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第1話 雨の日の出会い

二〇二七年、十月十五日。


その日は、朝から雨が降っていた。


秋の雨は嫌いだった。


夏のように激しく降るわけでもなく、冬のように雪へ変わるわけでもない。


ただ静かに、冷たく、街の輪郭を曖昧にしていく。


まるで、誰かの記憶を少しずつ洗い流しているみたいだった。


朝、家を出るときも雨は降っていた。


けれど、天気予報では昼過ぎには止むと言っていた。


駅までは、ほとんど屋根のある道を通れる。


少しくらい濡れても構わない。


そう思って、俺は傘を持たずに家を出た。


ところが、午後になっても雨は止まなかった。


それどころか、万年筆を買い終えた頃には、朝よりも雨脚が強くなっていた。


仕方なく、近くの喫茶店に入った。


雨が弱まるまで、コーヒーでも飲んで時間を潰そう。


その程度のつもりだった。


俺は駅前の小さな喫茶店で、窓の外を眺めていた。


午後三時四十二分。


壁に掛けられた時計の針が、ゆっくりと進んでいく。


テーブルには、飲みかけのブラックコーヒー。


その隣には、買ったばかりの万年筆が置かれていた。


別に、手紙を書く予定があったわけじゃない。


ただ、何となく欲しくなった。


最近は何でもスマートフォンで済ませられる。


誰かに言葉を伝えるのも、謝るのも、感謝するのも。


指先ひとつで、簡単にできてしまう。


けれど俺は、昔から手書きの文字が好きだった。


文字には、その人間の感情が残る。


怒っているときは乱れ、悲しいときは震え、嬉しいときは少しだけ跳ねる。


どれだけ時代が変わっても、それだけは変わらない気がした。


「……さて、帰るか」


コーヒーを飲み干し、万年筆を鞄にしまう。


会計を済ませて店の外に出た瞬間、思わず舌打ちした。


「……最悪だな」


雨が強くなっていた。


朝の天気予報では、午後には止むと言っていたはずだ。


俺は鞄に手をかけて、思い出した。


そうだ。


今日は最初から傘を持ってきていない。


「ったく。天気予報ってのは、当てにならねぇな」


仕方なく、店の軒先で雨宿りすることにした。


そのときだった。


「……あの」


背後から、小さな声が聞こえた。


振り返ると、一人の女性が立っていた。


淡い色の上着を着て、両手で傘を握っている。


少し困ったような顔をしていた。


「何だ?」


俺が尋ねると、彼女は一瞬だけ肩を震わせた。


……しまった。


初対面の相手には、少し言い方がきつかったかもしれない。


「あ、えっと……」


彼女は傘と俺の顔を交互に見た。


「傘、ないんですか?」


「……見りゃ分かるだろ」


「そ、そうですよね」


気まずい沈黙。


雨音だけが、二人の間を埋めていく。


俺は小さく息を吐いた。


「悪い。別に怒ってるわけじゃねぇよ」


「……本当ですか?」


「ああ」


「よかった」


彼女は、ほっとしたように笑った。


その笑顔を見た瞬間。


なぜだろう。


胸の奥で、何かが小さく動いた気がした。


「よかったら……」


彼女が傘を少し持ち上げる。


「駅まで、一緒に入りませんか?」


俺は思わず目を見開いた。


「……は?」


「駅までなら、そんなに遠くないですし」


「いや、待て。俺たち初対面だろ」


「そうですね」


「そうですね、じゃねぇよ。知らない男を簡単に傘に入れるな」


彼女はきょとんとした。


そして。


「……でも、困ってるじゃないですか」


当たり前のように、そう言った。


俺は返す言葉を失った。


世の中には、いろんな人間がいる。


損得で動く奴。


他人を利用する奴。


優しさを口にしながら、平気で誰かを傷つける奴。


俺は、そんな人間を何人も見てきた。


だから、他人の親切を簡単には信用しない。


それなのに。


目の前の女性は、何の見返りも求めずに傘を差し出していた。


「……変な奴」


思わず呟く。


「えっ?」


「いや、何でもねぇ」


彼女は少しだけ頬を膨らませた。


「今、変な奴って言いましたよね?」


「聞こえてんじゃねぇか」


「聞こえました!」


「だったら聞き返すなよ」


「ひどい!」


思わず笑ってしまった。


本当に、久しぶりだった。


初めて会った人間と、こんなくだらない会話をしたのは。


「……分かったよ」


俺は彼女の隣に立った。


「駅まで、世話になる」


「はい!」


彼女は嬉しそうに傘を開いた。


小さな傘だった。


大人二人が入るには、少し狭い。


俺はできるだけ彼女に雨が当たらないよう、傘の外側を歩いた。


当然、俺の右肩は濡れていく。


しばらく歩いたところで、彼女がそれに気づいた。


「あっ!」


「何だよ」


「肩、濡れてます!」


「別にいい」


「よくないです!」


彼女は慌てて傘を俺の方へ傾けた。


すると今度は、彼女の左肩が濡れ始める。


「……おい」


「はい?」


「お前が濡れてどうすんだ」


「でも……」


「でもじゃねぇ」


俺は傘の柄に手を伸ばした。


「貸せ」


「え?」


「俺が持つ」


彼女から傘を受け取り、二人の真ん中へ傾ける。


身長差のせいで、彼女が持つよりも少し高い位置になった。


「……これならいいだろ」


「……はい」


彼女は小さく笑った。


そして、ぽつりと呟いた。


「優しいんですね」


「……は?」


「さっきは怖い人かと思いました」


「おい」


「でも、本当は優しい人なんだなって」


「……勝手に決めつけんな」


「ふふっ」


また笑った。


その笑い声が、雨音に混ざって消えていく。


不思議だった。


いつもなら煩わしいはずの他人との距離が、今日は少しも嫌じゃなかった。


むしろ。


もう少しだけ、この道が長ければいい。


そんなことを考えている自分に気づいて、俺は内心で苦笑した。


駅までは、あと少し。


ほんの短い道のり。


それだけの時間が、妙に惜しかった。


「……そういや」


俺は隣を歩く彼女に尋ねた。


「名前、聞いてなかったな」


「あ、そうですね!」


彼女は俺を見上げた。


「みく、です」


「……みく?」


「はい。ひらがなで、みく」


俺は、その名前を心の中で繰り返した。


みく。


たった二文字。


何の変哲もない、短い名前。


なのに、なぜか耳に残った。


「そっちは?」


「……俺?」


「はい。お名前、教えてください」


「朔夜」


「さくや……?」


「ああ。朔夜だ」


彼女は少し考えるように首を傾げた。


「綺麗な名前ですね」


「……そうか?」


「はい。夜っていう字が入ってるんですね」


「まあな」


「素敵です」


まっすぐに言われて、少し困った。


名前を褒められることなんて、滅多にない。


「……お前、誰にでもそんなこと言うのか?」


「え?」


「いや……何でもねぇ」


俺は視線を逸らした。


彼女は不思議そうに俺を見つめていたが、やがて楽しそうに笑った。


「朔夜さん」


初めて、名前を呼ばれた。


「……何だよ」


「傘、ありがとうございます」


「それ、俺の台詞だろ」


「じゃあ、お互い様ですね」


「……そうだな」


駅の入り口が見えてきた。


屋根の下に入ると、彼女は傘を閉じた。


俺は水滴を払い、傘を返す。


「助かった。ありがとな」


「いえいえ!」


「……じゃあな」


そう言って背を向けた。


本当なら、それで終わるはずだった。


たまたま雨が降っていて。


たまたま傘を持たずに出かけて。


たまたま親切な女性に出会った。


ただ、それだけの出来事。


明日になれば忘れてしまうような、何でもない一日。


そのはずだった。


「……あの!」


背後から声がした。


振り返ると、みくがこちらを見ていた。


「また……会えますか?」


俺は足を止めた。


「……何で?」


自分でも、馬鹿な質問だと思った。


けれど彼女は、少しも嫌な顔をしなかった。


「今日、楽しかったので」


「……ほんの少し一緒に歩いただけだぞ」


「それでも、楽しかったです」


その言葉が、妙に嬉しかった。


俺は鞄からスマートフォンを取り出した。


「……連絡先」


「え?」


「交換するんだろ」


みくの顔が、ぱっと明るくなった。


「はい!」


画面を操作する彼女の指先を見ながら、俺は思った。


こんな偶然も、あるんだな。


連絡先の交換を終えると、彼女は嬉しそうにスマートフォンを胸に抱えた。


「じゃあ、また連絡しますね!」


「ああ」


「絶対ですよ?」


「分かったって」


「約束です!」


彼女は小指を差し出した。


「……は?」


「指切りです」


「子供か、お前は」


「いいじゃないですか」


俺は呆れながらも、小指を差し出した。


彼女の小指が、俺の小指に絡まる。


温かかった。


雨で冷えた指先に、その温もりがじんわりと伝わってくる。


「……約束な」


俺が言うと、彼女は笑った。


「はい。約束です」


それが、俺たちの最初の約束だった。


***


帰りの電車で、スマートフォンが震えた。


画面には、さっき登録したばかりの名前。


『みく』


メッセージが一件届いていた。


『今日はありがとうございました! 朔夜さん、風邪ひかないでくださいね!』


思わず口元が緩んだ。


「……何だよ、それ」


俺は短く返信した。


『お前こそな。ちゃんと温まれよ』


すぐに既読がついた。


そして。


『はい! またお話ししましょうね!』


俺はしばらく、その画面を眺めていた。


電車の窓には、雨粒が流れている。


いつもと同じ帰り道。


いつもと同じ景色。


なのに今日は、何もかもが少し違って見えた。


……また、会いたい。


そう思った。


理由なんて、分からなかった。


ただ、もう一度あの笑顔が見たかった。


もう一度、あの声で名前を呼んでほしかった。


俺はスマートフォンを閉じ、窓の外へ目を向けた。


雨は、まだ降り続いていた。


けれど。


不思議と、もう嫌いじゃなかった。


***


十八年後。


俺は、この日のことを忘れる。


雨の匂いも。


小さな傘も。


彼女が初めて俺の名前を呼んだ瞬間も。


指先に残った温もりさえも。


何ひとつ、思い出せなくなる。


けれど、この日。


俺は確かに、一人の女性と出会った。


その女性が、やがて俺の人生そのものになることを。


そして、いつか彼女のために三百六十五通もの手紙を書くことになるなんて。


このときの俺は、まだ知らなかった。


ただ、一つだけ。


今でも、はっきりと言えることがある。


あの日、雨が降っていてよかった。


傘を持たずに出かけて、本当によかった。


だって。


あの雨が降らなければ。


俺は、みくに出会えなかったのだから。


――第一話 終――

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