第3話 君が僕の名前を呼ぶたびに
第3話 君が僕の名前を呼ぶたびに
二〇二七年、十月十八日。
午後二時十七分。
秋の風が、駅前の街路樹を揺らしていた。
待ち合わせは、午後三時。
俺は約束の時間より四十分以上も早く、駅前に到着していた。
「……早すぎるだろ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
腕時計を確認する。
午後二時十八分。
何度見ても、時間は変わらない。
三日前。
十月十五日。
あの日は雨だった。
傘を持たずに外へ出た俺は、雨宿りをした喫茶店でブラックコーヒーを飲み、店を出たところで一人の女性に出会った。
みく。
彼女は、見ず知らずの俺に傘を差し出した。
そして、笑った。
たったそれだけの出来事だった。
少なくとも、あのときの俺はそう思っていた。
けれど、三日経った今も、あの笑顔が頭から離れない。
雨の匂い。
傘を叩く雨粒の音。
隣を歩く彼女の声。
別れ際に交わした「また会おう」という約束。
何度思い返しても、記憶は少しも薄れなかった。
むしろ、思い出すたびに鮮明になっていく。
「……おかしいな」
俺は駅前のベンチに腰を下ろした。
誰かと会う約束など、これまで何度もしてきた。
待ち合わせの時間を決め、その場所へ行く。
ただ、それだけのことだ。
なのに今日は、落ち着かない。
スマートフォンを取り出す。
彼女とのメッセージを開く。
『十八日、会える?』
彼女から届いた短い言葉。
その下に、俺の返信が残っていた。
『ああ。午後三時でいいか』
『うん! 楽しみにしてるね!』
楽しみにしている。
その言葉を見たとき、俺は何を思ったのだったか。
……嬉しかった。
そうだ。
俺は、嬉しかったのだ。
誰かに会えることを楽しみにされる。
それが、こんなにも心を落ち着かなくさせるものだとは知らなかった。
*
午後二時四十一分。
「朔夜!」
声がした。
反射的に顔を上げる。
人混みの向こうから、みくが歩いてきた。
淡い色のカーディガン。
肩に掛けた小さな鞄。
風に揺れる髪。
俺を見つけた彼女は、ぱっと表情を明るくした。
「朔夜! ごめんね、待った?」
「いや。今来たところだ」
嘘だった。
二十分以上、ここにいる。
だが、彼女に気を遣わせる必要はない。
「本当? よかった!」
みくは安心したように笑った。
「私も早く着いちゃった。まだ三時じゃないのにね」
「……そうだな」
「朔夜も楽しみだった?」
「……何が」
「今日、会えること」
答えに詰まった。
楽しみだった。
間違いなく、そうだった。
だから四十分以上も早く家を出た。
だから何度も時計を見た。
だから、彼女の声がした瞬間、考えるより先に顔を上げた。
けれど。
「……別に」
口から出たのは、そんな言葉だった。
「そっか」
みくは少しだけ首を傾げた。
それから、笑った。
「私は楽しみだったよ」
胸の奥が、不意に温かくなった。
「……そうか」
「うん!」
彼女は何も気にしていないようだった。
俺だけが、たった一言を言えなかったことを気にしていた。
俺も楽しみだった。
そう言えばよかったのに。
*
「今日はどこに行く?」
みくが尋ねた。
「特に決めてない」
「えっ、そうなの?」
「ああ。お前の行きたいところでいい」
「じゃあ、お散歩しよう!」
「……散歩?」
「うん。今日は天気もいいし」
彼女は空を見上げた。
三日前とは違う、よく晴れた秋空。
雲がゆっくり流れている。
「朔夜と、ゆっくりお話ししたいから」
俺は彼女を見た。
「……それだけでいいのか」
「それだけがいいの」
迷いのない返事だった。
俺には、その違いがまだよく分からなかった。
けれど。
「……分かった」
そう答えると、みくは嬉しそうに頷いた。
二人で歩き始める。
行き先は決まっていない。
目的もない。
ただ、隣に彼女がいる。
それだけで、いつもの街が少し違って見えた。
*
「ねえ、朔夜」
「何だ」
「秋って好き?」
「嫌いじゃない」
「ふふっ。何それ」
「暑くも寒くもない。過ごしやすいだろ」
「そういうところ、朔夜らしいね」
「……どういう意味だ」
「何でもちゃんと考えて答えるところ」
「普通だろ」
「ううん。私は好きだよ」
足が止まりかけた。
好き。
彼女は、あまりにも自然にその言葉を口にする。
俺は言葉の意味を知っている。
何かに好意を持つこと。
大切だと思うこと。
心が惹かれること。
けれど、彼女に言われると、そのどれとも少し違って聞こえた。
「……そうかよ」
「うん」
みくは笑った。
俺は前を向いた。
彼女に気づかれないように。
自分の口元が緩んでいることを、見られないように。
*
しばらく歩くと、風に甘い香りが混じり始めた。
「……何の匂いだ?」
俺が尋ねると、みくはすぐに顔を上げた。
「あっ、金木犀!」
「きんもくせい?」
「うん! ほら、あそこ!」
彼女が指差した先に、小さな木があった。
枝の間には、橙色の花が無数についている。
近づくにつれて、香りが濃くなった。
甘い。
けれど、しつこくない。
どこか懐かしいような香りだった。
「私、この匂い大好きなんだ」
みくは目を細めた。
そして、花に顔を近づける。
「秋が来たなあって思うの」
「……そうなのか」
「朔夜は?」
俺はもう一度、香りを確かめた。
「……悪くない」
「あははっ!」
「何だよ」
「朔夜って、何でも『悪くない』って言うね」
「悪くないものは悪くないだろ」
「好きって言えばいいのに」
「……簡単に言うもんじゃねぇだろ」
みくは不思議そうに俺を見た。
「どうして?」
俺は答えられなかった。
どうしてだろう。
好き。
たった二文字。
それを口にすることが、俺には妙に難しかった。
彼女はそんな俺を見て、柔らかく笑った。
「じゃあ、いつか朔夜が『好き』って言うの、楽しみにしてる」
「……勝手にしろ」
「うん。勝手にする!」
そう言って、彼女はもう一度、金木犀を見上げた。
風が吹く。
小さな花が、ひとつ、足元に落ちた。
「ねえ、朔夜」
「何だ」
「来年も、ここに来ようよ」
「……来年?」
「うん。来年の秋も、一緒に金木犀を見たい」
来年。
その言葉が、胸に引っかかった。
一年後。
二〇二八年の十月。
そのときも、彼女は俺の隣にいるのだろうか。
そんな未来を、俺は今まで考えたことがなかった。
俺にとって未来とは、予定の積み重ねだった。
明日すること。
来週すること。
来月までに終わらせること。
けれど、彼女が口にした未来には、何の予定もなかった。
ただ、一緒に花を見る。
それだけ。
なのに。
なぜだろう。
その未来を、見てみたいと思った。
「……ああ」
俺は答えた。
「来年も来ればいい」
「本当?」
「ああ」
「約束だよ?」
みくは小指を差し出した。
「……何だ、それ」
「指切り!」
「子供かよ」
「いいから!」
仕方なく、小指を差し出す。
彼女の小指が、俺の小指に絡んだ。
ほんの短い接触だった。
それなのに、俺はその温度を妙にはっきり覚えていた。
「約束ね、朔夜」
「……ああ」
彼女は満足そうに笑った。
俺は、繋いだ指を見つめていた。
人間の約束に、絶対などない。
明日、何が起こるかも分からない。
一年後のことなど、なおさらだ。
それでも。
この約束だけは、守りたいと思った。
*
午後四時二十三分。
俺たちは、小さな公園のベンチに座っていた。
みくの手には、温かいミルクティー。
俺の手には、ブラックコーヒー。
三日前と同じ組み合わせだった。
「朔夜、またブラックなんだ」
「ああ」
「苦くない?」
「苦い」
「じゃあ、何で飲むの?」
「好きだから」
みくが目を丸くした。
「……今、好きって言った!」
「は?」
「朔夜が『好き』って言った!」
「コーヒーの話だろ!」
「あははっ! 分かってるよ!」
彼女は楽しそうに笑った。
俺はため息をついた。
だが、不思議と腹は立たなかった。
むしろ。
こうして彼女にからかわれる時間が、心地よかった。
「ねえ、朔夜」
「今度は何だ」
「私、名前呼びすぎかな?」
「……何でだよ」
「だって、さっきから何回も朔夜って呼んでるから」
そう言われて、初めて気づいた。
確かに彼女は、何度も俺の名前を呼んでいた。
待ち合わせのとき。
歩いているとき。
金木犀の木の下で。
そして、今も。
「嫌だったら言ってね」
みくが言った。
「……嫌じゃねぇよ」
「本当?」
「ああ」
「よかった!」
彼女は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、もっと呼んでいい?」
「……好きにしろ」
「朔夜!」
「何だ」
「朔夜!」
「聞こえてる」
「朔夜、朔夜!」
「……おい」
「あははっ!」
彼女は笑い続けていた。
俺は呆れた顔をした。
けれど。
本当は、もっと呼んでほしかった。
俺の名前など、ただの呼び名だ。
これまで何度も呼ばれてきた。
何の特別な意味もなかった。
なのに、彼女の声で呼ばれると。
自分の名前が、まるで別の言葉になったように感じる。
大切にされている。
ここにいていいと言われている。
そんな気がした。
「……みく」
気づけば、俺も彼女の名前を呼んでいた。
「ん?」
彼女がこちらを見る。
「……いや」
「何?」
「何でもねぇ」
「もう、気になるじゃん!」
みくは頬を膨らませた。
俺は少し笑った。
本当は、何でもなくなかった。
ただ。
名前を呼んだら、彼女が振り向いてくれる。
そのことが、嬉しかったのだ。
*
夕暮れ。
駅へ向かう道を、二人で歩いた。
空は茜色に染まり、街灯が一つずつ灯り始めている。
「今日は楽しかったね」
みくが言った。
「……ああ」
「また会える?」
「当たり前だろ」
考えるより先に、答えていた。
みくが驚いたようにこちらを見る。
「当たり前?」
「……何だよ」
「ううん」
彼女は嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
「……何が」
「また会えるって言ってくれたから」
俺は言葉に詰まった。
たったそれだけのことで。
彼女は、こんなにも嬉しそうに笑う。
なら。
もっと早く言えばよかった。
今日を楽しみにしていたこと。
一緒に歩けて嬉しかったこと。
まだ帰りたくないこと。
けれど、そのどれも口にはできなかった。
駅の改札が見えてきた。
別れの時間だった。
「じゃあね、朔夜」
「ああ。またな」
みくは手を振った。
数歩進んだところで、ふと振り返る。
「朔夜!」
「……何だ?」
「今日、一緒にいてくれてありがとう!」
俺は彼女を見つめた。
ありがとう。
何も特別なことはしていない。
ただ歩いて、話して、コーヒーを飲んだだけだ。
それでも。
彼女にとっては、大切な一日だったのだろうか。
「……俺のほうこそ」
小さく答える。
みくは笑った。
そして、改札の向こうへ消えていった。
*
午後六時十一分。
帰り道。
俺は、昼間に通った金木犀の木の前で足を止めた。
甘い香りが、秋風に乗って漂ってくる。
『来年も、ここに来ようよ』
彼女の声を思い出す。
俺は木を見上げた。
来年。
再来年。
その先も。
彼女と、ここに来られたら。
そんな未来を、初めて望んだ。
「……みく」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
当たり前だ。
彼女はもう、ここにはいない。
それでも、もう一度呼んだ。
「……みく」
名前を口にするだけで、今日の出来事が蘇る。
彼女の笑顔。
ミルクティーを包んでいた手。
小指に触れた温度。
金木犀の香り。
そして。
『朔夜!』
何度も俺を呼んだ、あの声。
俺は、自分の名前が特別好きだったわけじゃない。
ただ。
彼女が呼ぶ俺の名前が、好きだった。
いつか。
もしも、俺が自分の名前を忘れてしまう日が来たとしても。
あの声で呼ばれたら。
もう一度、振り向けるだろうか。
そんなことを、ふと思った。
自分でも、馬鹿げた想像だと思った。
名前を忘れるなど、あり得ない。
今日のことを忘れるなど、もっとあり得ない。
俺は、こんなにも鮮明に覚えているのだから。
彼女の笑顔も。
声も。
指先の温度も。
金木犀の香りも。
全部。
忘れるはずがない。
そう、信じていた。
秋風が吹いた。
小さな橙色の花が、足元に落ちる。
俺はそれを一つ拾い上げた。
指先に乗せると、花は驚くほど小さかった。
こんなに小さなものが、これほど遠くまで香るのか。
不思議だった。
彼女と過ごした今日も、きっと同じなのだろう。
たった数時間。
人生という長い時間の中では、ほんの小さな出来事だ。
けれど。
その数時間が、俺の中に、いつまでも残る気がした。
俺は花をそっと手放した。
風に乗った花は、夕暮れの歩道へ落ちていった。
「……またな、みく」
誰もいない道で、そう呟く。
明日も、明後日も。
また彼女に会いたい。
そして、何度でも名前を呼んでほしい。
俺はまだ、この気持ちの名前を知らなかった。
ただ一つ、分かっていたことがある。
彼女に呼ばれるたび。
俺は、自分がここにいることを、少しだけ好きになれた。
――第3話 終――




