸ばした。
一口食べる。
味は、練習したときと大きく変わらない。
いつも通りのオムライスだった。
なのに。
なぜだろう。
今日のほうが、ずっと美味しく感じた。
「ねえ、朔夜」
「何だ」
「また作ってね」
「……気に入ったのか」
「うん!」
彼女は、ケチャップの花を見つめた。
「次も、お花描いてほしいな」
「……今度はもっと綺麗に描く」
「えー!」
「何だよ」
「このままがいい!」
「曲がってるだろ」
「そこが好きなの!」
俺は呆れたように息を吐いた。
彼女の好みは、よく分からない。
けれど。
「……分かったよ」
そう答えた。
「次も、花にする」
「約束ね!」
また、約束が一つ増えた。
*
午後一時四十八分。
食器を洗い終えると、みくが隣に立った。
「手伝えなくてごめんね」
「気にすんな」
「でも、全部朔夜にやってもらっちゃった」
「俺がやるって言ったんだろ」
「……そっか」
彼女は少し考えた。
それから、笑った。
「じゃあ、次は私が何か作るね!」
「……お前が?」
「うん!」
「何を」
「それは秘密!」
「……大丈夫なのかよ」
「失礼だなあ!」
みくは頬を膨らませた。
俺は小さく笑った。
「冗談だ」
「絶対、びっくりさせるからね!」
「ああ。楽しみにしてる」
言ってから、気づいた。
楽しみにしてる。
昨日まで、あんなに言いづらかった言葉。
それが今、自然に口から出ていた。
みくも気づいたらしい。
「……朔夜」
「何だ」
「今、楽しみって言った?」
「……言ったけど」
「ふふっ」
「何だよ」
「嬉しい」
彼女は、ただそれだけを言った。
俺は目を逸らした。
きっと今、少し変な顔をしている。
そんな気がした。
*
午後五時二十九分。
駅まで、みくを送った。
秋の夕暮れ。
少し冷たい風が、二人の間を通り抜ける。
「今日はありがとう!」
みくが言った。
「……ああ」
「オムライス、本当に美味しかったよ」
「何回言うんだよ」
「何回でも!」
彼女は笑った。
俺も、少しだけ笑った。
「ねえ、朔夜」
「何だ」
「今日のこと、忘れないでね」
俺は彼女を見た。
「……何でだよ」
「だって、初めて朔夜が作ってくれたご飯だもん」
彼女は照れくさそうに笑った。
「私、絶対忘れないと思う」
俺は、少し考えた。
今日のこと。
買い物をしたこと。
何度も練習したこと。
花が曲がったこと。
彼女が笑ったこと。
忘れる理由など、どこにもなかった。
「……忘れねぇよ」
俺は答えた。
「本当?」
「ああ」
「約束?」
「……ああ。約束だ」
みくは嬉しそうに頷いた。
「じゃあね、朔夜!」
「またな」
彼女は手を振り、改札の向こうへ消えていった。
俺は、しばらくその場所に立っていた。
彼女が見えなくなっても。
もう一度、名前を呼ばれるような気がして。
*
午後七時十六分。
帰宅して、机に向かう。
スマートフォンには、みくからのメッセージが届いていた。
『今日はありがとう!』
『オムライス、また食べたいな!』
『あのお花、すごく嬉しかった!』
俺は少し笑った。
『また作ってやる』
返信する。
『やったー!』
すぐに返事が来た。
俺はスマートフォンを置いた。
そして、引き出しを開けた。
そこには、三日前に書いた一通の手紙が入っている。
十月十五日。
雨の日に出会った彼女へ書いた、最初の手紙。
俺は、その隣にある万年筆を見つめた。
今日のことも、手紙に書こうか。
ふと、そう思った。
けれど。
まだ、いい。
今日のことは、忘れない。
あの花も。
彼女の笑顔も。
全部、覚えている。
そう思っていた。
代わりに、俺は小さな紙を一枚取り出した。
そして、短く書いた。
『みくは、卵がふわふわのオムライスが好き。
ケチャップライスは濃いめ。
花は、少し曲がっていても喜ぶ。』
書き終えて、少し考える。
最後に、一行だけ付け足した。
『今日、みくが笑った。』
俺はその紙を、最初の手紙の隣に置いた。
何のために書いたのか、自分でも分からなかった。
ただ。
今日のことを、どこかに残しておきたかった。
彼女が喜んだことを。
彼女が好きなものを。
俺が、彼女を笑顔にできたことを。
忘れたくなかった。
*
午後十一時二分。
ベッドに横になる。
部屋の明かりを消す。
目を閉じると、今日の光景が浮かんだ。
玄関で笑う彼女。
オムライスを見つめる目。
ケチャップの花。
『世界に一つしかない花だよ』
その言葉を思い出す。
俺は、小さく笑った。
ただのケチャップなのに。
食べれば消えてしまうものなのに。
彼女は、あんなにも喜んでくれた。
もし、もう一度作るなら。
俺はきっと、また花を描くだろう。
少し曲がっていても。
不格好でも。
彼女が笑ってくれるなら、それでいい。
いつか。
何年も先の未来。
俺が料理の作り方を忘れてしまう日が来たとしても。
彼女の好きな卵の柔らかさだけは、覚えていたい。
ケチャップライスの味も。
あの花の形も。
そして。
俺が作った料理を食べて、嬉しそうに笑った彼女の顔も。
全部。
覚えていたい。
……いや。
きっと、忘れるはずがない。
今日の俺は、そう信じていた。
窓の外で、秋風が吹いた。
遠くから、車の走る音が聞こえる。
俺は目を閉じたまま、小さく呟いた。
「……また作ってやるよ、みく」
返事はない。
けれど。
彼女が笑う顔は、簡単に思い浮かんだ。
明日も。
来週も。
来年も。
きっと、何度でも。
あの笑顔を見られる。
そう思っていた。
まだ、何も失っていなかった頃の俺は。
――第5話 終――




