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第2話 もう一度、君に会いたくて

第2話 忘れたくない名前


 二〇二七年、十月十五日。


 午後六時三十分。


 窓の外では、まだ雨が降っていた。


 朝から降り続いていた雨は、夕方になっても止む気配がない。


 俺は部屋の明かりをつけ、濡れた上着をハンガーに掛けた。


「……ひでぇ天気だったな」


 そう呟いて、ふと手を止める。


 ひどい天気。


 確かに、そうだった。


 傘を持たずに出かけたせいで、帰り道は散々だった。


 けれど。


 今日という一日を、嫌な日だったとは思えなかった。


 理由は分かっている。


 あの女だ。


 喫茶店を出たところで、突然声をかけてきた女。


 自分の傘に、見ず知らずの俺を入れてくれた女。


 そして。


『また会おうね、朔夜』


 そう言って笑った女。


「……みく、か」


 名前を口にする。


 たった二文字。


 今日初めて知ったばかりの名前だ。


 それなのに、不思議と耳に馴染んでいた。


     *


 午後六時四十七分。


 俺は机に向かっていた。


 引き出しを開ける。


 中には、今日買ったばかりの万年筆が入っていた。


 黒い軸。


 銀色の細い装飾。


 店で見かけて、何となく気に入ったものだった。


 買ったときには、特に使い道など考えていなかった。


 けれど今は。


 書き残しておきたいことがあった。


「……何やってんだ、俺」


 自分でも可笑しくなる。


 たった一度、会っただけだ。


 それも、ほんの短い時間。


 それなのに。


 あの雨の日を、忘れたくないと思っている。


 俺は白い便箋を一枚取り出した。


 万年筆のキャップを外す。


 そして、ゆっくりと文字を書き始めた。


『みくへ。


 今日、お前に会った。


 雨の日だった。


 正直に言えば、俺は雨が嫌いだ。


 けれど。


 今日だけは、雨が降っていてよかったと思う。


 お前が笑っていたからだ。


 また会いたい。


 もう一度、お前の笑った顔が見たい。


 今日のことを、俺は忘れたくない。


 雨の音も。


 コーヒーの苦さも。


 お前の声も。


 全部、覚えていたい。


 またな、みく。


 朔夜より』


 最後の一文字を書き終えた。


 俺は、しばらく便箋を見つめていた。


「……会いたい、ねぇ」


 自分で書いた言葉なのに、妙に落ち着かない。


 もう一度会いたい。


 確かに、そう思っている。


 けれど、その理由は説明できなかった。


 俺は便箋を折り、封筒に入れた。


 表に、彼女の名前を書く。


『みく』


 渡すつもりはなかった。


 少なくとも、今は。


 ただ、今日という日を残しておきたかった。


 俺は封筒を引き出しにしまった。


     *


 午後七時十二分。


 スマートフォンが震えた。


 画面を見る。


『みく』


 思わず、手が止まった。


『朔夜、今日はありがとう!』


 続けて、もう一通。


『ちゃんと帰れた?』


「……お前のほうこそだろ」


 小さく笑って、返事を打つ。


『帰った。お前は?』


『私も帰ったよ!』


『ならよかった』


『ふふっ、朔夜って優しいね』


「……どこがだよ」


 俺は画面に向かって呟いた。


 けれど。


 悪い気はしなかった。


『また会おうね』


 その一文が届いたとき。


 俺は、引き出しへ目を向けた。


 そこには、たった今しまったばかりの手紙がある。


 もう一度会いたい。


 そう書いたばかりだった。


『……ああ。またな』


 送信する。


 画面の向こうで、彼女が笑っている気がした。


     *


 午後十一時二分。


 ベッドに横になっても、なかなか眠れなかった。


 雨の音が聞こえる。


 朝からずっと聞いていたはずの音。


 普段なら、鬱陶しいとしか思わない。


 けれど今夜は。


 不思議と、嫌ではなかった。


 目を閉じる。


 一本の傘。


 並んで歩いた道。


 初めて聞いた名前。


 そして、笑顔。


「……また会える、か」


 小さく呟いた。


 明日になれば、きっといつもの日常が戻ってくる。


 同じ時間に起きて。


 同じ道を歩いて。


 同じように一日を終える。


 それでも。


 今日までとは、何かが違う気がした。


 俺の知らない明日の中に、彼女がいる。


 ただ、それだけで。


 少しだけ、明日が楽しみだった。


 俺は、静かに目を閉じた。


 まだ、知らなかった。


 今日書いた一通の手紙が、十八年後まで残ることを。


 あの名前を、何度も何度も書くことになることを。


 そして。


 いつか、その名前さえ思い出せなくなる日が来ることを。


 今の俺は、ただ。


 もう一度、彼女に会いたかった。


 あの日の俺は、確かに恋をしていた。


 まだ恋だと気づかないまま。


 雨の向こうに消えていった、一人の女に。


 そして。


 十八年後。


 俺は、この日と同じ十月十五日に。


 三百六十五通目の手紙を書き終えることになる。


 そのとき、俺の中に残っているものが何なのか。


 今はまだ、誰も知らない。


 ――――第2話 終――――

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