第4話 会いたい、と言えなかった夜
二〇二七年、十月十八日。
午後九時四十三分。
部屋の中は、静かだった。
机の上には、読みかけの本。
その隣には、冷めきったブラックコーヒー。
俺は椅子に座り、同じページをもう十分以上眺めていた。
「……何やってんだ、俺」
文字は読める。
意味も理解できる。
なのに、内容が頭に入ってこない。
理由は分かっていた。
今日、彼女に会ったからだ。
みく。
たった三日前、雨の日に出会った女性。
そして今日、初めて二人で出かけた相手。
駅前で待ち合わせをして。
秋の街を歩いて。
金木犀の木の下で、来年の約束をした。
公園では、彼女が何度も俺の名前を呼んだ。
『朔夜!』
思い出す。
あの声。
笑顔。
俺の名前を呼ぶたび、嬉しそうに細くなる目。
……まただ。
胸の奥が、温かくなる。
「……落ち着け」
誰に言っているのか、自分でも分からなかった。
俺は本を閉じた。
そして、机の端に置いたスマートフォンへ視線を向けた。
画面は暗い。
通知もない。
当然だ。
別れてから、まだ数時間しか経っていない。
それなのに。
俺は、彼女からの連絡を待っていた。
*
午後十時七分。
スマートフォンを手に取る。
メッセージアプリを開いた。
みくとの会話が、画面に表示される。
最後のやり取りは、待ち合わせの前。
『楽しみにしてるね!』
彼女が送ってきた言葉だった。
俺はしばらく、それを見つめた。
今日のことを、何か伝えたい。
そう思った。
楽しかった。
ありがとう。
また会おう。
どれも間違っていない。
けれど、どれも少し違う気がした。
俺が本当に伝えたいことは、もっと単純だった。
入力欄に指を置く。
『会いたい』
たった三文字。
画面に表示された言葉を見て、俺は動きを止めた。
「…………」
送信ボタンは、すぐそこにある。
押せばいい。
それだけだ。
けれど、押せなかった。
今日、会ったばかりだろ。
別れてから、まだ数時間しか経っていない。
そんな相手に、もう会いたいと言うのか。
重いと思われないだろうか。
困らせないだろうか。
何より。
なぜ、こんなにも会いたいのか。
俺自身が、その理由を説明できなかった。
しばらく迷ったあと。
俺は、入力した三文字を消した。
画面には、何も残らなかった。
「……馬鹿みてぇだな」
スマートフォンを伏せる。
それでも。
消したはずの三文字だけは、頭から離れなかった。
*
午後十時二十一分。
机の上で、スマートフォンが震えた。
俺は反射的に顔を上げた。
画面に表示された名前。
みく。
心臓が、一度だけ大きく鳴った気がした。
『朔夜、まだ起きてる?』
俺はすぐに返信した。
『起きてる』
数秒後。
『よかった!』
『今日ね、すごく楽しかった!』
その言葉を見た瞬間、思わず息を吐いた。
……俺だけじゃなかった。
彼女も、今日のことを思い出していた。
『俺も楽しかった』
入力する。
今度は、迷わなかった。
送信。
すぐに既読がついた。
『本当!?』
『ああ』
『よかったぁ!』
『朔夜、あんまり表情変わらないから、楽しんでくれてたか気になってたんだ』
「……そう見えてたのかよ」
思わず声が漏れた。
俺は少し考えてから、返信した。
『楽しくなかったら、あんなに長く一緒にいねぇよ』
送信した直後。
少し言い方が悪かったかもしれないと思った。
だが、彼女から返ってきたのは。
『そっか! 嬉しい!』
そんな、真っ直ぐな言葉だった。
俺は画面を見つめた。
彼女は、どうしてこんなにも簡単に言えるのだろう。
嬉しい。
楽しい。
好き。
また会いたい。
自分の気持ちを、ためらわずに言葉にできる。
俺には、それが難しい。
言葉を選んでいるうちに、伝える機会を逃してしまう。
今日だって、そうだった。
別れ際。
彼女は言った。
『今日、一緒にいてくれてありがとう!』
俺も、もっと言いたいことがあった。
なのに、結局。
『俺のほうこそ』
それしか言えなかった。
今なら、少し分かる。
言葉にしなければ、伝わらないことがある。
そして。
言葉にするには、勇気が必要なことも。
*
午後十時三十八分。
『ねえ、朔夜』
『何だ』
『今度は一緒にご飯食べたいな』
俺は画面を見た。
ご飯。
彼女と。
二人で。
『外でか?』
『うーん、どこでもいいよ!』
『朔夜って料理する?』
『一応な』
『えっ、そうなの!?』
『そんなに意外かよ』
『ちょっとだけ!』
画面の向こうで、彼女が笑っている気がした。
『何が作れるの?』
俺は少し考えた。
特別な料理は作れない。
必要なものを、必要な手順で作るだけだ。
『普通のものなら』
『例えば?』
『炒飯とか、パスタとか』
『オムライスは?』
オムライス。
作ったことがないわけではない。
ただ、得意料理と呼べるほどではなかった。
『作れると思う』
『本当!?』
『多分な』
『じゃあ、朔夜のオムライス食べてみたい!』
俺は、しばらく画面を見つめた。
俺の作る料理を。
彼女が食べたいと言っている。
それは、何だか不思議なことだった。
料理とは、空腹を満たすためのものだ。
栄養を摂るためのものだ。
少なくとも、俺はそう考えてきた。
けれど。
彼女に食べてもらうのなら。
美味しいと思ってほしい。
笑ってほしい。
そんなことを、自然に考えていた。
『……今度、作ってやる』
送信。
すぐに返信が来た。
『やったー!!』
『約束だよ!』
また、約束。
今日だけで、いくつ交わしただろう。
来年の金木犀。
また会うこと。
そして、オムライス。
約束が増えるたびに、彼女と過ごす未来が少しずつ形になっていく。
俺は、そのことが嬉しかった。
『ああ。約束な』
*
午後十一時四分。
『そろそろ寝るね』
みくからメッセージが届いた。
『ああ。おやすみ』
『おやすみ、朔夜!』
そこで、会話は終わった。
俺はしばらく、最後のメッセージを見つめていた。
おやすみ。
ただの挨拶だ。
けれど、彼女から届くと、少し違って感じる。
今日という一日が、静かに終わっていく。
それが、少し寂しかった。
「……また明日、か」
声に出してみる。
明日、彼女に会う約束はない。
それでも。
明日も連絡が取れる。
また話せる。
そのことを、俺は当然のように期待していた。
スマートフォンを置く。
机の引き出しを開けた。
そこには、一通の手紙が入っている。
三日前。
十月十五日の夜に書いた、最初の手紙。
宛名は、みく。
まだ、彼女には渡していない。
俺は封筒を手に取った。
中には、あの日のことが書かれている。
雨。
ブラックコーヒー。
彼女の笑顔。
そして。
忘れたくないという、俺自身の願い。
書いたときは、深く考えていなかった。
ただ、あの日の出来事を残しておきたかった。
けれど今なら、少しだけ分かる。
俺は、彼女と出会った日を特別なものにしたかったのだ。
誰にも見せない手紙。
彼女にも、まだ渡さない手紙。
それでも。
あの日の気持ちは、確かにここに残っている。
俺は封筒を元の場所へ戻した。
引き出しを閉じようとして、手を止める。
机の上には、三日前に買った万年筆があった。
黒い軸に、銀色の装飾。
初めて手紙を書いたときに使ったものだ。
俺はそれを手に取った。
今日のことも、書いておこうか。
そう思った。
金木犀の香り。
彼女の小指の温度。
何度も呼ばれた、自分の名前。
そして。
送れなかった、たった三文字。
忘れたくないことは、たくさんあった。
けれど、俺は万年筆を置いた。
まだ、書かなくていい。
今日のことは、きっと明日も覚えている。
来週も。
来月も。
来年も。
彼女と一緒に金木犀を見る、その日まで。
……忘れるはずがない。
そう思っていた。
*
午後十一時三十一分。
ベッドに横になる。
部屋の明かりを消した。
天井が、暗闇に溶けていく。
目を閉じる。
すると、今日の光景が浮かんできた。
駅前で手を振る彼女。
金木犀の木の下で交わした約束。
公園のベンチ。
温かいミルクティー。
何度も俺の名前を呼ぶ声。
『朔夜!』
俺は、暗闇の中で小さく笑った。
「……うるせぇな」
もちろん、今は誰も呼んでいない。
ただ、思い出しただけだ。
それなのに。
胸の奥が、あのときと同じように温かくなる。
スマートフォンを手に取った。
もう一度、彼女との会話を開く。
最後のメッセージ。
『おやすみ、朔夜!』
その下に、返信欄がある。
俺は、そこを見つめた。
午後十時七分。
送れなかった言葉。
『会いたい』
もう一度、頭の中で繰り返す。
会いたい。
今日、会ったばかりなのに。
また、会いたい。
今度は、いつ会えるだろう。
次に会ったら、何を話そう。
彼女が笑ったら、俺は何と言おう。
そんなことを考えているうちに、ふと気づいた。
俺は、彼女と会っていない時間まで、彼女のことを考えている。
それは、いつからだろう。
三日前からか。
今日からか。
それとも。
雨の日に、彼女が傘を差し出した、あの瞬間からだろうか。
答えは分からなかった。
ただ。
明日になったら、また彼女に連絡しよう。
そう決めた。
今度こそ。
もう少しだけ、素直に。
スマートフォンを伏せる。
目を閉じた。
静かな部屋に、時計の針の音だけが響いている。
俺はまだ知らなかった。
いつか、この夜のことを思い出せなくなる日が来るなんて。
金木犀の香りも。
彼女の声も。
自分が何を伝えたかったのかさえも。
分からなくなる日が来るなんて。
もし、あのときの俺に一つだけ言えるのなら。
きっと、こう伝えるだろう。
言葉にしておけ。
伝えられるうちに。
覚えていられるうちに。
大切な人が、目の前にいるうちに。
たった三文字を、惜しむな。
……けれど。
二〇二七年、十月十八日の俺は。
まだ、そのことを知らない。
だから今夜も。
送れなかった言葉を胸に抱えたまま。
彼女の笑顔を思い浮かべて、眠りについた。
――第4話 終――




